富岡製糸場⑥ ブリューナ(2)
「ブリューナ夫人は実に美しい人でありました。普段1日置き位にブリューナ氏と手を引合って繰場の中を上から下まで歩みますのが例でありました」と初期に富岡製糸場に勤めた松代藩の武家の娘・和田英は当時を記した「富岡日記」に書いている。ブリューナは夫人と子供2人を連れ、富岡製糸場の中に洋館を建てて住んでいた。ブリューナの富岡に在勤中の資料はあまりなく、馬車で通行中に石を投げられたり、散歩中に子供たちに不敬の行動があったなどが記録されていて、町民達と親しく交流したという記録はない。「外国人に生血を取られる]との噂がまだまだ跋扈していたようであった。そのためか、日本人に襲われるかもしれないので用心のため地下に隠れ場所と抜け道を用意したとあるが、いまはその場所を見ることは出来ない。
幕末から明治にかけ、身分は武士ではないが、様々な専門分野において優れた人材を臨時雇いとして起用し、彼らを「お雇い」といい、さらに外国人の場合、「お雇い外国人」といわれた。彼らは日本の近代化に努めたが、あくまでも臨時雇いであったので、当然その雇用期間は短い。ブリューナも5年契約で、契約を満了して明治8年には日本を去っている。明治6年の記録によると年間総予算5万1,619円のうちブリューナの給料は9,000円で、その他のフランス人9人の給料と食費で約2万円とかなりの高額であった。ブリューナは、いちはやく日曜日の導入をはかり、1日の労働時間は7時間45分、年末年始、夏季休暇はそれぞれ10日と年間280日と、画期的な労働条件でした。さらに毎晩の入浴を実施し、医師を常駐させ、健康管理に努めるなどした。当時日本ではめったに毎日は入浴しなかったそうで、毎日朝シャン、お風呂なんていうのは、この10年の習慣だと思いますが、後年「女工哀史」といわれた製糸の悲惨な世界は富岡製糸場にはなく、むしろブリューナが率先して女工達のために健全な職務環境をつくっていた先進性には、今思えば驚きです。
*写真は、ブリューナが住んでいたブリューナ館
■月刊アレコレTOPへ
群馬県に移り住み、座繰りにこだわっている東宣江さんの「日本の養蚕」好評連載中。