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![1_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/4/3/432340d3.jpg)
credit:University of Tubingen, eScience Center, and Kurdistan Archaeology Organization
イラク最大のモスルダムは、基礎が侵食されているせいで決壊の恐れがあるとされ、世界でもっとも危険なダムと呼ばれることがある。
そんな危険なダムだが、2010年には干ばつのために記録的なまでに水位が下がってしまったことがある。それが、思わぬ発見につながった――ダムの底から青銅器時代にまでさかのぼる古代都市の遺跡が見つかったのだ。
遺跡はその後再び水没したが、最近の干ばつでまたもその姿を我々の目の前に現してくれた。
ダムの底に眠っていたのは、ケムネ宮殿(Kemune Palace)と呼ばれる遺跡だ。紀元前16世紀から14世紀にかけて現在のシリアの一部を支配していた、ミタンニ(ミッタニ)王国の時代にさかのぼることができるとされる。
フルリ人(フリ人。旧約聖書のホリ人と言われる)によって建国されたミタンニ王国は、多民族の戦士で構成される封建社会だったことで知られる。かつてはメソポタミア北部のほか、地中海沿岸部の諸都市を支配し、古代エジプトやバビロニアと覇を競い合っていた。
この時代の遺跡でミタンニ王国の宮殿が残されているのは、ほかに3ヶ所しかなく、しかも王国の領土の周縁にあるものだ。
だが、このケムネ宮殿は、王国の中心部における人々の暮らしを垣間見ることができるという点で貴重な歴史的資料だ。
![2_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/c/a/cabc34ed.jpg)
調査にあたったドイツ、テュービンゲン大学のバナ・プリーツ氏によれば、宮殿は、チグリス川からわずか20メートルのほとりに築かれた段丘の上に建てられていた。
かつては川を見下ろすように建ってたらしく、川の斜面には、泥レンガが敷き詰められて補強されていた。また北側に街が広がっていたようだ。
これまでのところ8つの部屋が部分的に発掘されており、中には2メートルを超える壁も見つかっている。いくつかの部屋の壁には漆喰が塗られ、そこに描かれていた壁画には、まだ赤と青の鮮やかな色彩が保たれていた。
![5_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/e/e/eebedaf5.jpg)
宮殿のようなミタンニ王国の重要な建築物は、一般に色とりどりの壁画で装飾されていた可能性が高い。だが、それを現代まで伝えるものはほとんどなく、それだけにケムネ宮殿は「考古学上のセンセーション」とプリーツ氏から評されている。
![3_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/7/d/7dcaedc5.jpg)
部屋からはミタンニのくさび形文字が刻まれた粘土板も10枚見つかった。ドイツ、ハイデルベルク大学の専門家がそれを解読した結果、この遺跡はおそらく古代都市のZakhikuだろうことがわかった。
Zakhikuの名は紀元前1800年頃の記録に登場する。このことから、Zakhikuは少なくとも400年はチグリス渓谷のほとりに存在したらしいことが推測できる。
![4_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/b/9/b9f6c7cd.jpg)
ミタンニ王国が滅亡すると、アッシリア王のアダド・ニラリ1世によってミタンニの首都タイデの住民は殺され、記録によると、地面には塩がまかれたという。
現在、かつての偉大な王国の痕跡はほとんど残っていない。タイデの正確な位置すらもよくわかっておらず、古代の中近東において最も研究が遅れている王国の1つだ。
ケムネ宮殿の発見が重要なのはそういうことだ。それはこの古代文明の姿を現代に復元する大切な手がかりなのだ。
だが、残念なことに、その後遺跡は再びダムの底に沈んでしまったそうだ。次にいつその姿を現すことになるのか、誰にもわからない。
References:uni-tuebingen/
☆造る時にわかってたやろこれ!
![1_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/4/3/432340d3.jpg)
credit:University of Tubingen, eScience Center, and Kurdistan Archaeology Organization
イラク最大のモスルダムは、基礎が侵食されているせいで決壊の恐れがあるとされ、世界でもっとも危険なダムと呼ばれることがある。
そんな危険なダムだが、2010年には干ばつのために記録的なまでに水位が下がってしまったことがある。それが、思わぬ発見につながった――ダムの底から青銅器時代にまでさかのぼる古代都市の遺跡が見つかったのだ。
遺跡はその後再び水没したが、最近の干ばつでまたもその姿を我々の目の前に現してくれた。
ミタンニ王国のケムネ宮殿
ダムの底に眠っていたのは、ケムネ宮殿(Kemune Palace)と呼ばれる遺跡だ。紀元前16世紀から14世紀にかけて現在のシリアの一部を支配していた、ミタンニ(ミッタニ)王国の時代にさかのぼることができるとされる。
フルリ人(フリ人。旧約聖書のホリ人と言われる)によって建国されたミタンニ王国は、多民族の戦士で構成される封建社会だったことで知られる。かつてはメソポタミア北部のほか、地中海沿岸部の諸都市を支配し、古代エジプトやバビロニアと覇を競い合っていた。
この時代の遺跡でミタンニ王国の宮殿が残されているのは、ほかに3ヶ所しかなく、しかも王国の領土の周縁にあるものだ。
だが、このケムネ宮殿は、王国の中心部における人々の暮らしを垣間見ることができるという点で貴重な歴史的資料だ。
![2_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/c/a/cabc34ed.jpg)
credit:University of Tubingen, eScience Center, and Kurdistan Archaeology Organization
チグリス川ほとりの壮麗な建物
調査にあたったドイツ、テュービンゲン大学のバナ・プリーツ氏によれば、宮殿は、チグリス川からわずか20メートルのほとりに築かれた段丘の上に建てられていた。
かつては川を見下ろすように建ってたらしく、川の斜面には、泥レンガが敷き詰められて補強されていた。また北側に街が広がっていたようだ。
これまでのところ8つの部屋が部分的に発掘されており、中には2メートルを超える壁も見つかっている。いくつかの部屋の壁には漆喰が塗られ、そこに描かれていた壁画には、まだ赤と青の鮮やかな色彩が保たれていた。
![5_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/e/e/eebedaf5.jpg)
宮殿の壁画片には、色のついたペンキの跡が残っている。
credit:University of Tubingen, eScience Center, and Kurdistan Archaeology Organization
credit:University of Tubingen, eScience Center, and Kurdistan Archaeology Organization
宮殿のようなミタンニ王国の重要な建築物は、一般に色とりどりの壁画で装飾されていた可能性が高い。だが、それを現代まで伝えるものはほとんどなく、それだけにケムネ宮殿は「考古学上のセンセーション」とプリーツ氏から評されている。
![3_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/7/d/7dcaedc5.jpg)
credit:University of Tubingen, eScience Center, and Kurdistan Archaeology Organization
古代都市Zakhiku
部屋からはミタンニのくさび形文字が刻まれた粘土板も10枚見つかった。ドイツ、ハイデルベルク大学の専門家がそれを解読した結果、この遺跡はおそらく古代都市のZakhikuだろうことがわかった。
Zakhikuの名は紀元前1800年頃の記録に登場する。このことから、Zakhikuは少なくとも400年はチグリス渓谷のほとりに存在したらしいことが推測できる。
![4_e](https://livedoor.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/b/9/b9f6c7cd.jpg)
credit:University of Tubingen, eScience Center, and Kurdistan Archaeology Organization
再びダムの底へ
ミタンニ王国が滅亡すると、アッシリア王のアダド・ニラリ1世によってミタンニの首都タイデの住民は殺され、記録によると、地面には塩がまかれたという。
現在、かつての偉大な王国の痕跡はほとんど残っていない。タイデの正確な位置すらもよくわかっておらず、古代の中近東において最も研究が遅れている王国の1つだ。
ケムネ宮殿の発見が重要なのはそういうことだ。それはこの古代文明の姿を現代に復元する大切な手がかりなのだ。
だが、残念なことに、その後遺跡は再びダムの底に沈んでしまったそうだ。次にいつその姿を現すことになるのか、誰にもわからない。
References:uni-tuebingen/
☆造る時にわかってたやろこれ!