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新・きものの基

絹や木綿、麻など素材から染織の歴史、技法、デザイン、そしてきものと暮らしの多様な関係までを紹介します!

絹の話⑥

2007-12-31 23:55:37 | 絹・養蚕

絹の話⑥ 東 宣江さん(2)

「トレーサビリティ」。流通のプロセスに於いて、その商品がどのような略歴を持っているかを生産者まで遡って消費者が確かめられるシステムです。しかし、着物にはまだ残念ながら、トレーサビリティは取り入れられていません。99%が輸入による生糸で作られている着物の現実。せめて東さんは、群馬の養蚕農家が作り、自分が座繰りした生糸でその着物ができていることを表示して欲しいと願っています。

 

日本の養蚕は、平成10年まで自由に蚕の種類を選んで、養蚕したり、好みの糸を作ることが出来ませんでした。昭和初期にはそれぞれの養蚕農家が腕を競い、様々な種類の蚕を養蚕していて、その種類は850種類にも及んだといいます。しかし、効率化を求め、より簡単に育てられ、丈夫で大きく、長く糸が取れるように国家統制が行われ、昭和初期には自由に養蚕の品種を選べなくなりました。しかし平成10年の法令撤廃に伴い、東さんはいま自由に作りたい糸の蚕の種類を決められるようになりました。最近は小粒のひょうたん形の日本原種の「又昔・またむかし」に取り組もうとしています。

 

風葉かげなる 天蚕はふかく 眠りゐて 

        櫟のこずゑ 風渡りゆく

 

美智子皇后の平成4年の歌会始の「風」で詠まれた歌ですが、皇居では毎年五月に御養蚕所で「御養蚕の儀」が執り行われます。有名な古代繭「小石丸」は、江戸中期から明治半ばまで広く養蚕されていましたが、収繭量が少ないことから一般には養蚕されなくなり、わずか皇室が日本原産種として明治期から養蚕を続けてきました。しかし、昭和60年代後半には飼育中止が検討されましたが、「日本の純粋種と聞いており、繭の形が愛らしく糸が繊細で美しい。もうしばらく古いものを残しておきたいので育てましょう」との皇后陛下のお言葉により、養蚕が続けられたといいます。

いま日本の養蚕は曲がり角というか、東さんのような想いを持った人がかろうじて日本の養蚕を支えています。私たちは、東さんたちが作る繭や生糸で出来た着物を買うことによって、日本の養蚕の文化や技術、日本の絹そのものを守るお手伝いをすることが出来るのです。

 

月刊アレコレでは、2008年、「きものの基・素材編」で日本の絹、東さんの座繰りした生糸が、どのような着物になってゆくのか追って連載を続けてゆきたいと思います。どうぞ、月刊アレコレを来年もよろしくお願い申し上げます。皆様、よいお年をお迎えください。

 

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絹の話⑤

2007-12-31 23:47:48 | 絹・養蚕

絹の話⑤ 東 宣江さん(1)

糸の職人になりたくて、京都から群馬にたどり着き、碓氷製糸に勤めていた頃の東さんのことが、立松和平の「きもの紀行ー染め人織り人を訪ねて」に紹介されている。ここで東さんは、同じように糸作りに燃えるほぼ同じ年代の女性と出会い、座繰りに一層励みます。しかし碓氷製糸といえども、座繰りでは企業の採算ベースに合わすことはなかなか難しかったようで、2人はもう1人の仲間を加え、座繰りの技術や座繰り糸の素晴らしさを伝えようと野心に燃え、2004年4月に独立して蚕糸館を設立します。しかし、自立して職業としてゆくには厳しく、考え方の違いもあり、わずか1年で解散してしまう。以来1人で、東さんは昔の養蚕場を借り、新たにスタートを切り、座繰りを続けている。3人でも大変だったものを1人で受け持ち、その間の苦労は大変なものと思います。しかし写真のように、素晴らしくチャーミングに、糸の楽しさを語ってくれる。糸の職人として情熱を燃やし、携わっている人をもっともっと業界人は応援してもいいと思う。着物の中に占める糸の金額はわずか。これが国内産であれば2倍でも、3倍でもいいのではとは思うのだが、現実はそうは行かない。

 

群馬県は、「絹の王国」と自負し、実際に養蚕、製糸、精錬、染織、機織にと群馬県ブランドの商品化に励んでいます。その甲斐があって次々に新しい品種を開発し、国内シェアのほぼ半分を占めるまでに伸びてきています。しかし、海外の安い生糸に押され、今や日本の国産生糸の占める割合はわずか1%に満たない。群馬県産の生糸はその中で、わずか、0.5%。世界を魅了した日本の絹、日本の養蚕、製糸は、いまや風前の灯です。いままさに日本の絹が消えようとしています。消費者が安いものを求めるから、製糸工場も、生地屋も、染織職人さえも、質より値段を優先して、中国産やブラジル産の安い生糸を使う。仕方ないじゃないかと。それぞれ最もな理由だが、確実に日本の養蚕を追い詰め、あと10年もすれば消滅してしまうかもしれない状況を生み出している。最盛期に280社もあった器械製糸工場は、いまや東さんが勤めていた碓氷製糸と山形県の松岡㈱の2社だけ。

 

東さんは、そんな状況を知らずに、よい糸の職人になりたいと飛び込んだが、その心細い現実に唖然とした、という。良い糸作りを目指したが、よい糸を作るためには養蚕も知り、養蚕農家の後継者を育ててゆかなければ自分の仕事が成り立たないことを知り、日本の養蚕の優れた繭を作り出してきた伝統文化、技術を後世に残したい。自分が苦労したように、わからないことがあると農家に飛び込み、聞きだしたようには、これからは出来ない。だからきちんとデータに残し、それを見れば養蚕に取り組めるよう、養蚕農家を訪ね、貴重な口述をまとめている。そして、この秋から養蚕に取り組み始めた。最初に飼育した蚕は3万頭、生糸50㎏をこの秋に収穫した。

 

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絹の話④

2007-12-31 20:38:06 | 絹・養蚕

絹の話④天の虫

 

蚕は1匹2匹ではなく、一頭、二頭と数えます。家畜と同じように貴重なものだったので「頭」と数えるという説と、蚕は蛾になり、蛾は蝶と同じ種類なので、蝶と同じよう(羽、匹とも数えます)に「頭」と数えるという説があります。

中国にも同じような民話がありますが、柳田国男の著作「遠野物語」にこんな話があります。

69・昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛し夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘に知らせず、馬を連れ出して桑に木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧を持って後ろより馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその馬の首に乗りたるまま天に昇れ去れり。オシラサマというはこの時よりなりたる神なり。

 

オシラサマというのは、蚕の敬称で、他にも「お蚕様」「お蚕さん」ともいってとても大事にされてきました。また蚕という文字は、「天の虫」と書きます。天が人に恵んでくれた貴重なもの、そう思ってこの字を当てたのでしょう。染織作家の志村ふくみさんは、その著書「色を奏でる」の中で柳田国男の原作を「蚕は天の虫」と題し、馬を殺したことを後悔した父親に、天に昇った娘が蚕を贈ったと、創作しています。だから蚕の顔は、馬の顔に似ているんだとか。

 

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絹の話③

2007-12-30 19:59:28 | 絹・養蚕

絹の話③糸繰り

取材に行った日、東さんは「座繰り」を見せるため、この秋ご自分ではじめて養蚕した繭、「群馬200」を準備をして待っていてくれました。群馬200は、群馬県が開発したオリジナル品種で、節がなく、糸質が白いのが特色です。お鍋に水を張り、指を入れると「熱い!」というくらいになったら、繭を60~70粒入れ、落し蓋をして均一に湯に浸け込みます。数分してから稲わらなどのほうきで繭の表面をなで、繭の糸口を探り、糸を引き出し、、数本づつまとめて糸を引き出し、座繰り器に巻きつけてゆきます。鮮やかな白い、輝く糸が見る見るうちに巻き取られてゆきます。糸を取られたうっすらとした繭に包まれた蛹は、お湯を汚すので手早く外に取り出します。東さんの手早い一連の流れを見ていると、面白くて見飽きることがありません。座繰り器には、富岡式と前橋式があったそうですが、現在は両方の長所を取った上州式になっているそうです。手間がかかる座繰りですが、人間の手で引き出すのが、しなやかな絹糸を作るにはちょうどいいようです。しかし、手間のかかる仕事です。この人の手による糸繰りを機械化して、生産量を一気に高めたのが産業革命です。

産業革命はご存知のように18世紀のイギリスで始まりましたが、先ず織物産業で新しい技術革新が行われました。糸を染めるには、複数の繭から糸を引き、一定の太さの生糸にして、さらに撚りをかけることが欠かせないのですが、その製糸、撚り糸を動力で大量に、スピーディに出来る機械をイギリスに先立ち、1783年、桐生の職人・岩瀬吉兵衛が発明しています。しかし、岩瀬の紡績機は木製で、水車を動力としていましたが、イギリスは鉄製で、蒸気機関を動力エネルギーとしていました。しかし、着想時期は日本の方がイギリスの産業革命より早かったようです。

 

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絹の話②

2007-12-30 16:48:15 | 絹・養蚕

絹の話②蚕糸(さんし)館

 

磯部駅から車で10分ほど、国道18号線の直ぐ脇に東さんが拠点としている蚕糸館があります。昔、農家が養蚕に使っていた建物で、木造で築50年ほどとか。事務所として所々改造して使われていたそうですが、ほとんどが養蚕をしていた頃のまま。明かりを取り込むガラス窓が陽に輝いていたが、建物の中に入ると両脇には2階部分があり、真ん中は吹き抜け。土間にひんやりとした空気が漂っている。細かく仕切られた蚕室が、両脇に20室近くあり、往年はさぞかし何万頭という蚕が桑を食む音が、雨のようにザワザワ部屋中に響いていたことでしょう。

蚕は、その語源は「飼う子」から、といわれますが、蚕には「家蚕」と「野蚕」の2種類があります。文字通り「家蚕」は人が飼いやすく、良質な糸がたくさん取れるように品種を改良したものをいいます。「野蚕」は、自然に存在するものですが、最近は、絹のプラチナといわれる野蚕の1種、山繭は稀少で、高価なため、広大な山林を網でおおい、自然に近い環境で人工飼育され、「家蚕」の仲間入りをしてしまいました。

人類が蚕を飼い始めたのは、古代中国で、紀元前4千年前といわれていましたが、最近は考古学が発達し、新しい遺跡も見つかり、どうやら紀元前6千年まで遡るらしい。また最初は、どうも繭ごと蚕を食用にしていたという説があります。口に含んで噛んでいたり、煮たりしているうちに糸が出てきて、ここから絹糸を取ることを知ったのではないか、という説です。というわけではないでしょうが、蚕糸館には、一匹の猫が飼われています。繭をねずみに食べられないように、飼っているそうで、猫を飼い始めて以来ねずみは一匹も出ないそうです。

 

 

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絹の話①

2007-12-29 11:48:43 | 絹・養蚕

絹の話①磯部駅

群馬県安中市磯部駅。高崎駅から18分。峠の釜飯で有名な横川の3つ手前。新幹線が通過してから横川駅が終点になってしまいましたが、学生の頃は軽井沢が冬の合宿場所に決まっていましたので、鈍行で何回も通った懐かしい風景ですが、磯部駅の記憶は全くなし。観光ガイドによると温泉マーク、♨。逆さくらげとも呼ばれ、怪しげなホテルのマークになってしまいましたが、マーク発祥の地の石碑がここ磯部にあります。その由来は古く、1661年、碓氷郡の土地争いを巡る係争の書類に、この温泉マークが記載されているそうです。残念ながら下調べはしたのですが、目的地に直行したため、現物を見ることは出来ませんでした。

 

目的地は、東さんという若き女性が1人で座繰りで生糸を作っている工房、蚕糸館。日本の2大養蚕地といえば、群馬県と長野県。幕末明治期に横浜が開港され、重要な輸出品が生糸でした。その先鞭をつけたのが上州出身の中居屋重兵衛ら上州商人でした。そのため、上州産の生糸が輸出された、というわけです。この中居重兵衛、三井の越後屋をしのぐ隆盛を極めたのですが、わずか2年で忽然と歴史から消えてしまい、その死はいまもって謎とされています。この中居屋重兵衛らの活躍があって、やがて渋澤栄一らの努力によって富岡に日本初の製糸工場ができ、「絹の国」として群馬県が一大飛躍を遂げてゆきます。いま群馬県は「絹の国」の復権を目指し、養蚕や製糸、絹の製品化に力を注いでいます。その一貫としてワークショップを開き、伝統の技術を伝承し、次世代の人材の育成に努めています。東さんもそのワークショップに参加した1人で、和歌山県に生まれ、京都に学び、京都で染織の仕事につきましたが、なぜか糸の魅力に魅かれ、5年前、ワークショップに参加し、そのまま磯部に住みついて、糸の仕事に就いてしまった。この東宣江さんを訪ね、これからと養蚕、糸繰り、製糸のはなしをはじめたいと思います。

 

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