シニア・ソレイケ

昭和生まれ専科

富士八郎

2011-08-21 | 映画ーアレコレ


「天馬天平」

昭和30年代中頃になるとテレビが家庭にも普及して、いろんなテレビ番組が作られたが、中でも今でも記憶に残る俳優のひとりが「天馬天平」の主演だった富士八郎。当時高校生だったと聞いたが、この人の剣裁きは、本当に剣道をやっている人かと思うほど伸びのあるスピード感に溢れていた。小生剣道はしたことがないが、そこはチャンバラ少年。「殺陣」としての上手下手くらいは判る。兎も角、打ち込む時の足の素晴らしい踏み込みと、剣をしっかりと振りかぶってから振り下ろす捌きは、TVドラマの中では他では観たことがない。

「殺陣」で思い出したが、小生,高校生の頃は「弓道部」に席を置き、それなりに大会などに出た。そんなわけで、テレビの時代劇で弓を射る場面を見て、何故あんなに素人丸出しの引き方をするのかということを、弓道を一度でもやった人は思っているに違いない。

左手(弓手という)で弓を持ち右手で矢を引くわけだが、簡単に言うと、先ず、左手の弓の持ち方(主に親指と中指で握り、親指を突き出すようひねる)、次に、右手の矢を引くときのヒネリ、そして矢を引いたときの矢の位置がほぼクチの真横に来なければならないのに、これが上だったり下だったり。まあ、ドラマだからそれほどマジになる必要はないが、せめて弓手の持ち方くらいは必ず画面に入るので気に留めて欲しい。

そう言えば、先日NHKのニュースで、甲冑に身を固めて参拝するオタクの人たちを放映していた。そのうちの一人は、何とボール紙などで甲冑を自作し、晴れて参詣していたが、その弓の弦の張りをみて驚いた。弦を逆につけていた。 これは弦を張っていない状態の弓は逆反りしているので間違えるのはよくあることだが、甲冑を自作するほどマニアックな人なので特に気をつけて欲しい。将に「画龍点睛を欠く」だ。実に惜しい。

前回、京都へスケッチ旅行へ行くと書いたが、運よく天気に恵まれ熱中症(昔は日射病と言っていたが、どう違うんだろう?)に倒れることなく生還してきたが、最終日の時間が半端だったので、京都駅から近いところということで25年ぶりに三十三間堂へ行った。

スケッチのことは次回に譲るが、三十三間堂はご存知のとおり、東映の映画では、吉岡清十郎を斬った宮本武蔵(中村錦之助)が、復習に燃える清十郎の弟伝七郎(平幹二朗)から呼び出しを受けて対決する場だ。また「通し矢」としても有名だ。 江戸時代の「通し矢」の記録では、総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となったと書いてあったが、この的までの距離は約120m。現在では、一般に近的を使うがこれが約28m。120mという距離が如何なるものか分かると思う。それを1万回以上弓を引いて、軒先や廊下などに当てずに的まで届かせるというのは、至難の業で、体力と精神力、それに良い弓が要る。現在では、この軒先を使った「通し矢」は行われていないようだが、昔はどの季節にやったのだろう。 もしこれが夏だったら熱中症に罹るに違いないが、昔の人はこれだけ弓に熱中したのだから、これを「熱中症」のハシリというべきか。

「夏子の冒険」

2011-07-14 | 映画ーアレコレ
夏子の冒険

人間の脳みそは、つくづく不思議なものだ。つい昨日何を食べたか覚えていないのに(小生だけかも知れないが)、昔のことは結構覚えている。

そう言えば何と言う落語の枕だか忘れたが、頭脳の明晰さでは歴史上最も高名な孔子(だったと思う)に、ある人が「孔子様は頭が良い人で昔のことを良く覚えておいでと聞いていいますが、一番古い記憶ってのは何です?」と訊くと孔子曰く「うむ、母親の胎内にいたときだな」。「ヘェ~、お母さんの胎内ってどんなもんなんすか?」「うむ、寒くもなく暑くもなく、丁度秋のようだったな」「へぇ? どうして春じゃなくて秋なんです?」「うむ、ときどきマツタケが生えていた」。

小生の場合、古い映画の記憶をたどると、いろんな映画が時間差なしに断片的に出てくるが、そのうちのひとつが、「夏子の冒険」。 調べてみるとリリースが昭和28年とあるし、小生の長岡を出た時がその頃だから、多分、長岡で観た最後の映画だったのかも知れない。

これは三島由紀夫原作の映画だそうだが、それを知ったのはずっと後年。この映画を観た時の記憶に残っているのが、若原雅夫や高橋貞二の7・3に分けた髪の、ヒカリを反射した部分が青く光っていたことだ。多分、子供心に髪の反射した光は白いものと思っていたのが青く見えたので不思議に、また新鮮に感じたのだろう。後に、これが高峰秀子主演で日本最初の総天然色映画の「カルメン故郷に帰る」の次に出たカラー作品ということだから、小生が観た初めてのカラー映画ということで、その意味でも記憶しているのだろう。

それと、この頃から色気づいていたのかも知れないが、映画では、森の中を若原雅夫が夏子(だったと思うし、女優が誰だかも覚えていない)のお尻(確かチェックのスラックス姿?)を前に向け両足をもって片方の肩に担いで歩いていて、夏子が何か言うと、もう一方の手でお尻をはたくというシーン。何故かここだけ鮮明に覚えている。

ここまで書いて思い出したが、少なくとも昭和30年代は映画のポスターに「総天然色」とサブタイトルが付いていたように思う。ということはモノクロームに対する表現であるが、その過渡期に「部分カラー」という映画があった。一番有名なのが、黒澤明監督の「天国と地獄」かも知れない。これは間違って誘拐された子供のために、本来狙われた子供の父親である会社重役の三船敏郎が提供した身代金を入れたカバンに薬剤を入れておき、燃やすと煙に色が付くという設定で、そうとは知らぬ犯人がカバンを燃やすと、画面の焼却炉の煙が突然モノクロからカラーになる。

「部分天然色」(今ではパートカラーというそうな)が主流だった昭和40年代には、どちらかというと「大蔵映画」に代表されるような成人向け映画に「部分カラー」が多くあったが、これにバーンと「総天然色」で登場したのが日活ロマンポルノだった。やはり一世を風靡しただけのことはある。

新諸国物語「笛吹き童子」

2011-07-07 | 映画ーアレコレ
新諸国物語「笛吹き童子」、

子供時代の楽しみにひとつにラジオドラマの「笛吹き童子」があった。
週末を除く毎日夕方には、どんなに群れて遊んでいてもその放送時間になると、不思議に時計も無いのにピタッと止めて家に飛んで帰って聞いた。

ラジオからは「北村寿夫原作、「新諸国物語 笛吹き童子、笛、福田蘭堂(石橋エータローのお父さん)」の声が流れるとワックワクして15分の放送に聞き入ったものだ。

この頃は未だ長岡に居たが、それから暫くして東京の鎌田へ引越し。その頃には「笛吹き童子」も「紅孔雀」となり、また「大林清原作、異国物語、ヒマラヤの魔王」などが続々と出てきた。そして、これらが東映で中村錦之助、東千代の介主演の映画となって、3本立てチャンバラ全盛時代を迎える。

そう言えば一つ思い出したが、確か「蒲田ヒカリ座」(蓮沼駅近く)といったと思うが、そこでは映画休憩の度に非常口を開けて空気を入れ替える。なにしろ、通路まで観客がぎっしり詰めかけていた時代だ。そのとき、非常口の外側近くに居て、次の上映で非常口の扉が閉まるときに何食わぬ顔で入るのだが(つまり無銭観劇)、その内、その非常口の係員のオジサンに顔を覚えられてしまったが、これがいい人で(自分にとって)、外に居ると手招きして入れてくれた。
実にいい人だったなぁ。勿論、名前は覚えていないが半世紀以上経った今でも、顔は覚えている。その人の孫かひ孫に会えたら是非当時のお礼を言いたい。

そこで、もうひとつ思い出したが、昨年50年ぶりに昔住んでいた蒲田の小林町(現、新蒲田)近辺をセンチメンタル・ジャーニーで訪ねた。当時は無かった環状8号線が走っていて、かなり様相は変わったが、小林八幡神社は若宮八幡と名前こそ変われ存在していたし、力道山のプロレステレビを見せてもらうためにお世話になった「そばやのひぐちや」、近所の中心療法研究所、それに、筆舌に尽くし難いほど世話になった輿○さんのお宅も昔のまま。 唯、輿○邸は、突然であり既に3-4代目と思われるので、今回はお訪ねはしなかったが、次回には先に電話を入れて是非輿○正○氏にお線香でもあげさせてもらいたいと思っている。

話は戻るが、そのヒカリ座は今は無かったが、その辺りは当時、小生が新聞配達していた区域で、何故か覚えている寺○邸の前に立ったら、今でも変わらずに当時の陶器製表札が出ていた。タイムスリップの一瞬。

話をもう一つ戻してラジオ放送だが、山東昭子が語り手となった「赤胴鈴之助」。これも夢中で聞いたが、このとき千葉周作の娘役千葉さゆりの声優が吉永小百合だった。ひょっとしたら、彼女の芸名(?)の「小百合」はここから取ったのかな? 本名かも知れないが。今でも覚えているのが山東昭子のナレーションで、「と、あるとき」「と、そのとき」など言葉の前に「と」をつけるのが、何故か耳に残っている。

そう言えば、彼女はその後参議院議員となったが、先日日本語放送を見ていたら、自民党の会議(説明がなかったらヤクザの集まりかと思った)の映像の中に彼女が居た。正直驚いた。これほど永く議員をやっていたとは。流石というか、やはり赤胴鈴の助の歌詞どおりの人生を歩んでいたのか。「票を取っては日本イチニ」。


獅子丸一平

2011-07-05 | 映画ーアレコレ

#2 「獅子丸一平」

昭和20年代のチャンバラ少年としては、先ず市川右太衛門、片岡知恵蔵辺りから始めたいが、何故か「獅子丸一平」の一場面が気になっているので、ここから入りたい。

川口松太郎原作の新聞小説を中村錦之介主演で東映が製作した映画だが、あらすじなどは他を見ていただくとして、獅子丸を身ごもった茂(喜多川千鶴)を助けて、その後、獅子丸の育ての親となる新宮時光春を演ったのが悪役や声帯模写(当時はモノマネをこう呼びましたね)で名高い月形龍之介。

その彼が茂に、「そなたの美貌と拙者の武勇があれば、素晴らしい子供ができる」と口説く場面があった(但し、昔の記憶なのでそれほど正確ではない)。

多分、察しの言い方ならお分かりのように、バーナードショーと(一説には)美貌の大女優サラ・ベルナールのやりとりだ。ホントかどうか知らないが、サラ・ベルナールが「あなたの頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたらどんなにすばらしい事でしょう」と言い寄ったとき、ショーは「私のやせ衰えた肉体とあなたのちっぽけな頭脳を持った子供が生まれたら大変ですよ」と答えたと伝えられている。

誰が脚本を書いたか知らないが、今思えば吹き出すようなセリフだが、それでも一観客の記憶に半世紀も刻み込まれたのだから、それはそれで名セリフと言っていいかも知れない。

そう言えば、1年ほど前のテレビでこんなセリフがあった。
女性鑑識課員が主人公のサスペンスドラマで、あるとき公園(?)で通行人が白骨死体を見つけ警察に通報。鑑識課に「白骨死体発見のため出動要請」があり、くだんの女性鑑識課員がかけつけて、しばし周りを掘ってから言ったセリフが「アッ、これは人骨だわ」。

ジョン・ウェイン

2011-07-03 | 映画ーアレコレ
ジョン・ウェイン
戦後の映画全盛時代に物心ついた小生が映画を語るには、松竹、東映の3本立て映画を夢中になって見た頃から話を始めるべきだが、ここは先ずジョンウェインから始めたい。何故かというと、一番古い映画の記憶を思い出そうと脳みその容器(味噌甕?)をガラガラ振っていたら出てきたのがジョン・ウェインの映画なのである。

ジョン・ウェインの日本での最初デビューが「駅馬車」だと聞いたことがあるが、小生の記憶としては彼が潜水夫に扮した「怒涛の果て」のように思う。と言っても、当時は未だ4-5歳。それも洋画好きだった親父に長岡の映画館に連れて行ってもらったのだが、眠くて殆ど覚えておらず、途中の大きな貝に足を挟まれる場面や、(多分)最後の場面で潜水服に水がどんどん流れ込んできたシーンくらいだ。 もしかしたら、「駅馬車」が先で人気が出た後に「怒涛の果て」だったかもしれない。

兎も角、それから随分経った昭和30年代に「駅馬車」がリバイバル(懐かしい響きですね)され、銃声が鳴ってジョン・ウェインが駅馬車を止めるシーンを見たとき、何とも言えぬ懐かしさを覚えた。

まぁ、それはともかくジョン・ウェインの映画はShootistに至るまで殆ど観ている。この時代には丁度日本の時代劇のように、主演、競演、助演にはこと欠かずハリウッドの西部劇は面白かった。その後、いろんな事情で昭和40年代に入ると映画を観る機会は激減したが、今思えば昭和30年代は映画漬けだったような気がする。その話は後日。

ジョン・ウェインの話から少しそれてしまったが、初めてアメリカに出張に来たのが1979年の春で、この頃彼はガンで病床にあり(カーラジオで毎日病状を伝えていた)その年の11月に永眠した。因みに、彼はロスアンゼルスの南にあるオレンジ郡に住んでいたので、同郡の国際空港はジョン・ウェイン空港と名付けられている。私の知人が、以前彼の邸宅を借りて会社のパーティをしたことがあったが、今もできるかどうか分からない。

先日ツアーを取って西部劇の場面に欠かせないモニュメントバレーに行った折、ツアーガイドがジョン・ウェインは意外と背が低いと説明していた。そこでインターネットで彼のBiographを調べてみると、USC(南カリフォルニア大学)Football部に所属しておりそのときの記録で6.1-6.3(191cm以上)となっていた。十分にデカイと思う。

最後に一番好きな彼の映画はどれかと訊かれたら「3人の名付け親」と答えている。