日帰り★旅、足利・さんぽ、
前回の心残りを晴らすべく・・・やってきました、
史跡・足利学校。
この春、自粛期間中に富樫倫太郎『早雲の軍配者』(中公文庫)を読み、
ますます、足利学校に憧れていました。
(→「限定♫桜のスイーツ」)
(版元ドットコムより使わせていただいております。)
『早雲の軍配者』では、北条早雲の軍配者・風磨小太郎、
武田信玄の軍配者・山本勘助、上杉謙信の宇佐美冬之助 の三人が
足利学校で共に学び合う、若き日が描かれています。
読んでいて、足利学校を見学できなかったことが
なおさら残念に思えて・・・
ようやく念願叶った次第です。
小説の世界を思い起こしながら、満喫してまいりました。
(方丈。講義や接客のおこなわれた座敷がある)
足利学校は、室町時代の半ばには歴史に登場する、
日本最古の学校です。
戦国の世でも、学徒三千を数えたと言われています。
学問の内容は儒学中心ながら、創設以来、易学を重視、
また戦国期には兵学に力を入れていました。
(衆寮。学生が勉強したり、生活したりする)
戦国時代には、兵法と易学は軍配者の必須教養でしたから、
足利(学校)で学んだことは、軍配者のステイタスとなったそうです。
学びのスタイルは、自学自習。
中国の古い書物を書き写して、自ら学んだとか。
『早雲の軍配者』でも、書物を筆写する場面がありました。
学費は無料で、しかも学校側から食事と宿舎を提供されます。
ただし、自給自足。敷地内に畑を作って自ら耕していました。
(衆寮内部)
小説でも、到着早々、小太郎と勘助が畑仕事でこき使われ、
文句を言っています。(勘助がw)
小説の世界は、第5世庠主 (ショウシュ:校長)東井(トウイ)の時代。
東井は、木小屋でつまみ食いをする老教授として登場でした。
それでいて、学問への想いは強く、
学問好きだった、北条早雲の領地経営を褒め、小太郎を泣かせます。
次の庠主 ・文伯は、「小柄な中年男」で、
もっぱら「孫子」を読む先生として描かれました。
(菜園場)
文伯は、いただいた資料によると、
「京都建仁寺の僧で、学徒として来学、一時京都に戻るも、
再び足利へ戻り、庠主 をつとめた」とあります。
庠主 ・就任後まもなく、火事に遭い、苦労して再建・・・
後に、フランシスコ・ザビエルが
「日本国中もっとも大にして、もっとも有名な板東の大学」と
イエズス会への報告にしたためたことからも、その苦労がうかがえます。
昨年、フランシスコ法王が来日した折、上智大学での講演で
足利学校を、「日本文化の力を示す良い例」として引かれたとか。
ザビエルの報告、ひいては庠主 ・文伯の努力が今につながるのでしょう。
(孔子廟)
けれど、戦国の世が終わり、太平の江戸時代に入ると、
三人が目指したような軍配者ニーズはなくなります。
この頃、足利学校は、徳川幕府の庇護の下、
貴重な資料をもつ、学問の場として、
文人や学者の訪問を受けながら、明治の初めまで存続しました。
(方丈の中前栽)
現代では、「自学自習の精神を今に伝える教育の原点」との視点で、
「近世日本の教育遺産群」として、日本遺産に認定されています。
さらに、世界遺産の登録を目指しているとか。
また、地域の生涯学習の拠点として、論語素読体験会なども
行っているそうです。
この日も、足利学校オリジナル「漢字試験?」に
挑戦するご家族連れがおいででしたw
(学校門。寛文8/1668年創建のオリジナル。足利学校のシンボル。)
現代の建物は、大半が復元されたものですが・・・
それでも、秋の日差しを浴びた静かな佇まいは、
「日本最古の学校」として、ふさわしいものでした。
たっぷりゆっくり敷地内を歩き・・・
長年の心残りが、ようやく晴れました♫
◆本日の記事は、足利学校でいただいた資料やパンフレットを
元にまとめました。
間違いや勘違いもあるかと存じますが、素人のこと故、どうぞお許しを。