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ここでは龍南会雑誌二百号に搭載されている江口俊博氏の「龍南古事記」の一節から兎狩についてその全盛時代を窺うことにした。
従来から熊本は兎狩りの国である。山に網を張り勢子が兎を追い出してその網に引っ掛けて捕獲するという一種の演習である。これで参加者の士気を鼓舞し共同を訓え、規則に馴れさせるものであった。この兎狩りによって熊本人の負けじ魂は培われたものである。そんなことから体育会の一部に兎狩り部を置くという議が起こり希望者を募ったところ忽ち多くの賛同者を得て兎狩部が成立した。明治二十一年十二月十六日には、野出、三ノ嶽で大兎狩を行い、イーバル・クランミー先生も第三組で参加し獲物の収穫は儘ならず一組三頭、二組二頭、三組五頭、四組は一頭であった。僕は四組で参加していたが、この収穫は直ちに本陣の嶽村で矢開きが行われた。矢開きとは獲物を料理して食べることである。その後も年に二~三回のペースで開催されその中の一回は阿蘇の錦野地方で大兎狩を一泊国武家を本陣に願い五~六軒に分泊し富士の巻狩を偲ばせた物であった。
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