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新・きものの基

絹や木綿、麻など素材から染織の歴史、技法、デザイン、そしてきものと暮らしの多様な関係までを紹介します!

草木布②科布1

2007-02-25 09:26:25 | きものの歴史

■科布(1)

「しなふ」は、古くは志奈布、志那布、さらに科布、榀布、信濃布などの漢字が当てられていますが、「皮がシナシナする」こと、またその皮が白いのでシロから来たといわれていますが、語源はアイヌ語の「結ぶ、縛る、くくる」という言葉から由来し、現代アイヌ語ではニベシニといい、内皮の取れる木という意味があるそうです。九州から北海道まで自生し、特に新潟、山形、福島などの東北の山間部、信濃地方に多い。信濃布という字も当てられるように信濃の地名は、シナノキが多いことに由来するという説もあります。シナノキは日本固有の木で、花や果実は薬用になり、また花からは「しな蜜」と呼ばれる濃厚で甘い良質な蜂蜜が採れます。木材は、柔らかく加工しやすいのでベニヤ板やマッチの軸、経木、エンピツ、下駄、割り箸などに用いられ、日本人には重要な暮らしを支える木でした。

科布は、シナノキの木が水をたっぷりと吸い込んでいる梅雨晴れの頃が剥がしやすいので、山に入り、直径20センチくらいのシナノキを選び、切り倒し、樹皮に縦に裂れ目を入れ、木の枝を削ったものを差し入れ、一気に梢まで剥ぎ、その場で堅い樹皮と内皮に取分けたものを持ち帰り、陰干しします。この内皮が科布の原料となります。更に1日水に浸け、灰汁(あく)を内皮にまぶし、一昼夜灰汁煮をし、柔らかく煮た科布を熱いうちに揉み解し、清流に浸けて灰汁や内皮の汚れを丁寧に洗い流します。次に煮込んで黒ずんだ内皮を米糠に浸けて2~3日醗酵させて漂白し、また清流で洗い流し、陰干しします。この作業を梅雨明けから夏の間におこない、冬まで湿気の少ない囲炉裏の上や屋根裏部屋などに掛け、十分に乾燥させます。

ここまでの手順をまとめると【シナノキの伐採】→【皮はぎ】→【陰干し】→【水浸け】→【灰汁煮】→【シナもみ】→【水洗い】→【シナ浸け】→【水洗い】→【陰干し】となり、この作業に1週間から10日を要します

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草木布①

2007-02-24 12:19:23 | きものの歴史

■志を持って

いまはほとんどの呉服屋さんが問屋さんから仕入れて品揃えをしていますが、中には自店のオリジナルを誂えで作っているお店もあります。誂えて作るには、当然染織の技法から生地、頼むに足りる職人や作家の個性や腕を見極める目、デザイン力、イメージ力、更に折衝力が要求され、生半可な知識や人任せではデキません。そして何より“いい物を創りたい”という志がないと。

高知市のH呉服店の店主は、数少ない志のある呉服店で、ここ数年「科布」「葛布」「芭蕉布」に取り組んでいて、ようやく5月に発表できる見通しがついたそうで、いまから発表会がとっても楽しみです。このH氏、画家志望で、20代の頃著名な画家のアシストを頼まれてフランスにも数年滞在して活躍した本格派。紆余曲折があり、いまは高知市で呉服店を営んでいますが、オリジナル作りが大好き。特に世に埋もれそうな、もう5年もしたら廃れてしまうというような素晴らしい手わざに、現代のセンスを吹き込んだ商品を作らせ、失敗作も買い取り、世に紹介し、売ることで作り手を応援してきている。「科布」もそのひとつ。

縁というのは面白いもので、画家を志していた頃の仲間の1人が、山県の老舗呉服屋の息子。その呉服屋の息子・石田誠さんは、修行中に科布と出会い、織の美しさ、生成りの優しい色合いに魅せられ、しかもその科布が自分の故郷で作られていることを知り、2度ビックリ。石田さんはその後、ついに自分で試行錯誤しながら科布を織り始め、「しな織創芸・石田http://www.shinafu.com/」を創業し、古い蔵を改装してギャラリーも作った。若き頃画家としての夢を語った2人が出会い、科布を現代にどのように活かしてゆこうか、その可能性を求めて作品作りに取り組んだのはもう当たり前。その2人の作品がようやくできた。不思議な縁ですね。 人との出会いってつくづく面白いものだと思いました。

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木綿以前の事③草木布

2007-02-16 21:27:20 | きものの歴史

■自然にある草や木の皮、蔓などを衣服に

木綿が本当に庶民の生活に普及し、容易に手に入るようになったのは、機械生産による糸や布が出回るようになった明治も後半です。では、木綿が普及する前の私たちの祖先は、何を着ていたのかといえば、草や蔓、木の皮を剥いで繊維を取り出し、それを糸にして編んだり、織って布にしたものを着ていました。おそらく最初は、野山に生い茂る様々な草や木を採取して試し試し、身にまとうのに適したものだけを衣服としてきたのでしょう。さらには衣服に適したものは栽培したりして衣服としてきましたが、自然に草や木、蔓などを素材とした衣服を総称して、草木布(そうもくふ・原始布、自然布とも)といいます。この草木布はけっして遠い過去のものではなく、大正、昭和初期、モノによっては昭和20年代まで、農漁村やまたぎ(猟師)などの人々の労働着や穀物や農産物を入れる袋類など生活用具としても使われ、身近なものでした。

草木布の素材としては、藤(藤布)、科(科布・しなふ)、葛(葛布・くずふ)、おひょう(アットゥシ織)、楮(こうぞ、紙布・しふ、太布・たふ)、ぜんまい(ぜんまい織)、いらくさ(いらくさ織)、糸芭蕉(芭蕉布)などがあります。そして最も繊維が長く美しく、衣服として最も多く、親しまれて使用されたのが、三大麻といわれる大麻(大麻布・たいまふ)、(苧麻布・ちょまふ)、亜麻布があります。

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真綿(まわた)②

2007-02-13 22:52:11 | 絹・真綿

■漢語の「もくめん」が「もめん」に

木綿が日本に伝来したのは799年。崑崙人が三河の地に漂流し、木綿の種を伝えたと記されていますが、上手く栽培できなかったようで、ようやく室町時代に木綿が栽培できるようになり、本格的には江戸中期以降といわれます。一方絹は、卑弥呼の時代にはすでに養蚕されていたようで、万葉集などに「真綿」と書かれているのは、繭を綿状にしたもののことで木綿の綿ではありません。なにしろ、当時日本には木綿が存在していなかったのですから(織物として木綿は輸入されていたようです)。しかし「魏書・東夷伝・倭人伝」には「以木緜招頭」とあり、「樹皮の繊維で作った糸で織った布を頭に巻き」とあり、「木緜」を「もくめん」「ゆふ」と呼んでいました。また万葉集には「木綿」を「ゆふ」と読ませた歌が多くあります。この「木緜、木綿・ゆふ」は、楮の樹皮をはぎ、繊維を糸として布に織ったもののことで、“ゆふ”は“結ぶ”からきたのではないかと推測されています。「伊呂波字類抄」(1190年代、鎌倉時代初期に完成した語彙事典)には、ユの項に「木綿 ユフ」と、またモの項には「木綿 モメン」と「木綿」と表記しながら両方が記載されていますが、約400年後の「節用集」(慶長2年・1597年)には、モの項には「木綿 モメン」はありますが、ユの項に「木綿 ユフ」はなくなっています。「木綿」と書き、それぞれ違うものを指した言葉が、400年の間に「木綿」、コットンの意味だけに統一されるようになってきた背景には、日本人の衣服の素材が麻や植物布(原始布)から木綿に移り変わっていった暮らしの変化があったようです。

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真綿(まわた)①

2007-02-13 21:58:05 | 絹・真綿

■絹糸を作る2つの方法

繭から絹糸を作るには大きく2つの方法があります。まだ生きている蛹がいる繭を糸を引き出しやすくするために先ず繭を煮立てます。1つの方法は、蚕が糸を吐き、繭を作っていった糸口を竹の刷毛などで探し、数本ずつまとめながら糸にしてゆく方法です。繭1個から1,300から1,800メートルもの長さの絹糸が取れるというから驚きです。

また牛首紬は竹の刷毛を使わずに「のべ引き」といって直接熱いお湯の中に手を入れて熟練した女性たちが繭から糸取りをします。一般的には機械で糸を取りますが、昔ながらの手作業だと機械のように均一に力がかからず、手加減しながら糸を引くので十分に空気を含んだ風合いのある糸を引くことができます。

もう1つの方法は、煮立てた繭から直接糸を引き出さずに、柔らかくなった繭を温湯に浸しながら、5から6個の繭を指先で一定の大きさの袋状に押し広げて1枚の綿状にします。煮立て、押し広げられた繭は脂分が取れ、陰干しすると艶やかな光沢のある空気をタップリ含んだ綿状になり、これを「真綿」といいます。一度日本真綿協会のホームページ「真綿の作り方」をご覧になるとよく分かると思います。結城紬はこの袋真綿を親指と人差し指で「糸つむぎ」という工程を経て糸にしていきます。

「真綿」とは絹糸のことではなく、繭を綿状にしたもの、「絹の綿」のことをいいます。結城紬は、この袋状の真綿を丁寧に親指と人差し指で糸に紡いでゆく「糸つむぎ」という工程を経て、糸にしてゆきます。繭の煮立て方や糸の取り方など各産地によって簿妙に違い、それがまた絹の風合いに現れ、特色のあるきものを生み出しています

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木綿以前の事②

2007-02-12 22:43:12 | きものの歴史

■4年間、着たきりスズメ

 1990年(平成2年)に発刊された「新・木綿以前のこと」では、戦国時代末期、石田三成に仕えた300石の侍の娘、おあむが当時の衣生活について語っている野を請う紹介している。「さて衣類もなく、おれが13のとき、手作りのはなぞめの帷子1つあるよりほかには、なかりし。そのひとつの帷子を17の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。ほしやと、おもうた。」と13歳から17歳までの4年間、着たきり雀だったことを語っている。とてもNHK大河ドラマのようにはゆかなかった。武士の娘でも帷子、麻の単衣で1年中どころか4年間も過ごす有様だったのだから、百姓、庶民の衣生活は押して知るべしです。そして「今時の若衆は、衣類のものずき、こころをつくし、金をついやし…沙汰の限りなこと」と今の若い衆は好みにまかせて沢山の衣類を買っていると苦言を呈しています。わずか30~40年の間に木綿が容易に手に入るようになり、急速に衣生活が変ってきたことを「おあむ物語」から知ることが出来ます。

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木綿以前の事①

2007-02-11 22:10:53 | きものの歴史

■木綿の幸福

大正13年(1924年)、柳田国男は有名な著作「木綿以前の事」中で麻を捨て木綿に乗り換えた人々の暮らしの変化を「木綿の幸福」と表現している。「色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しく変ったことと思はれる。木綿の衣服が作り出す女達の輪郭は、絹とも麻ともまた違った特徴があった。その上に袷の重ね着が追々となくなって、中綿がたっぷり入れられるようになれば、また別様の肩腰の丸味が出来てくる。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前より明らかに外に現れた」と、大昔から麻しか着ることが出来な庶民が、麻を夏以外は捨てて木綿を着るようになり、それまで生成りの、麻の色そのまましか着ることが出来ず、縁がないと思っていた藍、紅など多彩な色柄のきものを着ることができるようになった。そうした結果「心の動きはすぐ形にあらはれて、歌っても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまりは木綿の採用によって生活の味わいが知らず知らずの間に濃やかになって来た」と、しぐさだけでなく、身体の快適さは着る人の感性までもを大きく変化させてきたことを伝えている。

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「和服」という言葉②

2007-02-04 11:21:06 | きものの歴史

■公序良俗に反する軽薄なスタイル

女性の服装の洋風化は、政府高官婦人など上流階級に限られ、一般的には江戸時代のきものの暮らしでした。それでも男性には遅れながらも徐々に洋装が浸透し、和洋折衷の服装が流行しはじめました。いまでは卒業式の定番ともいえる袴スタイルは、この時代に生まれました。もともと男性のスタイルだった袴に編上げ靴に行灯袴(あんどんばかま・スカートのように筒状になっている袴。女袴とも。またズボンのように2つに分かれている袴を馬乗袴といいます)というスタイルは、「公序良俗に反する軽薄極まりない服装」とまでいわれましたが、その活動的なスタイルはハイカラな時代気分を表すファッションとして新鮮で、徐々に広まってゆき、明治31年、下田歌子(皇后陛下から歌子の名を賜るほど、詩歌の文才を認められた明治期の歌人。また女子教育の先駆者として、実践女子学園などを創立)が実践女学園(現・実践女子大)を創立し、袴姿を制服に採用してから、他の女学校でも制服、式服扱いするようになり、一般化しました。このように服装が和洋折衷から洋風化、徐々に洋服を着る人が増えてくるに従い、江戸時代まで衣服すべてを「きもの」と呼んできましたが、「洋服」(西洋風の衣服を西洋服と呼んだのを略した)といままでのきものを区別する必要に迫られ、洋服に対してきものを「和服」と呼ぶようになりました。

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「和服」という言葉①

2007-02-03 20:55:32 | きものの歴史

■装いも「文明開化の音がする」時代。

明治維新とともに「文明開化」の言葉に象徴されるように洋風文明を積極的に導入し、欧米列強に追いつけ、追い越せと近代文明国家への道を歩みはじめました。服装の面でも洋風化が図られ、特に公務に携わる男性は燕尾服を持って礼装とすることが定められました。しかし明治6年太政官布告により、宮中儀礼には伝統的な装束を用いるように改められ、さらに明治10年には、通常礼装にはフロックコートを持って燕尾服の代用とし、下級役人は黒紋付羽織袴をもって代用としました。その後現代まで黒紋付羽織袴が男性の第一礼装となりました。服装の洋風化は国家の政策として性急すぎる面があり、洋服を着る人も私生活ではきものを着ていましたが、庶民の生活にも徐々に洋装が浸透し、羽織袴に山高帽や中折帽、鳥打帽をかぶるとか、草履に変えて靴を履く、さらに洋風のケープ(インバネス)やステッキを持つなど、和洋折衷の服装が流行しはじめました。

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「呉服」という言葉③

2007-02-03 01:51:48 | きものの歴史

■左前から右前となった衿合わせ。

大和政権が律令体制を確立するに従い、中央の官制も中国、当時の唐に習い整備されてきます。服装も有名な聖徳太子の「冠位十二階の制」はじめ衣服令が度々出され、身分によって頭に頂く冠の色や衣服の色など細々としたことまで決められました。当時の最高位の色は紫で、紫草の根を用いて染める紫は大変高価なものでした。以来紫は高貴な色、憧れの色として日本人に特別な色となりました。また養老3年(719年)には「初めて天下の百姓をして襟を右にせしむ」との衣服令が出され、今日のように襟合わせが右になりました。遣唐使の派遣を廃止(894年)する頃から、隋や唐の中国先進文化の導入、模倣から「古今和歌集」や「大和絵」など、日本人独自の自然観、季節観を映した美意識、文化の創造に目覚め、和様化が進み始めました。服装も同様で、直線裁ちになり、気候に応じて着るきものの枚数を調節することや襲ねの色、日本独自の文様など、今日のきものにつながる文化は平安王朝の時代にその基礎が創造されました。

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