新・きものの基

絹や木綿、麻など素材から染織の歴史、技法、デザイン、そしてきものと暮らしの多様な関係までを紹介します!

きものの華・友禅染⑨

2009-12-14 16:55:25 | 友禅染

きものの華・友禅染⑨ 小袖雛形本(6)

光琳は、多くの借金に苦しむ中、なぜか雁金屋の家業であった衣装に携わることにどこか消極的だった様子が伺えます。それは実家が呉服商であっただけに、小袖の制作が完全分業で、染色に関して携われないことに光琳が目指す「作品作り」と相容れないものがあったためと思われます。そのため「描絵友禅」は手がけても、一般向けの小袖衣装は手がけなかったものと想像されています。しかし借金に追われ、ついに光琳も意を決して呉服商や出版業者に積極的に働きかけ、小袖意匠や小袖雛形を手がけたようです。また「東山衣装比べ」などで知名度抜群の光琳を友禅斎の次のスター、流行を作り出してゆこうと意図していた呉服商と出版業者の思惑がぴったりと合い、光琳の小袖雛形本が出版されたというのがいまでは通説です。そのため雛形本の光琳模様といわれる小袖意匠は、光琳の関わりは少なく、光琳自身の手によるものは少なく、染色関係者が主体になって作られます。そのため光琳なら作らないような全く新しい小袖模様が呉服商や出版関係者によって、次々とプロデュースされてゆきます。光琳の小袖雛形本は、元禄13年(1700年)に「当流七宝常盤ひいなかた」が刊行され、以後40年の間に約30冊の光琳文様の雛形本が刊行されますが、光琳死後により多く出版されているのも、生前は光琳に対する遠慮があったと思われます。。モチーフの細部を省略した大胆なデザインは、着る人にも作り出す染色関係者、呉服商にも江戸時代で最も人気があり、さらに多くの染織関係者や画家に光琳模様は受け継がれ、現在に至るまで呉服業界のみならず、日本の美術界、文化に大きな影響を与え続けています。


きものの華・友禅染⑧

2009-12-13 20:58:43 | 友禅染

きものの華・友禅染⑧ 小袖雛形本(5)

その輝くばかりの才能は、多くの人々から賞賛され、京の人気絵師として元禄14年(1701年)法橋という高い地位にまで上り詰めた尾形光琳。しかし、西鶴描く「好色一代男」の世之介よろしく、親から譲り受けた莫大な財産を無頼な暮らしで、やがて使い尽くし、借金に追われるように京から、江戸詰となった銀座役人・中村内蔵助を頼りに江戸に下りました。この時期に制作したのが、有名な豪商・冬木家の妻女のために誂えた冬木小袖といわれる「白綾地秋草模様小袖(東京国立博物館蔵)」です。光琳が宝永年間(1701~1710年)に、実際に筆を執って手描きしたといわれる唯一の確実な作品です、しかしこの小袖は当時流行していた友禅模様の小袖とは構図や色彩、模様様式など大きくかけ離れたもので、雛形本に多く登場する光琳模様とはかけ離れた、墨濃淡と色と金を使って「きれいさび」と表現される優美な小袖です。有名な国宝「紅白梅図屏風(MOA美術館蔵)」も、この時期に津軽家のために光琳が描いたものです。

光琳の逸話で有名なのが「東山の衣装比べ」。行われた時期は、おそらく正徳三年(1713年)と推定されますが、中村内蔵助の妻女の衣装を制作、演出したのが光琳です。その模様は『翁草』に以下のように記されています。

皆皆あはやと彼内室の出立を詠れば、襲う帯付共に黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩(つらつら)見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。 (「翁草」巻十享保以来見聞雑記 内蔵介の世盛り から)

他の豪商の妻女が豪華絢爛な衣裳を着る中、内蔵助の妻は最上級の羽二重の黒の打ち掛けに白無垢という出で立ち。かわりに侍女たちには豪商の妻女にも劣らない豪華絢爛な衣装で、いっそう内蔵助の妻女を引き立てる演出をしたと「翁草」には書かれています。演出家としての光琳の面目躍如で、「東山の衣装競べ」は当時の大ニュースとしてあっという間に世間に広がり、現代の女性が有名ブランドを欲しがるように光琳描く小袖を着たい、という町方の女性はかなり多かったものと思われます。また実際呉服商にはそのような注文が殺到したものと思われます。

写真は通称「冬木小袖」。「白綾地秋草模様小袖(東京国立博物館蔵)」


きものの華・友禅染⑦

2009-12-08 17:41:50 | 友禅染

きものの華・友禅染⑦ 小袖雛形本(4)

「古風の賤しからぬをふくみて 今様の香車(華奢)なる物数奇にかなひ 上は日のめもしらぬ奥方、下は泥踏む女童まで此風流になれり」と当時の最先端の流行ファッションである小袖模様の雛形本「友禅ひいなかた」の序文で絶賛され、一世を風靡した友禅斎の友禅染模様ですが、それからわずか5年後の元禄5年(1692年)刊の「女重宝記」には「都の町風も自制にうつり かはりて時々のはやりそめも五年か八年の間に皆すたり 中此の吉良の小色染 ゆうぜんそめの丸づくし 上京八文字屋そめの山みちす崎 下京そめのうちだしかのこ いま見ればはや古めかしく初心なれ」と友禅斎の丸文様が飽きられてきた様子がうかがえます。扇の模様付けを土台として、丸文様やだ亀甲、団扇の型の中に草花や木々などを取りそろえる「尽くし」で構成しましたが、友禅斎もいずれは飽きられると読んで、2弾目のヒットを狙い、次を用意していました。それが「描絵友禅」といわれるもので、小袖に染料や顔料を直接筆で描くもので、染織の技法がなくても、小袖をキャンパスとしてより絵画的な意匠を表現したものを、ちょうど前述の「女重宝記」が出版された元禄5年(1692年)に「余情ひなかた」で丸文様の先を見越した「描絵友禅」の数々を発表しています。また享保から元禄にはかけ、「白上がり」という染織加工が工夫され、小袖に新たな表現を可能にし、もう1人のスーパースター・尾形光琳が登場してきます。


きものの華・友禅染⑥

2009-12-07 17:24:03 | 友禅染

きものの華・友禅染⑥ 小袖雛形本(3)

 雛形本が出版される前、雛形として有名なものに、いまでいう宮内庁御用達の高級呉服商・雁金屋の注文帳がありますが、コレは全て肉筆。しかも当時の超一流の顧客のための一品もので、淀君、高台院、家康、京極高次とその夫人、さらに秀忠とその夫人・お江与の方。淀君、京極高次夫人、秀忠夫人・お江与の方は、織田信長の妹・お市の方の娘、3姉妹。さらにすごいのが秀忠の娘で後水尾天皇の中宮、明正天皇の母となった徳川和子(まさこ)、のちの東福門院和子の嫁入りから、亡くなるまで多くの衣装を手がけ、その衣装代総額は50億円にも達するともいわれます。

後水尾天皇は文芸芸術の振興に尽くしたことで知られている天皇ですが、妻・東福門院和子も夫と共にかなりの芸術センスの持ち主で、茶道も一流であったといわれる当代一の文化人でした。特に雁金屋の大スポンサーとして衣装のデザインや意匠、加工方法などにも東福門院和子のアイデアや意向、指示が衣装に反映されており、雁金屋は東福門院和子の注文を実現するために意匠や染織技術の工夫を重ね、結果きもの文化の発展に大きく貢献しました。東福門院和子のデザインは「寛文小袖」といわれる模様形式を生みだし、1つの時代を確立しました。何しろその注文の数が中途半端ではなく、宮中に輿入れした3年後の元和9年(1623年)には小袖45点、染物14反、あわせて銀7貫866匆(もんめ)、現在の価格で800万円くらいの衣装代を雁金屋に支払っています。小袖を多く発注し、宮廷ファッションの十二単を一掃し、小袖に替えてしまったのは東福門院和子といわれるほど、その影響力は大きいものでした。亡くなった延宝6年(1678年)、すでに72歳の老女でしたが、なんと半年間に346点を注文し、いまの金額で1億6000万円相当というから、衣装への入れ込みようは並々ならぬものがあり、1部では「衣装狂い」とも噂されました。しかしこれは自分が着用するためだけではなく、贈り物など政治的な意図を持ったものもかなりあったと思われ、「衣装狂い」といわれるのは可哀想な気がします。いずれにしても東福門院和子がいたからこそ寛文小袖が生まれたといえます。その雁金屋に光琳、乾山兄弟は生まれ、光琳は東福門院和子の衣装もかなり手がけたものと思われます。しかし、大スポンサー・東福門院が亡くなったことにより、大名貸しなどにも手を広げ、回収倒れから家業は急速に衰退してゆきます。


きものの華・友禅染⑤

2009-12-06 07:38:06 | 友禅染

きものの華・友禅染⑤  小袖雛形本(2)

現存する最古の「小袖雛形本」は、寛文6年(1666年)に発行された「新撰御ひいなかた」といわれています。また一説には万治3年(1660年)に発刊された家庭百科事典的な本に小袖雛形があることから「女諸礼集」が最古の「小袖雛形本」ともいわれます。しかし「新撰御ひいなかた」は、背面から見た小袖の中に模様を描き、その外側に小袖の地色や加工方法、模様の解説などを書き、その後の雛形本のページレイアウトを確立した意味でも、「小袖雛形本」は「新撰御ひいなかた」に始まったといえましょう。「新撰御ひいなかた」には200種類もの小袖の図案が掲載されています。序文には当時の人気仮名草子作家・浅井了意を起用し、幅広い読者層を狙い、ベストセラーを作り出そうという版元のチカラの入れようが想像できます。

さて宮崎友禅斎に先立ち、江戸時代初期のファッション界に2人のスーパースターが登場しています。1人は浮世絵の開祖といわれる浮世絵師・菱川師宣です。師宣の父は京都で修行し、安房国平郡保田本郷、いまの千葉県鋸美波町(生誕の地を記念して菱川師宣記念館があります)で金箔刺繍の縫箔(ぬいはく)師をやっていました。師宣も子供の頃から家業の手伝いをしていたので、布地や染織加工の知識やデザインなどきもののプロでしたから、背面から見た小袖姿の中に模様を描く機能的な雛形本には飽き足りませんでした。また挿絵や絵本を得意とした絵師として活躍していた師宣ですから、生き生きとした女性を描きたいと考え、帯や小物などをトータルコーディネイトした着姿を暮らしのシーンの中に描きました。いまのファッション誌の編集者と同じ発想で、いままでにない雛形本をクリエイトしました。右頁に暮らしのシーンの中にいる着姿の女性、左頁に雛形を配した画期的なデザインの雛形本「小袖の姿見」(天和2年、1682年)は見本帳からグラフィックなファッション誌へと変貌し、大評判となり、師宣は小袖のデザイナーとしても一躍有名になりました。続けて「当世早流雛形 (とうせいはやりひながた)」 (1684年)を発刊しましたが、以後師宣は浮世絵師として活躍することになり、雛形本を発刊していません。

*掲載図版は「正徳ひな形」です。

 


きものの華・友禅染④

2009-12-05 08:57:03 | 友禅染

きものの華・友禅染④ 小袖雛形本(1)

 友禅が瞬く間に一世を風靡した背景には、友禅の革新的なデザイン、華やかな絵画的な染色技法の開発にありますが、もう1つ大きな役割を果たしたのがメディアの発達、「小袖雛形本」の刊行があります。「雛形」は現物を縮小した見本で、江戸時代には染織に限らず、「大工雛形」や「棚雛形」など建築関連や菓子意匠、陶器意匠など様々な雛形本が出版されましたが、中でも「小袖模様の雛形集」は人気を呼び、種類も多く、刊行部数も多く、現代のファッション誌のように多くの町人の女性たちに読まれました。

ここでいう町人とは落語にでてくる八さん、熊さんではなく「自前の家屋敷を持つ者」をいい、町政や公事に関与し、町年寄りを選ぶについては選挙権や被選挙権を持つという市民権の所有者だった、旦那衆のことです。明暦、万治、寛文、延宝、天和、貞亨、元禄(1655-1704年)と時代が落ち着くに従って町人が経済力をつけ、京都、大阪、江戸ではそれまで仏典や医学書、史書などが中心で、特権階級のものだった書籍を営利目的で出版事業が始められ、京都では俳書、重宝記などの実用書、大阪、江戸では仮名草子や浮世草子、好色本や滑稽本が多く出版されるようになっていました。この時代のベストセラー、井原西鶴の「好色一代男」は、天和2年(1682年)に大阪版、江戸版が発刊されました。またそれまでは活字版でしたが、この時代は絵や文字を反対に木に彫り込む版木による印刷が主流になり、浮世絵の隆盛もこの版木なくしては語れません。

*掲載図版は「正徳ひな形」です。

 


きものの華・友禅染③

2009-12-04 13:57:03 | 友禅染

きものの華・友禅染③ 宮崎友禅斎(2)

  「白繻子の袷に秋の野を狩野雪信に描かせ、この絵に因んだ古歌を公卿衆八人に寄書きしてもらって」と西鶴の好色一代男にあるように、画家に直接きものに柄を描くことは贅沢とはいえ、すでに当時広まっていたようです。そして天和3年(1683年)の奢侈禁止令によって金銀箔で刺繍を施した「金紗」「刺繍」「総鹿の子」の三品が禁じられましたが、美しいきものが欲しいという女性たちや作り手、売り手の思いがあって、さまざまな試行錯誤の末に「友禅染」が誕生しました。井原西鶴は「扇面絵師の友禅に、ある呉服屋が小袖模様の図案を依頼したことから、友禅は着物の図案に手を染めるようになった」と書いていますが、いままでは宮崎友禅斎が「友禅染の技法を開発した創始者」と伝えられていましたが、扇絵師という職業柄、顔料に親しんでいた友禅斎が染め方もアドバイスした可能性はありますが、最近の研究では宮崎友禅斎は革新的な意匠デザイナー、という説が一般的です。

*最新説は武蔵大学教授・丸山伸彦氏の著作「江戸モードの誕生」(角川選書)に詳しいので一読をお勧めします。

扇面絵師として花鳥画や源氏物語の名場面を鮮やかに書いた扇絵が通人に受け、名声を博した友禅斎に注目して図案を依頼し、友禅斎は扇絵の手法を応用した小袖模様をデザインしたようです。最初に描いた小袖模様は、竹や梅、四季の草花を丸の中に描いた丸模様で、丸模様は古典で友禅斎の創作ではありませんが、衣装に大胆に取り入れたデザインは、革新的で、古典の雅さと伸びやかで華やかな絵画的なデザインは大評判となり、アッという間に一世を風靡しました。

 


きものの華・友禅染②

2009-12-03 08:14:56 | 友禅染

きものの華・友禅染② 宮崎友禅斎(1)

 「友禅染」の考案者といわれる宮崎友禅斎については、その生没年は明らかでなく、その著と思われる「和歌物あらかひ」「余情ひいながた」の末尾に「洛陽産扶桑扇工友禅」とあり、知恩院前に工房を構えていた扇面絵師であったことがわかっています。また後年加賀前田藩に招かれ、加賀友禅の名を残し、金沢で没したといわれています。

井原西鶴の「好色一代男」には「贅沢も世につれて次第に募り、人の知るお大尽は…(七巻・末社らく遊び)」と衣装や脇差し、印籠、鼻紙、足袋など当時の最先端のファッションの品々を鼻紙の小物に至るまで列挙する中に「扇も十二本骨で祐善が浮世絵」とあり、当時人気の扇面絵師であり、友禅斎の扇を持つことが最先端のお洒落だったことがわかります。

また『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)には、「世に伝ふるところに拠れば、京染と称する美麗なる模様を染出すことを工夫せしは、友禅なり、故にまた友禅染とも称す。遊仙染と書くは誤なり。又友禅、鴨東に住みしをもて、加茂川染とも呼べり、女用鑑に曰く、爰に友禅と云ふ浮世絵法師あり、一流を扇に書(カキ)出(イダ)せしかば、貴賤の男女喜悦の眉うるはしく、丹花(タンカ)の唇をほころばせり、是によりて衣服のひな形を作りて、呉服師に与へしと。友禅は法師なれば、扇亦畳紙などには書きもすべし、衣服の上絵まで物せしとはいかにぞや。衣服の上絵は友禅自ら画きしにはあらずして、何ものか友禅の画の設色(セッショク)美麗にして、意匠の巧妙なるよりそをまねて、衣服の上絵に画き、友禅模様と名付しはあらざる歟。扨(*サテ)又女用鑑に、花の丸(マル)尽(ヅクシ)しの模様を友禅染といふとあり、松葉集古今(ココン)ぶしに、いなり参りの振袖ゆかし、ゆふぜんもやうでそんれはへ云々とあり、又西鶴(セイカク)の『胸算用』の中に、今は世間に皆紋どころを葉つきの牡丹と、四つ銀杏の丸、女中がたのはやりもの云々、これ等にて、其当時、友禅染の流行せし様を概想(ガイソウ)すべし。演劇にて揚巻助六の衣裳の紋も、葉つきの牡丹と四つ銀杏の丸なり、今かゞ紋と云ふはこの名残ならん。偖(*サテ)友禅斎は其生死の年月も亦詳ならず。兎(ト)に角(カク)一種の画風を案出して、浮世絵伝記中一種の花を添へたり。宝永三年発行せし梶女の『可知能葉(ひいながた本・祇園梶の菜集)』の挿画は友禅斎の筆なりと云ふ」とあります。

*写真/昭和29年、知恩院・友禅苑に友禅斎生誕三〇〇年を記念して建てられた銅像

 

 


きものの華・友禅染①

2009-12-02 18:37:01 | 友禅染

きものの華、友禅染①

美服禁令から生まれた友禅染

 江戸時代には度々贅沢禁止令が出されていますが、生類憐れみの令で有名な五代将軍・綱吉の時代、天和三年(1683年)正月に発せられた奢侈禁止令では、小袖に金糸、刺繍、総鹿子を用い、贅を尽くすことを幕府が禁止したため、きものの文様、表現技法は大きく変わらざるを得なくなりました。

その禁令をきっかけに登場した染色界のスーパースターが、井原西鶴の「好色一代男」などに登場する当時最も有名な扇絵師で、「友禅染」にその名を今に残す、宮崎友禅斎です。

*写真/昭和29年、知恩院・友禅苑に友禅斎生誕三〇〇年を記念して建てられた銅像