私は小さな小さなころ、父が好きで、晩酌をしたり、ケラケラ笑っていたこともある。
幼い時の写真は、ちょっとおしゃまな女の子。
ただ、気になるのは私を見ている母の視線。
3歳以降は弟が生まれて大人の視線がまるっきり弟のほうへ全部行ってしまった。
出産のために私は母方の両親の家に預けられた。
祖父がいうには、列車が動き始めたときに、私は大泣きしたそうだ。
それもそのはず、母も一緒に行くと思っていたのだから。
それを高校生の時に面白おかしく語る祖父に何となく違和感を感じた。
それまで大好きだった祖父だったけど、
この人は誰かに恨みを持って生きて来たのではないかと思い始めた。
私の母や父は子どもに理由を話さない。
経過も伝えない。
だから
私は今起きている出来事に、びっくりしそれでも、もっている力をすべて出し切って対応していた。
これは
すさまじい喧嘩の時も、そうだった。
殴り合いのけんかだったし、子どもの立場から見ていても、逆らわなければ終わるのに、なぜ母は立ち向かうんだろうととても、不思議だった。
負けん気が強いので、エキサイトしていく。
どんどんひどくなって、髪の毛は引っ張るは、ボコボコにされるは・・・。
母があおるからなおさらなんだ。
怪我をすると私が通院の付添になって・・・。
血だらけの家を掃除して・・・なんてことは当たり前のこと。
母は人をなじることは天才的。
同い年の人で、係長になれないのは、パパだけだとか。
公務員の給料が安いとか(笑)
大学を出てないこと、出世が遅いこと、地位が低いこと、すべて実家との競争だった。
その祖父は子減らしで豊かな農家から、水飲み百姓へ養子に出され、地域でもすごい差別をされたことがあったという。
確かにG家は豊かで私が生まれた街では有名な農家だ。
たまたま高校の時に、お付き合いをしていた人がそこの家の子孫だったのが、そのルーツを知るきっかけだったけれど、その人と結婚するなら、縁を切る…位のことを言われた。
けど、それ以前に母とは戸籍上他人だったから、縁はとっくに切れているんですけど。。。
その祖父母からは、父は貧乏人として評価されていた。
ならば、嫁に出さなければよい話で・・・。(笑)
でも母はその時代では「いきおくれ」。
それもそのはず、働いた経験もないし、家事もできないし、料理もできない人だったから。
なので、夫婦げんかの内容は、女のくせに何もできない。
給料が安い、出世しない。
三千恵が細くて小さいのはお前のせいだ。
もうこのころから私は喧嘩は私の責任で起きているものと思っていた。
弟はかわいがってもらっていたはずなのだが・・・・小学校に入る前に「チック症」が起きていた。
これも喧嘩のネタになるのだけれど、小さいながらに私は「両親のけんかなどによる不安」が原因だと思っていた。(笑)
母の実家は短命。
自殺者は原因不明の死亡が多い。
そんな中でも母は病気を持ちながら勝手気ままに生きた。
ある意味自由人。
そんな背景を持っている兄弟だけれど、私は弟と会話ができない。
弟を大事にしてきたし、守っても来たけど、父と同じように怒鳴る大人になってしまった彼とは、怖くて話合えない。
保育園に迎えに行ったり、ご飯を作って待っていたりして、「Kのお姉ちゃん、怖い」というレッテルを張られてしまった姉だけど、
私は自分の時間もなく、ご飯を作ったり洗濯をしていたのに、弟は友達と遊んでいた。
そうさせたのは自分自身でもあったけど、待っているのに帰ってこないことにはいら立ちがあって。
優しいお姉さんからの転身だった。
叔母が「三千恵!」と話しかけて来たけど、会話をしたくなかったので、ちらっと見て、視線を外した。
「あ!機嫌が悪いのね」とそれ以上は話しかけてこなかったが、娘は「ミチエはうつなんだって?お母さんを守ってあげるんだよ」といろいろ言われたらしい。
娘は「うつ、違うわ!」と思っていたそうだけれど、「はい~」を夫と共にかわしてくれていたらしい。
このあたりの事は、自分では見ていないので、事実がどこまでかわからない。
ただ「うつ」ってことにしておけば、私がどんな状態でも、調子が悪いと言い訳ができるので、それを利用している。
PTSDがあるとか話をしても、精神論で「弱い」とくくられるのはたまらない。
函館で現実私を知っている人は、感受性が高いとは思っても、弱い人だとは思っていない人が多いと私は思う。
幼い時の写真は、ちょっとおしゃまな女の子。
ただ、気になるのは私を見ている母の視線。
3歳以降は弟が生まれて大人の視線がまるっきり弟のほうへ全部行ってしまった。
出産のために私は母方の両親の家に預けられた。
祖父がいうには、列車が動き始めたときに、私は大泣きしたそうだ。
それもそのはず、母も一緒に行くと思っていたのだから。
それを高校生の時に面白おかしく語る祖父に何となく違和感を感じた。
それまで大好きだった祖父だったけど、
この人は誰かに恨みを持って生きて来たのではないかと思い始めた。
私の母や父は子どもに理由を話さない。
経過も伝えない。
だから
私は今起きている出来事に、びっくりしそれでも、もっている力をすべて出し切って対応していた。
これは
すさまじい喧嘩の時も、そうだった。
殴り合いのけんかだったし、子どもの立場から見ていても、逆らわなければ終わるのに、なぜ母は立ち向かうんだろうととても、不思議だった。
負けん気が強いので、エキサイトしていく。
どんどんひどくなって、髪の毛は引っ張るは、ボコボコにされるは・・・。
母があおるからなおさらなんだ。
怪我をすると私が通院の付添になって・・・。
血だらけの家を掃除して・・・なんてことは当たり前のこと。
母は人をなじることは天才的。
同い年の人で、係長になれないのは、パパだけだとか。
公務員の給料が安いとか(笑)
大学を出てないこと、出世が遅いこと、地位が低いこと、すべて実家との競争だった。
その祖父は子減らしで豊かな農家から、水飲み百姓へ養子に出され、地域でもすごい差別をされたことがあったという。
確かにG家は豊かで私が生まれた街では有名な農家だ。
たまたま高校の時に、お付き合いをしていた人がそこの家の子孫だったのが、そのルーツを知るきっかけだったけれど、その人と結婚するなら、縁を切る…位のことを言われた。
けど、それ以前に母とは戸籍上他人だったから、縁はとっくに切れているんですけど。。。
その祖父母からは、父は貧乏人として評価されていた。
ならば、嫁に出さなければよい話で・・・。(笑)
でも母はその時代では「いきおくれ」。
それもそのはず、働いた経験もないし、家事もできないし、料理もできない人だったから。
なので、夫婦げんかの内容は、女のくせに何もできない。
給料が安い、出世しない。
三千恵が細くて小さいのはお前のせいだ。
もうこのころから私は喧嘩は私の責任で起きているものと思っていた。
弟はかわいがってもらっていたはずなのだが・・・・小学校に入る前に「チック症」が起きていた。
これも喧嘩のネタになるのだけれど、小さいながらに私は「両親のけんかなどによる不安」が原因だと思っていた。(笑)
母の実家は短命。
自殺者は原因不明の死亡が多い。
そんな中でも母は病気を持ちながら勝手気ままに生きた。
ある意味自由人。
そんな背景を持っている兄弟だけれど、私は弟と会話ができない。
弟を大事にしてきたし、守っても来たけど、父と同じように怒鳴る大人になってしまった彼とは、怖くて話合えない。
保育園に迎えに行ったり、ご飯を作って待っていたりして、「Kのお姉ちゃん、怖い」というレッテルを張られてしまった姉だけど、
私は自分の時間もなく、ご飯を作ったり洗濯をしていたのに、弟は友達と遊んでいた。
そうさせたのは自分自身でもあったけど、待っているのに帰ってこないことにはいら立ちがあって。
優しいお姉さんからの転身だった。
叔母が「三千恵!」と話しかけて来たけど、会話をしたくなかったので、ちらっと見て、視線を外した。
「あ!機嫌が悪いのね」とそれ以上は話しかけてこなかったが、娘は「ミチエはうつなんだって?お母さんを守ってあげるんだよ」といろいろ言われたらしい。
娘は「うつ、違うわ!」と思っていたそうだけれど、「はい~」を夫と共にかわしてくれていたらしい。
このあたりの事は、自分では見ていないので、事実がどこまでかわからない。
ただ「うつ」ってことにしておけば、私がどんな状態でも、調子が悪いと言い訳ができるので、それを利用している。
PTSDがあるとか話をしても、精神論で「弱い」とくくられるのはたまらない。
函館で現実私を知っている人は、感受性が高いとは思っても、弱い人だとは思っていない人が多いと私は思う。