世間は実体以上に過剰反応する
経済学者の大富豪 D・リカード(上)
<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>
2016.03.12 12:00
デヴィッド・リカード
投資家
経済学者
アダム・スミスとともに、英国の古典派経済学者として
もっとも影響を与えたデヴィッド・リカード。
経済学者なら、その知識を生かして
巨万の富を築くことはわけもないだろう、
と思われがちですが、そのような人は
そう多くはありません。しかし、
それをうまくやってのけたのが、
リカードでした。投資家としてのリカード、
その経済学の理論と知識をどう生かしていったのか、
市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
投資家の美学
「経済=金もうけ」は理屈通りにはいかない?

経済学者で金儲けに成功したD・リカード
経済学者で金もうけに成功した例は少ない。
かつてノーベル経済学賞を受賞したロバート・マートンや
マイロン・ショールズ博士らの運営する
投資ファンド「LTCM」が破綻して世間を驚がくさせたのは
記憶に新しい。LTCMの例にみられるように
「経済=金もうけ」は理屈通りにはいかないからだ。
生きた経済の典型である株式や商品市場で
成功した経済学者の双璧は
D・リカードとジョン・メイナード・ケインズだろう。
商傑ユダヤ商人の血を引くリカードの富は
現在の価値に直すと100億円を超す巨額にのぼった。
慶應義塾の塾長を務めた経済学の泰斗、
小泉信三博士がリカードの遺産を計算して22億円と弾いたが、
それは60年も前のことだから今なら100億円を下るまい。
14歳にしてロンドン・シティの株式取引所に出入り
D.リカードのルーツをたどると
イタリアの商人に行き着く。
世界経済の中心がオランダに移ると、
アムステルダムに移住し、財を成した。
オランダが占めていた経済上の覇権が
英国に奪われると、リカード一家も
ロンドンに渡る。
D・リカードが生まれるのは
日本の明和期(1764-1772)に当たり、
大阪商人が実力を蓄えるとともに
堂島のコメ相場も盛り上がりをみせていた時代である。
D・リカードが初めてロンドンで
シティの株式取引所に出入りするようになるのは
14歳のとき。株式取引所の仲買人だった父親の
走り使いで取引所周辺を飛び回っているうち
しだいに才覚を発揮する。
父の七光もあって取引所で地歩を固めていった
D・リカードだったが、結婚を巡って父と対立、
わずか800ポンドの金を持って父と決別する。
シティで金融ブローカーとなったリカードの
相場のやり方について友人が日記に書いている。
「彼は市場の変化に際して、異なった証券の
相対価格間に起こりうるべき、
どんな偶発的な差額でも、
これを関知することが異常に速やかであり、
この好機を自ら利用して、一つの証券を売り、
他の証券を買うとか、あるいは
その反対のことをすることによって、
1日に200ポンドまたは300ポンドももうけた」
リカードが実践した投資の鉄則「黄金律」とは?
D・リカードの投資手法は、一種のサヤ取りである。
特定の銘柄をじっと抱いて
長期方針で巨利を狙うといったやり方ではなく、
証券間のわずかな値ザヤの変化を素早くとらえて
激しく売った・買ったとやる
短期売買を旨としたのだった。
D・リカードは「株の名人」とか
「自分が埋もれてしまうほどの富を得た遅咲きの天才」
などと呼ばれるが、彼の投資は
「黄金律」と呼ばれる1つの鉄則に基づいて行われていた。
D・リカードの黄金律は明治の中ころには
日本でもかなり有名になっていた。
当時の百科事典にまでD・リカードの黄金律が紹介されている。
明治のキーワードは「立身出世」であり、
「富国強兵」「殖産興業」であったが、
その背後には常に「金」が威光を放っていた。
「成功せる投機者を読者諸君に紹介せん。
有名な経済学者ダビッド・リカード氏これなり。
氏はロンドン株式取引所に聘馳(招待)して、
巨額の財を重ねたる人なるが、
その常に懐抱せる意見は
『世人の事変を見ること、
大いにその実に過ぐ』の言なりき」
D・リカードが口癖のように言っていた言葉を平たくいえば、
「世間や市場はニュースに対して
実体以上に過剰反応する」というものだ。
この黄金律にそって具体的な戦術をこう述べている。
第1章 汝の心裏にて裁択したることをちゅうちょなく決行すべし
第2章 汝の損失を短縮すべし
第3章 汝の利益を延長せしめよ
「この法章により、相場が少しく上進すべき原因を見出す時は、
必ず買いに決せり。世人が狼狽して
案外に騰貴せしむることを知ればなり。
これに反し相場が一歩下落すれば、
直ちに売りに決せり。人心恐慌して
意外の下落あることを認めたればなり」
「こう」と決めたら則実行すること。
そして損失はできるだけ小さく、
利益はできるだけ大きくするように
心掛けなければならない。
これらはすべて当たり前のことだが、
市場という神聖なる場所に立ち向かうと
なかなか実行ができないものである。
素人投資家は損失を大きくし、
利益を小さく傾向がある。
損が膨らむのは建玉がマイナス勘定になったとき、
なかなか処分ができず、
懐に抱え込んで損を太らせてしまうからだ。
逆に利益を小さくするのは、うれしさの余り、
早く利食い(利益確定の売り)したくなって、
まだまだ伸びしろがあるというのに
辛抱できず手じまいしてしまうからである。。
D・リカード( 1772-1823 )の横顔
ロンドンの巨商で株式仲買人のアブラハム・リカードの息子に生まれ、
1815年、ワーテルローの戦いで
英国政府の公債を大量に引き受け、
ナポレオンの敗走で公債相場が暴騰し、
伝説的勝利を収める。後年は
経済学の研究に励み、『経済学および課税の原理』を著す。
この本はアダム・スミスの『国富論』と並ぶ
英国古典派経済学の名著とされる。
https://thepage.jp/detail/20160302-00000003-wordleaf
ワーテルロー、英勝利賭け公債で成功
遺産は70万ポンド D・リカード(下)
2016.03.19 09:00
デヴィッド・リカード
経済学者では稀有な投資の成功者、
デヴィッド・リカード。
株の仲買人だった父とともに14歳で証券取引所に出入りし、
まずは株取引で成功を収めます。
その後、投資対象を公債、土地取引にも拡げていきます。
投資で富を築いたリカードの人生を
市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
いつの時代でも戦争は市場を揺るがす最大の刺激材料である。
「ナポレオン戦争の情報は
それが真相を告げるものであろうと、
誤報であろうが、市場価格を著しく上下させた」
(堀経夫著『リカァドウ』)
D・リカードは投資対象を株から公債へと拡大していく。
イギリス政府はナポレオンと死闘を繰り広げる一方、
戦費調達のため次々と公債を発行しなければならなかった。
リカードはその公債の引き受け人を買って出て、
結果としてさらに富を増幅させていった。
公債は国力、国運の象徴でもある。
リカードはイギリスの国運に賭け、
それが図星となった。
リカードが伝説的大勝利をつかむのは1815年6月のことだ。
https://thepage.jp/detail/20160316-00000003-wordleafk
経済学者の大富豪 D・リカード(上)
<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>
2016.03.12 12:00
デヴィッド・リカード
投資家
経済学者
アダム・スミスとともに、英国の古典派経済学者として
もっとも影響を与えたデヴィッド・リカード。
経済学者なら、その知識を生かして
巨万の富を築くことはわけもないだろう、
と思われがちですが、そのような人は
そう多くはありません。しかし、
それをうまくやってのけたのが、
リカードでした。投資家としてのリカード、
その経済学の理論と知識をどう生かしていったのか、
市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
投資家の美学
「経済=金もうけ」は理屈通りにはいかない?

経済学者で金儲けに成功したD・リカード
経済学者で金もうけに成功した例は少ない。
かつてノーベル経済学賞を受賞したロバート・マートンや
マイロン・ショールズ博士らの運営する
投資ファンド「LTCM」が破綻して世間を驚がくさせたのは
記憶に新しい。LTCMの例にみられるように
「経済=金もうけ」は理屈通りにはいかないからだ。
生きた経済の典型である株式や商品市場で
成功した経済学者の双璧は
D・リカードとジョン・メイナード・ケインズだろう。
商傑ユダヤ商人の血を引くリカードの富は
現在の価値に直すと100億円を超す巨額にのぼった。
慶應義塾の塾長を務めた経済学の泰斗、
小泉信三博士がリカードの遺産を計算して22億円と弾いたが、
それは60年も前のことだから今なら100億円を下るまい。
14歳にしてロンドン・シティの株式取引所に出入り
D.リカードのルーツをたどると
イタリアの商人に行き着く。
世界経済の中心がオランダに移ると、
アムステルダムに移住し、財を成した。
オランダが占めていた経済上の覇権が
英国に奪われると、リカード一家も
ロンドンに渡る。
D・リカードが生まれるのは
日本の明和期(1764-1772)に当たり、
大阪商人が実力を蓄えるとともに
堂島のコメ相場も盛り上がりをみせていた時代である。
D・リカードが初めてロンドンで
シティの株式取引所に出入りするようになるのは
14歳のとき。株式取引所の仲買人だった父親の
走り使いで取引所周辺を飛び回っているうち
しだいに才覚を発揮する。
父の七光もあって取引所で地歩を固めていった
D・リカードだったが、結婚を巡って父と対立、
わずか800ポンドの金を持って父と決別する。
シティで金融ブローカーとなったリカードの
相場のやり方について友人が日記に書いている。
「彼は市場の変化に際して、異なった証券の
相対価格間に起こりうるべき、
どんな偶発的な差額でも、
これを関知することが異常に速やかであり、
この好機を自ら利用して、一つの証券を売り、
他の証券を買うとか、あるいは
その反対のことをすることによって、
1日に200ポンドまたは300ポンドももうけた」
リカードが実践した投資の鉄則「黄金律」とは?
D・リカードの投資手法は、一種のサヤ取りである。
特定の銘柄をじっと抱いて
長期方針で巨利を狙うといったやり方ではなく、
証券間のわずかな値ザヤの変化を素早くとらえて
激しく売った・買ったとやる
短期売買を旨としたのだった。
D・リカードは「株の名人」とか
「自分が埋もれてしまうほどの富を得た遅咲きの天才」
などと呼ばれるが、彼の投資は
「黄金律」と呼ばれる1つの鉄則に基づいて行われていた。
D・リカードの黄金律は明治の中ころには
日本でもかなり有名になっていた。
当時の百科事典にまでD・リカードの黄金律が紹介されている。
明治のキーワードは「立身出世」であり、
「富国強兵」「殖産興業」であったが、
その背後には常に「金」が威光を放っていた。
「成功せる投機者を読者諸君に紹介せん。
有名な経済学者ダビッド・リカード氏これなり。
氏はロンドン株式取引所に聘馳(招待)して、
巨額の財を重ねたる人なるが、
その常に懐抱せる意見は
『世人の事変を見ること、
大いにその実に過ぐ』の言なりき」
D・リカードが口癖のように言っていた言葉を平たくいえば、
「世間や市場はニュースに対して
実体以上に過剰反応する」というものだ。
この黄金律にそって具体的な戦術をこう述べている。
第1章 汝の心裏にて裁択したることをちゅうちょなく決行すべし
第2章 汝の損失を短縮すべし
第3章 汝の利益を延長せしめよ
「この法章により、相場が少しく上進すべき原因を見出す時は、
必ず買いに決せり。世人が狼狽して
案外に騰貴せしむることを知ればなり。
これに反し相場が一歩下落すれば、
直ちに売りに決せり。人心恐慌して
意外の下落あることを認めたればなり」
「こう」と決めたら則実行すること。
そして損失はできるだけ小さく、
利益はできるだけ大きくするように
心掛けなければならない。
これらはすべて当たり前のことだが、
市場という神聖なる場所に立ち向かうと
なかなか実行ができないものである。
素人投資家は損失を大きくし、
利益を小さく傾向がある。
損が膨らむのは建玉がマイナス勘定になったとき、
なかなか処分ができず、
懐に抱え込んで損を太らせてしまうからだ。
逆に利益を小さくするのは、うれしさの余り、
早く利食い(利益確定の売り)したくなって、
まだまだ伸びしろがあるというのに
辛抱できず手じまいしてしまうからである。。
D・リカード( 1772-1823 )の横顔
ロンドンの巨商で株式仲買人のアブラハム・リカードの息子に生まれ、
1815年、ワーテルローの戦いで
英国政府の公債を大量に引き受け、
ナポレオンの敗走で公債相場が暴騰し、
伝説的勝利を収める。後年は
経済学の研究に励み、『経済学および課税の原理』を著す。
この本はアダム・スミスの『国富論』と並ぶ
英国古典派経済学の名著とされる。
https://thepage.jp/detail/20160302-00000003-wordleaf
ワーテルロー、英勝利賭け公債で成功
遺産は70万ポンド D・リカード(下)
2016.03.19 09:00
デヴィッド・リカード
経済学者では稀有な投資の成功者、
デヴィッド・リカード。
株の仲買人だった父とともに14歳で証券取引所に出入りし、
まずは株取引で成功を収めます。
その後、投資対象を公債、土地取引にも拡げていきます。
投資で富を築いたリカードの人生を
市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
いつの時代でも戦争は市場を揺るがす最大の刺激材料である。
「ナポレオン戦争の情報は
それが真相を告げるものであろうと、
誤報であろうが、市場価格を著しく上下させた」
(堀経夫著『リカァドウ』)
D・リカードは投資対象を株から公債へと拡大していく。
イギリス政府はナポレオンと死闘を繰り広げる一方、
戦費調達のため次々と公債を発行しなければならなかった。
リカードはその公債の引き受け人を買って出て、
結果としてさらに富を増幅させていった。
公債は国力、国運の象徴でもある。
リカードはイギリスの国運に賭け、
それが図星となった。
リカードが伝説的大勝利をつかむのは1815年6月のことだ。
https://thepage.jp/detail/20160316-00000003-wordleafk