酷暑が続いた今年の夏も、そろそろ終盤戦。「行く夏」の風物詩といえば花火という人も多いと思いますが、例えば近所の空き地や公園で子供と一緒に手持ち花火を楽しもうと思っても、(自宅の敷地以外での)花火自体を禁止している地域も多いようです。
その背景には、各地で(地域住民との)騒音やゴミなどのトラブルがある由。現在では都市部を中心に、多くの自治体が公園での花火を禁止したり夜間の花火自体を禁止する条例を設けるなど、対策をとっていると聞きます。
例えば、関東有数の海水浴場を抱える鎌倉市では、2004年から「鎌倉市深夜花火の防止に関する条例」を施行し、公園や海岸、広場、道路などで午後10時から翌日の午前6時まで花火を禁止しているとのこと。東京都千代田区や港区でも、(住民の要請により)道路はもとより公園や児童遊園での花火は原則として禁止されているということです。
禁止事項は花火ばかりではありません。我が家(都内)の近くの児童公園にも、「ボール遊び禁止」の立て札が入口の一番目立つところに掲げられています。最初は「ゴルフのスイング禁止」だったものが、そのうち「キャッチボール禁止」になり、さらに最近ではボールを使った遊び全般が禁止されたところです。
マンション暮らしをしていては、近所で家族との花火も楽しめない。夏休み中の子供と(やわらかいボールを使った)サッカーの真似事すらできないのでは「児童公園」の名が泣くのでは…とも思いますが、やはり地域のお年寄りやご近所に暮らす人にとってはイライラや心配事の種になるのでしょう。
しかし、遊びたい盛りの子供にとっては、そんな公園も貴重な場所。誰もが利用できる公共空間として上手に住み分けることができないものかと思っていたところ、8月28日のビジネス情報サイト「PRESIDENT ONLINE」にライターの御田寺 圭氏が『昔の人が寛容だったから許されていたのではない…"ボール遊び禁止の公園"が増えてしまった本当の理由』と題する一文を寄せていたので、その指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。
いま全国各地で「ボール遊び禁止の公園」「集まってゲーム禁止の公園」が次々と誕生している。その背景には、地域社会そのものの高齢化があると御田寺氏はその冒頭に記しています。
おそらく(我々が懐かしむ)昭和の昔にも、子どもたちの遊びや集まりに対して「やかましい!」と目くじらを立てる暇な老人は一定数いたはずだと氏は言います。しかし、それが(大きなうねりとして)公園や公共スペースの「老人優位」に繋がらなかったのは、昔の人が「寛大だったから」でもなんでもない。かつては全国どこを見ても、子どもの数が多かったからだというのが氏の見解です。
そんなことをいちいち言ってもしょうがない。年寄りがいくら文句を言おうが、子どもたち(やその親たち)の数の圧力によって「うるせえ!」で跳ね返されていたのが現実だと氏は話しています。しかし、その街で暮らしている人が全体的にお年寄りに寄っていくと、日中も仕事に出たり外出したりせず、家で過ごしている時間が長い住民が多くなる。そうなると、これまでは気にすることもなかった子どもたちの声が彼らの生活にも届くようになり、(時間を持て余す)彼らは学校や行政に対してクレームを入れたりするようになるということです。
現在では、世の中のどこを見わたしても子どもの絶対数が少なすぎて、公共空間のイニシアティブは高齢者側に握られつつある。子どもたちや子育て世代がどんどん息苦しくなってしまう状況は、これからも各地で増えていくことになるだろうと氏は話しています。
こうした中、高齢者優位に塗り替えられてく地域社会のうねりに待ったをかけるには「数の暴力」を示して巻き返すほかないのだが、少子化により高齢者優位となった地域社会ではそうもいかない。コミュニティ自体が(子どもではなく)高齢者に都合良く運営されることで子作り意欲を益々低下させてしまい、さらに高齢者優位の意思決定がなされていく――という悪循環を止められなくなるということです。
そして…地域社会をじわじわと閉塞させるこの悪循環の構造は、(実は)そっくりそのまま現代日本の政治システムそのものに当てはまるというのが、御田寺氏がこの論考で指摘するところです。
いわゆる「シルバー民主主義」をひっくり返すには、若者を一カ所に集中させて「数の論理」で押し返す(≒若者代表の政治家を国会に送り込む)必要がある。しかし、もはや若者は一カ所に集まったところでそこまで数がおらず、特に小選挙区制になってしまったことでその傾向がさらに顕著になったということです。
若者は現行の政治制度・選挙制度では、高齢者有利の意思決定に対してオフィシャルに風穴を開けることができなくなってしまっている。地域の公園の使い方と同様、とにかく数を集めて局所的に「ルール無視」ができるような戦略的互助関係のあるグループをつくって生き延びていくしかないだろうと氏は言います。
実際のところ、起業家など若くて優秀なグループの若者たちと話をすると、「もうこの国が高齢者のために政治や税制をつくっているのはわかっているしそれをひっくり返すのは正攻法では無理な話。いかに国や行政から絞られず、その搾取の網目を潜り抜けられるかを、毎日仲間と知恵を出し合っている」というニュアンスの話ばかりを聞かされる。これは、見れば見るほど「日本の未来図」であって、これほどまでに、私たちの社会が直面する景色を示しているものは少ないということです。
襲い来る「未来」の波から逃れられる場所はどこにあるのか?自分や大切な人を「未来」から守るためにはどう行動すればよいのか?…何も考えずに生きていくと早晩呑まれてしまう、そういうシビアな現実を私たちは日々生きているとこの論考を結ぶ御田寺氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。
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