お松のルーテル日記

キリスト教会(プロテスタント)での学びや聖歌隊での活動、
趣味の小説執筆や読書、サイクリングなどに関する日記

子供

2012年12月17日 | 聖書、信仰
教会に集うママ達が僕なんぞの心配をしてくれます。(感謝の言葉も見つかりません)

「(就職するならば)保父がいいのでは? いま人材不足だから資格を有していなくてもなれるみたいですよ」

何故に「保父」を薦めてくれるかと申しますと、僕が教会でいつも子供たちに遊んでもらっているからでしょう。
僕は子供が好きです。
子供だって人間だから心の中に悪い面も持ち合わせており、決して純粋ではありません。
けれど、大人に比べるとやはり純度は数倍勝ると思っています。


僕が子供と遊んでいるときに心に去来するのは大愚・良寛です。世に言われる「りょうかんさん」です。
彼は子供達を愛し積極的に遊んだことで有名です。 「子供の純真な心こそが誠の仏の心」
かくれんぼや手毬で遊ぶ姿こそ良寛の姿でした。
禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、また最期を看取った弟子の貞心尼に対してほのかな恋心を抱いていたといわれています。

良寛を知るならば故・立松和平の「良寛」がお薦めです。(筆者が執筆途中で亡くなったのが惜しまれる上出来の小説です)
また、前述の貞心尼を主人公とした瀬戸内寂聴の小説「手毬」も薦めたいですね。(しかし出来はあまり・・・苦笑)


子供の良いところは純粋であるだけでなく、大人の虚栄や欺瞞を見事に看破するところです。
「子供好きと周囲に思われたい・・」などというヨコシマな心で接していると、ちゃ~んとそれを見抜きますよ。

だから僕は子供に遊んでもらうときは、ほぼ無心、大人心を捨てて自分も子供になる・・童心に戻るようにしています。
もともとが僕は、自分で言うことじゃ無いとは思いますが、本質が子供のままなので。
(これは数少ない僕の美点のひとつですが、同時に大いなる、深刻な欠点でもあるのです)

僕はたまに誤解をされますが、基本的には子供が中学生になるまでは「ある程度」甘やかし、愛情を傾けるべきだとの考えです。

「習い事」は、本人が「やりたい」と言えばやらせ、その場合にサボる風であればきつめに叱るべきだと思ってます。
しかし、親のエゴを満たすために嫌がる子供を押さえつけて「強要」するのは断固反対です。
以前、好きなブロガーの主婦の方にはうまく説明が出来ず叱られてしまいました。

また、こういう考えも持っています。

例えば、僕の実際の兄の子供(女の子二人)は英会話を習っていますが、これも「やりよう」だと考えます。
もしも彼女たちが英会話を習得したものの肝心の日本語がおぼつかない状態で成人をしたならば、これは悲劇だと考えます。
僕が神戸に転勤してるとき、土地柄でしょう英語を話す若者が街にたくさんいましたが、彼らの日本語は小学生並みでした。

それじゃあ意味がない。 かえって間違いだと心から思うのです。
英語が70点、日本語が50点になるならば英会話などやめて、英語20点、だけど日本語が80点の子供を良しと考えます。

人間が教育を受けるその理由で大事なのは言語そのものなのではなく、その人間性を育てることなのですからね。

カタい話はこれまでとして・・・・・(笑)

教会にはトイレにもまだ行けない幼児もいますので、僕としては「おしめの交換」を覚えなければ・・と考えています。
基本的には両親の仕事だと思うけれど、教会内においてはみな「家族」だと思ってますので僕もやれなければ!

どうやるかを今度教わろうと思ってます。

アーメン