五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

鹿児島からの五高への進学

2009-05-25 04:58:56 | 五高の歴史
この時代後年鹿児島のナンバースクールとして野球戦を始めとして五高のライバル校であった七高はどうであったかを調べてみた。島津藩においては廃藩置県後藩校造士館を閉館してしまった。そのため鹿児島からも五高に進学していたものが多い状態であった、
ここでは明治三十年三月の鹿児島尋常中学造士館からの第五高等学校への受験のため願書及び経歴書を転載する。
  願書
本館は開館日尚を浅く生徒少数に之有候得共元鹿児島高等中学造士館の引継を受けたる如ききもの有之来七月には卒業生を出たすは古に有之候就ては本館卒業生にして貴校大学予科へ入学するものヽ為に再後貴校と連絡を通し貴こう大学予科入学細則第二章第一条第二条第三章第三条第四条に拠り入学相当候様致度に付仝即第四章第一条に基き別紙規定書類添付此段奉願候也
     明治三十年三月廿七日
             鹿児島県尋常中学造士館長 岩崎行親
 第五高等学校長   中川  元殿


 造士館の経歴
本館の起源を譯するに今を去ること百二十余年前、旧鹿児島藩主第二十五代島津重豪は夙に儒学を尊崇して学制の振興を計るために安永二年学館を創設して名前を造士館と称した。藩の子弟を督励して経史を講習した。しかし数十年教化は振るわなくなったので島津斉彬公は封を襲い其の弊習を釐革し躬親を学問の趣旨を書して子弟を奨励し訓育至らざるはなく学風は一変し士気が大いにあがりその後の廃藩置県と共に一旦廃止されたが明治十七年公爵島津忠義は祖先の意志を詳述して巨額の金品を寄付して造士館を再興することを県令に委託した是に於いて鹿児島中学と公立鹿児島学校とを廃止してその資産を併せて地は鹿児島学校の跡地に定めて学校教則綱領に基づき新たに学校を設置して鹿児島県立造士館と称して明治十九年中学校令及び諸学校通則が交付されたことに伴い島津忠義はさらにこれを拡張して高等中学校の位置に奨めて文部大臣の管理に属せられんことを請願して明治二十年十二月遂に高等中学に改め文部省の管理となって鹿児島高等中学造士館と称された爾来年を遂うて隆盛に赴きたりしが明治二十九年九月文部省の管理から解かれ、廃館と為る是に於いて公爵島津忠義更に毎歳壱萬円以上の金員を寄附し復い尋常中学を興し鹿児島県知事の管理に属せしめらん事を請求ありしに仝年十二月文部省の認可を得鹿児島県立尋常中学造士館と称せられ山下町元鹿児島高等中学造士館の建物を以て之に充て其書籍諸器械の如きも挙げて之を用に供し本年一月より開館するを見るに至る是を本館の沿革経歴となす。

このことについてウイキペリアを参照すれば、鹿児島から高等教育機関の消滅を惜しむ人たちの支援により、変則中学校「鹿児島学校」として再開され、これが発展して明治十七年「鹿児島県立中学造士館」となり、それが明治二十年に「鹿児島高等中学造士館」となったしかし、明治二十九年に高等科廃止と予科生をもって「鹿児島県立尋常中学造士館」と改称され、更に明治三十二年には「鹿児島県中学造士館」と改称された。明治三十四年に「造士館」の名称と校舎・校具は新規設立の「第七高等学校造士館」となったものである