天皇皇后両陛下が主催する園遊会が、5月11日に開催されたとの報道がありました。園遊会の開催は、2018年11月以来コロナ禍をはさんで実に4年半ぶりとのこと。令和になって初めての園遊会では折からの冷たい雨の中、両陛下が招待客ひとりひとりに丁寧に声をかけられている姿が印象的でした。
今回は新型コロナ対策により、招待客は1300人程度、実際に来場したのは1000人ほどに絞り込まれていた由。それでも、ノーベル賞受賞者や東京五輪・パラリンピックの金メダリスト、話題の芸能人などの姿も見られ華やかなものとなりました。特に今回は、秋篠宮家の次女・佳子さまの初お目見えということもあって、会の雰囲気は一層和やかなものとなったようです。
第二次世界大戦の戦禍を経て、天皇や皇室の在り方については様々な議論が繰り返されてきましたが、昭和の時代の終焉とともに天皇制の存廃が政治の俎上に上がることはほぼなくなったといってよいでしょう。
しかしその一方で、昨今の秋篠宮家を巡る報道などを見聞きするにつけ、(平等が前提となったこの時世に)世襲を前提とした皇室という立場を維持することの難しさを感じないわけにはいきません。
皇室が身近な存在になった分、納税者として自由に発言する国民たち。権力者としての「世論」にさらされるその姿に、皇室に生まれたことの悲哀を感じ取っている人もきっと多いことでしょう。
もちろんこうした状況は、日本ばかりの話ではありません。王族が日常的にパパラッチに追われる英国では、皇室のゴシップネタはタブロイド紙の格好の餌食です。先日王位に疲れたチャールズ元皇太子も、ダイアナ妃やカミラ妃との関係で世間を大いに賑わせました。
あくまで主権は国民にあり、国王は「君臨すれども統治せず」というのが立憲君主制の建前ですが、それでは民主・平等・自由を建前とする現代(自由主義)会において、なぜ世襲君主という存在が必要とされ続けているのか。
その理由について、5月27日の『週刊東洋経済』に米シカゴ大学教授のトム・ギンズバーグ氏が、「立憲君主制に万歳、その知られざる効用」と題する論考を寄せているので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。
英国に加え14の旧植民地が国家元首に掲げる英国王チャールズ3世が戴冠した。一方で、世界を見渡せば「君主制を見直すべきだ」という国民は依然多い。実際、バルバドスは2021年に共和制に移行。ジャマイカでも同様の憲法改正プロセスが始まっていると、ギンズバーグ氏はこの論考に綴っています。
純粋に儀礼的なポストにいったい何の価値があるというのか。(特に)米国の人間には、世襲の君主をよしとする考えは理解しにくいと氏は言います。しかし、立憲君主制は世界屈指の先進国において今もって健在であり、(実際に)相当な恩恵をもたらしている。立憲君主制を捨てるのは、よくよく考えてからにした方が良いというのがこの論考におけるギンズバーグ氏の主張です
立憲君主制は、君主が実際に権力を握る「絶対君主制」でもなければ、元首が国民もしくは議員によってえらばれる「共和制」とも異なる体制だが、世界では決して特殊な存在ではない。立憲君主制を採る国は現在世界に34か国あり、およそ193ある独立国の18%に相当する。しかも、それらは極めて成功した国々ばかりなだと氏は話しています。
具体的には、北欧諸国の多く、日本、ベネルクス3国、そしてチャールズ3世を国王に戴くオーストラリア、カナダ、ニュージーランドといった国々がそれに当たる。英経済誌『エコノミスト』が発表した2022年の民主主義指数によると、世界トップ20の民主主国のうちの10か国、世界トップ20富裕国のうちの9か国が、件の立憲君主制を採用しているということです。
君主制が今もこうして生き残っているのは、長い時間をかけて、国民が選出する立法府(議会)に権力の座を明け渡してきた歴史の存在が大きいと、氏はその理由を説明しています。
国難の中で存在感を発揮できる立場にある君主は、政治に対するある種の保険となり得ると氏はしています。
1981年にスペイン国王ファン・カルロス1世が、民主化を脅かすクーデターを身を挺して阻止したことは広く知られている。他国からの侵略に対する国家的レジスタンスの要となる場合もあり、実際、第二次大戦中にはノルウェー国王のホーコン7世が、ナチスに協力したクビスリング政権の承認を拒み、国を離れて抵抗を続けたということです。
また、時に君主は少数派の擁護者となることもあると氏はしています。第二次大戦中、モロッコ、デンマーク、ブルガリアの立憲君主たちはユダヤ系国民を守る姿勢を強く打ち出した。モロッコ国王ムハマド5世は仏ビシー政権によるユダヤ人拘禁の命令に背いたし、デンマーク国王クリスチャン10世には黄色い「ダビデの星」が付いた衣服をまとったという伝説が存在するという具合です。
そして、現代においては、「統合の象徴としての君主」が最も悪質なタイプのポピュリズムに対する抑止力となりうる点が(最も)重要だと氏は指摘しています。
扇動的なポピュリストたちは反対派を「国民の敵」と呼び、我こそが国民の代表だと訴えることが多い。しかし立憲君主制の下では、そのような主張はむなしく響く。国民を象徴する君主が既に存在する以上、他の誰かが国民の象徴になろうとしても、必然的に限界があると氏は言います。
そして、立憲君主制の国で行われる政治演説にはポピュリスト的な言説が比較的少ないことについては、「グローバル・ポピュリズム・データベース」のデータによっても確認されているということです。
さて、シーザーにしろナポレオンにしろ(ヒトラーにしろ毛沢東にしろ)、ポピュリズムの下でひとりの独裁者に権力が集中する背景には、確かに社会の中に(衆愚政治による)政治的混乱がある場合が多いのはおそらく事実でしょう。そういった意味では、立憲民主制と君主制の「いいとこ取り」を目指す立憲君主制に、メリットがあるというギンズバーグ氏の指摘にも頷けるところがあるような気がします。
一方、戦前の日本が軍国主義的ポピュリズムに覆われたのは、大日本帝国憲法のもとでの立憲君主制にかなりの無理があったから。権力を抑制する法体系の不備に加え、国民の多くが「市民」として成熟していなかったからと捉えるのが妥当なのかもしれません。
(いずれにしても)ジャマイカなど立憲君主制をこれから廃止しようとしている国々は、この政体が21世紀にここまで成功している理由を(もう一度)しっかりと考えるべきだと氏は改めて提案しています。
なるほど、英国王チャールズ3世は古色蒼然とした制度の残滓と映るかもしれない。英連邦王国が今後縮小していくのも間違いないであろう。それでも、立憲君主制が消えるわけではない。国王をいただく国民にとってそれは寿ぐべきこととは言えまいかと話すギンズバーグ氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。
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