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古刹、いにしえの館へ

2020-03-07 | おでかけ
川崎市の広福寺を訪ねました。
夫と城めぐりをしていて、急遽足を延ばした寺です。

城めぐりの予習をしていたら、
「枡形山」の解説に、以下のように書かれていました。

「北麓にある広福寺は、源頼朝の御家人として有名な
稲毛三郎重成ゆかりの寺とされる。
枡形山は稲毛氏の築城との伝承もあるが、附会の域を出ない」と。

(『神奈川中世城郭図鑑』 25頁)




そりゃ、面白そうだってことで、枡形山から10分ほど歩いて、
お寺をお参りした次第です。

枡形山の築城は「附会」、つまり「こじつけ」かもね・・・ってことw
でも、広福寺は、稲毛三郎重成の館だったらしく
門には「稲毛領主菩提寺 稲毛館跡」の扁額が掲げられていました。↑

しかもっ!

真言宗(豊山派)のお寺・・・弘法大師様のお寺です。
お大師様のお寺ならば、ますます・・・と、
心してお参りさせていただきました。



お寺は、平安時代の承和年間(834~848)に開かれ、
鎌倉時代に中興されたそうです。

まずは、稲毛三郎重成について、ざっくりと・・・

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、源頼朝の重臣でした。
元々は武蔵・秩父で、小山田姓の一族ですが
ここ稲毛庄に領地を与えられ、稲毛三郎重成と名乗りました。


(山門)

頼朝からの信頼は厚かったのでしょう。

正室は、なんと頼朝の妻・北条政子の妹です!

この妻が亡くなるとき、重成は、頼朝に随行して京の都にいました。
「妻・危篤」の知らせを受けると、頼朝は、重成に駿馬を貸し与え、
急ぎ、領地へ戻らせたのだとか・・・(頼朝への好感度もアップ♫)

重成は、妻が亡くなると出家、
妻の供養のためにと、相模川に橋をかけました。
(愛妻家だったのね♫)

でも・・・この橋の落成式に出席した帰りに、
頼朝は落馬し、それが元で亡くなるという・・・なんともはや・・・
(安徳天皇の亡霊を見たと言われる、あの落馬は、このときだったのか・・・!)


(本堂)


この頼朝+北条家との関係が強かったせいか・・・
執権・北条時政従の命を受け、兄・畠山重忠の乱を画策し・・・
悲劇的な最期を迎えました。

稲毛三郎重成の生涯は、
良くも悪くも、源頼朝、執権・北条家に翻弄された人生だったといえそうです。



広福寺は、重成の「菩提寺」ですから、お墓もあります。

↑観音堂の裏手にある墓地の奥・・・
おそらく、歴代のご住職のお墓が並ぶあたり・・・
その横にある古い五輪塔が重成と妻の墓です・・・

(墓石の撮影は遠慮しています)

平成の時代にも、法要が営まれたようでした。


(本堂の前に咲いていた椿・・・
白い芯の赤い花はト伴<ぼくはん>と言う種類のようです)


愛妻家・重成が、妻と共に眠る、かつての屋敷・・・
その奥には枡形山がそびえ、城が築かれました。
戦国時代には、北条早雲が布陣し、武田信玄の侵攻もあったと・・・

この日は、稲毛三郎重成ゆかりの、枡形山と小沢城も歩いてきました。

重成の時代から早雲の時代までで、およそ400年、
枡形山の廃城から令和の現代が、同じく400年・・

令和のたった1日ながら、
遙かな歴史の流れに、どっぷりと浸れたような、1日でした。

それぞれの城についても、アップする予定ですので、
またお付き合いいただければ嬉しいです。


◆参考
○西股総生 松岡進 田嶌貴久美 『神奈川中世城郭図鑑』 戎光祥社
○枡形山展望台内解説
○稲毛三郎重成の生涯は「ウィキペディア」を参考にしました。

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お読みいただき、どうもありがとうございました。
勝手ながら、もうしばらくの間、コメント欄など非表示にさせてくださいませ。

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