危機マック、創業者は天文学的利益獲得
繁栄と没落を招いた常識逸脱の規格外経営
ビジネスジャーナル
2015年3月6日 06時09分 (2015年3月6日 13時20分 更新)
日本マクドナルドホールディングス(以下、日本マクドナルド)が、
昨年7月に発覚した中国食品会社の使用期限切れ鶏肉使用問題に端を発し、
その後、立て続けに起こった異物混入問題で客離れを起こし、
1971年7月に銀座三越(東京)に
第1号店を開業して以来の未曾有の経営危機に直面している。
日本マクドナルドの2014年12月期決算は売上高約2,223億円(前期比14.6%減)、
営業損益は約67億円の赤字、最終損益は
当初予想の170億円を48億円も上回り、
約218億円の大赤字となった。
最終損益が赤字になるのは03年12月期以来、11年ぶりのことだ。
ちなみにFC(フランチャイズチェーン)を加えた全店売上高は
約4,463億円(同11.5%減)。
また店舗数は直営が1009店、FCが2,084店の合計3,093店であった。
創業以来の悲惨な決算に拍車をかけたのが、
今年1月の既存店売上高が前年対比38.6%減と、
4割近くも落ち込んだことだ。
客数も28.5%減と大幅に落ち込んだ。
「マクドナルド離れ」は深刻な状況にある。
この異常ともいえる落ち込みに、日本マクドナルドでは
「今期の業績予想や配当は未定」として発表しなかった。
●創業者と米マクドナルド本社との怨念の対立
マクドナルドの深刻な業績低迷の背景には、
創業社長である藤田田氏と米マクドナルド本社との怨念の対立があるからだ。
藤田田氏は04年4月、心不全で死去した。
享年78。歴代6位といわれる財産491億円を残した。
マクドナルドのハンバーガービジネスが
いかに儲かるビジネスであるかを証明する巨額遺産である。
だが、米本社にしてみれば、
藤田氏の遺産の多くは同社に帰属すべきで、
創業期の藤田氏との50%対50%という合弁契約が
間違いであり不平等契約だと思ってきた。
ここに藤田氏と米本社との怨念の対立が発生する原因がある。
藤田氏は東京大学法学部在学中の50年(昭和25年)に
高級雑貨輸出入販売店の藤田商店を設立した。
GHQ(連合国軍総司令部)で通訳のアルバイトをして高給を稼ぎ、
ユダヤ系軍人と親しく交流し、
ビジネスネットワークを構築した。
60年に株式会社に改組、社員15名の少数精鋭でスタートした。
クリスチャン・ディオールのハンドバッグや旅行鞄、
衣料品などの輸入販売を開始、三越など百貨店にも卸していた。
アメリカのビジネス界で藤田氏の名前が認知されたのが、
65年にアメリカンオイル(当時)から
ナイフとフォークを受注したことだった。…
第1回目は300万本、第2回目は600万本であった。
業者に製造を依頼したが、2回とも納期ギリギリ。
そこで藤田氏は納期を守るためボーイング707を2,000万円でチャーター、
儲けを度外視して製品を送り、信用第一主義を貫いた。
これがアメリカで藤田氏の商人としての評価を高めた。
藤田氏の成功のタネは、この時にまかれたのである。
藤田商店は順調に発展し、やがてシカゴにも支店を置き、
藤田氏は60年代後半には月3回もアメリカに出かけるほど多忙だった。
そんな藤田氏が、藤田商店のシカゴ店長の薦めで米マクドナルド創業者の
レイ・クロック氏(1902~84)に会うのは70年頃のことだ。
ハンバーガービジネスで大成功したクロック氏の元には、
マクドナルドのFCをやりたいと多くの日本人が訪れた。
その中にはダイエー創業者の中内功氏
【編註:正式表記は「エ」へんに「刀」)もいたが、
クロック氏の眼鏡にかなう人物はいなかった。
藤田氏はクロック氏と初めて会い交渉した時の模様を、
雑誌「経済界」(01年11月6日号)のインタビューで次のように答えている。クロック氏は
「私がこれまで会ってきた日本人は商売を知らないからダメだ。
けれどもお前ならできる」と、
藤田氏に日本でマクドナルドのFCをやるように頼んだという。
その時藤田氏はとっさに
「それだったら出資比率は50%対50%の合弁でやりたい」といい、
条件を1つ付け加えた。
「米国側は命令しないこと。アドバイスは受けるが命令は受けない。
そして、日本の会社は私以下、全員日本人でやっていく。
社長の私の思い通りにやる。それが嫌なら私はやらない」
藤田氏の要求はめちゃくちゃなものだった。
本来は米マクドナルド本社の日本FCにしかすぎない立場なのに、
日本マクドナルドは米本社と折半の合弁企業とし、
経営権も藤田氏が握るという主張だからだ。
普通なら交渉は決裂、日本マクドナルドの設立は
ご破算になっていたところだ。
ところがクロック氏は藤田氏の破格の条件を却下するどころか、受け入れた。
「お前はなかなか面白い奴だ。わかった」と――。
クロック氏が日本の市場を見間違っていたのか、こう言ったという。
「今から30年の契約をするが、30年で500店つくると約束してほしい。
30年後に500店できていたら、成功とみなす」
藤田氏は「500店と言わず700店にしよう」と言って、
それで契約の話が決まったという。…
その間、ものの20分程度しかかからなかったという。
●信頼の源泉は、ボロボロに汚れた一通の預金通帳
藤田氏はこの時、日本マクドナルドの日本でのFC展開は
最初から30年契約だったと言うが、
マクドナルド研究の第一人者で関西国際大学教授の王利彰氏は、
「クロック氏との本来の契約期間は20年だった。
藤田氏は2代目CEOのフレッド・ターナー氏(故人)に頼んで、
もう10年延長してもらい、30年契約にした」と説明する。
王氏は73年に日本マクドナルドに入社。
店舗勤務後、スーパーバイザー、ハンバーガー大学プロフェッサー、
米国駐在統括責任者などを経て
本社で運営統括部長・海外運営部長・機器開発部長を兼任し、
事業開発担当部長、機器開発部長を歴任した。
日本マクドナルドに19年間勤め、
藤田氏と衝突し92年に退社した。
同年コンサルタント会社を設立し、現在に至っている。
王氏はターナー氏とも仕事上で交流があった。
当初の契約が20年だったのを10年延長してもらったというのは、
王氏の言う通りだと思う。藤田氏は、一筋縄ではゆかない人だったからだ。
余談だが、筆者も生前の藤田氏には2回、
長時間インタビューしたことがある。
きっかけは85年頃、「活性」(学研/すでに廃刊)というビジネス雑誌で、
『銀座のユダヤ人「藤田田」(日本マクドナルド社長)研究』
というタイトルで1本記事を書いたからだ。
記事執筆時点では藤田氏に会えなかったので、
藤田氏の出身校である旧制松江高校の名簿から
同級生7~8人に面談取材や電話取材して、
『証言/芽吹く商才 人生はカネやでーッ!これがなかったら何もできゃあせんよ』
(同誌/85年10月発行号)を6ページで書いた。
藤田氏は旧制松江高校時代、バンカラで鳴る同高校の応援団長を務めていたが、
その頃の写真5~6枚を掲載、また同級生の顔写真入りで記事を構成したので、
藤田氏は以後この雑誌を社長室に保管し大切にしていたという。
これが引き金になって藤田氏が社史
『日本マクドナルド20年の歩み』(91年11月発行)を出版する際、
広報部の久保氏(当時)を通じて
「今のままでは平凡な社史になってしまうので中村さんにインタビューしてもらって、
『活性』のような藤田の青春時代をテーマに記事を書いてほしい」と頼んできた。
そして91年夏ごろ、新宿住友ビル(東京)の47階だったか、
日本マクドナルド本社に藤田氏を訪ね、2時間ほどインタビューした。…
藤田氏は私に、いくつか大切なことを伝えようとした。
一番熱心に話したのは、藤田商店を設立した50年から
「旧住友銀行新橋支店で毎月5万円の定期預金を始めたこと」だった。
藤田氏はマス目に漢数字(算用数字併用)で縦書きに
金額の書かれた、手垢でボロボロに汚れた一通の預金通帳を見せて、
「毎月の積立額は途中から10万円、その後15万円に増額して、
40年間以上にわたって一度も休まずに続けている」ことを話した。
「預金は複利で回り定期預金が1億2,000万円になるのに30年かかったが、
2億1,157万6654円(91年4月現在)になるのに10年間しかかかっていない。
今後、定期預金を続けていけば1億円増える期間がどんどん短縮する。
私は長男の元(藤田商店社長)に、
『この貯金は私が死んだ後も100年続けてみろ!』と言っています。
親、子、孫と3代にわたって続けることになると思いますが、
私のように粘り強い日本人が
ひとりくらいいても面白いのではないか……」(同社史より)
藤田氏は人生が「仕事×時間=能力」であることをいち早く見抜き、
「定期預金を100年続ける生き方」を提案した。
そういう生き方をして、
「銀行からも信用があるから、日本マクドナルドの成功がある」ということを、
一番伝えたかったのだと思う。
筆者はこの時のインタビューを基に、
400字40枚程度で『凡眼には見えず、
心眼を開け、好機は常に眼前にあり 藤田田物語』を書いた。
原稿は藤田氏が目を通し、A4判横組みの社史の118~127ページに掲載された。
この時400字1枚の原稿料が2万円、
合計80万円ほどの多額の原稿料をもらい、
びっくりしたことを覚えている。
話を戻そう。王氏によれば、藤田氏とクロック氏との
合弁契約の中身は次のようなものだ。
「日本マクドナルドの設立時は米国が50%出資、
日本側は藤田氏が10%、藤田商店が40%出資した。
そして売上高の1%はロイヤルティーとして
米マクドナルド本社と藤田商店に支払われる仕組みだった。
藤田氏の抜け目がなかったのは、
藤田商店でポテトの輸入権を獲得したことです。
これは店舗数が増えていった時、
巨額の利益につながりました」
こうして藤田氏は71年に銀座三越の1階にマクドナルド第1号店を開店、
日商100万円を超える大繁盛店とし、あっという間に
ハンバーガー文化を日本中に広げた。
藤田氏を一躍有名にしたのが、
日本マクドナルドの大成功をバックに72年、
『ユダヤの商法 世界経済を動かす』(ベストセラーズ)を出版したことだ。…
これが104万部というミリオンセラーになり、
藤田氏はベンチャー起業家のアイドルとして
またたく間にスターダムにのし上がった。
●創業者の死
日本マクドナルドは軌道に乗り、破竹の勢いで店舗を増やし、
外食企業トップの座に就くが、
藤田氏の泣き所は事業を譲る後継者に恵まれなかったことだ。
藤田氏には長男の元氏(藤田商店社長)と次男の完氏(藤田商店副社長)がいた。
「一時期、藤田氏は次男の完氏を後継者にしようと
マクドナルドに入れて育てようとしたが、
完氏は人使いがうまくできなかった。
また、後継者にするなら米本社に出向し、
いろいろ学ぶべきだと言われたが、
完氏は結局アメリカに行かなかった。
藤田氏も息子への後継を断念せざるを得なかったのです」(王氏)
藤田氏はこれを機に、家族や息子たちに資産を残すために、
株式の上場に踏み切るが、それに先立つ99年~01年6月頃にかけて
商業施設内の小型店舖、ドライブスルー店舗などの積極展開を行い、
総店舗数を01年3月末で3619店舗に増やした。
上場時の株価を上げるのが一つの目的だったといわれる。
米本社は資産流出につながるので株式公開には反対だったが、
これも藤田氏が押し切った。こうして
日本マクドナルドは01年7月、東京証券取引所のJASDAQ(ジャスダック)へ上場した。
初値は4,700円。藤田氏と藤田商店の息子2人は
1,420万株を売却、611億円というケタ違いの創業者利益を得た。
藤田氏は最初、東証1部に上場するつもりだったが、
日本マクドナルドと藤田商店との関係
(ポテトの輸入権、経営指導料の支払いなど)が不明朗であるということで、
ジャスダックに指定されたという。
日本マクドナルドが上場した01年は、
米本社との30年契約が更新された年でもある。
藤田氏はこの際、再び30年の長期契約を結んだ。
契約更改では依然として藤田商店に経営指導料が入り、
直営店・FC店の売上高の0.5%がロイヤルティーとして入る仕組みだった。
藤田氏は00年2月から130円のハンバーガーを65円で販売する
「平日半額キャンペーン」を実施、
01年にジャスダックに上場した時には
「デフレ時代の勝ち組」ともてはやされた。
だが時代は円安の平成不況に突入し、
さらにBSE(牛海綿状脳症)騒動の逆風が吹き荒れ、
焼き肉をはじめ深刻な「牛肉離れ」が起こった。
牛肉離れはハンバーガーにも波及し、売り上げは激減した。
円安の原材料高で藤田氏は02年2月には
平日半額キャンペーンをやめ価格を上げたが客離れが加速した。…
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20150306/Bizjournal_mixi201503_post-2670.htmlより
繁栄と没落を招いた常識逸脱の規格外経営
ビジネスジャーナル
2015年3月6日 06時09分 (2015年3月6日 13時20分 更新)
日本マクドナルドホールディングス(以下、日本マクドナルド)が、
昨年7月に発覚した中国食品会社の使用期限切れ鶏肉使用問題に端を発し、
その後、立て続けに起こった異物混入問題で客離れを起こし、
1971年7月に銀座三越(東京)に
第1号店を開業して以来の未曾有の経営危機に直面している。
日本マクドナルドの2014年12月期決算は売上高約2,223億円(前期比14.6%減)、
営業損益は約67億円の赤字、最終損益は
当初予想の170億円を48億円も上回り、
約218億円の大赤字となった。
最終損益が赤字になるのは03年12月期以来、11年ぶりのことだ。
ちなみにFC(フランチャイズチェーン)を加えた全店売上高は
約4,463億円(同11.5%減)。
また店舗数は直営が1009店、FCが2,084店の合計3,093店であった。
創業以来の悲惨な決算に拍車をかけたのが、
今年1月の既存店売上高が前年対比38.6%減と、
4割近くも落ち込んだことだ。
客数も28.5%減と大幅に落ち込んだ。
「マクドナルド離れ」は深刻な状況にある。
この異常ともいえる落ち込みに、日本マクドナルドでは
「今期の業績予想や配当は未定」として発表しなかった。
●創業者と米マクドナルド本社との怨念の対立
マクドナルドの深刻な業績低迷の背景には、
創業社長である藤田田氏と米マクドナルド本社との怨念の対立があるからだ。
藤田田氏は04年4月、心不全で死去した。
享年78。歴代6位といわれる財産491億円を残した。
マクドナルドのハンバーガービジネスが
いかに儲かるビジネスであるかを証明する巨額遺産である。
だが、米本社にしてみれば、
藤田氏の遺産の多くは同社に帰属すべきで、
創業期の藤田氏との50%対50%という合弁契約が
間違いであり不平等契約だと思ってきた。
ここに藤田氏と米本社との怨念の対立が発生する原因がある。
藤田氏は東京大学法学部在学中の50年(昭和25年)に
高級雑貨輸出入販売店の藤田商店を設立した。
GHQ(連合国軍総司令部)で通訳のアルバイトをして高給を稼ぎ、
ユダヤ系軍人と親しく交流し、
ビジネスネットワークを構築した。
60年に株式会社に改組、社員15名の少数精鋭でスタートした。
クリスチャン・ディオールのハンドバッグや旅行鞄、
衣料品などの輸入販売を開始、三越など百貨店にも卸していた。
アメリカのビジネス界で藤田氏の名前が認知されたのが、
65年にアメリカンオイル(当時)から
ナイフとフォークを受注したことだった。…
第1回目は300万本、第2回目は600万本であった。
業者に製造を依頼したが、2回とも納期ギリギリ。
そこで藤田氏は納期を守るためボーイング707を2,000万円でチャーター、
儲けを度外視して製品を送り、信用第一主義を貫いた。
これがアメリカで藤田氏の商人としての評価を高めた。
藤田氏の成功のタネは、この時にまかれたのである。
藤田商店は順調に発展し、やがてシカゴにも支店を置き、
藤田氏は60年代後半には月3回もアメリカに出かけるほど多忙だった。
そんな藤田氏が、藤田商店のシカゴ店長の薦めで米マクドナルド創業者の
レイ・クロック氏(1902~84)に会うのは70年頃のことだ。
ハンバーガービジネスで大成功したクロック氏の元には、
マクドナルドのFCをやりたいと多くの日本人が訪れた。
その中にはダイエー創業者の中内功氏
【編註:正式表記は「エ」へんに「刀」)もいたが、
クロック氏の眼鏡にかなう人物はいなかった。
藤田氏はクロック氏と初めて会い交渉した時の模様を、
雑誌「経済界」(01年11月6日号)のインタビューで次のように答えている。クロック氏は
「私がこれまで会ってきた日本人は商売を知らないからダメだ。
けれどもお前ならできる」と、
藤田氏に日本でマクドナルドのFCをやるように頼んだという。
その時藤田氏はとっさに
「それだったら出資比率は50%対50%の合弁でやりたい」といい、
条件を1つ付け加えた。
「米国側は命令しないこと。アドバイスは受けるが命令は受けない。
そして、日本の会社は私以下、全員日本人でやっていく。
社長の私の思い通りにやる。それが嫌なら私はやらない」
藤田氏の要求はめちゃくちゃなものだった。
本来は米マクドナルド本社の日本FCにしかすぎない立場なのに、
日本マクドナルドは米本社と折半の合弁企業とし、
経営権も藤田氏が握るという主張だからだ。
普通なら交渉は決裂、日本マクドナルドの設立は
ご破算になっていたところだ。
ところがクロック氏は藤田氏の破格の条件を却下するどころか、受け入れた。
「お前はなかなか面白い奴だ。わかった」と――。
クロック氏が日本の市場を見間違っていたのか、こう言ったという。
「今から30年の契約をするが、30年で500店つくると約束してほしい。
30年後に500店できていたら、成功とみなす」
藤田氏は「500店と言わず700店にしよう」と言って、
それで契約の話が決まったという。…
その間、ものの20分程度しかかからなかったという。
●信頼の源泉は、ボロボロに汚れた一通の預金通帳
藤田氏はこの時、日本マクドナルドの日本でのFC展開は
最初から30年契約だったと言うが、
マクドナルド研究の第一人者で関西国際大学教授の王利彰氏は、
「クロック氏との本来の契約期間は20年だった。
藤田氏は2代目CEOのフレッド・ターナー氏(故人)に頼んで、
もう10年延長してもらい、30年契約にした」と説明する。
王氏は73年に日本マクドナルドに入社。
店舗勤務後、スーパーバイザー、ハンバーガー大学プロフェッサー、
米国駐在統括責任者などを経て
本社で運営統括部長・海外運営部長・機器開発部長を兼任し、
事業開発担当部長、機器開発部長を歴任した。
日本マクドナルドに19年間勤め、
藤田氏と衝突し92年に退社した。
同年コンサルタント会社を設立し、現在に至っている。
王氏はターナー氏とも仕事上で交流があった。
当初の契約が20年だったのを10年延長してもらったというのは、
王氏の言う通りだと思う。藤田氏は、一筋縄ではゆかない人だったからだ。
余談だが、筆者も生前の藤田氏には2回、
長時間インタビューしたことがある。
きっかけは85年頃、「活性」(学研/すでに廃刊)というビジネス雑誌で、
『銀座のユダヤ人「藤田田」(日本マクドナルド社長)研究』
というタイトルで1本記事を書いたからだ。
記事執筆時点では藤田氏に会えなかったので、
藤田氏の出身校である旧制松江高校の名簿から
同級生7~8人に面談取材や電話取材して、
『証言/芽吹く商才 人生はカネやでーッ!これがなかったら何もできゃあせんよ』
(同誌/85年10月発行号)を6ページで書いた。
藤田氏は旧制松江高校時代、バンカラで鳴る同高校の応援団長を務めていたが、
その頃の写真5~6枚を掲載、また同級生の顔写真入りで記事を構成したので、
藤田氏は以後この雑誌を社長室に保管し大切にしていたという。
これが引き金になって藤田氏が社史
『日本マクドナルド20年の歩み』(91年11月発行)を出版する際、
広報部の久保氏(当時)を通じて
「今のままでは平凡な社史になってしまうので中村さんにインタビューしてもらって、
『活性』のような藤田の青春時代をテーマに記事を書いてほしい」と頼んできた。
そして91年夏ごろ、新宿住友ビル(東京)の47階だったか、
日本マクドナルド本社に藤田氏を訪ね、2時間ほどインタビューした。…
藤田氏は私に、いくつか大切なことを伝えようとした。
一番熱心に話したのは、藤田商店を設立した50年から
「旧住友銀行新橋支店で毎月5万円の定期預金を始めたこと」だった。
藤田氏はマス目に漢数字(算用数字併用)で縦書きに
金額の書かれた、手垢でボロボロに汚れた一通の預金通帳を見せて、
「毎月の積立額は途中から10万円、その後15万円に増額して、
40年間以上にわたって一度も休まずに続けている」ことを話した。
「預金は複利で回り定期預金が1億2,000万円になるのに30年かかったが、
2億1,157万6654円(91年4月現在)になるのに10年間しかかかっていない。
今後、定期預金を続けていけば1億円増える期間がどんどん短縮する。
私は長男の元(藤田商店社長)に、
『この貯金は私が死んだ後も100年続けてみろ!』と言っています。
親、子、孫と3代にわたって続けることになると思いますが、
私のように粘り強い日本人が
ひとりくらいいても面白いのではないか……」(同社史より)
藤田氏は人生が「仕事×時間=能力」であることをいち早く見抜き、
「定期預金を100年続ける生き方」を提案した。
そういう生き方をして、
「銀行からも信用があるから、日本マクドナルドの成功がある」ということを、
一番伝えたかったのだと思う。
筆者はこの時のインタビューを基に、
400字40枚程度で『凡眼には見えず、
心眼を開け、好機は常に眼前にあり 藤田田物語』を書いた。
原稿は藤田氏が目を通し、A4判横組みの社史の118~127ページに掲載された。
この時400字1枚の原稿料が2万円、
合計80万円ほどの多額の原稿料をもらい、
びっくりしたことを覚えている。
話を戻そう。王氏によれば、藤田氏とクロック氏との
合弁契約の中身は次のようなものだ。
「日本マクドナルドの設立時は米国が50%出資、
日本側は藤田氏が10%、藤田商店が40%出資した。
そして売上高の1%はロイヤルティーとして
米マクドナルド本社と藤田商店に支払われる仕組みだった。
藤田氏の抜け目がなかったのは、
藤田商店でポテトの輸入権を獲得したことです。
これは店舗数が増えていった時、
巨額の利益につながりました」
こうして藤田氏は71年に銀座三越の1階にマクドナルド第1号店を開店、
日商100万円を超える大繁盛店とし、あっという間に
ハンバーガー文化を日本中に広げた。
藤田氏を一躍有名にしたのが、
日本マクドナルドの大成功をバックに72年、
『ユダヤの商法 世界経済を動かす』(ベストセラーズ)を出版したことだ。…
これが104万部というミリオンセラーになり、
藤田氏はベンチャー起業家のアイドルとして
またたく間にスターダムにのし上がった。
●創業者の死
日本マクドナルドは軌道に乗り、破竹の勢いで店舗を増やし、
外食企業トップの座に就くが、
藤田氏の泣き所は事業を譲る後継者に恵まれなかったことだ。
藤田氏には長男の元氏(藤田商店社長)と次男の完氏(藤田商店副社長)がいた。
「一時期、藤田氏は次男の完氏を後継者にしようと
マクドナルドに入れて育てようとしたが、
完氏は人使いがうまくできなかった。
また、後継者にするなら米本社に出向し、
いろいろ学ぶべきだと言われたが、
完氏は結局アメリカに行かなかった。
藤田氏も息子への後継を断念せざるを得なかったのです」(王氏)
藤田氏はこれを機に、家族や息子たちに資産を残すために、
株式の上場に踏み切るが、それに先立つ99年~01年6月頃にかけて
商業施設内の小型店舖、ドライブスルー店舗などの積極展開を行い、
総店舗数を01年3月末で3619店舗に増やした。
上場時の株価を上げるのが一つの目的だったといわれる。
米本社は資産流出につながるので株式公開には反対だったが、
これも藤田氏が押し切った。こうして
日本マクドナルドは01年7月、東京証券取引所のJASDAQ(ジャスダック)へ上場した。
初値は4,700円。藤田氏と藤田商店の息子2人は
1,420万株を売却、611億円というケタ違いの創業者利益を得た。
藤田氏は最初、東証1部に上場するつもりだったが、
日本マクドナルドと藤田商店との関係
(ポテトの輸入権、経営指導料の支払いなど)が不明朗であるということで、
ジャスダックに指定されたという。
日本マクドナルドが上場した01年は、
米本社との30年契約が更新された年でもある。
藤田氏はこの際、再び30年の長期契約を結んだ。
契約更改では依然として藤田商店に経営指導料が入り、
直営店・FC店の売上高の0.5%がロイヤルティーとして入る仕組みだった。
藤田氏は00年2月から130円のハンバーガーを65円で販売する
「平日半額キャンペーン」を実施、
01年にジャスダックに上場した時には
「デフレ時代の勝ち組」ともてはやされた。
だが時代は円安の平成不況に突入し、
さらにBSE(牛海綿状脳症)騒動の逆風が吹き荒れ、
焼き肉をはじめ深刻な「牛肉離れ」が起こった。
牛肉離れはハンバーガーにも波及し、売り上げは激減した。
円安の原材料高で藤田氏は02年2月には
平日半額キャンペーンをやめ価格を上げたが客離れが加速した。…
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20150306/Bizjournal_mixi201503_post-2670.htmlより