新・きものの基

絹や木綿、麻など素材から染織の歴史、技法、デザイン、そしてきものと暮らしの多様な関係までを紹介します!

富岡製糸場④

2008-02-27 18:59:31 | 富岡製糸場

富岡製糸場④ 木骨レンガ造り

 富岡に製糸場を作ることを決めたフランス人、ボール・ブリューナは1840年にフランスに生まれ、絹織物が盛んだったリヨンで働いた後、生糸貿易会社が横浜に構えた蘭八商会に生糸検査人として明治2年、29歳の時に日本に派遣されました。当時先進技術を学ぶため欧米人を「お雇い外国人」として雇用することが盛んに行われていましたが、ブリューナも「官営製糸場設立の儀」の決定により、明治3年に明治政府と日本に初めての官営製糸場を造るお雇い外国人として仮契約し、富岡に建設地を決めた後、5年間の本契約を結んだそうです。

 ブリューナはかなり柔軟な思考の持ち主だったようで、フランス式を押し付けるのではなく現地で調達出来るものは現地で、できないものはフランスから輸入し、フランスの技術と日本の技術をあわせ、創意工夫を加えた方法で製糸場建設に臨みました。その象徴ともいえるのが「木骨レンガ造り」という妙義山から切り出した木材で骨組みを組み、その間を瓦職人にレンガ造りを教え、数十万個というレンガを焼き上げ、フランス積みという方式で積むという、和洋折衷で多くの建築物を作り出しました。レンガの目地はセメントではなく、日本の漆喰、礎石は富岡の近くの連石山~切り出して使いました。

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富岡製糸場③

2008-02-25 20:38:16 | 富岡製糸場

富岡製糸場③ 錦絵

 

 

製糸場の全景や、皇太后が視察した「富岡製糸場行啓」など、中学校?の教科書にこの錦絵が載っていた記憶があります。着物に関わった仕事をしていることもあり、機会があれば富岡製糸場をいつか見に行こうと思っていましたが、ようやく実現。しかし、平成17年までは片倉工業㈱の所有で、一般人が見学できるようになったのは、わずかこの2年ほど前から。

きっかけは平成15年、当時の群馬県知事が富岡製糸場をユネスコの文化遺産に登録しようと動き始め、平成17年に片倉工業㈱は富岡製糸場が国指定史跡、糸繰場など主要な建造物は重要文化財に指定されたことから、建物一切を市に寄贈し、敷地を市に売却したことから、その一部を私たちは見ることが出来るようになりました。具体的に見ることが出来る場所は①糸繰場、②東繭倉庫、③西繭倉庫、④ブリューナ館、⑤煮繭場・選繭場、⑥鉄製煙突など、錦絵にある通り、138年後の現在も現存し、当時のままの姿を見ることが出来るのは、奇跡です。1日5回(夏場は6回)、1回1時間で場内をガイドしてくれますが、糸繰場を除き、ほとんどの建物の中に入れないのが残念です。

 

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富岡製糸場②

2008-02-24 19:02:08 | 富岡製糸場

富岡製糸場② 明治5年

幕末から明治にかけて日本の最大の輸出品は生糸と蚕種(さんしゅ)で、全体の70~80%を占めていました。急激に、しかも大量に生糸と蚕種が輸出された背景には、当時ヨーロッパで蚕の伝染病が流行し、生糸と蚕種が大幅に不足した事。さらに最大の生糸輸出国、中国がアヘン戦争や続く内乱の影響で生産が激減したことがあり、日本の良質な生糸、蚕種がヨーロッパ列強から引く手数多で、爆発的に輸出量が増えました。しかし、儲かるとわかると中には粗製乱造の粗悪なもの、蚕種が菜種の種と似ているので、偽って菜種を貼り付けたものを輸出するなど悪徳業者も多く、「日本人と不正直な取引者は同義語」と言われるほど国際的に信用を大きく損なってきたため、政府も緊急に対応をとらざるを得なくなりました。

また粗悪品を排除するだけでなく、ヨーロッパからの拡大する蚕種、生糸の需要に応え、国の基幹産業として良質な生糸を大量生産するために抜本的な対策が必要となり、ついに明治3年に「官営製糸場設立の議」を決定。主旨は①西洋式の製糸機器を導入し、②外国人技師を招き、③全国各地から工女を募り、技術指導を受けさせ、④さらに地元に戻して近代的な製糸業を発展させるリーダーにし、⑤高品質な生糸を全国で生産するという計画でした。明治3年「官営製糸場設立の議」の決定に従い、繭がたくさん取れ、良質な水、燃料の石炭が取れ、地元の協力が得られ、横浜港にも近い場所ということでフランス人技師ブリューナが各地を候補にし、最終的に群馬県富岡を選び、2年かけて明治5年、日本初の官営工場・富岡製糸場を完成させました。いまでも製糸場の正面、東繭倉庫の通用門の上には、工場が竣工し、操業を開始した「明治5年」のキーストーンが掲げられています。

 

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富岡製糸場①

2008-02-23 22:07:03 | 富岡製糸場

富岡製糸場① 高崎

この時期、新幹線はすいているだろうと思ってのんびり東京駅のホームに行ったら、驚いた。スキー客でホームはあふれんばかりの人、人の波。まあ考えたら当たり前か。読みの甘さを反省しつつ、約1時間通路に立ったままでJR高崎駅へ。さらに乗換えで高崎駅0番線ホーム、上信電鉄のホームに移動し、2両編成のワンマンカーに乗り換え、吉井駅に。高崎駅の近くは宅地化が進んで、洒落た家並みが続きますが、10分も走ると昔ながらの畑風景ですが、桑畑は見えない。のんびり単線に揺られ、約20分で吉井駅に。ここ吉井町に10年前に店を構えた呉服店「高田屋」さんを表敬訪問。きもの大好きで、その思いをお客様に伝えたく、京都の町屋風のこった店造りで、頑張っている。一時期は、社員さんを大勢使っていたが、いまは奥さんと若い社員さん2人。「好きなことだから、続けられるんです。いまはもう自分のペースで、楽しく仕事をしています。」とサラリと言うご主人の言葉には、いけいけガンガンの時より、むしろ熱い思いを感じる。もっと話し込んでいたかったのですが、振袖選びのお客様が来店したのを潮にタクシーを呼んでいただき、富岡へ。

 

タクシーで15分ほどで、ユネスコ世界遺産暫定リスト搭載された「富岡製糸場」に着くとか。国道254号線を走ってゆくのですが、土曜日というのにお店のシャッターはどこもしまっている。タクシーの運転手さんの話によると、まだ吉井町でも養蚕をしている農家が5,6軒あるとか。運転手さんが子供の頃、昭和20年頃は、運転手さんの家でも養蚕をしていて、繭1個1円だったとか。アイスキャンデーが当時3~4円だったそうですから、農家にとっては大きい稼ぎで、どこの農家も畑の畦や山際にこぞって桑の木を植えていて、その桑の木から枝ごと切り落とし、蚕室まで運ぶ手伝いを子供もしたそうです。しかし、蚕室の床に落ちてしまう蚕に気付かず、踏んでしまうと1頭1円とお小遣いが減らされたなど、懐かしそうにおしゃべり。桑の木は枝を切ってもすぐに伸びてくるほど生命力が旺盛で、当時は一面が桑畑だったそうですが、いまは蒟蒻畑などに変わってしまった、と中々話好きの運転手さんの話を聴きながら、あっという間に富岡の町に。

 

高崎駅にも上信電鉄の車内にもユネスコ世界遺産暫定リストに搭載されたと誇らしげなポスターや車内広告があったので、町はさぞや賑やかと思いきや、お店は軒並みシャッターが降りていて、それも昨日今日という様子ではなく、大げさに言うとゴーストタウンの町並みを抜け、富岡製糸場に到着。

 

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絹の話⑨

2008-02-03 15:53:11 | 絹・養蚕

絹の話⑨養蚕農家・1

 

養蚕農家、いま日本に何軒くらいあると思いますか?

 

ヒントは最盛期、昭和4から5年にかけて、農家の約4割、220万戸が養蚕に従事していたそうです。現在日本一の養蚕県は群馬県です。群馬県の統計によると明治21年には全世帯131,430戸のうち農家が110,831戸、ナント84%が農家。そしてその農家のうち67%の74,451戸が養蚕農家でした。群馬県のピークは明治34年、87,876戸が養蚕に従事し、その後約50年はそのまま推移し、昭和33年には84,770戸、農家の66%が養蚕に従事していましたが、その後急速に安い外国産の繭、生糸に押され、平成17年には農家は全世帯の9%で、養蚕農家はわずか650戸、全農家の1%に。全国でも1,591戸と報じられています。

平成17年(2005年)の総農家数は284万戸。5年前に比べ9%減で、このうち50万円以上の農産物を販売している農家が194万戸。あとは自給農家といい、自家消費する分だけ生産している農家で、これは2000年に比べ13%も増えているそうです。で養蚕農家ですが、群馬県では平成18年は557戸。厳しい日本の養蚕の現実が見えます。

 

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