五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

収容端艇旅順大連廻航

2009-05-10 04:14:22 | 五高の歴史
 この鎮守府からの廻送の真実については龍南雑誌NO59号六十三頁の「収容端艇旅順大連廻航」の記事から詳しい事情を確認することが出来る。

本月五月、我が端艇部が一大飛躍を企てし以来、拡張の業は、駿々乎として旭日の東天に上るが如し。此時に際し、一片の風聞は、吾人の耳底に触れぬ。曰く佐世保鎮守府には、佐世保鎮守府には十余隻の収容端艇有り。官公私立の学校に対し之を引取る学校があればそれに応ずるという。端艇部は二名の特派員を交渉させた。周旋約一ヶ月途中で幾多かの障害も有ったが、苦心の末無事授受が完了し、八月二日百貫港に廻送された。廻送員を募集したが暑中休暇の時期であり五高の生徒は帰省している者が多く、やむを得ず一般学生から募集した、
 集合は八月三日午前八時百貫石木崎廻送店に参集、艇は盗島付近に投錨、準備は握飯二籠、菓子類四箱、梨及び鶏卵数十ヶ、藎丹数袋、飲料水十余瓶、照前燈四ヶ、蝋燭数斤・・・この準備について龍南雑誌では、今までの遠航会経験から食糧が足らなくなった時、生餅を齧りまた緑川でなく他の河川の下流を登ったりしたのでとても困ったことがあったので、今回は期日は短くとも若者三十名の命がかかっているのでこれだけの用意をしたということを見出す・・・・・・・、
午前十時和船に曳かれて百貫石に入る。旅順・・十四橈カッター、長さ三十四呎五吋、巾八呎四吋、深さ平均四呎八吋、積量一千立方呎強、オレコンバイン造り、大連・十二橈カッター、長さ三十一呎、巾六呎十吋、深さ三呎二吋、テイク材造り、
十一時百貫を出発、・・・住吉へ、一時到着・・住吉神社・・満潮に合わせて抜錨九時。二丁周辺小船多い。大曲して川尻へ、十二時十分川尻着、四日十一時川尻出発・・・杉島橋、大慈寺の堤下を経て、・・・中の瀬着。・・五時十分江津到着、

 出迎え 中川校長、桜井教授、余田助教授、笠間海軍大尉、富重写真師、
このときの廻漕員の名前を掲げる。
艇長、大浦教授・岩田講師、来賓、九州日々新聞社員・九州自由新聞社員、
本校生徒(いろは順) 十五名
石阪二・戸次 正・富田定寿・富山山寿・吉田久太郎・都築 清・内藤 楽・永村清・井上新平・野阪嘗治・奥村紀雄・山村松柏・松村謙造・江橋貞一・澤村英雄・
他校生(順席不同)
商船学校  二名     竹内済二郎・藤林又男
攻玉社   一名     大畑太郎
済々黌   五名     吉田可秀・柏木辰生・偅崎 直・野尻友助・上田幸家
元本校生徒 一名     廣岡 勝
数学院及鵬翼舎  五名  釘本重春・甲斐 某・山田 山・工藤 某・中島 某