今日、8月15日は(いわずもがなの)お盆休みの最終日。そして77年前、1945年の今日、日本政府がポツダム宣言を受諾したことにより、太平洋戦争(第二次世界大戦)が(日本の無条件降伏で)終結した日として世界の歴史に刻まれています。
内務省(当時)の発表によれば、太平洋戦争による日本の戦死者数は約212万人、空襲による死者数は約24万人とされ、毎年この日に政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で開催されています。
積極的な拡大政策の下、近代化された軍事力を背景に利権を求めて大陸や南方に進出し、結果として民間人を含め大きな犠牲者を出した日本。現在では、その責任の所在を、強引な軍事侵攻の火ぶたを切った関東軍をはじめとした軍部(特に陸軍)や強力なプロパガンダにより国民感情を煽った政府などに求めることが多いようです。
しかし、現実を振り返れば、当時の日本国民の世論が軍部の背中を押していたのは(おそらく)間違いのない事実です。「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」…そして学校での軍事教練や竹やり訓練など、外地に赴いていた祖父の世代、空襲のたびに防空壕に駆け込んでいた親世代の話などを聞くにつけ、戦争を所与のものとして受け入れていた時代の空気を感じてきたところです。
既に20年以上も前に亡くなりましたが、昭和4年生まれの私の父は、終戦当時で満16歳。まさに戦中・戦後の混乱期に、多感な青春時代を過ごした世代の代表のような人物でした。
兄弟などの話によれば、当時、バリバリの軍国少年として育った彼は、(日本軍が負けるはずはなく)当然もうすぐ自分も兵隊に行くとばかり思っていたということ。ニューギニアの戦地から届く兄の手紙などを読んで、自分もぜひ南方戦線に行きたいなどと、ずいぶん張り切っていたようです。
東京大空襲を命からがら家族と逃げきり、その後は祖父とともに、一部を焼失した自宅の再建に飛び回っていたと聞きました。そして、そこで迎えた8月15日。玉音放送を耳にして、家族とともに広がる一面の焼け跡に向かって呆然と立ち尽くすしかなかったという話も後に耳にしています。
その一方で、私の知る戦後の父親の姿は、政治やイデオロギーなどには一切興味を示さない、割といつもにこやかで、かなり淡々とした人物だったと記憶しています。
一人のエンジニアとして生き、技術や科学への信頼が彼の思想(というか「ものの考え方」)を支えていたことはよくわかりますが、とてもではないが「軍国少年」の面影はありません。政治な正しさや思想の優劣などには全く興味のない、(あまり理屈をこねない)ノンポリで動物好きの穏やかなおじさんという印象です。
周囲の親戚などに聞くと、戦争が終わったころから父はすこし雰囲気が変わったとのこと。戦地に出向いていた兄たちが戻るまで、家族の生活を支えなければならいという状況もあったのでしょうが、急に大人びて見えるようになったという話も聞きました。
私自身、案外楽観的でこだわりの少ない(そうした)彼の生き方は割と共感できたのですが、(周囲の話を聞く限り)それはもしかしたら彼本来の姿ではなかったのかもしれません。お盆ということもあって父の遺影を見ながらそんなことを考えていた折、PRESIDENT Onlineに東京大学名誉教授で解剖学者として知られる養老孟司氏が「だから私は人間より猫を信用するようになった…」(2022.8.15)と題する一文を寄せているのを見つけたので、その一部を小欄に残しておきたいと思います。
戦後の日本を統治した連合軍司令官のダグラス・マッカーサーが言った「日本人12歳説」をご存じだろうか。彼は、米議会の委員会での質問に答え、「現代文明の基準で測ると、私たちアングロサクソンが45歳であるのに対して、日本人はまだ12歳の少年のようだ」と述べたと、養老氏はこのコラムに記しています。
たぶん、(欧米人としての歴史を持つ)彼らが信仰のように大事にしてきた民主主義、自由主義の理想や思想的価値観をものさしにして「成熟度」を測ると、そういう見方になるのだろう。
もちろん、こういう考え方をするのは西洋人ばかりではない。日本人も、西洋側からの視点に立って日本的な感覚を「素朴」とか「原始的」などと言いがちである。しかし、本当にそういうものだろうかと氏はここで疑問を呈しています。
明治以来、日本人は西洋についてよく知ろうとしてきたが、自分たちの特性については西洋型を前提にして批判するという形でしか考えてこなかった。だからそのような捉え方になる。
例えば、日本ではよくその場の「空気」で大切なことが決まる。それは悪いことのように思われがちだが、言葉で言い表せない微妙なところを空気で補完しているわけで、あながち悪いこととは言い切れない。いや、そもそも日本人がそれでうまくいくのなら、むしろ良いことなのではないかというのが養老氏の見解です。
言葉は意識中心の世界が生み出したと述べたが、空気や呼吸といった感覚で大事なことが決まる仕組みにも良い面はあるはず。どちらが良いかは、時と場合による。し、少なくとも言葉の世界が何にもまして高尚とは限らないということです。
あまり意味を考えてはいけない、理屈にしない方がいい場合もある。現代人は理屈に合うものが正しいと信じているが、人間そのものが元来、理屈にあったものではなく、実際、大切なものほど言葉にできないと感じることも多いと氏は言います。
(そうした感覚を踏まえ)私には、戦後の日本人が民主主義、自由主義を本気になって受け入れたとは思えない。平和、人権、民主主義と声高に叫んでいる人を見ると、「あんた、本気で言ってるの?」と言いたくなる。決して揶揄ではない。そういう人ほど言葉に依存している、つまり「意識(=物語)」の世界にいるからだというのが、このコラムで養老氏の指摘するところです。
時代が酷くなったら、おそらく人権や平和、民主主義を強く叫んでいる人から順番に壊れていくはずだと氏は考えています。その一番大きな理由は、先ほど述べた敗戦の体験にある。1945年8月15日、当時小学2年生だった氏は、一夜にして世の中ががらりと変わったのを見てしまったからだということです。
養老氏も、そしておそらくは私の父も、あの日を境に世の中ががらりと変わったのを見てしまった。大きな声で戦争を賛美していた人たちが競うようにして違った物語に乗り換えるのを目の当たりにして、言葉というものの儚さ、虚ろさを心の底から感じ取ったということでしょう。
だから私は人間の言葉を信用せず、(無言のまま)自由気ままに暮らす猫を信用するようになったと、養老氏はこのコラムに綴っています。猫は、決して物語を口することなく日々を暮らしている。己の感覚を信じ、人間を心の底では信用していない。やりたいことやり、人の言葉に耳を傾けることもしないということです。
人が声高に主張することなんて、その多くが所詮「物語」に過ぎない。政治的な正しさなどというものに期待してはいけないというリアリストとしての直感は、もしかしたら彼らの世代に共有された感覚なのかもしれません。
少なくとも、私が確信できるのは、自分の父親が信じていたのは、科学の発達と技術の進歩、そして勤勉さは(きっと)人を幸せにしてくれるだろうということ。そして、彼らが共有していたそうした思いが、(良くも悪くも)戦後の日本に、現在に繋がる高度成長期をもたらす原動力になっていたのだろうということです。
今年の慰霊祭に出席した天皇陛下が、その「お言葉」の中で「深い反省」の言葉を口にされたことが話題になりました。反省するのは、人としてごく当たり前のことなのに、世間は何をそんなに慌てているのか。
実際、物語はあくまで物語であり、時に修正されなければならないパラダイムシフトが起こるのが現実と言うものでしょう。しかし、特にその際、現在大きな声で「正しさ」を口にしている人たちは、本当の「反省」を心に深く刻むことができるのか。
人の数だけ物語は存在するもの。そもそも、彼らの口にする正しさに大きく振り回されること自体が、現実社会に大きなリスクをもたらすことになるのだろうなと、養老氏のコラムを読んで私も改めて考えさせられたところです。
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