MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2693 バブル崩壊の影響を長引かせたもの

2024年12月24日 | 社会・経済

 戦後の日本経済の大きなターニングポイントとなったのが、1980年代末に起こったバブル経済とその崩壊であることに(今となっては)もはや誰も異論はないでしょう。戦後の高度成長期が一息も二息もつき、社会全体がモヤモヤした空気に包まれていたそんな時代の一体何が(かの)不動産バブルを生みだし、日本経済にその後も30年余にわたる傷跡を残したのか。

 10月7日の金融情報サイト「THE GOLD ONLINE」が、経済アナリストで獨協大学教授の森永卓郎氏による「バブル崩壊の裏に隠された大蔵省と日銀の失態」と題する論考を掲載していたので、引き続きその主張の一部を追っていきたいと思います。

 振り返れば、市場最高値となった1989年12月末の日経平均株価は3万8,915円。以降、1年ごとに年末の株価を見ると、1990年は2万3,848円、1991年は2万2,983円、1992年は1万6,924円と、株価は「つるべ落とし」で下がっていき、誰の目にもバブル経済の崩壊は明らかだったと森永氏はこの論考で語っています。

 本来なら、バブル崩壊を財政金融政策で緩和していかなければならないはず。ところが現実には、ここで不思議なことが起きていたと氏は言います。

 「不動産向け融資」の伸び率を金融機関の総貸出の伸び率以下に抑えるように大蔵省が指導する「総量規制」を導入したのは1990年3月27日のこと。バブル崩壊が一般に認識されるようになって、実に3カ月も経ってからのことだったということです。

 しかも、この総量規制が解除されたのは翌1991年の12月だった由。バブルを抑制するために導入するのならともかく、バブル崩壊後にこんな指導をしたら、バブル崩壊後の谷を深くするに決まっているというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 実際、不動産の価格、特に大都市商業地の地価は、バブル解消を通り越して、はるか深い谷(逆バブル)に沈み込んでいったと氏は言います。

 さらに、(当時)逆噴射をしたのは日銀も同じだった。バブル崩壊後の1990年3月20日、日銀は公定歩合をそれまでの4.25%から5.25%に引き上げ、さらに(あろうことか)1990年8月30日には公定歩合を6.0%まで引き上げたと氏は続けます。

 さすがに公定歩合は6.0%をピークに1991年7月1日に5.5%に引き下げ、その後1995年9月8日に0.5%となるまで段階的に引き下げている。ただ、バブル崩壊後の実に1年以上にわたって「逆噴射」を続けたことは(紛れもない)事実だということです。

 それどころか、資金供給の面ではさらに恐ろしいことが起きていたと氏はしています。日銀が自由にコントロールできる資金供給量をマネタリーベース(現金+日銀当座預金)と呼ぶ。そのマネタリーベースの対前年伸び率を各年の12月の数字で見ていくと、1989年が12.6%だったのに対して、1990年は6.6%、1991年は▲2.8%、1992年は1.4%、1993年は3.7%、1994年は4.0%、1995年は6.1%。バブルが既に崩壊していたにもかかわらず、(資金供給という面から言えば)、日銀は少なくとも5年にわたって金融引き締めに走っていたということです。

 なぜ、大蔵省と日銀は、常識では考えられない引き締めをバブル崩壊後も続けたのか。その理由は、正直言って、よくわからないと森永氏はここで(匙を投げたように)話しています。

 財務省と日銀が罹患している「引き締め病」のためか、アメリカからの圧力に屈したのか、明確な証拠はどこにもない。ただ、はっきりしていることは、「市街地価格指数」で見ると、6大都市圏の商業地の地価は、1990年から2000年にかけての10年間で、5分の1に大暴落。そして、戦後の日本経済を支えてきた「株式の持ち合い」と「不動産担保金融」が崩壊に向かったことだけだということです。

 さて、バブル崩壊の気配が濃厚となってきたそんな折、政府の経済対策や日銀の金融政策で、なんだか方向性の定まらないチグハグな何かが起きていたのは、私も(そして誰もが)肌で感じていたところ。一方で、当時のマスコミや国会の論争は(いまだ)、投機的な株や不動産等への投資を抑え、値上がりしすぎた不動産や諸物価の高騰をどう鎮静化すべきか…といった議論に終始していたような気もします。

 思えば、バブル経済の崩壊から早くも35年年の歳月が経過しようとしています。日本中が浮かれたバブルの季節が終焉を迎え、「崩壊」に向けた秋風が漂う中、財務省や日銀の政策決定に当たって一体何が議論されていたのか。

 バブルの時代を「懐かしむ」空気が漂ってくる昨今ですが、同じ失敗(?)を繰り返さないためにも、関係者が社会から引退する前に、もう一度しっかり検証しておく必要があるのではないかと、森永氏の指摘を読んで私も改めて感じているところです。


#2692 誰がバブルの引き金を引いたのか?

2024年12月24日 | 社会・経済

 3年間のコロナ禍(2020~22年)が中国経済に深刻な影を落としている。2023年の中国経済には力強い回復がみられず、消費が委縮して不動産バブルが崩壊。中国経済はいよいよデフレに突入したと、東京財団政策研究所主席研究員の柯 隆氏が指摘しています。(「ごまかしても覆い隠せない、習近平中国経済のひどすぎる惨状!」2024.10.08現代ビジネス)

 (しかし)氏によれば、中国政府が発表している公式統計では中国経済の減速を必ずしも確認できないとのこと。2023年、中国の実質GDPは5.2%成長したと公表されているが、この統計は明らかに実績を過大評価したもの。中国経済の動きをみると明らかに下り坂を辿っており、2023年6月に21.3%とされた若年層失業率がその後公表されなくなったのはその証左(のひとつ)だということです。

 一方、そのような状況にも関わらず、上海株価総合指数は突如として急騰を見せていると柯氏は話しています。きっかけとなったのは、中国人民銀行(中央銀行)が実施した金融緩和政策で、政府が公開市場操作で金融市場に1兆元以上(20兆円以上)の流動性を供給し、株式市場はまさに「官製バブル」の様相を呈しているということです。

 市場に資金があふれれば、行き場を探した元が消費に向かい、再び不動産市場にも活気が戻るという目論見かもしれませんが、中国の人々の不安や不満がどこまで解消されるかは不透明な部分も多いところ。中国首脳部も、日本経済がバブル崩壊に至った経緯を十分に分析・研究し同じ「轍」を踏まないよう対策を講じているということなので、今後の動きに注目していきたいと感じるところです。

 さて、そこで思い出されるのが、30年以上の年月を経て、未だに日本経済に影を落とし続けているバブル経済とその崩壊です。私自身、以来、実際に社会人としてその波にもまれ続けてきただけに、過程における政府や日銀の対応に興味は尽きません。

 折しも10月7日の金融情報サイト「THE GOLD ONLINE」が、「バブル崩壊の裏に隠された大蔵省と日銀の失態」と題する記事において、経済アナリストで獨協大学教授の森永卓郎氏の指摘を取り上げていたので、小欄にもその主張の一部を残しておきたいと思います。

 1985年のプラザ合意による超円高が訪れた後、日本経済は深刻な景気後退に突入した。政府と日銀は景気悪化を食い止めるため、大きな財政出動と大胆な金融緩和を重ねる大規模経済対策に打って出たと、森永氏は「バブル物語」の切っ掛けを語っています。

 当時の財政政策を見ると、公共事業費(実質公的固定資本形成)の伸びは、1986年が3.9%、1987年が5.1%、1988年が5.5%、1989年は▲0.4%と、高いといえば高いが「とてつもなく大きい」というわけではない。一方、日銀は、それまで5.0%だった公定歩合を1986年1月に4.5%に引き下げ、その後も同年3月に4.0%、同年4月に3.5%、同年11月に3.0%と急激な引き下げを行ない、1987年2月に2.5%の最低水準まで引き下げたということです。

 こうして、政府や日銀が急激な金融緩和などによって円高不況に対抗しようする中、1985年末に1万3,113円だった日経平均は、1986年末に1万8,701円、1987年末に2万1,564円、1988年末に3万159円、1989年末に3万8,915円に上昇。株価は4年間でおよそ3倍に値上がりしたと氏は言います。

 不動産価格も同様に急騰し、全用途平均の市街地価格指数(2010年3月末=100)は、1985年に159.4だったのが、1990年には46%高の233.3となり、翌1991年には257.5と最高値を記録したということです。

 世間では、財政出動と日銀の金融緩和がバブルをもたらしたと言われている。実は私(←森永氏)もそうだと思っていたが、財政出動の規模はたいしたものではないし、公定歩合も2.5%まで下げただけ。それでバブルになってしまうなら、近年のゼロ金利政策はもっと大きなバブルを引き起こしているはずだと氏はここで指摘しています。

 では、何がバブルの引き金を引いたのか。森永氏はその最大の原因を日銀の「窓口指導」に見ています。

 氏によれば、日銀は、それぞれの銀行ごとに貸出の伸び率の上限を指示する「窓口指導」をずっと行なってきた由。バブル期には、表向き1980年代後半には廃止されたことになっていたが、それが存続していたのは周知の事実だということです。

 そして、バブル期の窓口指導がとてつもない圧力を銀行に与えていたことが、最近になって次々と明らかになってきたと氏はしています。バブル期には、日銀の窓口指導で各行に前期比3割増といった大きな貸出枠が与えられた。これを消化しないと翌年の貸出枠を減らされてしまうため、各行も必死になって貸出に励んだということです。

 一方、世の中は円高不況の嵐が吹き荒れていて、新たな資金需要はほとんどない。本来、銀行は不動産や株式の投機にカネを貸すことを許されていないのだが、そんなことは言っていられない。結果的に、銀行は投機に手を貸す形で、融資を拡大させていったと氏は説明しています。

 結果、その積み上げがバブル発生の最大の要因になった。しかもこの投機資金への融資はしばらくはうまくいき、株価や地価が急騰したことで、十分なリターンを獲得したということです。

 さて、さもさりながら生まれたバブルは必ず弾けるもの。暴落が始まったのは1990年の年初頃だったと私も記憶しています。

 不動産価格の高騰による格差の拡大や株長者の御乱行をマスコミや野党が煽り、世の中の乱れ全てをバブル経済のせいにして政府を責めていたその頃、相次ぐ景気鎮静化策と不動産売買などへの規制の強化をバラバラに打ってきたツケが一気に表面化し、あっという間に株価の暴落が起こりました。

 そこに始まった(後世に)「失われた」とまで呼ばれる期間が、実にその後30年もの間続くとは(当時は)誰も考えていなかったでしょう。何が時代をそうさせたのか…話は「バブル経済の崩壊」と、その後の政府・日銀の対応へと続いていきます。

(→「#2693 バブル崩壊の影響を長引かせたもの」に続く)