新・きものの基

絹や木綿、麻など素材から染織の歴史、技法、デザイン、そしてきものと暮らしの多様な関係までを紹介します!

「きもの」という言葉②

2007-01-31 20:58:06 | きものの歴史

■「きもの」のルーツは小袖。

鎌倉時代に武家が社会の上層に位置するようになるとともに、いままで上流階級において下着だった白小袖が、武家、庶民の衣生活の中心的存在となり、急速に発展し、色物や柄物の小袖が盛んに用いられるようになりました。しかし素材は、まだ当時木綿が日本では栽培されていませんでしたので、相変わらず麻、藤、科(しな)などの草木の皮が用いられ、ごく限られた身分の高い人たちだけが絹を着ていました。そして戦国、桃山時代には小袖が広く普及し、「きもの」といえば、この小袖を指すようになりました。以来この小袖が時代により様々な変化を重ねてゆきましたが、今日私たちが着ている「きもの」のルーツとなってきました。

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「きもの」という言葉①

2007-01-31 08:25:09 | きものの歴史

■まだ「きもの」ではなかった、その昔のきもの。

私たちは暮らしの中で、きものを「きもの」「和服」「呉服」と微妙にその言葉のニュアンスを使い分けています。「きもの」を辞書で引くと、【①身に「着る物」、「纏い着る物」の総称で、古くは着衣できる衣服の類を漠然と着る物、もしくは「着物」といった。衣服、服装。②和服の総称、特に長着。】とありますが、いつ頃から「きもの」というようになったのでしょうか。万葉集(806年)には

しらぬひの筑紫の綿は身に著(つ)けて、まだ着ねど暖けく見ゆ

意/九州の綿で作った衣は、まだ着たことがないのだけれど、温かそうですね

* 綿は、いまの綿ではなく、くず繭などを煮て引き伸ばして作った真綿のこと。

と歌われており、すでに「着る」ものという言葉が現れていますが、正確にはどのように呼んでいたかは未だ分かりませんが、当時は「きぬ」、あるいは「ころも」と呼んでいたようです。また紫式部や清少納言も読んだ宇津保物語(980年頃)には、「いは木の皮をきものとして」とあり、すでにこの頃には「きもの」というようになっていたようです。しかし、宇津保物語の作者がきものと指していたものは、公家が下着として着ていた身丈が短い筒袖、或は袖なしの着物に細い紐で腰を締め、女性は腰に腰布という布を巻いていたものをいったようです。しかも庶民の着たものは麻や藤、楮(こうぞ)、科(しな)など植物のつるや木の皮で作ったもので、もちろん色や柄なども染められていないものでした。

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はじめに

2007-01-31 00:00:39 | きものの歴史

人が生きてゆくのに大切な3つの要素を「衣食住」といいます。食べることの方が「衣住」より優先するのではないかと思いますが、私たちの先達は、人が生きてゆく最も大切なものの筆頭に「衣」を置いてきました。なぜなのか。「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」といいます。今回木綿の話を始めるにあたって、時代や社会により、地域の暮らしの営みの中で私たちの先達たちが創意工夫してきた「衣」の歴史を学び、「衣」に思いを込めてきた日本人の心情、情熱を知ることにより、きものがもっと身近なものとなり、きものの奥深い知恵や創意工夫に気付くことにより、きものを装うことの楽しみ、面白さを新発見、再発見できるものと思い、「衣」の歴史を遡ることから始めたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 *参考文献は、区切りでまとめて掲載いたします。

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