今日の地元紙「福島民友」に…倉本聡さんの特別寄稿(上)として
福島を歩く「がんばれ」口に出せず・・・のタイトルで次のような記事が載っていました。
私も、原発が起こった後
TVから流れる「頑張って」の励ましの言葉に違和感を感じておりましたが
全くその通りの思いのこの記事・・・紹介したいと思います。
地震と津波と原発事故と、更にそれに続く風評被害と。
四重苦に苦しむ福島を歩いた。 歩いたと言ってもわずか三日間である。
その程度の旅でものを言うのは気がひける。 だが、その 三日間何人もの人にお逢いし話を聞いたが、各所で目にした「がんばれ福島! がんばれ東北」の文字。
この「がんばれ」という言葉を遂に一度も口に出せなかった。
当事者でもない他所者の自分が、苦難の極にある福島の人々にそんな上っ面な皮相な言葉をとてもおこがましくて声に出せなかった。
それ程重厚な悲劇の重みがこの土地、この土を覆い尽くしていた。
川俣町の山木屋から比曽峠を越えて飯舘村の長泥いたる峠道は折から紅葉に染められていたが、0.3マイクロシーベルトに設定していた線量計はたちまちブザーが激しく鳴りだし、10.88まで数値を上げた。
紅葉の赤がセシウム色に思えた。
峠を下った避難区域の農村は人っ子一人なく畑を雑草が埋めつくし、たわわに実をつけた柿のオレンジが、採る人もなくそこここに立っている。 見上げると空を走る高圧線の電線が夕陽にキラキラと輝いている。
何故か突然・沖縄の町を覆う基地のフェンスの針金を想起した。 常磐炭鉱、福島原発と、この地は都会の豊饒を支えるエネルギーの基盤を常に担ってきた。
沖縄もそうだが戦後日本の平和と繁栄を陰で支えて来たこうした地方が、突然の悲劇に見舞われている。
そのことを都会の人たちは、政府は、国民はどのように切実に受けとめているのだろうか。
福島への関心は今どうなっているのか。 口では同情示しながら、仮設住宅とか補償金とか目に見える対応明け暮れし、故郷を失った者、故郷があるのに帰れない者への心の賠償を怠ってはいまいか。
自分を含めてそうしたものを、時の流れの中に風化させて行くなら、それは最も罪深い行為である。
そのことをずっと考え続けた。
原発を中心に、10㌔圏内、20㌔圏内、30㌔圏内、中央官庁の机の上でコンパス片手に機械的に半円を描いて行く国の役人が、その作業によって永年棲み馴れた土地を追われ、畑を、仕事を放棄せざるを得なくなったこの地の民の心の痛みをどれ程想像できているのだろうか。
その事を思うと怒りで胸が熱くなった。
原発に近い避難区域に、実家を捨て難くて済み続けている人は本当に一人もいないのでしょうかと問うたら、「いますよ自分の知る限り一人は」。といとも簡単に帰ってきた。
大地震と、原発事故でいまだ15万人近くが避難する県内被災地を歩いた倉本聡さんが心に刻んだ県民への思いを綴って下さったものとして…とありました。