四郎は声のする方に顔を向けた。
老女がこちらに向かって歩いてくる。
「おとうさん おとうさん」
その足取りはゆっくりで摺り足であった。
老女は四郎の前で立ち止まった。
頭の中で四郎は思った。
「はて、誰だ 覚えがあるようで覚えがない」
老女は四郎の肩をポンっと軽く叩いて言った。
「寒くなってきたから中に入らんと」
確かに先程から風が冷たく感じていた。
「あんたは誰や 何処に行けって言うんや」
四郎は老女に向かって言った。
「わからんわ はよ 中に入り」
老女は四郎の腕を乱暴に引っ張った。
「何するんや」
老女の手を払おうともう片方の手に力をいれた。
しかしどうしても動かないのだ
力もいれたようで入っていない。
「動かん」
呟いた。
四郎は仕方なく立ち上がった。
「おとうさん、杖、杖よ」
老女が黒い杖を持ち上げて四郎に渡した。
「ああ~~ これがなければ歩けんのやった」
頭の中に靄がかかりそれが少し、ほんの少し晴れていくような感じがした。
「そうやった これはわしの嫁さんや これはわしの家や」
妻に支えられながら少しずつ歩く。
朝のことだ。
「おい、お茶入れてくれ」
四郎は湯飲みを差し出した。
「お茶ですか」
妻は湯飲みを受け取り台所に行った。
「裏庭の畑どうなっとる」
妻が湯飲みを四郎に渡した。
「何ですか おとうさん」
「畑や 裏の畑」
四郎はイライラしながら言った。
「わからんのよ」
妻が小さく答えた。
「聞こえんのか」
妻は耳が遠くなったしまったのか…
四郎は湯飲みを口に運びながら思った。
「わしが言うとうことがわからんて」
「そやから わからんのです」
「わしの声が聞こえんのか わしの言葉がわからんのか 」
「おとうさん、言葉が不自由やからはっきりとはわからんのよ」
四郎は妻の言葉でまた頭の靄が晴れていった
脳梗塞で倒れた事を思い出した
右手足が自分ではままならない。
四郎は持った湯飲みを目の前にかざして見てみた。
左手で湯飲みを持っていた。
しかし、力のはいりかたは弱い。
右手はピクリともしないのだ。
「そうやった 前のようにはいかんのやった」
頭の中でのやり取りはもうどれだけ続いてきただろう。
最近は午後になると周囲の事がわからなくなっていた。
朝のうちはこれが妻でここは家だとわかるし、自分が置かれている状況もわかるのだ。
昼御飯を食べて昼寝をしてから頭の中には靄がかかり始めるのだ。
「おとうさん 庭に出るときは言ってくださいよ もう寒いですからね 危ないから また倒れたら大変やから」
妻の言葉に四郎は頷いた。