MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯102 未来への発想委員会

2013年12月20日 | 社会・経済
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 朝日新聞社では、日本の政治、経済、社会が直面する課題に対し中堅・若手の論客が幅広く議論する場として「未来への発想委員会」という企画を立ち上げています。

 12月2日、3日には朝刊の紙面を大きく割いて、消費税増税などを含む社会保障全般に関する国民の「負担増」をどう捉え直すか、という視点から何人かのメンバーが問題提起を行っています。

 座長である吉田慎一編集担当上席執行役員は「従来の仕組みや発想の何が問題で、どこで行き詰まっているのか。それに代わる選択肢は何か。」について問題点を整理し読者に「考える材料を提供したい。」としていますが、さて、その試みは成功しているのでしょうか。

 結論から言えば、短くまとめられたそれぞれの意見や論点の中には通常の朝日新聞の主張とは若干異なる方向性のものなども含まれ、それなりに興味深い内容となっているように感じました。「材料」という意味では面白い視点も見られることから、今後の展開を期待したいと思っています。

 せっかくですので、今回、紙面で提起された視点の中からいくつかをご紹介したいと思います。

 まず、紙上では冒頭、朝日新聞の原真人編集委員が「問題提起」と題し、負担増の現状についてその課題となるポイントをいくつか指摘しています。原氏はまず、財政赤字がここまで膨らんだ責任は行政サービスの恩恵に浴してきた国民自身にあるはずなのに、なぜ人々はその責任を「政治家や官僚にばかり押し付けるのか」という疑問を呈しています。

 国民も政治家も経済成長や人口増を自明とした歳出の膨張に慣れすぎて感覚がマヒしてしまっている。日本には、きちんと税金を取りその財源で再配分を実現させようという「真の社会民主主義」が不在なのではないか、という厳しい指摘をしています。

 その上で原氏は、日本人ももうそろそろ高度成長下の「税収の自然増」に期待するという発想を捨てて、政治や国民が負担増の未来に正面から向き合う必要がある。また、そうしなければ事態は悪化するばかりだという認識を示しています。

 また、同じ紙面では、大阪大学の特任准教授の神里達博氏が、問題の犯人探しに終始するマスコミの論調や国民の議論に対して疑問を投げかけ、本質的な問題を直視することの重要性を指摘しています。

 神里氏は、「どこかにズルをしている人間がいるに違いない。そういう人を放置したままでは負担は引き受けられない」という(朝日新聞の紙面などで)よく聞かれる訴えの根底には、厄介事の背景には「真犯人」がいて「それを叩けば問題は解決する」というような単純な世界観があるとしています。そして、最近では国内だけでは「犯人役」が足りず、外国にまでその責任を押し付ける議論が増えてきてのではないかと、この問題に対する国民の姿勢を問いただしています。

 戦後信じられてきたさまざまな神話が崩壊し、責任ある立場の人々が「もぐら叩き」のごとく次々と糾弾されてきたこの20年。「こんな社会に誰がした」との怒りの声ばかりが大きく聞こえるが、当初は効率よく進んだ仕事も次第に歩留まりは悪くなるもの。「戦後体制の犯人探し」や些細な不公平ばかりに気を取られ、本質的な問題が放置されてはいないか。私たちはそろそろこのような「多罰的な思考習慣」から卒業すべきではないか。これが神里氏の主張です。

 「負担増」への認識に関するこうした論点について、翌日の紙面において、東京大学教授の牧原
出 教授が、メディアによる報道の姿勢の問題点などについてさらにいくつかの興味深い視点を提供しています。

 消費税の税率引き上げが、「受益に見合った負担」ではなくあくまで「負担増」として捉えられている発想の背景には、新聞などのメディアによる消費税報道があると牧原氏は見ています。

 消費税が最初に導入される際、政治はリクルート事件をはじめとする自民党政権に対するマスコミの強い批判の渦中にあった。このため、以降「消費税」はメディアによってあたかもその存在自体が悪者のように扱われるようになり、時の政権基盤を揺るがすような事態もしばしば起こっている。メディアはこうしたある種の「成功体験」を背景に、「逆進性」という単語を消費税の枕詞のように用いながら事実上国民の反感をあおる形の報道姿勢を変えていないのではないか、という指摘です。

 牧原氏はこうしたマスコミの論評に対し、いったん財政破綻が起こったら我々の暮らしがどのようになるかを具体的に検証し、「危機の本質」を国民に十分理解してもらう姿勢が大切だとしています。また、併せて、世代間対立をあおるばかりではなく、世代間の公平を制度によって担保しようとする姿勢も今後は重要になると指摘しています。

 この「世代間格差」の問題については、同じ紙面において、朝日新聞論説委員の浜田陽太郎氏が、問題となっているのは「格差」というよりも世代間の生活水準のアンバランスによるある種の「不公平感」であるという指摘を行っています。

 頻繁に旅行を楽しむ高齢者と非正規雇用で低所得に苦しむ若者たちとの生活のバランスをとるためには、今の受給者の年金の引き下げや資産への課税強化などを併せて実施していくことがまず必要だと浜田氏は言います。

 浜田氏はその主張の中で、年金の財源負担という観点から単純に「世代間対立」をあおることは、高齢者を貧富の差に関係なく一枚岩にしてしまい問題の冷静な解決を遅らせることにつながるとしています。
むしろ、年齢に関係なく、「困っていない人が困っている人を助ける」という単純な理屈として捉え、制度化すべき。つまり高齢者を含めた全ての「オトナ」が次世代の育成に貢献するという、対立ではなく「信頼の回路」を開くことが必要だと浜田氏は主張しています。

 さらに、この社会保障における世代間格差の問題について、津田塾大学の萱野稔人教授が、「格差の放置は制度自体の存続を揺るがしかねない」として制度への信頼確保の必要性について改めて問題を提起しています。

 萱野氏は、この負担の格差の問題について有利な立場にいる高齢者たちが(自分の「取り分」以外のことに)にあまり関心がない一方で、より大きな負担を強いられている若い世代の方が圧倒的に「敏感」になっていることを指摘しています。

 「自分で払ったものを受け取って何が悪い」という高齢者の反発はいまだに多く聞かれ、高齢者の間に「自分が払った以上の年金を受け取っている」との認識は極めて薄いと言わざるを得ない。しかし、それでは相対的に大きな負担を背負う若い世代の理解は得られない、というのが萱野氏の認識です。

 少子高齢化という人口動態がある以上、現役世代ひとり当たりの負担が同じであったら、ボリュームが大きな年齢層においては(頭割りされた)社会補償の質が下がるのは当たり前なことなのに、そういった簡単な事実(理屈)もなかなか理解されない。こう考えると、世代間格差は誰のせいでもなく、強いて言うならこの問題を正面から取り上げてこなかったこれまでの現役世代全体の責任ではないかというのが萱野氏の主張です。

 一方で、こうした世代間格差がなぜ問題なのかというと、これが制度自体の持続可能性を危うくしてしまうからだと萱野氏は言います。制度への信頼を損ねれば誰も負担しなくなる。誰も負担しなければ制度そのものが崩壊する。そして制度の崩壊は、国家への不信感を助長し社会の安定を奪うことにもつながっていきます。

 少子高齢化の流れのもとで、現在の若者も時がたてば「多数派の高齢者」となることは明らかです。これは世代を超えた問題として、制度の存続を最大の目的とした長期的な視点のもとで議論されるべきだと、萱野氏は今回の紙面を(とりあえず)まとめています。

 社会保障に係る負担の存在を前提に、この問題を正面から受け止めていくことの必要性や、負担の格差をどのように是正し公平性(感)を確保していくか、そして制度の存続に向けて今何をしていかなければならないかなど、この問題に対する論点はある程度集約されていると認識してよいのではないでしょうか。

 公的年金制度などの社会保障が充実すればするほど老後の生活を自らの子供に託す必要性は薄くなり、子供を産み、育てることへのモチベーションにも影響が出ることでしょう。結婚して子供を産むというライフコースを選択することのインセンティブが下がれば、少子化は一層進み制度の維持は難しくなります。

 民主政治はボリュームゾーンの意向を受けて動くことが制度上自明ではありますが、社会保障制度の構築には将来を見通し長期的にバランスのとれた政策決定が求められます。世論(の理性)に対し、腰を据えた「説明」と「理解」を粘り強く求め続ける姿勢が、政府に(そしてメディアにも)必要とされているということでしょうか。


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