12・11・5
門前の小僧、習わぬ経を読む。
毎日聞いていれば自然と覚えてしまう、
そうした意味だろうと、思っていました。
チョッと違うのじゃないか…
と思ったのが今日のテーマです。
以前このブログにも書きましたが、
養護老人施設のお年寄りに
毎月ハガキを差し上げるボランティア活動で、
はがき文のネタ本として、
水原秋桜子の俳句小歳時記を度々眺めた。
俳句を読むためではなく、ましてや詠むためでもない。
歳時記から、はがき文のネタを探すために
俳句小歳時記を眺める。
毎月7,8通のハガキを書く度に眺める。
読むのではなく眺める。
門前の小僧は庭を掃きながら経が聞こえる、と同じ程度に
歳時記に紹介された季語の説明文を読み、例句を眺める。
こうして度々歳時記を眺めることで、
俳句的美意識、感性、俳句的表現などに触れる。こうして、
俳句の諸々の美意識に私の感性、潜在意識が呼応、
獲得した俳句的美意識、感性、俳句的表現を
再び潜在意識に蓄積する。
ネタ本として歳時記に接してから10年以上経過、
始めて俳句を一句詠みました。
「これもつつじ これもつつじと 幼い手」
門前の小僧は
経を丸覚えに覚えたのではなく、
和尚の日常に触れることで、
諸々の徳をも小僧の感性、潜在意識に呼応して
獲得した小僧の徳が奥深くに培われて、
習わない経を読める。
ハガキ文を書く、
もっと言えば読んでくれる
お年寄りの歓びに係る、
と云う目的があったからこそ、
ネタ本として歳時記に無意識のうちに
俳句の世界に取り込まれた、と云える。