MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2345 「子どもに夢を語らせてはいけない」という話

2023年01月21日 | 教育

 今年は1月9日が「成人の日」。1999年までは1月15日に固定されていましたが、ハッピーマンデー制度により、以降1月の第2月曜日が充てられることとされています。

 「国民の祝日に関する法律」によれば、この日は「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としているとのこと。各市町村では新成人を招いて成人式が行われるため、(昭和20年代以降のことではありますが)お正月の風物詩としても知られてきました。

 一方、民法(および関連法)の改正により2022年4月1日から成人対象者が18歳に変更されたことで、今年は成人式の取扱いに悩んだ自治体も多かったようです。結果、18歳は高校3年生が中心で、就職や進学に忙しい対象者が多いことから、例年通り対象を20歳とし、「20歳の集い」として開催する自治体が殆どだったと報じられています。

 こうして、「成人」の定義が曖昧になる中、全国の中学校では、刑法の対象となる14歳を迎える2年生を対象に、日本で古くから行われていた「元服」にあたる「立志式」と呼ばれる行事を行う例が増えているという話を聞きました。

 聞けばこれは、一人の人として『志』を立て、人生の指針と強い意志を表明し、前向きに自己の将来を設計する力を培うための式典とのこと。栃木県、愛媛県、宮崎県、熊本県、石川県ではほとんどの中学校で開催され、東京都でも一部の中学校で実施。愛媛県や熊本県では「自覚・立志・健康」を深く考える日として、40年以上前から学校の重要な年間行事として実施されているということです。

 多くの中学校では、父母などの保護者に加え自治体の長や議員、地域の人たちなども参加し、生徒たちが親への感謝や自らの夢や希望を語る場を設けているとのこと。それはそれで節目となることなのでしょうが、生意気盛りの生徒たちにとっては多少「鬱陶しいな…」と感じるイベントなのではないかと思わないでもありません。

 そんなことを感じていた折、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、昨年暮れ(12月29日)の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に『子どもに夢を語らせてはいけない』と題する一文を掲載しているのを見かけたので、参考までにその一部概要を残しておきたいと思います。

 人は何のために学ぶのか。勉強するのは自我を強化するためではなく、(逆に)自己解体・自己刷新のために勉強するのだと、内田氏はこの論考に綴っています。

 自分が知っていることを人に誇示することには全く意味がない。なぜかと言えば、それは自分がもう知っていることだから。そんなことをしても自分の成長には1ミリも資するところがないと氏は言います。

 そんな暇があったら、自分が知らないことについてもっと勉強して、自分を壊してゆきたい。自分を固めてしまったら、新しいことを学べなくなる。絶えず変化し、より複雑なものになってゆくというのは生物の本質だというのが氏の認識です。

 今の教育現場では、もう中等教育から自分のキャリアについて精密な「キャリアプラン」を子どもに作らせたりしている。将来どういうところに進学して、どういう資格を取って、どういうところに就職して・・・そんなことについての具体的な見通しを、できるだけ早い段階で決定させようとしているということです。

 しかし、「僕は(おとなが)そんなことをさせてはいけないと思う」と氏はこの論考に記しています。それは、中学生の子どもが知っている職業なんて本当にごくわずかのものだから。実際、世の中には子どもたちがその名前も知らないような無数の職業が存在していて、そして、かなり高い確率で、今の子どもたちがその名も知らない職業にいずれ就くことになるということです。

 アメリカの研究によると、今年小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業後には「今はまだ存在しない職業」に就くとのこと。今の子どもがなりたい職業の第1位は「ユーチューバー」とされているが、20年前にはそんな職業自体が存在しなかったのがよい例だというのが氏の感覚です。

 なので、子どもたちに「将来、何になりたいの?」というようなことをうかつに訊くものではないと氏は話しています。子どもに将来の夢をうっかり語らせてはいけない。あまり深い考えなしに「将来〇〇になりたい」というようなことを一度でも口にしてしまうと、それが子どもの呪縛となって、それ以外の可能性を視野から遠ざけてしまう可能性があるということです。

 それよりも、子どもたちにはできるだけ開放的な未来を保証してあげることの方が、ずっと大切ではないかと氏はしています。今の子どもたちが将来どんな仕事に就くことになるかなんて、誰にもわからない。だから、「しっかりした将来設計」なんか左折必要がないというのが氏の見解です。

 人が仕事に就くときは、だいたいは向こうから声がかかるもの。「ねえ、ちょっと手を貸してよ」と言われて、つい「いいよ」と返事をして、気がついたらその道の専門家になっていたということは、実際によくあることだと氏は言います。

 別にその仕事が「将来の夢」だったわけでもないし、自分にその適性や能力があるとは思ってもいなかった。でも、他にやる人もいないみたいだから、じゃあ自分がやるかというふうにして人は「天職」に出会うことが多いということです。

 自分が面白いと感じる方に進んでいって、気づいたら(そういうものに)なっていた。可能性は、そうした「想定」を超えた(ある意味「運命」のような)出会いの中にあるということでしょうか。

 自身が自ら『志』を建てることは、確かに人生のどこかで必要かもしれないけれど、子どもの限られた経験と視野から見える将来、景色はあくまで限定的なもの。(余計なお節介はせず)そこに囚われることのないよう見守るのも大人の大切な仕事なのではないかと考える氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2258 子どもたちの視覚・聴覚を守るには

2022年09月18日 | 教育

 新型コロナウイルス感染症拡大により子どもたちの生活環境が変化したことで、特に視力の低下(近視になる子供の増加)への懸念が報じられています。

 実際、1979年に統計を取り始めて以降、子どもの視力は40年余りにわたって低下傾向が続いているとされています。

 文部科学省が公表している2020年度の学校保健統計調査によれば、裸眼視力が1.0未満の小中学生の割合は小学生で37.52%、中学生で58.29%高校生が63.17%と過去最悪を更新しています。

 統計を取り始めた1979年度は小学生で17.91%、中学生で35.19%、高校生で53.02%。それが10年後の1989年度には、小学生で20.60%、中学生で40.90%、高校生で55.81%となり、20年後の1999年度には、小学生で25.77%、中学生で49.69%、高校生で63.31%となっています。

 さらに2009年度には、小学生で29.71%、中学生で52.54%、高校生で59.37%まで落ち込んでいましたが、今回の調査ではそこからさらに数ポイントの低下が見られています。

 こうした子供たちの視力低下に関し、その要因の1つとされるのが、テレビやスマートフォン、ゲームなどの視聴時間(スクリーンタイム)増加です。

 「スクリーンタイムが増えると、近視が進む」という指摘は、既に世界のさまざまな研究論文で行われてきました。そうした中、国立成育医療研究センターが全国の小・中・高校生を対象に実施した調査では、2020年1~6月の約半年間で、どの世代もスクリーンタイムが実に8割程度も増加していること、1日当たりのスクリーンタイムが4時間以上の子供の割合は、小学生で約3割、中学生・高校生では5割を超えていることなどが判ったということです。

 文部科学省が進めるGIGAスクール構想の下、オンライン授業の普及など、教育現場でもデジタル機器の活用が進む現在、子どもたちの視力低下を防ぎ健全な成長を促すために何ができるのか。

 7月18日の日本経済新聞に、「若者の視覚・聴覚、低下の恐れ 生活習慣改善し歯止めを」と題する記事が掲載されていたので、参考までに小欄で紹介しておきたいと思います。

 文部科学省の2021年度の学校保健統計調査によると、裸眼視力が1.0未満の割合は小学生で約37%。年齢が高くなるにつれて増加する傾向にあり、中学生と高校生では6割超を占めている。

 外遊びが減り、ゲーム機やスマートフォンなどを操作する時間が長くなった影響とされているが、不適切な生活習慣によって数十年後、目がよく見えない、耳が遠いといった人が高齢者の多くを占めるようになれば、社会的影響はあまりに大きいと記事は記しています。

 21年度からは小中学校で1人に1台、パソコンやタブレット端末を配って行うデジタル授業が本格的に始まった。今後さらに視力低下の傾向が進めば、緑内障や黄斑変性など眼病を発症する人が増えるリスクも大きくなると、専門家は懸念しているということです。

 一方、聴力の低下は、内耳にある有毛細胞が加齢や騒音などによって壊れることが原因となると記事はしています。難聴は60代後半から急増するが、毎日のようにヘッドホンやイヤホンで音楽を聴く人が若年層を中心に増えていることから、難聴になる年齢が早まるとみる専門家も多いというのが記事の指摘するところです。

 いったん難聴になると治す方法は限られている。WHO(世界保健機関)からは、「世界で10億人以上の若年成人が有害な聴音習慣により永続的で不可逆的な難聴となり、2050年までに25億人近くが難聴になる可能性がある」という報告もなされているということです。

 では、どう予防すればいいのか。東京医科歯科大学の大野京子教授によれば、子どもが近視にならないため(1)デジタル機器を操作する際は背筋を伸ばした正しい姿勢をとる(2)画面と目との距離を30センチ以上離す(3)20~30分に1回遠くを見る(4)できるだけ屋外に出る時間を確保する――などの対策を講じるよう勧めているいると記事はしています。

 一方、難聴の予防では、音量を上げ過ぎないこと、連続して長時間音楽を聴かないことなどを専門家は呼びかけている。いずれも子ども任せにせず、親ら周囲も目を配っていくべきことだというのが記事の見解です。

 年齢を重ねると、何十年にもわたって使い続けた感覚器が"経年劣化"するのは避け得ない。ただ、高齢者の多くが光や音を感じる大切な機能を失っていく事態を座視すべきではないと記事は話しています。

 確かに、朝夕の通勤・通学の電車の中でも、学生たちは一様に耳にワイヤレスのイヤホンを差し、スマホを繰りながらゲームやSNSに興じている風情です。6インチかそこらのスマホの画面を、一日何時間を集中して見つめているのが成長期の身体にいいはすがありません。

 現代の利器とはいえ、不適切に使用し続ければいずれ、生活の質を低下させてしまうことにもなりかねない。一方で対処法も明らかになっており、教育や啓発活動を通じて歯止めをかけていく必要があろうと結ばれたこの記事を、私も興味深く読んだところです。


#2220 ベルマーク運動の罪

2022年07月30日 | 教育

 6月19日の女性のための総合情報サイト「週刊女性PRIME」に掲載されていた、『コロナを言い訳に断ってきたイヤなこと』と題する記事。「全国の女性1000人に聞いた(再開して欲しくないイヤなことの)TOP5」の第1位は、195人が挙げた「職場の同僚や友人との飲み会」の再開というもの。そして僅差の第2位は、こちらも全体の約2割(121人)の女性が挙げた、「脱マスクでメイクが必要に」なったというものでした。

 ここまでは、「なるほどな」「やっぱりな」という感じだったのですが、続く第3位が「子どもの学校行事の再開」というもので、堂々の131票を獲得していることには若干の驚きを禁じ得ませんでした。

 回答には「PTAの会合や運動会などのイベント準備が煩わしい」との悲鳴や、ママ友との付き合いの面倒くささを訴える声が多数残されているということです。学校でのPTA活動などについては、以前から活動内容の不合理性や運営の不透明さから「時代遅れ」との指摘を耳にしてきましたが、さすがにこれほどまでに(世のお母さん方に)嫌われているのは驚きといえば驚きです。

 確かに、周囲の(働く)お母さん方に聞いても、PTAの活動や役員への就任を強制されたり、平日の昼間の会合に出席を求められたり、さらには「誰得(誰が得するのかわからない)」なイベントの準備をさせられたりと、不満は募るばかりのようです。

 そんな話を聞いていた折、6月25日の総合経済誌『週刊東洋経済』に、「ベルのマークは非合理的な社会への警鐘」と題する興味深い記事が掲載されているのが目に留まったので、小欄にその内容を残しておきたと思います。

 子どもの学校の代表的なPTA活動のひとつ「ベルマーク運動」によって、ゴールデンウィークの貴重な一日をつぶされたという愚痴を友人から聞かされたと、筆者は記事に記しています。

 ベルマーク運動は、各校の備品整備を目的に、文部科学省の認可を受けた財団が行う活動として広く公立学校に定着している。協賛企業の商品に付いているベルマークを集めて財団に送ると、1点を1円に換算して協賛企業から資金が提供されるというもの。PTAはその資金を学校に必要な各種備品の購入代に充当する仕組みだということです。

 記事によれば、この仕組みには60年以上の歴史があるということで、(そう言えば)私自身も当時の担任の先生に言われ、母親の目を盗んではお菓子や食品など、家じゅうの商品から手当たり次第にマークを切り取ったのをよく覚えています。

 子どもの数が多く、学校の備品整備が追い付いていなかった時代、この制度が一定の役割を果たしたのは確かだろうと、筆者は記事に綴っています。

 しかし、大人になって、この活動が、学校にマークを持っていけばそれで終わりではないことを知った。集まったマークを協賛企業ごとに仕分けし、点数を計算して、それぞれの会社の整理袋に入れたうえで、財団に送る必要があるということです。

 一般的に、この作業を担っているのはPTAで、学校が開いている平日の昼間に、親が動員される学校も多いと記事はしています。

 数十人の大人が半日作業しても、得られる経済的価値はごくわずか。その拘束時間分を働いて時給を寄付した方が合理的という声にも納得できる。増してや最近は共働きの家庭も多い。わざわざ有給休暇を取得して、子どもと遊ぶ時間を犠牲にしてまでもやるべき作業ではないだろうというのが筆者の見解です。

 それでは、全国でこの運動を中止したらどうなるのか。子どもと外出する時間が増えて消費が増えるかもしれないし、仕事をして所得が増える親がいるかもしれない。どちらもGDPの増加に寄与するもので、協賛企業にとっても(外装のデザインコストなどを考えれば)寄付などの別の形で社会貢献をした方が効率がいいはずだと筆者は話しています。

 友人の子供の学校のPTAでも、過去に(一部の親たちから)運動廃止の提案があったが、「先人の気づき上げてきたものを自分の代で終わらせられない」との反対でとん挫したとのこと。いかにも日本的で笑ってしまうが、停滞する日本にはこの手の非効率・非合理が山のようにあるのだろうというのが、この記事で筆者の指摘するところです。

 さて、私も(私の親たちも)子どもの頃に参加させられてきたベルマーク運動。令和の時代まで延々と続けられてきていることがまず驚きですが、その間のデジタル技術の進歩にもかかわらずシステム自体が全く変わっていないことにも、学校という場所の持つ「保守性」のようなものが伺われる気がします。

 もとより、ベルマークのような取り組みについては、「みんなで集め合う気持ちが大切なのだ」といった「精神論」を持ち出す人もよく見かけます。しかし、戦時中の「千人針」ではないのですから、子どもたちによる廃品回収やペットボトルのキャップの回収なども含め、同調圧力を使って「努力」を無駄遣いするこうした効率の悪い取り組みはさっさとやめるべきだと私も思います。

 因みに、ベルマーク運動を主宰しているベルマーク教育助成財団は文部科学省認可の公営財団公人で、その設立や運営には朝日新聞や文部科学省OBなどが大きくかかわっていると言われています。

 半世紀以上に及ぶ活動で全国レベルのネットワークや利益の仕組みが固まってしまうと、市町村レベルの教育委員会や個別の学校長、ましてや一介のPTA会長では、なかなか簡単に「一抜けた」とは言い出せないプレッシャーのようなものがあるのでしょう。

 しかし、元来、学校教育に必要な備品の整備は自治体の役割のはず。ベルマーク運動などの保護者による労働奉仕に頼っていてよいはずがありません。コロナの影響も一段落したこの際、PTAの会員諸氏は(子どもを人質に取られているから…などとは言わず)はっきりと声を上げるべきだと思うのですが、果たしていかがでしょうか。


#2202 発達障害の子供が増えている理由(その2)

2022年07月08日 | 教育

 発達障害は、広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害など、脳機能の発達に関係する障害とされています。発達障害のある人は、他人との関係づくりやコミュニケーションなどが苦手とされますが、他方で優れた能力が発揮されている場合もあり、周りから見てアンバランスな様子(それは往々にして本人の「生き辛さ」として現れるのですが)が理解されにくいという特徴もあるようです。

 その行動や態度は「自分勝手」とか「変わった人」「困った人」と誤解され、敬遠されることも少なくないと言われています。物事へのこだわりが強かったり、人の気持ちに無頓着だったり、衝動的な行動を繰り返したり、そのほかにも不注意、多動、多弁などその行動を「うっとおしい」と感じる人は多いことでしょう。

 そんなとき、「彼は発達障害だから…」と誰かに聞けば、「それじゃしょうがないな」と確かに思うことでしょう。それで、彼に対して抱いていた「反感」のようなものが、きれいに消え去る人も多いかもしれません。

 しかし、その瞬間に芽生える「上から目線」というか、「諦め」というか「許し」というか、そうした感情が、それまでのお互いの(対等の)関係を崩すものであることは想像に難くありません。自分たちとは違った人、対等に話ができない可哀そうな人として保護される側に回った彼らは、(大げさに言えば)既に大切な人権の一部を奪われていると言ってよいかもしれません

 さて、そんな発達障害の子どもたちが一人の人間として人格を認められ、生き生きのびのびとその才能を発揮できるようにするにはどうしたらよいか。そこには、障害の実態をよく知る専門家と、開かれたな教育環境としての学校の存在が重要であることは言うまでもありません。

 現在、発達障害による学習や生活の困難の改善・克服を目的とした特別の指導である「通級指導」を受けている児童生徒数は、全国で約10万人に及ぶとされています。その数はこの16年ほどの間に約4倍にも増え、特別支援学級に在籍する児童生徒数もここ10年で2倍以上に増えているということです。

 (逆に言えば)これは、学校の(他の子どもと一緒の)授業だけでは学業についていけない子供や授業の妨げになる子供などが、それだけ急増しているということ。学校現場にとって、(彼らの存在が)教育上の深刻な問題(あるいは「差しさわり」)として受け止められていることの証左と見ることもできるでしょう。

 そうした中、深刻な問題としては、「発達障害」と診断された児童生徒の(こうした)増加に伴い、脳の中枢神経に作用する「抗精神薬」の(低年齢層への)投与が増えているという実態を懸念する声も大きくなっているようです。

 医療経済研究機構が2014年に発表した研究によれば、13歳~18歳の患者のうちADHD治療薬を処方された割合は、2002年~2004年と2008年~2010年を比較すると2.5倍にまで増加しており、ADHD薬ばかりでなく、抗うつ薬、抗精神病薬の投薬量についてもそれぞれ1.4倍に膨らんでいるということです。

 これらの薬剤の多くは脳の中枢神経に作用する抗精神病薬で、気持ちの高ぶりを(一時的に)抑えるといった効果を期待するもの。つまり、いずれも自閉症の根本的な治療薬ではないとされています。

 集団生活になじめなかったり、パニックを起こしやすかったりする子どもに対し、学校側が(こうした抗精神薬の)服用を勧めるケースなども多いと聞きます。しかし、眠気の誘因や意欲の減退などの副作用を伴う抗精神薬の(幼い頃からの)常用に関しては、その影響がよくわかっていない部分もあるようです。

 そもそも「発達障害」は病気ではなく「特性」であるため、「治る」とか「回復する」とかいった性格のものではありません。「ちょっと変わった人」である彼らを社会が受け入れるにはそれなりのハードルはあるとは思いますが、なぜここまでして子供を「障害」の枠にはめ、「治療」を行おうとするのか。

 一部には、子どもを「障害児」と見なすことで、子どもが「普通にできない」ことに苦しむ親たちが「自分の育て方のせいではない」(障害があるだから仕方がない)と気持ちを楽にさせることができるからだと指摘する声もあるようです。

 実際、子どもが「発達障害」と診断されたことで、「肩の荷が下りた」「穏やかに接することができるようになった」と話す親たちも多いという話をしばしば耳にします。

 勿論そこには親や学校ばかりでなく、現代の日本社会が、「普通」であることにそれだけの価値を置いているという現実があるのでしょう。発達障害と見なされる子どもたちが増えている背景にある、「普通でないものを認めようとしない」「普通でないものを排除する」力の存在を無視するわけにはいきません。

 さらに言えば、学校や社会において「普通」の範囲が狭まっているという現実もがあると考えられます。これまでは(「しょうがないな」とか「ああいう人だから」と」)大目に見られていた人や出来事を許容できない不寛容な時代、(「障害者」というエクスキューズでもなけれ)ば「ちょっと変わった人」が生き残れない容赦のない時代が、既に訪れているということなのかもしれません。

 


#2201 発達障害の子供が増えている理由(その1)

2022年07月07日 | 教育

 2005年に施行された「発達障害者支援法」は、それまで障害者福祉制度の枠外に置かれていた自閉症・アスペルガー症候群、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)などの症状を「発達障害」と定義して、国や自治体がそれぞれの特性やライフステージに応じた支援を行うことを法律です。

 法律の施行により支援が制度化されるまでは、知的障害を伴わない発達障害を持つ人は、福祉行政の狭間に置かれ(言葉は悪いですが)ただの「変な奴」「変わった人」として支援の対象とはなっていませんでした。しかし、「自閉症」「アスペルガー」といった言葉の浸透とともに、学校などにおけるLD児等の教育の困難性当が様々に指摘・注目されるようになり、現場の声を受ける形で公的な支援が始まったということです。

 厚生労働省では発達障害を、「生まれつきみられる脳の働き方の違いにより、幼児のうちから行動面や情緒面に特徴がある状態」と位置付けており、「自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害、チック症、吃音など」も含むとしています。

 そもそも、発達障害は原因が明らかでないため、血液検査や脳波などの数値で診断されるものではなく(国際的な診断基準や知能検査などの尺度はあるにしても)最終的には医師が問診により診断するものです。したがって、診断にあたっては、性格の連続的なグラデーションの中で、どこまでを「個性」とするか、どこから先を「障害」と見るかといった曖昧な要素もあり、多くの困難性が伴うことは言うまでもありません。

 では、実際、発達障害と診断される人はどれほどいるのか。日本における調査としては、2012年に厚生労働省が公立小中学校で約5万人の児童・生徒を対象に実施されたもの(「通常の学級に在籍する発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査」)が広く知られています。

 同調査によれば、発達障害児の割合は全体のおよそ6.5%。小学校1年生(当時)に限っては10人に1人程度(知的障害のある児童は除く)とされており、男子の方が女子よりも3倍程度多いとされています。そして、その約半数が、(他の児童とは別の)個別の指導計画の下での学習を余儀なくされているということでした。

 しかし、「10人に1人の割合」と言えば相当のもの。40人のクラスで4人が発達障害者として認識され、そのうちの2人が個別指導の下で教育を受けているとすれば、もはやどういう子供が「健常」で、どういう態度が「普通」なのかよくわからないといった声があっても不思議ではありません。

 知られているようであまり知られていない、こうした発達障害(児)の状況に関し、6月3日の埼玉新聞に、埼玉大学大学院准教授の佐藤雅浩(さとう・まさひろ)氏が「発達障害の流行について」(経済コラム「研究者の眼」)と題する論考を寄せています。

 文部科学省によれば、2017年の時点で「通級」(軽度の障害がある児童生徒を、一般の児童生徒とは別の特別な教育課程によって指導する制度)による指導を受けている小中学生の数は10万人を超えており、10年前から2倍以上に増えている。そして、その増加分の多くはADHDや学習障害、自閉症など、日本で「発達障害」と総称される特性を持つとされた児童が占めていると氏はこの論考に綴っています。

 2005年に施行された発達障害者支援法では、発達障害のある人々が円滑な社会生活を送れるよう、障害を早期に「発見」し支援を行うことなどを目的として制定された。前世紀まで、生活上の困難を感じていた「発達障害者」が、この法律やその後の諸施策によって少しでも生き辛さを軽減できたならこれほど素晴らしいことはないと氏は言います。

 しかし、この「発達障害」の概念に対しては、多くの専門家から疑問の声が上がっているというのが、この論考において氏の指摘するところです。その論旨は様々だが、診断基準のあいまいさや誤診・過剰診断の弊害、診断された人々の自己肯定感の低下などが強く懸念されている。営利目的の「発達障害ビジネス」に対して警鐘を鳴らす専門家もいるということです。

 こうした状況は、総じて過去の「神経衰弱」や「ノイローゼ」そして「うつ病」の時代と大きく変わっていない。病名が作られ、それが社会に浸透し、診断される人々が増え、論争が巻き起こるというプロセスの繰り返しだと氏は指摘しています。

 「発達障害」の場合は、「子ども」が主要な対象となっている点がこれまでの「流行」とは異なる。しかし、子どもの「障害」を気にするのは主として大人なのだから、やはり構図は似通っているというのが氏の認識です。現代社会の大人たちは、なぜこれほどまでに自他の(そして自分の子供の)心や脳の問題を「発見」したがるのか。そこに問題の根幹があるような気がしてならないと、佐藤氏はこの論考に記しています。

 「コミュ障」という言葉に示されるように「コミュニケーション力」がこれまでになく重要視されているこの時代、それは(おそらく)「良い人生とは何か」「望ましい一生とは何か」といった人生観の問題と、密接に関係しているのでしょう。

 「障害」の診断は、(子供たちの個性や性格が)これから生きていくのにどれだけの障害になるかというその一点で下される。発達障害の増加は、社会から期待される人間像と切り離して考えることが難しい、現代人の宿痾なのかもしれないとこの論考を結ぶ佐藤氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。

 


#2187 教員不足と「35人学級」

2022年06月21日 | 教育

 各地の学校で「教員不足」が起きているとして教育の専門家らのグループが緊急の会見を開き、正規教員の採用増加に向けた予算の確保など一刻も早い改善を国や自治体に求めたと、5月9日のNHKニュースが報じています。

 同グループが、全国公立学校教頭会を通じて行った調査によれば、回答のあった179人の教頭のうち約2割が、先月の始業式の時点で「教員不足が起きている」と答えたとされています。

 会見した日本大学の末冨芳教授は、「昨年度の国の調査では教員不足は2558人だったが、現場の感覚としてはもっと多い。『担任の先生がいない』などという状況は、子どもに不安と不利益を生じさせるため、一刻も早い改善が必要だ」と話しているということです

 なぜこうした状況に至ったのか。5月7日の朝日新聞は、(専門家の指摘によれば)「少人数教育の目的で配置された先生が担任に回るなどし、子どもの学習に影響が出ている」「その背景には時間労働などで教職が敬遠されていることがある」などとして教員の労働環境の改善を訴えています。

 一方に急激な少子化による児童生徒数の減少があり、もう一方に昭和50年代から60年代にかけて採用した教員の大量退職がある。そこに、35人学級の導入による教員定数の拡大と若手教員のなり手不足が加わり、一時的に需給のバランスを欠いたということでしょうか。

 いずれにしても、(年齢構成、専門科目、部活指導、そして育児休業への代替教員の確保など)それぞれの教育現場が(それなりの)混乱を見せているのはどうやら事実のようです。

 こうした状況について、慶應義塾大学教授の土居丈朗(とい・たけろう)氏が5月16日の「東洋経済オンライン」に、「公立小中高・特別支援学校は2056人の『教員不足』」 本音と建前が渦巻く文部科学省の教育予算」と題する論考を寄せているので紹介しておきたいと思います。

 ここにきて、にわかに注目されるようになった「教員不足」。文部科学省によれば、2021年5月時点でその数は全国で2056人に及ぶとされるが、その不足率だけを見れば全国の教員定数83万7790人に比して0.25%と、特段深刻なものではないようにも見えると氏は言います。

 ただ、確かに地域差は顕著で、公立小学校で最も不足率が高いのは島根県の1.46%。次いで熊本県が0.88%、福島県が0.85%となっており、文部科学省では教員不足が顕著な都道府県や政令指定都市の教育委員会に対し、教員の確保に取り組んでほしい旨訴えているということです。

 さて、こうして教員不足が問題視されるようになる中、一方で政府は、2021年度から小学校を「35人学級」にすることとした。これまでの学級編制の標準では、小学1年生だけが35人だったが、今後小学校の全学年を順次35人にすることにし、さらに2022年度からは小学校高学年の専門教科で、クラス担任とは別の「教科担任制」を置くことを決めたと氏は指摘しています。

 なぜこのような取り組みをするのか。その背景には、少子化によって児童数が減るのに合わせて教員の定数が減らされると「教員の雇用」が維持できない…という厳しい現状があると氏はしています。

 児童生徒数が減れば、機械的に文科省の基礎定数は減らされる。勿論、これに伴って教職員が減ったからといって、児童生徒の人数に比した教職員の数は減らないのでそれだけで教育の質が落ちるわけではないと氏は言います。

 一方、定数が減ったからといって、現実に雇用している教員が(その分)すぐにどこかへ行ってしまうということはない。公務員の定年延長が決まる中、現場の教員の生首を切るわけにもいかず、(基本的には)教員の高齢化と余剰の状況がそこには生まれているということでしょう。

 そこで文科省は(苦肉の策として)、「35人学級」とか「教科担任制」とかという名目をつけ教員定数が減るのを抑えることで、教職の雇用を守っていると氏はこの論考で指摘しています。

 児童生徒数の減少に合わせた教職員定数の減少を「自然減」と呼ぶなら、予算折衝の結果実現する教職員定数の減少は、自然減のおおむね半分程度とすることで既に与野党は決着している。(こうした文科省の苦しい事情も踏まえ)児童生徒数当たりの教職員数を増やすことを、国の予算は認めているということです。

 それでは、何が問題なのか。実際、全国的に「教員不足」が起きているわけではないので、予算をカットして採用する教員数全体を減らし過ぎたというわけではないと氏はしています。「不足」は増やした定数に対するもの。単に、「35人学級」などの名目で拡大された教員定数に対し自治体の教育委員会が教員を確保・配置できなかったことが、「教員不足」として問題視されている状況だというのが氏の認識です。

 さて、こうした現状を踏まえ、教員人件費に充てる予算は児童生徒数当たりの教職員数を増やす形で認められているのだから、目下、教員不足が真に深刻な現場があるのなら、一時的にでも「35人学級」や「教科担任制」を貫徹するのを止めて教員を再配置すればよいというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 なにせ、新型コロナ前の2019年度まで、「教科担任制」はなかったし、小学2年生以上は「35人学級」ではなかったけれども、教員不足が教育に重大な支障は来していなかった。そうであれば、(教員が足りないとされる学校では)35人学級などの新たな制度の導入を少し先送りしても実質的な問題はないだろうということです。

 さらに、「教員不足」を解消する方策はほかにもあると氏は言います。それは、外部専門人材を教務で活用したり、地域住民と連携して教員の業務負担を軽減したりすること。財務大臣の諮問機関である財政制度等審議会では、以前から、外部人材を活用すべく、教員免許状を持っていないが優れた知識経験を有する「特別免許状」をより一層活用すべきと提言してきたということです。

 2022年4月に、文科省は、この特別免許状の積極活用を地方自治体に依頼したこともあり、教育委員会はこの機会に、同制度を積極的に導入してはどうかと氏はここで指摘しています。

 教育を充実させることは、今の子どもたちにとっても、日本の将来にとっても、極めて重要であることは間違いない。そのためにも、(ただ受け身の姿勢をとるばかりでなく)各教育委員会は教員をどのように配するかにもしっかりと工夫することが必要だと話す少し厳しめの土居氏の指摘を、(こういう見方もあるのだなと)私も興味深く読んだところです。


#2109 公立学校の「選択制」を考える

2022年03月12日 | 教育


 もうすぐ桜の季節。4月からは小学校(中学校)の1年生、どんな学校生活が待っているのかと期待に胸を膨らませている子供たちも多いことでしょう。

 公立の小中学校の場合、普通は学校区(通学区)が決められていて、市区町村のどこに住民票を置いているかによって、自動・生徒ごとに市区町村の教育委員会が入学先の学校を指定しています。

 「僕は(私は)あそこの学校に行きたい」「うちの子供はあそこの学校に入れたい」と思っても、思い通りにはなりません。市区町村によっては(公立校であっても)教育環境に伝統のある有名校などがあって、子供をどうしてもそこに入れたいがためにわざわざ学区内に引っ越す保護者なども(それなりに)多いと聞きます。

 もちろん都会では「私立学校」という選択肢もあって、最近では(いわゆる)「お受験」をさせてでも、地元の公立校には行かせたくないと考える親たちも多いようです。

 令和2年の文部科学省の学校基本調査によると、全国の小学生630万693人(前年比6万7千857人減)のうち、国立小学校に通う児童は3万6千622人(前年比725人減)、私立小学校に通う児童は7万8千926人(前年比745人増)で、全国の割合としては約1.8%が国立小学校、私立小学校に通っているということです。

 一方、これを東京都内だけに限ると、国立・私立小学校への通学している児童は5.3%に達しており、小学生の概ね20人に1人が(お受験をして)地元小学校以外の学校に通っていることが判ります。

 通学できる範囲にそうした学校がある、そして幼稚園の段階から子供にお受験の準備をさせられる(恵まれた)環境にある家庭だけが「学校を選べる」状況にあるということが、こうした数字からは見て取れます。

 一昔前であれば、近所のお友達たちがみんな同じ学校に通うというのはごく当たり前で誰も疑問に思いませんでした。子供たちは皆おそろいの黄色い帽子などをかぶり、毎朝、通学班を組んで登校していたものです。

 しかし現実を見れば、教育環境や教員の資質、児童の雰囲気などは学校ごとに大きく異なり、いじめや不登校、教員間のいざこざなどが絶えない学校があるのも事実です。教育熱心な親たちが子供の将来を考え、評判の悪い地元の学校に子供たちを入れたくないと考えるのも(それはそれで)仕方のないことなのかもしれません。

 とは言っても、幼児教育に特別な手間やお金をかけられる家庭は一握り。両親が共働きだったり、母子家庭、父子家庭だったりすれば、子供を遠い私立に入れるわけにもいかないでしょう。

 たとえ「義務教育」だとしても、どうして公立の学校は「選ぶ」ことができないのか。義務教育の「義務」とはあくまで親に課せられているものであって、「子供が指定された学校に通う義務」があるわけではありません。

 日本では学校教育法施行令第5条に「市町村教育委員会が就学予定者が就学すべき小学校(中学校)を指定する」と定められており、一般に、個々の就学予定者が就学すべき学校の決定は、教育委員会が通学区域を設定する形で行われています。

 しかし、1997年に文部省(当時)が「通学区域制度の弾力的運用について」という通知を出し、就学すべき学校の指定に際しあらかじめ保護者の意見を聴取し、それを踏まえて就学すべき学校を指定することが認められることとなりました。3年後の2000年に、東京都の品川区が(先陣を切って)この制度を導入したことが話題に上ったのを覚えている方も多いかもしれません。

 そして、2003年には学校教育法施行令が改正され、市区町村の教育委員会の判断によって学校選択制を導入出来ることが明記されるに至りました。現在では、東京の区部などでこの制度を採用する地域が拡大しており、内閣府が2006年に行った調査では小学校の14.9%、中学校の15.6%が導入しているということです。

 しかし、だからといって、日本国内に暮らす子供たち(親たち)の誰もが自由に学校を選べるわけではありません。環境の良い学校・悪い学校、評判の良い学校・悪い学校は地元の親たちの間には広く共通認識されていて、自由に選ばせていたら収拾がつかない。選択には(それなりの)ハードルが設けられているのが普通のようです。

 一方、こうした学校選択制の導入は、市町村教育委員会や学校現場のレベルではかなり評判が悪いという話も聞きます。2008年には、江東区の教育委員会が「地域コミュニティーの崩壊を防止する」という観点から、小学校における学校選択制を「徒歩圏に限る」と変更しています。また、前橋市も2011年度から学校選択制を廃止したほか、長崎市も2012年度から制度を縮小したということです。

 少し古い調査結果ですが、2005年の内閣府の調査によると、保護者の6割以上が学校選択制の導入に賛成している一方、反対している保護者も1割程度あったとされています。選択制の導入に賛成する理由として最も多く挙げられるのは、学校間の競争によって教育内容が向上するのではないかとの期待であり、一方、反対する理由には学校間格差の拡大が主に挙げられたということです。

 勿論、教育現場では教職員組合などが中心となって、学校選択制の導入に反対の姿勢を崩していません。日本教職員組合は「学校選択制は学校の序列化・格差化をもたらし、受験競争・学校選択競争の低年齢化、教育機会・選択機会の階層差・地域差の拡大、社会的差別の顕在化、「ダメな学校」のレッテル、教育困難校の出現、問題児の追放などさまざまな問題が浮上する」…と指摘しています。

 また、学校の序列化による教育環境の不安定化を懸念する文部科学省の姿勢も、この制度の導入に決して積極的とは言えません。その声のトーンは(市区町村教育委員会への)「通学区域制度の弾力的運用」の奨励というレベルであり、「児童生徒等の具体的な事情に即して相当と認めるときは、保護者の申立てにより認めることができる」というのがその立場です。

 さて、確かに公立学校の選択制が広く認められるようになれば、教育現場には大きな混乱が見られるかもしれません。学校ごとの評判(評価)は入学希望者の多寡で一目瞭然となり、今は平和な各学校が(入学希望者というパイを奪い合う)競争環境に置かれることはほぼ間違いないでしょう。

 しかし、地域の保護者達が学校を評価する視点は「学力」ばかりではないのもまた事実。児童・生徒にとって「魅力のある学校」とはどのようなものかを教員が真剣に考え、各学校ごとに特徴を出し、「売り」を作っていくことも可能だと思います。

 管理者の能力や教員の資質により、学校の雰囲気や環境は大きく変わっていくはずです。成果が上がらない原因を、学校の管理職や教育委員会、ひいては子供や親にばかり押し付けるのではなく、自らが変わろうとしなければ公立学校は変わっていかない(だろう)とも感じるところです。

 誰だって、嫌な学校に行ったり、嫌いな先生に教わったりはしたくはないもの。(極端な意見であることはよくわかっていますが)公立の小中学校に関しては、この際、入学者に対する選択制ばかりでなく、担任の教師やそれぞれの科目の担当教員に関しても(「あの先生のクラスに行きたい!」といった)「選択制」を導入したらどうかと考えるのですが…果たしていかがでしょうか。


♯1865 教師による子供たちの性被害を防止するには

2021年05月30日 | 教育


 文部科学省の発表によれば、2019年度にわいせつ行為やセクハラで懲戒処分を受けた公立の小中高校などの教員は273人で、2018年度の282人に次いて 過去2番目に多かったこということです。そのうち、児童生徒に対するわいせつ行為が処分の理由だった教員は126人と全体の4割を超えており、学校現場における教員の資質の確保に関する問題の深刻さがうかがわれます
 「わいせつ行為」自体を理由に処分を受けた教員は174人で、年代別では20代が最多とされています。態様としては、「体に触る」が最も多く、通期途上や放課後、さらには授業中、休み時間、部活動の際に行われたケースなども多かったということです。

 実際のところ、こうしたわいせつ行為で処分を受けた公立小中高校の教員は1990年度は22人とされているので、(児童・生徒の数はかなり減っているにもかかわらず)以降の約30年間で10倍以上に達している計算です。
 もちろんこれば、その間に倫理観に欠ける教師が爆発的に増加したからではなくて、学校を巡る社会環境の変化により、隠されていた事実が明るみに出る機会が増えたからと考えるのが妥当でしょう。
 現在でも、事件として発覚するのは氷山の一角であり、被害者ですら気付かないケースも少なくないのではないかという指摘もあるようです。現実問題として、事件発覚後「同意だった」「恋愛関係にあった」と主張する加害教員も多く、こうした問題の本質には根深いものがあるのかもしれません。

 私も一時期、教育現場で仕事をしていたことがありますが、確かに「学校」という閉鎖された世界での「常識」は一般社会からはずれやすいところがあり、内部にいると(そうした「感覚」の違いに)気が付かない場合もあるので注意が必要です。特に部活動などでは、指導する側とされる側の一方的な上下関係が当たり前に受け入れられていたりするので、教師の側に一種の「勘違い」が生じる場面などもあるようです。
 さらに、未成熟で不安的な生徒に接する学校現場には、(べたべたされたり抱きつかれたりと)教師と生徒との間でも肉体的な接触がそれなりに生じる場合もあり、(特に若い教師の場合)教職員の側に一定の自覚と自己防衛の意識が必要なのは言うまでもありません。

 いずれにしても、こうして教員による児童・生徒へのわいせつ行為が後を絶たない現実を前にすれば、保護者としても安心して子供を学校に通わせるわけにはいきません
 教育は教員と児童・生徒の信頼関係があってこそ成り立つものであり、わいせつ行為はそれを根底から崩すことになるのは自明です。子どもは教員を選ぶことができないからこそ、学校の(そして教育委員会や文部科学省、そして政府の)責任として、問題の芽を摘む必要があるということでしょう。

 与党自民、公明の両党は4月26日、与党政策責任者会議で、子どもにわいせつ行為をした教員の再任を防ぐための議員立法を検討するワーキングチーム(WT)を設けると決めたと大手新聞各紙が報じています。新法には、免許を交付する都道府県教育委員会の裁量で、わいせつ事件などを起こした教員への教員免許の再交付を拒めるようにするなどの条項を盛り込み、今国会への法案提出を目指すということです。
 こうした状況を踏まえ、5月3日の日本経済新聞の社説は「性暴力から子供守る新法に」と題する主張を掲げ、今回検討が決まった新法に期待する内容を示しています。

 児童・生徒へのわいせつ行為で懲戒免職になった教員を学校現場に復帰させないため、自民・公明両党が議員立法で提出する新法の枠組みが固まったと記事は記しています。
 まず、懲戒処分で教員免許が失効しても最短3年で再交付が可能となっている現行法の規定を、事案の悪質性や本人の更生の可能性などを総合的に考慮し、再交付しない裁量を都道府県教育委員会に与える制度に改めるということです。

 ここで評価できるのは、わいせつ行為を「性暴力」と定義し、教委に厳正処分を義務付けた点だと記事はしています。体罰に関しては、学校教育法で問題のある児童・生徒に対して教師に一定の懲戒権を認めているが、新法では、児童・生徒の同意の有無にかかわらず、スキンシップなどの名目で行われる過度な身体的な接触も「性暴力」になるということです。
 しかし、そこには課題もある。免許再交付の裁量を与えられた教委には、透明性のある審査で、問題教員を二度と教壇に立たせない厳正な処分を下す決意が求められると記事はしています。
 国家資格である医師免許では、刑罰が確定した後、法務省から厚生労働省に情報が提供され、事件の経緯や示談の有無、再発防止策などについて本人の弁明を聞く。これを踏まえ、国の審議会が免許取り消しなどの処分を決めているということです。

 一方、教員免許は国家資格ではなく、都道府県教委が交付するものであるため、統一的な判断基準の指針を定める必要がある。望ましい手続きについて議論を深めてほしいというのが記事の主張するところです。
 教員からわいせつ行為を受けた人へのアンケートでは、約8割が「その当時、性被害と認識できなかった」と回答したということです。後に被害を認識し、申告しても教委が問題発覚を恐れ調査しない事例も多いと記事は併せて指摘しています。

 確かに学校現場では、被害の詳細を調査することで生徒が再び傷つくことや、事件を公表することによる被害者への影響を恐れて、教員によるわいせつ事件を公にしない場合も多いと聞きます。
 少し前の数字になりますが、朝日新聞の調査によれば、2005~15年度に行ったわいせつ行為を理由とした公立学校教員の懲戒処分について、都道府県と政令指定都市の教育委員会の約4割で処分そのものを公表しなかったケースがあるということです。

 私自身、学校現場でこうした問題が起こるのにはそれなりに根深い原因があり、事件を起こした教師の教員免許を取り上げればそれですべてが解決するとは思いません。しかし、もしも学校現場に教員相互の「見て見ぬふり」を許したり、教育的配慮を隠れ蓑に問題を隠ぺいするような体質があるとすれば、それが児童生徒のためにならないのは自明です。
 そうした視点に立ち、まずは教育委員会の「ことなかれ主義」を改めることが肝心だと結ぶ記事の指摘を、私も重く受け止めたところです。



♯1843 「♯教師のバトン」プロジェクト

2021年05月07日 | 教育


 現職の教員たちの声をSNSを使って広げることで、若者たちに教員という仕事の魅力を伝えたいと始まった文部科学省の「『#教師のバトン』プロジェクト。しかし、その意に反して同SNSに批判的な投稿が相次いだことを受け、文部科学省で同プロジェクトを主導する総合教育政策局長の義本博司氏が「いただいた厳しい声を勤務環境の改善につなげていく」と釈明したと4月8日の毎日新聞が伝えています。

 このプロジェクトは、学校の「働き方改革」の好事例などを現場の教師に「#教師のバトン」というハッシュタグを付けてツイッターに投稿してもらい、教員を目指す人たちに仕事の魅力を知ってもらおうというもの。省内の若手職員たちの発案で3月26日にスタートしたが当初の思惑とは異なり、仕事の過酷さを訴えたり文科省を批判したりする教員たちの投稿で溢れかえり、企画は一時「炎上」したということです。

 同プロジェクトに寄せられた声は、(投稿に校長の許可などを必要としないとされたこともあって)長時間労働や部活動の負担など学校現場の実情を訴えるもので占められた。「夢を叶えて教員になったけど10年もたなかった」とか「とてもじゃないが若者にバトンを渡せない」など、教員の窮状を訴える内容ばかりだったということです。

 私の周囲にも教員を生業にしている者が何人かいますが、確かに彼ら彼女らの話を聞いていても現在の学校がそれほど魅力的な職場とは思えてきません。出てくるのは無能な管理職の話や使えない新任教師の話、どうしようもないモンスターペアレントの話ばかりで、肝心の子供の話はあまり聞かないのも事実です。

 教育の現場が大人たちの人間関係で疲れてしまっているからなのか、書類作成や部活の面倒などでいっぱいいっぱいになってしまっているからなのかはわかりませんが、口にされるのは教員の置かれた現状への不満ばかり。「学校をどうしよう」とか「どうしたい」とかいった建設的な意見をあまり耳にする機会は随分と少なくなりました。

 一方で、教員による児童生徒へのわいせつ事件の多発なども報じられている昨今、このままいくと教育の最前線である学校はどうなってしまうのか。このような状況を前に、作家の橘玲氏は『週刊プレイボーイ』誌の4月12日発売号に、「「#教師のバトン」であらわになったブラックな教育現場の構造的な問題」と題する興味深い一文を寄せています。

 職場への不平不満が大量に投稿され大きく炎上した文部科学省の「#教師のバトン」プロジェクト。この「野心的」なプロジェクトの背景にあるのは、教員志望者が減っているという危機感だと、橘氏はこのコラムで説明しています。

 2021年から5年かけて、小学校のクラスの上限を40人から35人に減らすことが決まり、教員が新たに1万4000人必要になる。ところが現場では高齢の教員が定年にさしかかり、毎年1万人以上が離職している状況だと氏は言います。
 教師不足を解消するには大量の採用が必要になる。しかし、2020年度の小学校教員採用試験では倍率が2.7倍と過去最低を更新し、人材の質を保つ下限とされる3倍を大幅に下回った。報道からは、採用担当者の「正直、教員免許さえ持っていればいい」との本音まで届いてくるということです。

 そこで文科省は、「学校はブラック職場」とのイメージを変えるべく、SNSを使って学校改革のさまざまな試みを広く知ってもらおうと考えた。しかし実際には、「土日もすべて部活に捧げる」「1日の平均労働時間は11時間超」「教師なんかにならないほうがいい」のオンパレードで、完全に逆効果になってしまったということです。

 そもそもこの問題がやっかいなのは、まともな学生が教職を避けるようになると、それによって教師の質が下がり、親の不満や不安が大きくなることだと氏は指摘しています。
 親が子どもの担任に抗議するとモンスターペアレント扱いされるが、“わいせつ教員”が過去最高になったなどの報道を見れば親が疑心暗鬼になるのも無理はない。「負のスパイラル」によって公教育の質がますます低下すれば、経済的に余裕のある家庭は子どもを私立に入れて自衛しようということになり、社会の「格差」と「分断」が進むだけだというのが氏の認識です。

 だったらどうすればいいのか? 簡単な解決策はないが、(「#教師のバトン」を見る限り)教師の仕事を過酷なものにしているものの一つが「部活動」にあるのは間違いないと橘氏はこのコラムに記しています。

 日本では教師を「聖職」とし、子どものために滅私奉公するのが当たり前とされているが、欧米の多くの先進国の学校では放課後の部活動を地域のスポーツサークルにアウトソースしている。少なくともヨーロッパの学校のように学校は授業のみを行なうようにすれば、教員の「働き方」もずいぶん楽になるのではないかということです。

 さて、確かに橘氏も言うように、かつては尊敬される職業とのイメージが強かった教員の職場環境や意識も、昨今では大きく変化しているようです。
 そうした中、(文科省の責任か、マスコミの責任か、それとも教師自身の責任かはわかりませんが)学校と言えばブラックな職場、教員と言えば給料は安く仕事はつらく責任が重いだけの仕事、そういったイメージが定着しつつあります。

 そこでさらに、社会的にも評価されず生徒にすら馬鹿にされると教師自身が自嘲すれば、誰も後に続きたいとは考えなくなるでしょう。
 そのような状況を鑑みれば、公教育の質を上げていくためにはまずは教員の待遇を改め、教員の意識を前向きにするところから始める必要があると考えるのですが、果たしていかがでしょうか。




♯1725 GIGAスクール構想とオンライン教育

2020年09月17日 | 教育


 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、接触機会の削減を図れるオンライン授業の早期普及が重要視されています。

 実のところ、コロナ問題が大きくなる以前から、政府は学校におけるICT教育を計画的に推進する「GIGAスクール構想」(GIGA=Global and Innovation Gateway for All)の取り組みを進めていました。

 この政策は、小学校・中学校の「義務教育を中心に、児童生徒への1人1台のパソコンの整備と、学校の高速大容量の通信ネットワーク、クラウド環境などのハード整備を(5年間の計画期間に)整備していこうというものです。

 「GIGAスクール構想」は2019年度の補正予算案で初めて予算化され、2318億円(公立2173億円、私立119億円、国立26億円)が計上されました。

 さらに、今回のコロナウイルスの学校脅威幾への影響を鑑み、2020年度の補正予算において「1人1台端末」の実現の前倒しのために1,951億円、家庭学習のための通信機器の整備支援に147億円、学校ネットワーク環境の全校整備費用として71億円などを、新たに予算化したところです。

 学校や家庭におけるICT+ネットワーク環境を一気呵成に整備するため、こうして集中した投資を行おうという政府の意気込みは判りますが、果たして教育の現場はついていけるのでしょうか。

 また、(仮に)ハード面における環境整備は間に合ったとしても、世界的にも遅れていると言われる日本のICT教育・オンライン教育は、児童生徒に対して肝心の効果を上げることができるのでしょうか。

 8月22日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」では、「オンライン教育を阻む壁」と題する一文において、ハード整備だけでは超えることのできない日本の学校現場におけるICT教育のハードルについて、厳しい指摘をしています。

 文部科学省は昨年末、全国の小中学生に1人1台の学習端末を配備する「GIGAスクール構想」の目標達成時期を、従来よりも3年早めた2020年度中とすることとして補正予算を組んだ。

 しかし、オンライン教育が、オンライン診療やテレワークのように進展しているかと言えば、実態は決してそうではないようだと、筆者はこのコラムに記しています。

 新型コロナウイルスによる一斉休校が長引いたことで、公立の小中学校では大量の自宅学習の要請が家庭にきた。そして変則的な授業を続けることを余儀なくされ、(少なくとも現状では)教育現場は夏休みを短縮するなど授業の遅れを取り戻すことに必死だということです。

 しかし、この遅れを取り戻すためにリアルの授業とオンラインを組み合わせるなどといった話はほとんど聞こえてこない。オンラインをうまく活用している学校の事例が耳目を引くが、ほとんどの公立学校ではオンライン教育どころではないというのが実態だろうというのが筆者の認識です。

 学校の現場はなぜ変わらないのか。一つの理由として、教育現場におけるデジタル機器の整備が遅れているのは確かに明らかだと筆者は言います。

 経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(2018年)によれば、15歳の生徒を対象とする授業でのICT機器の利用率は、調査対象79カ国の中で日本が最低だった。だからこそ文部科学省はICT(情報通信技術)教育に向けて大きくかじを切ったはずだということです。

 実際、文部科学省は、デジタル機器普及の自治体間の格差や家庭における端末の利用環境の格差が、オンライン教育普及の障害となっていると指摘していると筆者は説明しています。

 しかし、(それ以前の問題として)より本質的なハードルとして指摘されるべきなのは、文部科学省の政策がハード整備に偏重していることではないかというのが、このコラムにおける筆者の見解です。

 機器を整備するだけでオンライン教育は進むのか。「GIGAスクール構想」には、整備したICT危機をどう活用していくかという視点が余りにも弱すぎると、筆者はこのコラムに記しています。

 ICT教育では、リアルの授業とオンラインを組み合わせるためのカリキュラム改革が重要となる。そこには、機器上で教師や友達とどう時間を共有するのか、教材ソフトは用意されているか、課題を提出・添削・フィードバックする仕組みはあるかといった、様々な問題があるということです

 それにもかかわらず、文部科学省の構想はこうした部分には触れず、肝心のソフト面の対応は自治体任せ。ICT教育推進と言いながら、本音ではオンライン教育を現在のリアルの授業を補完する遠隔授業の一手段程度にしか考えていないのではないかと筆者は懸念を表しています。

 確かに、学校には教育の専門家はいてもICTの専門家は置いていません。さらに、肝心のこうした環境を使って何ができるかが現場任せでは、折角の投資が無駄になる可能性も決して低くはないでしょう。

 道具はそろった、でも師匠はいないし使い方もわからないでは、環境整備を2年や3年前倒ししたとしてもオンライン教育が進むはずがない。さらに、肝心の「オンラインで何をやるのか」がはっきりしていなければ、その効果も測れないと考える筆者の指摘を、私もさもありなんと受け止めたところです。

♯1631 対応遅れる日本の公教育

2020年05月30日 | 教育


 文部科学省が4月21日に公表した休校中の公立学校が実施する家庭学習についての調査によれば、4月16日時点で休校中、または休校予定の1213の自治体のうち、教師と子どもが双方向でやりとりできるオンライン授業に「取り組む」と回答したのはわずか5%(60)に過ぎず、65の自治体では新しい教科書の配布さえ済んでいなかったということです。

 家庭におけるパソコンやネット環境の問題などもあるのでしょうが、3月当初から続く臨時休校期間を考えれば、(いくら公立と言っても)何らかの対策が講じられてしかるべきと考えるのは私だけではないでしょう。

 一方、都内の中高一貫校(私立)に子供を通わせている知り合いなどの話を聞く限り、学校が手配した専用ノートパソコンで毎日担任とのやり取りが行われており、4月からは1日数時間ずつのオンライン授業も実施されているということです。

 授業を聞くことが全てだとは言いませんが、通う学校によって生徒の学習環境にこれほどの開きがあるとすれば、休耕期間が長くなればなるほど教育格差が広がることは想像に難くありません。

 その年代の子供がいないため私自身はそれほど気に留めてきませんでしたが、新学期に入った大事な時期に、こうして長期休業が続いた教育現場の実態はどのようになっているのか。

 5月29日の東洋経済オンラインに、一般社団法人アルバ・エデュ代表理事の竹内明日香氏が、「私立と公立「教育格差」、長期休校が映した現実」と題する興味深いレポートを寄せています。

 日本全国の小中学校のうち私立と国立の学校が占める割合は、両方合わせて小学校でわずかに2%、中学校でも8%に過ぎないと竹内氏はこのレポートに記しています。

 しかし、これを港区、千代田区、文京区などの東京都都心部だけに限ると、(詳細を示す統計はないものの)区内の中学生の半数近くが私立学校に通っているというデータも見られるということです。

 世帯所得で全国1,2を争うこうした地域でなぜ私立学校の人気が高いと言えば、それは勿論、有名大学への進学に有利だと考えられているから。実際、東京大学の2020年合格者数ランキングを見ても、出身校トップ10の全てが私立か国立の中高一貫校で占められているということです。

 ちなみに早稲田大学は合格者トップ10のうち9校が、慶應義塾大学は、うち8校が私立中高一貫校。これらの大学からの省庁や大手企業への就職者は多く、政官財において大きな影響力を持っているも考えられます。

 そして、そんな私立校と一般的な公立校の間の学力格差は、このコロナ禍によってさらに広がりつつあると氏はこのレポートに綴っています。

 政府の緊急事態宣言に伴う長期休校期間中、私立の多くは、このコロナ休校下でオンラインを活用したホームルームや授業に取り組んでいる。氏によれば、首都圏模試センターの調査に回答した私立中学校100校中、64%がオンラインによるやりとりをしていると答えたということです。

 一方、オンライン化を進めた公立は5%に過ぎず(4月16日時点、休校中または休校予定の1213自治体についての文科省調べ)、受験生などを抱える家庭では(やむを得ず)進学塾や家庭教師のオンライン授業で勉強させているという実態も浮かび上がっていると氏はしています。

 日本全国を見渡すと、ほんの一握りの子どもたちにはオンライン教育によってステイホームしながら安心と学びが享受されている中で、それ以外のほとんどの子どもたちには教育を得られる機会が限定されているというのが氏の指摘するところです。

 さらに竹内氏は、日本の教育におけるICT機器の普及率が調査対象77カ国中66位に過ぎず、教員のICT教授スキルに至っては77カ国中最下位という現状(OECD新型コロナに関する緊急調査)にも危機感を抱いています。

 世界銀行の調査でも、中国の小中学生約2億人は2月9日からオンライン授業を受けていることがわかる。ジャマイカ、メキシコなどの予算の限定されている途上国でも、(日本以上に)教員の研修にも注力している様子がうかがえるということです。

 一方、日本では、休業中の教育活動については各自治体や学校ごとにバラバラの対応をとっており、(休校措置の解除後)何とか安全に学校施設に通学させることに主眼を置いている割合も高いというのが氏の認識です。

 依頼を受けてオンライン授業を始めたという学校に伺っても、(その実態は)パソコンの操作もままならない年配の教員も多く、ハードの手当て以前に教員のソフトスキルを早急にサポートする必要を強く感じたということです。

 今後もこのような世界との乖離状態が継続すれば、今の日本の小・中学生が今後、社会の担い手となった頃の産業の展開、国力の動向にも大きく影響しかねないと、氏はこのレポートで懸念を表しています。

 コロナ下の緊急的な措置としてばかりでなく、ここで公教育の教育革新が一気に進めば、過疎地域、不登校、学級閉鎖時の対応にも活用できるというのが、このレポートにおいて氏が強く主張するところです。

 効率的に創造的な成果を上げるためには、学校における授業とオンラインを通じた自宅学習を組み合わせることが、ポスト・コロナにおける(世界的な)公教育のニューノーマルとなってくるということでしょう。

 そうした視点から、「緊急事態宣言が解除され「どう登校させるか」に議論が移り、せっかく盛り上がってきたオンラインの取り組みへの機運が鈍るのはもったいない。(私立学校などとの教育格差をさらに広げないためにも)コロナ期の一時的な課題対応として終わらせてはならない」とこのレポートを結ぶ竹内氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


♯1452 いじめを科学するということ

2019年09月20日 | 教育


 いじめを原因とした小・中・高校生らの自殺や不登校など重大事案が後を絶たない中、「いじめ防止対策推進法」の改正に向けた動きが暗礁に乗り上げていると5月9日の産経新聞が報じています。

 同改正案については、馳浩元文部科学相を座長とする超党派の国会議員による勉強会が試案をまとめ、それをもとに先の通常国会での改正を目指しました。しかし、学校側の義務を明確化する規定などが盛り込まれなかったため、被害者家族らがこれに強く反発した経緯があります。

 一方、学校側の義務規定を定めることに関しては「現場を萎縮させる」として反対する意見もあり、法改正は(問題解決の目途が立たないまま)次の国会に持ち越されているのが現状です。

 2019年版の『自殺対策白書』によれば、2018年1年間に10代で自殺した599人のうち、特定できた原因・動機のなかでもっとも多かったのは「学校問題」とされています。

 もちろんその中には、いわゆる「いじめ」ばかりではなく「学業不振」や「進学問題」なども含まれるわけですが、学校内の人間関係が良好でさえあれば子供たちの自殺はそれなりに防げたのではないかとも感じられます。

 いじめの深刻化が、子供の生死にかかわる問題として大きくクローズアップされている現在、もう少し違った(客観的な)アプローチができないかと考えていたところ、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が自身のブログ(「橘玲の日々刻々」2019.7.18)に掲載していた『いじめの解決には、教育に「科学」を導入し、いじめの温床になっている「学校風土」を実践的に変えていく方途を探ることが必要』と題する論考が目に留まりました。

 いじめによる重大事案が表に出るたびに、メディアは教員や学校や教育委員会、自治体などを標的として厳しい批判を繰り返しています。

 (勿論、非難されるべき事実がそれなりにあったとしても)こうしたバッシングの本当の理由は、マスメディアの役割が「不愉快なことや不気味なことが起きたとき、犯人(誰に責任があるか)を特定して大衆を安心させること」だからだと、橘氏はこの論考に綴っています。

 学校をどれだけバッシングしてもいじめはなくならないし、教師が一方的に批判される社会では優秀な若者は教職を目指さなくなるだろう。さりとて(匿名空間を使って)タブーとされている「親批判」を繰り返しても、議論は終わりのない罵り合いになるほかなないというのが氏の認識です。

 だったらどうすればいいのか。それは、誰もが納得できるいじめの定義と対処法を「科学」によって示すことだと氏はしています。

 いじめ対策には、(学校にスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーを配置したり、児童相談所、警察、福祉機関との連携をはかるなど)多額の税金が投入されている。にもかかわらず、いじめが顕著に減っているというデータはないのだから、科学的見地から効果の測定を行う必要があるということです。

 実際、欧米ではいじめの実態がさまざまな視点から研究されていると氏は説明しています。

 例えば、いじめの加害者については、多くの研究で「生まれながらの気質、保護者の養育態度」などが大きな影響を与えていると指摘されている。

 6~16歳のときにいじめの「加害者」だった子どもは、19~26歳のときに反社会性パーソナリティになるリスクが4倍程度になり、成長してからのうつ、不安障害、パニック障害、自殺企図などのリスクが(そうした経験をしていない者より)高かったということです。

 一方、いじめの「被害体験」は、不安、抑うつ、社会的機能不全、さまざまな身体症状に関連し、長期的な影響を与えることもわかっていると氏は言います。

 いじめと自殺が関連するのは日本だけではなく、いじめ被害者はそうでない者に比べて、自殺念慮のリスクが2.4倍、実際の自殺企図経験が2.5倍になるとの研究もあるということです。

 もちろん、こうした研究で相関関係があることはわかっても、因果関係までは確定できません。反社会パーソナリティだからいじめの加害者になったのかもしれないし、抑うつ傾向や発達障害を原因としていじめの被害にあう子供も当然いるでしょう。

 一方、「いじめの被害者にも問題がある」との暗黙の常識は、加害者を免責しいじめの構造を温存することにしかならない。しかし、(だからと言って)これは「すべての子どもにいじめ被害者になるリスクがある」という一般論を繰り返せばいいということではないというのが、この問題に対する橘氏の認識です。

 欧米では、いじめ被害と自己責任を切り離したうえで、被害にあいやすい類型(タイプ)が研究されていると氏は指摘しています。

 累計で見れば、例えばそれは、
1 誘発型被害者:「理屈っぽい」「怒りやすい」「パニックになる」「反応がよい」ことから加害者を刺激しやすい
2 受け身(孤立)型被害者:「受動的」「静か」「友だちが少ない(もしくはいない)」「社会性に欠ける」ことから、加害者が何をしても(いじめても)影響がないと思われる。
3 捌け口型被害者:「弱く、失敗をしやすい」「いじめを怖がっている」と思われることから、集団のなかでスケープゴート的に(集団の結束のために)いじめられてしまう。
というもの。

 橘氏によれば、このうち「孤立(友だちがいない)」はいじめ被害のリスクを1.42~1.89倍にし、学業成績が悪いことはいじめ被害のリスクを2.08倍高めるが、逆に学業成績がよいこともリスクを1.27倍に高めるとされるということです。

 また、保護者が教育に無関心であることはいじめ被害を1.65倍高めるが、同時に加害者になるリスクも1.66倍にしてしまうという研究結果もあるようです。

 こうした科学的な研究結果を踏まえ、欧米ではさまざまないじめ予防プログラム(グループワーク)が導入され、その効果が確認されているものもあると橘氏はこの論考で指摘しています。

 制度や環境が異なるのでそのまま使うのは難しいとしても、(わが国でも)効果の判然としない「対策」をいたずらに積み重ねるより、こうした「科学的な視点」を採り入れたほうが、教師ばかりでなく保護者もずっと納得感が高いのではないかと氏は言います。

 いずれにしても、行政機関や文部科学省などが行うべきことは(いじめによる悲惨な事件が起きるたびに)血眼になって個別の事象の「犯人さがし」をすることではないというのが、この論考における橘氏の見解です。

 確かに加害者や教師の責任をあげつらえば、被害者の留飲は下がり世間も(それなりに)納得するかもしれません。しかし、いくらいじめっ子や教育委員会を非難、糾弾しても、それだけで教室からいじめがなくなるとも思えません。

 学校や家庭における人間関係、教員の子供への態度など、教育に「科学」を導入し原因と結果を様々なパターンに整理したうえで、いじめの温床になっている「学校風土」を実践的に変えていく方途を探ることこそが、いじめによる重大事案の解決に向けた近道になると考える橘氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



♯1441 広がる勉強時間格差

2019年09月01日 | 教育


 文部科学省が8月末に公表した「21世紀出生児縦断調査」によると、学校外での勉強時間は高校生になると大きく減少し、「勉強しない」生徒の割合が大幅に増えているということです。

 この調査は、子供の生活や学習の状況などを継続的に調べるため、全国の2001年生まれの子供を対象に毎年実施しているものです。17回目に当たる2018年調査では、現在の高校2年生約2万5000人から回答を得ているということですから、かなり大掛かりな信憑性の高い調査といえます。

 調査によれば、2001年生まれの高校生(現在の高校2年生)が授業の予習・復習や受験勉強のために学校外で勉強する時間は、平日は「全くしない」が約3割、「1時間未満」が約3割と続き、「1時間~2時間未満」も約3割に上っている。つまり、1日に2時間以上家庭学習をしている高校2年生は、全体のわずか1割という計算になります。

 一方、興味深いのはスマートフォンの使用時間で、最も多かったのは「3時間以上4時間未満」の約2割(19.9%)。「6時間以上」という回答も約2割(19.0%)で、3時間以上が全体の65.4%を占めていたということです。

 高校生の3割が平日は(学校以外では)全く勉強せず、1時間以上勉強しているのは全体の4割ちょっと。一方大半の高校生が1日に3時間以上スマホをいじっているという現実をどう見るのか。

 普段は目にすることのない若者のこのような変化に関し、教育社会学者の舞田敏彦氏が8月21日のNewsweek(日本版)に「都市部で広がる子どもたちの勉強時間格差」と題する論考を寄せています。

 親や教師からの「勉強」への圧力が弱まる中、高校生の学校以外での勉強時間は1970年代から1990年代にかけて急激に短くなり、その減少幅は親が低学歴のグループで特に大きかったと舞田氏はこの論評に記しています。

 2002年に完全実施された「ゆとり学習指導要領」の下、外圧がなくても勉強する生徒とそうでない生徒との間で勉強時間の階層格差が開いている。結果として、勉強時間(=学力)の階層格差が大きくなりつつあるのではないかと舞田氏はこの状況を説明しています。

 毎年実施される『全国学力・学習状況調査』によれば、最新の2019年のデータで秋田県の小学6年生の平日の家庭学習時間は1時間台の児童が半分以上を占めており、極端に長い子と短い子に分かれていないということです。

 秋田県では学校で配られるオリジナルの自習ノートで、全ての子どもが一定時間普通に机に向かう習慣がついている。これこそが、全国でも学力最上位となる要因の一端だというのが氏の指摘するところです。

 一方、子供の平均学力で最下位周辺を定位置とする大阪府では、勉強する子としない子の分化が大きいと氏はしています。

 3時間以上が13.5%である一方で、30分未満も16.7%。これは、塾通いしている子とそうでない子の差と考えられ、6年生になると中学受験の準備をする子が多くなるので、宿題を出さない学校も増えることも原因となる。

 さらに、大阪府の小学生の保護者の家庭には生活保護世帯のような困窮層が相対的に多いく、子どもの勉強時間の散らばりが大きいことも指摘されているということです。

 さらに、他の都道府県についても同様に調査していくと、(秋田のように)勉強をしない子とする子の分化が小さい県と、(大阪のように)その差が大きい県に分かれていることが判ると氏は言います。

 後者には都市部の県が多く、塾通いしている子としていない子の差、若しくは家庭の経済格差が相対的に大きいことによるものと考えられるということです。

 「意欲格差」という概念を提起し話題となったオックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏の調査(『階層化日本と教育危機』有信堂高文社)では、親が低学歴のグループで勉強時間の減少が大きく、一方でこの群の生徒の自己有能観は高いという結果が示されている。とりわけ、学校の成績での成功物語を否定する生徒の自己有能観が高いのが特徴だと舞田氏はこの論考で説明しています。

 そして、そこから分かるのは「下層の生徒が自発的に勉強(学び)から降りている」ということだと氏は言います。「学校での勉強が全てではない、やりたいことをすればいい、自己実現が大事だ」という言説があるが、勉強が振るわない(下層の)子どもほどそれに飛びつきやすいということです。

 情報や刺激が飛び交っている都市部では、特にそうだろう。これが放置されるなら、じわじわと静かな形で、日本社会の階層分化が進むことになるというのが氏の懸念するところです。

 学校での勉強(学び)を否定し、個性や自己実現を美化する風潮が強まっているが、社会の構成員が共通して習得すべきベーシックな学力や教養が疎かにされるべきではない。個性化・多様化とは、しっかりとした共通教育(教養)の上に立つべきものだというのが、こうした状況に対する舞田氏の見解です。

 格差の再生産や固定化を防ぐためにも、学ぶこと、成長することへの意欲を喚起できる教育の在り方が問われているということでしょう。

 子どもの勉強時間格差から日本社会の階層分化の兆候が見て取れる現在、自己責任の名のもとに「勉強から降りるのは当人の自由だ」と早い段階から切り捨ててしまうのは教育を受ける権利の侵害にほかならないと指摘する舞田氏の主張を、私も興味深く読んだところです。


♯1440 勉強しない日本の高校生

2019年09月01日 | 教育


 国立青少年教育振興機構が今年3月に公表した「高校生の勉強と生活に関する意識調査報告書」では、日米中韓の4か国の高校生(それぞれ1500~2000人)に、(宿題などに費やす)平日における学校外での勉強時間を聞いています。

 これによると、「3時間以上」と答えた割合は中国が16.0%と最も多く、次いで韓国の13.8%、日本の13.2%とほぼ同数で、アメリカでは4.4%で極めて少数派であることが判ります。

 教育熱心な中国や厳しい学歴社会の韓国では、高校生たちも(親の期待に応えようと)頑張っているのでしょう。なので、「全く勉強しない」と答えた者の割合は中国が7.6%で最も少なく、次いで韓国が9.8%と1割を切っているのはまあ当然と言えば当然かもしれません。

 一方、格差社会のアメリカで17.7%の高校生が「全く勉強しない」としているのも(そういう意味では)頷けるのですが、驚くべきは日本の高校生の24.2%、約4人に1人が全く勉強をしていないという現実です。

 なお、学校生活が「とても楽しい」と答えた高校生の割合が、中国、韓国、アメリカが15~16%で並んでいるのに対し、日本が26.4%と飛びぬけて高いのは皮肉と言えば皮肉な結果です。

 日本では約8割の高校生が「学校がとても楽しい」「まあ楽しい」と答えています。それ自体は決して否定すべきものではありませんが、(高校生活をエンジョイするのはいいにしても)日本の高校生はいつからこれほどまでに勉強への興味・関心・意欲を失ってしまったのでしょうか。

 日本の高校生の(特に)学力中間層の学習時間が激減している現状に対し、8月12日の日経新聞では、早稲田大学教授の浜中淳子氏が「高校生『学習離れ』」防げず」と題する論考により分析を加えています。

 浜中氏によれば、2012年4月からの3年間にわたり首都圏の有力進学校と中堅進学校に通う生徒約3300人を対象に調査を行った結果、生徒の学習行動には(有力校と中堅校で)顕著な差異が認められたということです。

 大きな違いは、やはり中堅進学校生徒の学習時間の少なさが目立ったこと。平日の(学校外での)学習時間が30分以下だと答える生徒は7割強に上り、有力進学校(2割)とは対照的だったということです。

 一方、(不思議なことに)こうした状況でも中堅進学校生徒は「自分は勉強を頑張っている」と主張する傾向にあると氏は指摘しています。(中堅進学校では)学習時間が30分以下でありながら「勉強を頑張っている」と答える生徒は32.5%、3人に1人の割合だったということです。

 また、中堅進学校の生徒は、スマートフォンやテレビ等に費やす時間が多いのも特徴的だと氏は言います。

 インターネット、スマートフォン、携帯をいじっている平均時間は、有力進学校62.8分に対し中堅進学校は92.6分。「テレビをみている」はそれぞれ46.7分と72.0分、「ゲームをしている」は13.4分と19.8分で、こうした時間を合わせると有力進学校生徒と中堅進学校生徒の間には1時間以上の差が生じているということです。

 さらに、大学受験に対する「臨み方」にも違いがあると浜中氏は説明しています。「受験に合格できそうでも、進学した後に勉強についていけなさそうな学校であれば、進学先として選ばない」という項目に「あてはまる」と答えた生徒の割合は、有力進学校生徒15.5%に対し、中堅進学校生徒は45.7%に及んだということです。

 中堅進学校の生徒からは、「無理をしない程度にやって、無理をしなくていい所に進学します」という趣旨の話を多く聞いた。「1年以上も先の大学入試なんて、まだ頭の中にありません」というのが、そうした高校生の(高校生活を送るうえでの)正直な気持ちだと氏は言います。

 スマートフォンを片手に1日30分以下の学習時間を良しとし、無理のない進学を心掛けつつ(基本的には)学習から遠のいたままの生活を送る高校生たち。一般に中堅進学校とみなされている学校でさえこのような実態であることを考えれば、全国ではかなりの高校生が学習から降りてしまっていることを否定できないというのがこの論考における浜中氏の見解です。

 私立大学の4割が定員割れを起こし、選り好みさえしなければほぼ全員が大学に入れる事実上の「全入時代」が到来して数年。学力試験で入学者を選抜できる大学は中堅校以上に限られていると氏は指摘しています。

 ましてや、第1志望の受験生だけで入学者枠が埋まる大学はごく一部の難関大学のみで、大半の大学で学力不問入試が急拡大しているということです。

 こうした中では、従来型入試の延長線上のままで制度をいくらいじっても、高校生の学習意欲を喚起することは難しいというのが浜中氏の懸念するところです。

 大学に行くこと自体が目的化した時代は、すでに過去のものになりつつある。高校や大学で何を学び何を身に付けてきたか。学んだこと、身に付けてきたことをどう活かすかが実社会では問われるようになっています。

 これから先の高校教育では、人生全体を意識したキャリア意識やそれに基づく学習意欲を持てるような、そうしたリアルでパーソナルな教育が求められているということでしょう。



♯1434 教育と競争

2019年08月24日 | 教育


 今年1月、大阪市の教育委員会が、大阪府や市が実施している独自テストの結果を市内の小中学校の校長の人事評価に反映させる方針を固めたとの報道がありました。

 評価に使われるのは、小学生を対象とした「学力経年調査」と中学生を対象とした「チャレンジテスト」の結果で、両テストの学校ごとの結果を校長の人事評価の20%分に反映させ、さらに賞与の約半分を占める勤勉手当の評価材料とするということです。

 また、併せて同市では2020年度から、テストの結果に応じて(総額)1.6億円の予算を成績が向上した学校に配分することで学校間の競争を促すとしています。

 目の前にぶら下げたニンジンで競争を煽り、順位を上げた学校や校長をお金で報いるという試みですが、(いかに銭・金がものを言う大阪人とはいえ)それで本当の学力向上に繋がるものなのかどうか。

 確かに、「競争」や「評価」はモチベーションの源泉となり得るものかもしれませんが、そもそも何のために教育があり、学校があるのかという根本的な議論に欠けているような気もします。

 果たして、学力の優劣や順位の比較は子どもたちの育成においてそれほどまでに重要な要素なのか。

 そうした疑念のもと、神戸女学院大学名誉教授で思想家としても知られる内田樹氏が5月31日の自身のブログに採録している「文系教科研究会(外国語)」における講演内容の要旨を、参考までに小欄で紹介しておきたいと思います。

 内田氏が(大学を退任後)合気道の指導者として神戸市内に自らの道場を構え、300人程度の門人を指導していることは広く知られています。

 氏によれば(特に勧めているわけではないが)氏の門人たちの多くは昇段級審査の前になると自主的に集中して稽古をし、より上位の段位を目指すということです。

 そうしたハードルを乗り越えようとすることが、ある種の「壁」を超える作用をもたらすことを経験上知っているので、段位や級を出すことの効用自体を否定するものではないと、氏はこの講演で話しています。

 しかし、段位の上下を比べたり、誰が早く昇段したのか、誰が遅いかというようなことは一切口にしたとことはないと氏はしています。

 門人同士を比べて、この人の方がこの人より巧い、この人の方が強いというようなことは考えたこともない。それは、門人同士の相対的な優劣を比較したりしても、修業上何の意味もないからだということです。

 優劣を比較する対象があるとしたら、それは「昨日の自分」だけ。「昨日の自分」と比べて「今日の自分」がどう変化したのか、そこを精密に観察しなければならない。昨日まで気づかなかった感覚に気づいたりできなかった動きができるようになったり、そこに注意を向けなければいけないということです。

 他人と自分の間の技術の相対的な優劣など論じても、そんなことは自分の修業に何の役にも立たないというのが、ひとりの武道家としての氏の認識です。

 兵法者の心得の第一は、まず勝負を争わないこと、強弱にこだわらないことだと氏は言います。

 相対的な優劣にこだわってはならない。それは自分の力を高めていく上で必ず邪魔になる。勝てば慢心するし、負けたら落ち込む。そんなことは修業にとって何の意味もないということです。

 武道が涵養しようとしている能力は、どんな危機的局面に際会しても適切にふるまって「生き延びる」力だと内田氏は説明しています。

 「危機」とは、その語義からして、それが何であっていつどこで遭遇するかわからないものを指す。天変地異でも、テロでも、パンデミックでも、ゴジラ来襲でも、どんな状況でも適切に対応できる力を「兵法者」は修業するのだと氏はしています。

 それは試合に合わせて「ピーク」を設定するとか、ライバルとの相対的な優劣について査定したり、成績をつけたり、それに基づいて資源分配するということとはまったく別の活動だというのが氏の見解です。

 さて、(翻って)我々が子どもたちを「格付け」して資源分配をするために教育をしているのか、それとも子どもたち一人一人のうちの生きる知恵と力を育てるために教育しているのか、そんなことは考えるまでもないことだと内田氏はこの講演で指摘しています。

 一人一人の生きる知恵と力を高めるためには、他人と比べて優劣を論じることには(有害なだけで)何の意味もない。

 でも、現在の学校教育ではそれができない。全級一斉で授業をするので一人一人をそれほど丹念に観察できないという理由はあるにせよ、授業を子どもたちの査定や格付けのために行うことについて(先生たちは)もっと痛みを感じて欲しいというのが氏の見解です。

「日本の学校教育を良くする方法がありますか」と聞かれた時、氏は決まって「それは、成績をつけないことだ」と話しているということです。

 それを聞くと教員たちはみんな困った顔をするか、あるいは失笑する。「それができたら苦労はないですよ」とおっしゃる。でも、ほんとうにそれほど「それができたら苦労はない」ことなのか。

 内田氏自身、現に武道の道場という教育機関を主宰し「成績をつけない。門人たちの相対的な優劣に決して言及しない」ということをルールにしていても、門人たちは実に効率的にぐいぐいと力をつけていると氏はしています。

 道場では査定をしない。寺子屋ゼミという教育活動も並行して行っているが、ここでも(研究の個別的な出来不出来についてはかなりきびしいコメントをしても)ゼミ生同士の優劣について論じることは絶対にしないということです。

 内田氏は、なぜ教育の場で教わる者たちは、指導者によって査定され、格付けされ、それに基づいて処遇の良否が決まるということを「当然」だと信じられるのかがわからないとこの講演で述べています。

 明らかにそれは教育にとって有害無益なことで、それは40年近く教育という事業に携わってきた者として確信を以て断言できると話すこの講演における教育者としての氏の確信を、私も大変興味深く受け止めたところです。