MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2162 手段としての戦争(その1)

2022年05月22日 | 国際・政治

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から3カ月。日々の戦況が詳細に報じられる中、4月にはロシア軍による市民への残虐行為が伝えられるなど、事態の深刻さは日を追うごとに度合いを増すばかりです。

 ロシアによる(まさに)あからさまな武力侵攻が、国際法上も、もちろん人道上も到底許されないものであることは、改めて指摘するまでもありません。

 もちろん、こうした状況に、西側諸国ではロシア軍の即時撤退を求める世論が大きいことは事実です。しかし、ロシア軍がウクライナ国内に大きく侵攻している現状で、もしもそこ(←両軍同時撤退)に「落としどころ」を求めるとすると、ロシアの反発により事態の収拾には相当の時間がかかることが想定されます。

 一方、国際世論の中には、「ロシア軍とウクライナ軍は(現状のまま)即時停戦せよ」と主張する声も強いようです。他方、こちらについては、「勝ち負けを決しない」…つまり侵攻に当たってのロシアの要求の不正義性を追求しないままでの問題解決に、異議を唱える向きもあるようです。

 また、今回の軍事侵攻への対応を巡る議論の中には、(橋下徹元大阪市長のように)国民の犠牲を最小限にするため(敢えて戦わずして)国民の国外退避を優先させるべき…との意見も聞かれたところです。しかし、氏の主張したこうした無抵抗主義が全面降伏論と捉えられ、力に屈する妥協論として大きく炎上したのは記憶に新しいところです。

 思えば、軍事侵攻に踏み切ったロシアのプーチン大統領の主張は、NATOとの距離を縮めるウクライナのゼレンスキー政権こそがロシアの安全を脅かしているというもの。ウクライナ東部に暮らすロシア系住民の平穏な暮らしやロシアの安全保障を考えれば、「やむを得ない」選択だということです。

 しかし、だからといって(国境を越えての)軍事力による一方的な現状変更の試みが許されるものなのか。いずれにしてもこうした機会に、私たちは問題解決の手段としての「戦争」についてもう一度きちんと考えておく必要がありそうです。

 そんな折、5月17日の総合情報サイト「現代ビジネス」が、国際政治研究の第一人者として知られる東京大学未来ビジョン研究センター客員教授の藤原帰一(ふじわら・きいち)氏の近著『「正しい戦争」は本当にあるのか』を紹介していているので、備忘の意味その内容を残しておきたいと思います。

 この著書において藤原氏は、戦争のとらえ方は大きくまとめると三つぐらい考えられると話しています。

 そのひとつは、「戦争は悪い奴が起こすもの。だから戦争を起こそうとするような政府は取り除かなければ平和は訪れない」という考え方。武器が悪いのではなくて、悪いのは武器を使う人(国)。だから、悪者を倒す正義の戦争は否定されるべきではないという思想だということです。

 ナチの話などはまさにその典型で、「ナチを取り除くから平和になるんだ」(取り除かなければ平和はない)という理屈だと氏は言います。

 イギリスのチェンバレン首相はナチとミュンヘンで融和政策のための交渉をしたが、(後から思えば)交渉すること自体が間違いだったというのが(いわゆる)「ミュンヘンの教訓」というもの。ナチのような悪を前にする際は、(交渉ではなくて)武器を手に取るべき。ナチみたいな悪い奴らはモトから断たなくちゃダメだという議論は、子供にも極めてわかりやすいものです。

 一方、ふたつ目の見方はこれとは違って、戦争と、正義とか邪悪とかいった価値観とを切り離す見方だと氏はしています。

 戦争というのはあくまでも力関係の話であって、「どっちがいい」とか「どっちが悪い」とかいうことではない。自分のために、お互いにみんな切った張ったをするのが戦争の本質だという考え方だということです。

 国際政治学で言うところの「リアリズム(現実主義)」は、まさにこうした考えに立脚している。どの政府も自分たちの欲望や利益を最大にしようとして行動しており、そうした政府がそれぞれさらなる権力を求めてお互いに脅し合ってる状態が国際関係というもの。なので、戦争にはいいも悪いもなく、ただ国家の政策のひとつ、それだけのことだという見方だと氏は説明しています。

 この場合、「正義」のために武力で相手の政府を取り除くという方法は、(国際社会のパワーバランスを損ない)かえって国際関係を不安定にするので望ましくないとも考えられる。「リアリズム」は現状維持を第一とする考え方なので、そこにある政府を倒すようなやり方はやりすぎで、武力による均衡を保つことこそが世界に平和をもたらすというのが基本にあるということです。

 そして三つめのイメージは、(いわば)「武器よさらば」というものだと氏は指摘しています。

 これは、武器がある限り戦争は起こってしまうから、武力の保持そのものを禁止していこうという、日本でいえば憲法九条がイメージする世界観。悪い政府があってどうこうということではなくて、武器そのものが悪いというシンプルな発想だということです。

 たとえば広島への原爆投下について、「アメリカが落としやがって仕返ししてやるぞ」という反応が生まれても不思議はない。しかし、広島の教訓を簡単に言葉にすれば、「核兵器の応酬みたいな戦争になったらみんな死んじゃうじゃないか。武力そのものをなくさない限り、平和は訪れない」ということだと氏は言います。

 悪い国家があるのではなくて、戦争自体が悪なのである。だから、国家の間の不信を取り除くためにも問題解決手段としての戦争や兵器そのものをなくしていこうという、Lave&Peace「絶対反戦」という立場だということです。

 こうした考え方はヨーロッパでは第一次世界大戦のあとから、また、アメリカや日本では第二次大戦のあとから広がり、先進国における一つの潮流になったと氏は説明しています。

 さて、いずれにしても、戦争に対する捉え方は、ひとそれぞれの生まれ育った時代や環境、知識や立場(そしてもって生まれた性格)などによって大きく異なることでしょう。またその一方で、一度身についてしまった感覚はそんなに簡単に改まることはないような気もします。

 「戦時国際法」の存在が示すとおり、現実には国家間の問題解決の手段としての戦争自体が否定されているわけではありません。ただ、人類が経験してきたこれまでの悲惨な経験から、(もしも戦争をするのであれば)一定のルールの下に国家としてその規律性を確保し、非人道的な行為の被害を最小化することが求められているということでしょう。

 「正しい戦争」というものがあるのかないのか。もしも戦争が「いけないこと」だとしたら、軍事力で対応する以外に方法がない状況に直面した時、私たちはどう行動すべきなのか。

 (話はぐるぐる回ってしまいますが)力ないものが一方的に蹂躙される、そんな状況を当たり前のものとして受け止めているだけの人類に、未来を感じることはできません。

「天は自ら助くるものを助く」とは、古くから伝わる西洋の諺と言われています。それは、ウルトラマンがいない地球を、(科学の進んだ)異星人の侵略からどう守るのかというのと同じことなのだろうなと、藤原氏の論考を読んで私も改めて考えたところです。

(「#2163 手段としての戦争(その2)」につづく)



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