お袋は、今月6日で99歳になる。
お陰様で、今の所は健康に過ごしている。
そんなお袋に会いに、吉祥寺の弟夫婦と、北海道に住む甥っ子家族がやってきた。
と、言いながら、お袋との面会の件は、今回の主題ではない。
食い道楽の弟。
初日の夕餉は、
「鰻のせいろ蒸しが食いたか!」(弟)
関東や北海道では食せない、鰻のせいろ蒸しのリクエスト。
鰻に舌鼓を打ち、お腹いっぱいで帰宅。
その後は、例によって、我が家で宴会・・・
なのだが、
「もう入らん。」
どうやら鰻の後は、物理的にお腹に入らないようで、珍しく早めの終了となる。
翌日・・・
「久留米ラーメン食いにいこ。」(弟)
「そげなこと言ったって、お前・・・」(私)
久留米ラーメンが何たるかを知っている、弟夫婦と甥っ子はいい。
問題は、生粋の道産子である甥の嫁さんとその子供だ。
同じ豚骨でも、北海道の豚骨出汁のラーメンとは、そもそも思想が違う。
豚骨の臭みを消す事に腐心する一般のラーメンと違い、久留米ラーメンの真骨頂は、その臭みのすぐそばにある旨味にある。
臭み消しを最小限に抑える事こそが、名店の証なのだ。
「おりゃ、責任もてんぜ。」(私)
「大丈夫だよね。」(甥)
「・・・多分。」(甥嫁)
強烈な個性を持つ久留米ラーメンを知らない彼女に、何をどう判断できると言うのか。
そう聞かれても、心細げに頷くしかないではないか。
兎にも角にも、ラーメンとその他を幾つか注文。
野菜炒め?
違う。
この店では、これは肉炒めと呼ぶ。
肉が僅かでも入れば、それは『肉』の名が冠されるのだ。
炒飯はパラパラじゃなきゃ。
そんな世間の風潮を、あざ笑うかのようなしっとりさ。
そもそもこれは炒飯ではない。
由緒正しき、食堂の焼き飯なのだ。
そしてこれだ。
並々と注がれたスープ。
置いただけでテーブルには、天使の輪が出来ると言う代物だ。
そして、有無を言わさず乗せられた紅生姜。
実に痛快である。
「ね、脂なんか浮いとらんやろ。これが本物たい。」(弟)
「ほんとだ。むしろあっさりですね。」(甥嫁)
弟の自慢は止まらない。
いただきまーす!
心配された甥の嫁さんも、至極美味しそうに完食。
まことに目出度い限りである。
弟家族はこの後、呼子の洋上に浮かぶ小川島の民宿へ。
魚三昧の魂胆である。
鰻に久留米ラーメンに玄界灘の幸。
さてはお前ら、
お袋を口実に九州に食いに来たな。