MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2163 手段としての戦争(その2)

2022年05月23日 | 国際・政治

 ロシアによる一方的な軍事侵攻に対し、ウクライナに暮らす人々が「戦争」を強いられている現在の状況を念頭に、5月17日の「現代ビジネス」に掲載されていた、東京大学未来ビジョン研究センター客員教授の藤原帰一(ふじわら・きいち)氏の近著『「正しい戦争」は本当にあるのか』の内容を引き続き追っていきたいと思います。

 藤原氏はこの著作において、古今、戦争のとらえ方は大きくまとめると三つ考えられると話しています。そのひとつは、「戦争は悪い奴が起こすもの。だから、悪者を倒す正義の戦争は否定されるべきではない」という考え方。そして二つ目は、「戦争にはそもそもいいも悪いもない。国家に生じる問題を解決するための方法(政策)のひとつ」だという捉え方。そして三つ目が、戦争自体を否定し、戦争の原因となる武力の保持そのものを禁止していこうという考え方だということです。

 戦争の歴史を振り返ると、一番古い形は「正義」を掲げて戦争を戦うということ。つまり宗教戦争などがそれにあたると氏はしています。宗教戦争では、それぞれが自分たちの正義を掲げて邪悪な相手と戦うので、そこに妥協の生じる余地はない。そのため、相手が根本的に考えを変えるか、みんなが死んでしまうまで双方戦い続けざるを得ないということです。

 こうして「正義のための戦争」は、欲得ずくの戦争よりももっと苛酷なものになる。結果、戦争がどうしようもなく悲惨なものになったので、現在のように倫理と戦争を切り離すという考え方が始まったというのが(戦争に関する)氏の歴史認識です。

 例えば17世紀の「三十年戦争」では、ハプスブルク帝国の皇帝が神聖ローマの皇帝を兼ねたことから、カトリックを信仰する神聖ローマ皇帝に対して新教徒の反対が起こった。おかげで君主は君主と戦い、領主は主君に謀反を起こし、お百姓さんは一揆を起こすという形で、ヨーロッパ中が大戦乱に陥ったと氏は言います。

 戦乱は人口流動を増やし、ヨーロッパ中に疫病がが蔓延してますます人死にが増える。何十年も乱れた世は続き、世界がわやくちゃになったということです。そこで、「(正義なんてどうでもいい)世界を終わらせるよりは、人間は戦争をしたがる動物だということ皆で認めてしまったほうがまだマシだ」ということになり、キリスト教による世界統一なんて無理だからやめようということで落ち着いたと氏はしています。

 世界は戦争によって群雄割拠されている。実際そういうものなのだから、これを認めちゃいましょうというのが、ヨーロッパにおける国際政治の始まりだったということです。つまり、こうした経験を経て、ヨーロッパは、「宗教戦争の時代」から「力の均衡の時代」にシフトしたということ。ここに広い意味での「近代」が始まったというのが氏の見解です。

 以降、戦争と正義を切り離し、政策の道具として戦争を認めようというという考え方が世の中の主流となった。しかし、やはり戦争は大変な暴力なので、社会や経済に与えるダメージは極めて大きい。王様のように自分は死なない人はいいかもしれないが、市井の人々にとっての戦争は自分が死ぬ、もしくは死にかねないという大きなリスクを背負うものでもあったと氏は言います。

 さらに近代戦争では、科学の発達とともに大量破壊兵器が次々と開発され、戦争に駆り出された兵士たち、もしくは戦場となった地域に暮らす何十万、何百万というという一般市民さえもが危険に晒されるという状況を生むことになりました。当然、そんなの冗談ではない…ということで、そもそもの「戦争」自体を否定する発想法というものが、宗教とまた別のところから出てきくるようになったというのがこの論考において氏の指摘するところです。

 「正義」とかなんとか、大袈裟な言葉を振りかざす指導者はかえって危ない。(藤原氏も含め)国際政治の学者にとっては、正義などという言葉は、とてもではないが簡単に信用できるものではないと氏はこの論考に綴っています。歴史には、暴力を正当化するため、誰もが「正義」を口にしてきたという事実が幾重にも刻まれており、宗教戦争について少しでも勉強したことのある人が、「正義」という言葉を文字どおり受け取るはずがないということです。

 それでも、時に(人間の持つ宿痾として)戦争は起こるもの。そこで重要になる英知が、軍事力をどのように「制約」するのかという視点だというのが氏の見解です。戦争行為に及ぶとしても、そこでどれだけ抑制的に武力を用い、どれだけ双方がダメージを負わない形で問題解決につなげられるか。暴力行使を(技術的に)どう抑制するのかというのは、結局のところ「機構」の問題に落ち着いたと氏はここで指摘しています。

 警察官が持つ暴力は、その警察官が法に縛られているからこそ許される。軍事行動においても、その行使された暴力がいかに「法」と「制度」のもとで進められ、その制限のなかに置かれているかが重要になるというのが氏の示唆するところです。

 もちろん、それぞれの国家が主権を持つとされる国際関係の中で、暴力の規制などは無理だと言うことはできるでしょう。それでは、そうした中で一定以上の暴力行為を違法化し、各国の独自の軍事行動の権利を制約するにはどうしたらよいか。そこで、最低限の正義を補完するため、「国際機構」の役割が出てくると氏はしています。

 これは、予め加盟各国が軍事行動や戦闘行為に一定のルールをはめ、お互いに監視し合うことで秩序の維持を担保するためのシステムを築いておくという考え方。実際、一国の国益擁護としてだけ軍事行動を議論する限りこの問題には出口がない。各国の決定から切り離さなければこの問題は解決できないと氏は言います。

 そこで、ひとつの国に対する脅威に対して、その国が兵隊を使うという形ではなく、各国が共同で、しかも国際機構による制約の下で紛争に立ち向かうという考え方が生まれた。そしてそれこそが、「集団安全保障」の本来の意味だということです。

 さて、そのように考えたとき、喫緊の問題は、今回のロシアによるウクライナへの軍事侵攻をどう捉えるべきかということでしょう。

 もちろん、声高に正義や民主主義の正当性を振りかざし、軍事的圧力を強めるばかりでは解決が望めるはずもありません。集団安全保障の観点から国際社会として(根気強く)プレッシャーをかけ続け、まずはひとまずの平和を確保することが次の段階への第一歩に繋がるのではないかと、藤原氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。



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