年末に発表された恒例の「ユーキャン新語・流行語大賞」の年間大賞は、「ふてほど」であった由。「ふてほど」とは、(ご存じのとおり)昨年大ヒットしたTBS金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の略称とのことですが、ネット上では「これって流行語なの?」と違和感を指摘する声もちらほら上がっているようです。
世間で話題となった「ふてほど」は、昭和時代(1986年、安定成長期)からコンプライアンスが厳しい令和時代(2024年、低成長期)にタイムスリップした(阿部サダヲ演じる)主人公の体育教師が、人々の意識の変化の中で様々な問題を引き起こす物語。コンプライアンスという言葉すらなかった昭和の時代へのノスタルジーとともに、現代とのギャップをあっけらかんと描き話題をさらったところです。
そういう私も毎週(結構楽しみに)見ていた口ですが、その時に思ったのは、確かに「時代の空気感」は(この平成の30年間で)ずいぶん変わったんだなということ。ほとんど忘れてしまっていたし、あまり比較してみたことがなかったこともあって、劇中に描かれる時代のディテールを(それなりに)新鮮に受け止めていた次第です。
さてさて、このドラマで描かれなかった(自分でも経験してきたはずの)この「失われた」平成の30年の間に、日本の社会では一体何が起こっていたのか。12月5日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」に作家で評論家の真鍋 厚(まなべ・あつし)氏が、『流行ってないうえに、世相を全く反映していない…「ふてほど」の流行語大賞になんとも納得できない“本質的な理由”』と題する一文を寄せているので、参考までにその主張の一部を残しておきたいと思います。
1980年代以降の日本では、「失われた30年」の間に格差社会化と、他者との接点を示すソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の空洞化が進んだ。雇用状況の悪化と非正規労働者の増加によって経済的格差が拡大し、人々の生活、意識、そして心身の健康などにおいても階級間の格差がきわだったと真鍋氏はこの論考に綴っています。
つまり(端的に言えば)『ふてほど』が舞台となった1986年という昭和の末期を最後に、日本社会は下り坂に入っていったということ。そして、そのような社会経済的な動きと並行して、個人は複合的なカオスに直面することになったというのが氏の認識です。
氏によれば、社会学者のジョック・ヤングは、「社会秩序」を構成する2つの基本的な部分として、①業績に応じて報酬が配分されるという原則、②能力主義的な考え方である「分配的正義」と、アイデンティティと社会的価値を保持している感覚が「他者に尊重される」という「承認の正義」…の二つを挙げているとのこと。
しかし、(現代社会においては)この二つの領域にはいずれも「偶然だという感覚」、つまり報酬のカオスとアイデンティティのカオスが伴っており、①労働市場の破綻や各産業部門での働き方が運次第になっていること、加えて②不動産市場や金融のような業績とは無関係に得られる報酬等々が「業績の尺度ではなく気まぐれに配分されている」…という感覚をもたらしているということです。
そのような感覚をベースに、(日本人の間には)黄金期の特徴だった標準的キャリアのようなわかりやすい比較参照点がなくなっていき、互いに嫉妬しあう個人主義が克進。結果、足の引っぱりあいが激化する相対的剥奪感が生まれていると氏は指摘しています。
昭和期のような、年功序列による護送船団方式は既に消え失せてしまった。そうした中で、公正な分配が期待される能力主義を叩き込まれてきた人々は、「でたらめな報酬」が飛び交う状況に戸惑いながら、自分もあやかりたいと願っているということです。
思えば「上級国民」というネットスラングは、一般国民の窮状を顧みず、特定の組織やエリート層が権力を私物化し、特権や利益などに与ることへの怒りがパワーワードとして結晶化したものだと氏は指摘しています。自分とは違う「クラス」が存在することへの信憑。その深層には、可燃性ガスのような不公平感が充満していたということです。
そして、2つ目。「アイデンティティのカオス」は、「承認、つまり価値や居場所が与えられているという感覚の領域」の動揺だと氏は説明しています。
常に多様なリスクに対応するための(一定の間合いを取った)付き合い方は、一方で「愛情」や「ケア」といった人間性を養うのに必要な長期的な人間関係を築きにくくする。職場でも家庭でも個人のライフスタイルに断絶が広がり、ある組織や場所に紐づいているという感覚が薄まって、承認を得ることが困難になっているというのが氏の見解です。
これらは、いわば平成期に産声を上げた「平成的なカオス」といえる。「昭和的なコスモス」を食い破る形で登場し、実に多くの人々を地獄に引きずり込み、そのカオスは令和になってますます大きくなっているということです。
そして、これら昭和と令和に挟まった平成が、「ふてほど」からショートカットされていることはもっと注目されて然るべきだと、氏はこの論考の最後に記しています。
物価高、増税、国民負担率の上昇と暗い話題が続くこの令和の時代において、マスメディアが創造した一つのフィクションとして「昭和と令和のいいとこ取り」のファンタジーを拝借した「ふてほど」。翻って、流行語大賞に「ふてほど」を選ばざるを得ない時代とは、「失われた30年」とその悲惨な現実を「粉飾」したくなるほどに深刻な様相を呈している時代だというのが氏の指摘するところです。
氏によれば、その根底にあるのは、SNSに代表される人々の関心の分断と国民国家の衰退があるとのこと。果たしてそのような粉飾は一周回って適切なのかどうか…(こんな時代であればこそ)今一度しっかりと問うてみる必要があると話す真鍋氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。
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