5月5日に石川県能登地方で発生した震度6強の地震以降、全国各地で比較的大きな地震が相次いで発生しています。関東地方でも、5月11日に千葉県南部を震源とする地震により木更津市で震度5強を観測したほか、5月30日には千葉県沖で発生した地震により湾岸地域を中心に震度5弱を観測するなど、月間の回数としては2018年9月以来の頻度だということです。
東日本大震災の例を引くまでもなく、国民の生命財産に甚大な被害を及ぼす地震ですが、中でも現在の日本で最も危険視されているのが南海トラフ巨大地震の発生です。同地震の被害規模には我々の想像を超えるものがあり、太平洋沿岸の多くの地域で耐震性の低い住宅が倒壊し多数の死傷者や要救助者が発生するほか、大津波により多数の死者・行方不明者が発生することは避けられないとの予測もあります。
結果、死者数は最大で実に32万人にも上ると推計されており、地震や津波による直接的な被害だけでなく、その後の生活環境の悪化や医療体制の崩壊による多くの関連死の発生が懸念されているところです。因みに、内閣府の被害予測では、被災直後には国内で最大約3440万人が断水し、最大約3210万人が下水道の利用が困難となるとのこと。また、停電件数は最大約2710万軒におよび、都市ガスも最大約180万戸の供給が停止するということです。
地震による家屋の倒壊や津波などから何とか一命をとりとめたとしても、その後に待ち受けている(水も食料も灯りも情報も足りない)「被災者」としての悲惨な生活に耐え抜いていくのはどんなに辛いことでしょう。日本の場合、「被災者」と言えば思い浮かべるのは、地域の学校の体育館などで家族が寄り添い、段ボールなどに囲まれて暮らす生活です。東日本大震災の際などは、福島県双葉町からの避難者の埼玉県加須市の(元県立高校を使った)集団避難生活は、実に2年以上に及んでいます。
たとえこのように長期間に及ばなくとも、プライバシーのない集団生活はストレスのたまるもの。(屈強な若者であればいざ知らず)保護が必要な子どもたちや高齢者、傷病者などにとって、その環境はあまりにも過酷と言わざるを得ないのではないでしょうか。
なぜ日本の被災者は、こんな過酷な環境を受け入れなくてはならないのか。5月18日の総合情報サイト『現代ビジネス』に、弁護士の大前治氏が「自然災害大国ニッポンの避難が体育館生活であることの強烈な違和感、そして海外との決定的な差」と題する論考を寄せているので、その概要を残しておきたいと思います。
2022年も災害が多発した。3月16日の福島県沖地震では、福島県と宮城県で244ヵ所の避難所に一時約3000人が身を寄せた。8月3~4日には台風8号に伴う豪雨被害により東日本の7県190ヵ所の避難所に4080人が避難した。救助や避難対応にあたった方々は懸命な努力を重ねた。そのことには頭が下がるが、他方、そうした個人の努力では解決できない問題があると、大前氏はこの論考の冒頭に綴っています。
それは、避難者の多くが体育館などでの生活を余儀なくされ、劣悪な環境におかれているということ。海外で整備されている避難所の実態とは大きなギャップが生まれる中、災害多発列島・日本でこれを放置してよいのか再考が必要だというのが氏の指摘するところです。
自然災害時の避難生活は、床に毛布を敷いて大勢がひしめきあう体育館が思い浮かぶ。エアコンや間仕切りはないことが多い。大規模災害のたびに報道される光景でだ、これを当然視していいものなのか。海外の災害避難所と比べれば、日本の避難所の問題点が浮き彫りになると氏は言います。
日本と同じ地震国のイタリアでは、国の官庁である「市民保護局」が避難所の設営や生活支援を主導する。2009年4月のイタリア中部ラクイラ地震では、約6万3000人が家を失ったが、その際、イタリア政府は約3万4000人に公費でホテルを用意した。その他の人に割り当てられたテントも約10畳の広さで、電化されてエアコン付き、コンテナ型のシャワーやトイレも設置されたということです。
実際には、テントの空調の利き方やプライバシー保護などの面に不十分さもあったようだが、大切なのは自治体へ任せ切りにせず、国家が備蓄をすることにより全国各地への迅速な対応を可能としている点にあると氏はしています。清潔なトイレや温浴施設、包皮で派遣された調理人が温かい料理を作る環境も用意されたということです。
一方、2016年4月の熊本地震では、地震の後で体調を崩すなどして死亡に至った「災害関連死」のうち45%にあたる95人が避難所生活や車中泊を経験していたとされている。結果、劣悪な避難所生活が、避難者の生命と健康を削ることになったと氏は説明しています。
体育館の床の上だけでなく、学校の廊下で寝起きをした例などもあり、1人あたりの面積が1畳ほどしかない避難所では、「難民キャンプより劣悪」という声も出たとされている。経済力の豊かな日本で、なぜこのような状況が「仕方がない」と放置されるのか。まずは、政府や国民が「避難所といえば体育館」という固定観念を捨てることが必要だというのが、こうした日本の状況に関する氏の認識です。
確かに熊本地震の際の報道を見て、避難所に指定された学校で何日も過ごす人々や、そうした生活を嫌って車の中で家族で過ごす被災者の姿に唖然とさせられた記憶があります。一方、被災地から県境をまたいだ大分県や宮崎県の温泉旅館やホテルなどの宿泊施設では、相次いだ旅行客のキャンセルなどで閑古鳥が鳴いていたとの話もあり、(少なくともお年寄りなどは)しばらくの間温泉にでも避難してもらってゆっくりしてもらえないものか…と思った記憶があります。
大前氏はこの論考の最後に、避難規模が大きい場合には、日本でも国が中心となって公費で宿泊施設(ホテル、旅館、公的研修施設など)への避難を指示できる予算措置と制度化を検討してはどうか。併せて、避難生活を支援する予算を拡充して、災害直後にすぐ避難者支援を開始できるよう資材の備蓄を進めてもらいたいと提案しています。
復興のための費用と比べれば、命からがら逃げ伸びた避難者のための10億や20億は大した費用ではないはず。災害は自己責任、自治体任せのまま自分の生活は自分で守れというのは、あまりに冷たい仕打ちだろうと私も感じます。
何兆円という規模での防衛費の増強よりも、もっと先にやるべきことはあるのではないか。国民の生命を守るのは政府の最も重要な責務であり、困難を極める国民を前にそれが実現しないのは、災害援助に対する考え方に問題があるからだとこの論考を結ぶ大前氏の指摘に、私も強く同感したところです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます