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五高50年史、70年史を始めとして、関係資料を引き出し五高端艇部創立から夏目漱石の部長辞任問題と眺めてきたが。いずれも漱石はさっぱりとした性格であったということだけが表面に出てきて吉田久太郎をキャップとする一行が佐世保鎮守府から熊本の画津湖まで廻漕したことについて立ち寄った港、港での慰労が百円を超える借金となってしまい、返す当てが無くなったのでそのことを耳にした部長である漱石が黙って百円を払い償って遣り部長を辞任したと言うことがこの物語の真相であるが、ただ百年前の歴史さえこのようにフイクションになっている。この物語の最初であると思われる五高50年史には久太郎の一行が佐世保から回漕してきたと言うことなど一言も書いてはないことから判断しても話は次から次へと面白くおかしく創られていくものであると言うことを改めて確認した。
吉田久太郎氏のお孫さん勝氏の話でも久太郎は人に施しこそすれ、人様に迷惑を掛けるような人ではなかったと言うことを聞いたことがあったし、先年、五高記念館を訪問された久太郎氏の姪御さんの話によれば、福岡の吉田の本家は篤志家であった。もし例え百円を借財したとしても、それこそ実家のほうからすぐにでも弁償出来たはずで「人様に迷惑を掛けない」ということが吉田家の家訓であったそうで、これも勝氏の話と合点する所である。此処からも漱石が百円払って即座に辞任したということはありえない話であるということである。その上熊本に赴任して間もない漱石が給与百円を超える借財を弁償してやったというが彼自身のその月の生活はどうしたのかも気になるところである。熊本においてまだほとんど信用が出来ていない時期である。