MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2636 失われた30年と日本人の変化

2024年09月12日 | 社会・経済

 外務省のHPにも記されているように、外交関係及び国家安全保障において日本と米国は基本的価値と戦略的利益を共有する同盟国であり、日米同盟は日本外交の基軸だというのが日本政府の公式見解です。

 両国は、自由、民主主義、人権の尊重といった基本的価値観を共有しており、米国との関係は我が国外交の要となっている由。アジア太平洋地域が依然として不安定性・不確実性を有する中、日米同盟はアジア太平洋地域の平和と繁栄の基盤であり、この地域への米国の関与は引き続き重要だというのが政府・与党の基本的な考え方です。

 このような状況を踏まえ、政府の外交方針は基本的に日米同盟を基軸としてアジア太平洋地域の平和と繁栄を目指すとともに、日本にとって望ましい国際秩序を形成するというもの。つまり、現在の日本にとって米国抜き、もしくは米国の意に反した独自の安全保障や外交政策はあり得ないことは、広く内外に示された政府の見解ということになるでしょう。

 まあ、そんな態度で「主権を持った独立国」として胸を張れるかどうかはいささか自信がありませんが、私たち日本人の生活が、戦後80年にわたって政治だけでなく、社会や文化の面からも彼の国の強い影響下にあったことは否めません。

 その一方で、東西冷戦の終結以降「世界の警察」の地位にあった米国の立ち位置が大きく変化しようとする中、こうして「米国追従」がすっかり身についてしまった私たちの感覚をこのままの状態にしておいてよいものなのか。

 7月12日の経済情報サイト「東洋経済オンライン」が、『「30年で貧乏になった日本」で若者に起こった変化』と題する神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏へのインタビュー記事を掲載していたので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 日本はそもそも「抗議」とか「反抗」とか「抗命」ということに対して強い抑圧がかかる社会。いったん大勢が決まると、全員がそれに流されてゆく。あえて異を唱える人は「空気が読めないやつ」として排除されることが多いと内田氏は最初に指摘しています。

 外交政策も同じこと。国際社会の大勢がどちらに流れるかを日和見しているというのが氏の認識です。今般のイスラエルによるガザ侵攻に対し、米国では反対する学生の抗議運動が活発だった一方で、日本では抗議運動もささやかで報道も下火だった。ガザの虐殺についても日本には外交的な哲学がなく、ただアメリカの尻についてゆくだけだということです。

 もちろん現在ガザで行われているのが「ジェノサイド」であることは日本政府だってわかっているはず。しかし、遠い中東のことでどうせ日本には何もできいのだから、あえてアメリカに逆らって自分たちの立場を明らかにするようなリスクを冒すことにメリットはないと思っていると氏は話しています。

 政府だけでなく、社会全体も(波風が立つような)強い独自の主張をすることを嫌う。ま、言うなれば、現在の日本人の多くに「長いものに巻かれる」ことに躊躇はないということです。

 もともと日本社会は同調圧力が強い国だったが、バブル崩壊以後の「失われた30年間」に、市民の規格化は過剰なまでに進行したと氏はここで指摘しています。

 内田氏によれば、これは日本が貧乏になったせいではないかとのこと。「パイが縮んでくる」と、人々は「パイの分配」についてうるさいことを言い出す。自分の取り分を確保するためには、他人の取り分を削らなくてはならないと考えるからだというのが氏の認識です。

 そして、ここからが面白いところ。(それでは)どうやって他人の取り分を減らすか。そのためには、メンバー全員を何らかの基準で格付けして、スコアの高いものにたくさん与えスコアの低い者の取り分を減らす…それが一番フェアな分配方法だという話になったということです。

 一方、格付けに基づく傾斜配分というのは、一見すると合理的だが実はかなり危険なものだと氏は続けます。というのも、全員を格付けするためにはあらかじめ「同質化」する必要があるから。全員に同じことをやらせないと、数値評価はできないと氏はしています。

 そこで、「誰でもできることを他人よりうまくできる人間」にハイスコアを与えるというルールが採用された。「生産性」とか「社会的有用性」とか「所得」とか、あるいは端的に「成功」を数値化して、それを基準に国民を格付けすることにしたということです。

 しかし、こうして金や権力を持っている人間にハイスコアを与え、貧しい人に罰を与えるような傾斜配分は、単純に格差を拡大させるだけ。加えて、全員が同じことをやってただ相対的な優劣を競っているだけの社会に、「新しいもの」が生まれるはずがないというのが記事で氏の指摘するところです。

 こうして、お互いの足の引っ張り合いをし、「出る杭」を打ち、「水に落ちた犬」を叩く社会が一般化した。そして、そんな社会では、自分の見識を貫こうとするのは難しいと氏は言います。少しでも人と違うことを言ったり、したりすると弾き出される。だから、今の若い人たちは「浮く」ことを病的に恐れるようになったということです。

 改めて言えば、集団から「浮く」というのは、要するに「競争から脱落する」ことを意味する。なので、そういう社会ではデモもストも起きないと氏は指摘しています。

 そういう抵抗の運動を始めるときは、最初に誰かが「誰もしないことをして、誰も言わないことを言う」というリスクをとらなければならない。抵抗の旗を立て立ち上がっても、誰もついてこなければその人は1人だけ「浮く」ことになるということです。

 だから誰も流れに抗わない。奔流から零れ落ちないように空気を読んで、足元をすくわれないように追従していくということなのでしょうか。

 歴史を振り返るまでもなくこうした状況は、日本を戦争に至らしめた日本社会の最大の弱点が再び顕在化してきたということに繋がるのかもしれません。集団からの浮くことを恐れる若者たち。そうやって学生運動もなくなったし、労働組合も機能しなくなったと話す内田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。