新・きものの基

絹や木綿、麻など素材から染織の歴史、技法、デザイン、そしてきものと暮らしの多様な関係までを紹介します!

富岡製糸場⑪

2008-03-30 20:34:09 | 富岡製糸場

富岡製糸場⑪ 

「…富岡製糸場の御門前に参りましたときは、実に夢かと思いますほど驚きました。生まれまして煉瓦造りの建物などまれに錦絵出見るばかり,それを目前に見ますることでありますから…」と世界最新、最大規模の設備を誇った富岡製糸場を明治6年、ここで製糸技術を学んだ伝習工女の和田英は当時の回想録「富岡日記」に書いています。木骨の間に煉瓦を罪入れる「木骨煉瓦造り」の建築群は、現代建築にはない味わいのある建物ばかりです。門の前に立つと,隆盛期には400人もの工女たちが働いていたという往事の活気が目に浮かびます。


富岡製糸場⑩

2008-03-30 18:48:27 | 富岡製糸場

富岡製糸場⑩ 世界遺産

 

明治の文豪・徳富蘆花が「機の音、練糸の煙、桑の海」と表現した群馬県にある富岡製糸場は、明治26年に三井家に払い下げられ、昭和14年には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績と合併し、昭和62年にその操業を停止しました。明治政府が作った官営工場がほぼそのままの形で残っているのは富岡製糸場だけで、いまも殖産興業を通じて日本の近代化の先駆けとなった絹産業の重要な国家の産業遺産として、大事の保存されています。平成19年1月23日には文化庁が「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産登録を目指す遺産として選定し、ユネスコの世界遺産暫定一覧表に記載されました。

 

<RP>)</RP>  


富岡製糸場⑨

2008-03-30 16:11:34 | 富岡製糸場

富岡製糸場⑨  繰糸場(2)

 この繰糸場は、長さ140メートル、幅12.3メートル、高さは11.6メートルあり、操業した時に充満する蒸気を抜くための越し屋根があり、外から見ると2階建てのように見えます。この中に300台の製糸機がおかれ、当時世界一の規模でした。しかし機械化されていたとはいえ、よく糸がからまり、女工たちは大変だったようです。この富岡製糸場は、均一で国際的にも競争力のある良質な生糸の生産を目的としたため、技術指導も厳しく、女工の技術力にランクをつけたり、その成績を賃金に反映させるなど、管理はかなり厳しかったといいます。明治期の製糸場というと、女工哀史という言葉が連想されますが、富岡製糸場は、それまでの正月と盆休みしかなかった日本で、いちはやく日曜休みを取り入れたり、1日の労働時間を約8時間とし、昼休みや休憩時間も設け、毎日の入浴や食事など、技術だけでなく、その労働環境にも非常に先進的な西欧的思想を取り入れたものでした。

 

■月刊アレコレTOPへ

群馬県に移り住み、座繰りにこだわっている東宣江さんの「日本の養蚕」好評連載中。

 


富岡製糸場⑧

2008-03-29 23:42:26 | 富岡製糸場

富岡製糸場⑧ 繰糸場(1)

製糸場の心臓部ともいえる繰糸場。写真は見学が許可されている繰糸場の中ほどから、入り口を撮ったものですが、当時富岡製糸場には、400名以上の女工が働いていたそうで、さぞや壮観だったろうと思います。いまはビニールに覆われている製糸機ですが、昭和62年に操業停止になるまで、115年間稼動したもので、いまでも電源を入れれば動くそうです。繰糸場ハ、トラス構造といって柱を使わない建築構造なので、中は明るい大きな空間が広がっています。当時は電燈がないため採光は重要な課題で、繭の選別やか細い糸を1本1本引き出すという精緻な仕事をスムースに行うため、日光を取り込むための天窓はじめ、すべての窓ガラスは、フランスから輸入されたものです。

 

■月刊アレコレTOPへ

群馬県に移り住み、座繰りにこだわっている東宣江さんの「日本の養蚕」好評連載中。

 

 

 


富岡製糸場⑦

2008-03-13 18:07:54 | 富岡製糸場

富岡製糸場⑦ 繭倉庫

 

富岡製糸場には、長さ104.4メートル、幅12メートル、軒の高さ14メートルという長大な繭倉庫が東西に2つあります。写真は奥にある西繭倉庫ですが、このような長大な繭倉庫を必要としたのは、いまは年4~5回の養蚕が普通ですが、明治の終わり頃まで養蚕は、1年に1回の春繭だけだったので、1年間、280日操業分の繭を保管するために、この長大な2階建ての倉庫が必要でした。

明治5年の繭購入量は記録によると約245万石。1石が37.5㎏ですから約92万トン。記録では、すべてが生糸に生産されてはいないのですが、初年度一体どれくらいの量の生糸ができていたのだろうか。この生糸は、ほとんどがフランス・リヨンに輸出されていたようです。また操業7ヶ月後の明治6年5月、ウィーンで開催された万国博に富岡製糸場の生糸が出品され、「進歩賞牌]を受賞しているので、当初からかなり高品質の生糸を生産していたようです。

 

*写真は、西繭倉庫

■月刊アレコレTOPへ

群馬県に移り住み、座繰りにこだわっている東宣江さんの「日本の養蚕」好評連載中。

 


富岡製糸場⑥

2008-03-10 11:41:05 | 富岡製糸場

富岡製糸場⑥ ブリューナ(2)

「ブリューナ夫人は実に美しい人でありました。普段1日置き位にブリューナ氏と手を引合って繰場の中を上から下まで歩みますのが例でありました」と初期に富岡製糸場に勤めた松代藩の武家の娘・和田英は当時を記した「富岡日記」に書いている。ブリューナは夫人と子供2人を連れ、富岡製糸場の中に洋館を建てて住んでいた。ブリューナの富岡に在勤中の資料はあまりなく、馬車で通行中に石を投げられたり、散歩中に子供たちに不敬の行動があったなどが記録されていて、町民達と親しく交流したという記録はない。「外国人に生血を取られる]との噂がまだまだ跋扈していたようであった。そのためか、日本人に襲われるかもしれないので用心のため地下に隠れ場所と抜け道を用意したとあるが、いまはその場所を見ることは出来ない。

幕末から明治にかけ、身分は武士ではないが、様々な専門分野において優れた人材を臨時雇いとして起用し、彼らを「お雇い」といい、さらに外国人の場合、「お雇い外国人」といわれた。彼らは日本の近代化に努めたが、あくまでも臨時雇いであったので、当然その雇用期間は短い。ブリューナも5年契約で、契約を満了して明治8年には日本を去っている。明治6年の記録によると年間総予算5万1,619円のうちブリューナの給料は9,000円で、その他のフランス人9人の給料と食費で約2万円とかなりの高額であった。ブリューナは、いちはやく日曜日の導入をはかり、1日の労働時間は7時間45分、年末年始、夏季休暇はそれぞれ10日と年間280日と、画期的な労働条件でした。さらに毎晩の入浴を実施し、医師を常駐させ、健康管理に努めるなどした。当時日本ではめったに毎日は入浴しなかったそうで、毎日朝シャン、お風呂なんていうのは、この10年の習慣だと思いますが、後年「女工哀史」といわれた製糸の悲惨な世界は富岡製糸場にはなく、むしろブリューナが率先して女工達のために健全な職務環境をつくっていた先進性には、今思えば驚きです。

*写真は、ブリューナが住んでいたブリューナ館

■月刊アレコレTOPへ

群馬県に移り住み、座繰りにこだわっている東宣江さんの「日本の養蚕」好評連載中。


富岡製糸場⑤

2008-03-09 19:00:33 | 富岡製糸場

富岡製糸場⑤ブリューナ(1)

 

日本の生糸の品質が年々粗悪になっているという不評から、イタリア公使に続き、明治2年イギリス公使と共にブリューナは生糸産地の現状を把握するため、武州、上州、信州、甲州などを10日間かけて視察し、本国に報告書を送ると共に、明治政府にヨーロッパの製糸器機を日本人向けに改良したものを導入し、新技術の導入のためヨーロッパ人を一定数雇用することなどの改善策を提言している。イギリス公使一向にフランス人のブリューナが加えられたのは、当時日本で生糸の検査においては最も目の鋭い人物と定評が高かったからです。そんなことからブリューナに官営製糸場の初代指導者(首長)として白羽の矢が立てられました。

ブリューナは、各地を視察し、最終富岡に建設地を決め、建設予定地の検地、くい打ちが終わると同時に、当時日本で製糸法として一般的だった座繰りの腕のいい女性4人を雇用して、30日間ほど作業を行わせ、自らの目で細か日本の製糸法を観察しています。ブリューナは、この目的を聞かれ、こう答えたとあります。 「是デ今度彼方ニ注文スル所ノ機械ヲ成ルタケ日本ノ風ニシテ在来ノ業ヲ変ジナイ様ニ欧羅巴風ニ移スト云フノ便宜」日本の工法の優れた部分を取り入れようと構想していて、この試験を参考にフランスに器械を発注、従来の欧州式を改良させて、日本人の体形に合うように高さを変え、富岡製糸場独特の「富岡式」といわれる製糸器機を開発して、導入。優れたヨーロッパの方式を押し付けず、このような発想を持ったブリューナと出会い、手工業からいわば産業革命、製糸の近代化をなしえたことは、日本にとって非常に幸運なことだったと思います。

*写真は、ブリューナが住んでいたブリューナ館

■月刊アレコレTOPへ

群馬県に移り住み、座繰りにこだわっている東宣江さんの「日本の養蚕」好評連載中。