老猿はしばらく横になっていたが、意を決意したかのように起き上がるとキキを促し、それまで自分がテリトリーとしていた森の中へ連れて行った。 やがてふらつきながらも、キキに森の中で生きる術をゆっくりと教え始めた。
冬場の採食は高木に木の実もあるが、今は登れないので地上に落ちているブナやシイ、カヤの種実を教え、冬芽、樹皮、常緑樹の葉類、植物の枯実、昆虫類などを探しながら自分の行動を通して幼猿に一つ一つ採食の術をゆっくり丁寧に教えていった。 もし自分がここで死んでも、食べる事さえできれば生き延びられる・・・との思いからだった。
(* 猿は仲間と共同で狩りをしなければ食べ物が賄えない肉食獣と違い、自分で採食の術さえ知れば一匹でも生きていけるからだった)
四日目の朝を迎えた・・・
ゴンタは痛みと高熱にうなされていたが・・ 何とか立ち上がるとキキを連れ再び森に向かった。 今日は他の攻撃動物から身を守る方法や寝る場所の条件などさまざまな森の掟や生きる術など知恵を授けた。 その鬼気迫る老猿の教えに、キキは自分が味わった恐怖と空腹の体験からまるで乾いたスポンジが水を一気に吸収するかのように体全体で覚えていった。 そしてそれらの教えは五日目も続き、その夜ゴンタはとうとう意識を失った。
が明けた・・・
ゴンタはもうろうとする意識の中で目を覚ました。 幼猿が自分の胸元に顔をうずめ静かに眠っている姿をじ~と見つめた。 自分の死期が迫っている事は分かっていた。 老猿は再び決意したかのように起き上がるとキキを起こし、ゆっくりと歩き始めた。
やがて最勝ケ峰から尾根道を下り清水谷へ向かった・・ 時々休みながら痛みで意識がもうろうとする中、キキを引き寄せ再び森の掟、採食、攻撃の回避、森での生き方などを繰り返し、身をもって教えた。 ゴンタはこれが最後の見納め・・ と周辺の山々や森を振り返った。 かつて自分が支配した懐かしいあの場所、この場所を最後に目に焼き付けるかのように・・ やがて箕面川に下り、川原で水を飲んだ後 長谷山に入ったところで老猿は再び気を失った・・
小雪が舞い始めた・・ 深々と更けゆく森の一角で、幼猿はこの夜も意識のない老猿の胸元で眠っていた。 深夜、ゴンタはうっすらと目を開きかすかに意識を取り戻した。 しかし その死期は後わずかに迫っていた。 今夜も幼猿はあどけない顔をし、自分の胸元に顔をうずめ眠っている。 この子を何とかして群れの母親の元へ帰してやらねばならない・・ 元ボス猿は、かつてのその強靭な精神力と責任感、そして使命感をもって最後の命の灯をかがやかせた。 ゴンタは眠っているキキを起こし、真っ暗闇の森の中を歩き始めた。 そしてやっとの思いで天上ケ岳にたどり着いた。
(* ここには瀧安寺・奥の院で<役行者>昇天の地とされ、今から1315年前の大宝元年に入寂したというその石碑と山伏姿の銅像が建っている)
東の空がほんのりうっすらと明るくなった。 老猿はその役行者に最後の力を与えて欲しいと祈るような仕草をすると立ち上がり、谷間に向かって大きく目を開き、全精力を集中して・・
キー と 森に響き渡る大声で一言叫ぶと、崩れるように倒れていった。 キキはそのただならぬ老猿の姿に キーキーキー と泣き叫んだ。
その頃、この夜もまんじりともせず幼い末娘を案じていた母猿が、そのかすかな叫び声を耳にした。 そしてそれは群れを率いるボス猿の耳をもピクリとさせた。 とっさに飛 び起きると、二匹は天上ケ谷の谷間からその叫び声の方へ向け懸命に走った・・ キー キー キー キー
母猿は真っ先に末娘レイの泣き叫ぶ声を見逃さなかった。
キー キー キー キー
キキはまたあの懐かしい母親の叫び声を遠くに聞いて叫び続けた。 その声は小さいながら森に響き渡った。
・・ いた・・! 夢にまで見たお母さんが今 目の前にいる・・ キキは思いっきり母親の胸に飛び込んでいった。 キキは懐かしい母親の匂いをかぎながら、それまでの恐怖から思いっきり涙を流して泣いた。
母と子が再開を果たし抱き合っている間に、後から群れの猿たちが次々と追いついてきた。 その母と子の横には大きな老猿が一匹倒れ息絶えていた。 群れのボス猿はその見覚えのあるミケンに大きな傷跡が残る老猿を見て一瞬驚いた・・ かつてボスの座をかけ自分と戦った前のボス猿だった。
しかし キキの母猿のほうがもっとビックリした顔をしていた。 あのミケンに傷を持つ老猿は・・ まさか? それは母猿がまだ幼猿だった頃、一匹 陽だまりで遊んでいるときだった。 他の山から流れてきた数匹のケンカ猿が自分を襲ってきた・・ その時に群れのボスだった父親がそれを発見し、彼らと戦い撃退してくれた。 しかしその時の激しい戦いで、ボスはミケンに大きな傷を負ったのだった。 母猿は当時を思い起こし涙ぐんだ。
やがて母猿はキキの手をとると、静かに横たわる老猿の前にひれ伏し最愛の幼娘を助け導き、ここまで連れて帰ってくれた父親に心からの感謝を捧げた・・ そしてキキの手をとると、その額の傷跡に一緒に手を置きながら・・ おじいちゃん ありがとう・・
箕面の森にひときわ輝く初春の朝陽が差し込んできた・・
そして 七日目の朝 が静かに明けた。
(完)