シニア・ソレイケ

昭和生まれ専科

(第三部) カチカチ山ー最終回

2011-07-24 | 落語、小話、
カチカチ山

エー毎度のお運びありがとうございます。

さて、話しもいよいよ最終局面でございます。
果たして、うまくお噺がつづきますことやら。いささか頼りない気がして落ち着かないのは皆様方の方かと思いますが…エー私の方は全然心配しておりません。どうせうまく落ちなくったって、打ち所が悪くて死ぬなんてェことはありませんから。

エー前回は、シタ切りスズメが悪い色後家さんにとっちめられたところまででしたな。
何しろ歳を取りますってぇと、どうも記憶の方がはっきりしませんで…。

さて、今回のお噺は、叶姉妹のようなナイスバディの後家さんがスズメのお宿から手ぶらで家に帰ってきたところから始まります。

「ちきしょう、あのスズメめ。あたしにゃ何も土産をくれなかったよ。そうだ、隣のばあさんの金銀財宝は、本来あたしがあのスズメからもらう慰謝料だったんだ。だからそれを殺して取ったって悪くはないよ。取られたものを取り返すだけだからね。 だけどナンだねェ。隣にいるババアが死んじゃったら、あたしが真っ先に疑われるね。ナンかうまい手はないかねぇ」後家さんは暫く思案しておりましたが、ハタと手を打ち、胸をブルンと振るわせ「そうだ。あそこはペットショップだから、あそこで売られている狸を買ってきて、ババアを殺させたらよかろう」とよからぬことを思いつきます。

誠にお胸の大きいご婦人というのは、考え方があらぬ方向へ飛躍するようで怖いものです。 わたくしがこうやって長生きできたのも、ひとえにこのような美人に無縁だったからかも知れませんが。 マ、それが良かったかどうかは疑問でもございますが…。

それはさておき、美人後家さんは太郎婆さんの店からタヌキを買ってきて、その狸に婆さんを殺す算段を教えます。

「いいかい。オマイはあの店で売られていて、危うく他の客に狸汁の具として売られるところをあたしが助けてあげたんだよ。その恩を忘れたら犬畜生どころか人間より劣るよ。あの家はお金が一杯あるからサ、婆さんを後ろから棒で殴って殺しちまってお金を持っといで」

この狸もなかなかのタヌキでして、神妙な顔で後家さんの言うこと聞いておりましたが、「そうか、あのペットショップにそんなに金があるんなら、何もシトのためじゃなくて自分のためにやろう。ナーニ、一人殺すのも二人殺すのもおんなじだ」と、どっかのシトとおんなじようことを考え、後家さんが油断して後ろを向いた隙に、そばにあった棒で後家さんの頭を殴り、殺してしまいました。そして太郎婆さんの家に忍び込み、これも棒でひと殴りしましたが、さすがに歳はとっても太郎婆さん、昔はオトコ。血だらけになりながらも、家の外に逃げ出します。

「タスケテクレー」。太郎婆さんは山道を逃げてきましたが、とうとう倒れてしまいました。そこへ丁度、月の国からきたウサギが通りかかります。

太郎婆「もしもし、そこを行くウサギさん。私は元、浦島太郎というものですが、今悪いタヌキに頭を殴られ、出血太郎(多量)で死にます。どうぞ仇を取ってください。お礼にタヌキに盗られた家にあるお宝を全部を差し上げます」

「おいおい、見れば婆さんじゃねぇか。こんな年寄りをいじめやがって。もうチョイ我慢すれば手ぇ出すまでもなく死ぬものを。まぁ、しかし、これも何かの縁だ。よし、分かった。確かにそのタヌキ野郎は俺が仇をとってやるからな。まぁ安心して成仏してくんな」と親切に土に葬って簡単な墓を立ててやります。

その頃、タヌキは太郎婆さんから奪った金で贅沢三昧。イヤ、もう札ビラを切って、若い娘、コスプレ嬢、キャバクラ嬢などを相手に大盤振る舞い。ラブホにも連荘(レンチャン)で泊り込んで遊びまくっております。「今日はキャバクラ、明日はアキバ、間を過ごすは錦糸町」ってなもんです。何しろ金がある上にキンのタマつきですから、少々顔や体形が不細工でもモテルモテル。そこへ月のウサギがやってまいります。

「オッ、いたいた。あのタヌキ野郎か。ヨーシ、早速声をかけてやろう」「ヨッ、タヌキのダンナ。様子がいいですヨッ。エーッ。こんなに若い女の子に囲まれてモテモテですねッ。金離れよくて、おまけにこんなでかいモノをぶらさげているんですから、素人さんから玄人さんまで夢中になりますよ。ィヨッ、ニクイね!この後家殺し!」

「オオーツ、ビックリした。『後家殺し』なんて、あんまりホントのこと言うなよ。処で、ナンだお前は?」

「ヘイ、月のカジノからやってきた営業担当部長です」
「何が営業担当ブチョウだァ。ブッチョウ面ぶらさげて。処で何かオレに用か?」
「エエ、エエ、何か八日(ようか)、9日10日というくらいなもんで。実は今、月のカジノじゃァ、お客様還元セールと銘打って、カジノ全店で「大相撲八百長セール」と銘打って絶対勝てる取り組みをご用意しているんですよ。何しろ勝つことが分かっているほうに賭けるんですから負けたくても負けないんです。マ、そんなとこですから、誰でもというわけにはいかない。やはり、一流の紳士で金持ちしか相手にしないんですよ。ダンナは絶対いいカモ、いや、そこにピッタリのお方と思ってお誘いするようなわけでして」
「そうかい?オレがそんなに紳士に見えるかい? そうか、そうか。イヤ、実はナ、もっと刺激的な遊びはないか探していたとこなんだよ。よしッ、それじゃあ一緒に行こうか」ってんで、タヌキは若い女の子を侍らせながらウサギの用意した月ロケットに乗って月のカジノへ向かいます。

「オオーツ、なかなかいいな、このロケットは。天にも上る気持ちだな。ウン。処で俺はナ、月を見ると、その-ゥなんだ、腹鼓を打ちたくなる性分なんだ。ここで腹ツヅミを打たせてもらうぜ。ホレ、ポンポコポンノ・スッポンポン」ロケットの中で大変な騒ぎです。連れてった女達もスッポン、スッポン、スッポンポンとか囃されて本当にスッポンポンになって踊ったりしております。

さて、タヌキは月に着いて「火事の勝勝」と看板の掛かった山深いカジノへつれていかれ、早速「相撲賭博」をやり始めましたが、元々タヌキを懲らしめるのが目的の博打ですから、あっという間に負けがこみます。
そうこうするうちに、素人の悲しさ、タヌキは有り金を巻き上げられます。そこで例に洩れず火星人かバルタン星人の月のヤクザが出てまいります。

「なにぃ?金が無い? ざけんな。マタの間にでかいモンがあるじゃねぇか。お前もタヌキなら、それをキンの茶釜に化けさせてみろ。イヤと抜かしたら泥舟に乗っけて沈めちゃうぞ」と脅され、止む無くあそこを金の茶釜に化けさせたところで、借金のカタにとその部分をひっこ抜かれます。

イヤァ、痛いの痛くないの。タヌキの袋は8畳敷きと申します。私のモノはせいぜいお猪口程度ですが、それを一寸ぶつけても気の遠くなるような痛さですから、8畳分ともなると想像を絶しますな。
さすがの不知火検校みたいなタヌキもタマを抜かれたらタマりません。アッというまに悶絶死でございます。マア、道理で『「タ」ヌキの「マ」ヌケ』といいますから、タとマをヌカれるわけでございます。

そして月ウサギは「婆さん、アンタの仇は討ったぜ。成仏してくれよ。ところでこのキンのタマ茶釜はどうするかな。しかしナンだね。でかい釜の上の端っこにチョコッとちっちゃい注ぎ口がついていて。これは茶釜というより急須だね。タヌキの野郎、デカイ袋を自慢してた割には注ぎ口はチンケだね。イヤ、チンコか。しかし、これだけデカイ水入れがついているとナンにでも使えちゃうね。『万事急須』ってこのことだね」

ウサギは、その茶釜と急須のアイノコみたいなのを「キンがタマる茶釜でお茶を飲みましょう」と銘打って、カジノの縁起物として、これにお茶を入れて売り出したところ大変な評判となり、お客さんはカジノで博打をする前に、先ずこの茶釜風急須のお茶で喉をうるおすようになります。

そんな中、酔狂なシトも居るモンで、ある日このキン茶釜を買いたいという人が現れました。

「これこれ、その方が、あのキンのタマる急須風茶釜の持ち主か。実は、拙者はさる藩の家老じゃが、殿があのヘンテコな急須茶釜が欲しいとおおせられての。拙者としてはお止めしたのじゃが、是非にも買い求めたいと言われる。ついては、あの急須の値は如何ほどかな?」

「ヘッ?あの急須をですか? マ、そりゃぁ売らないこともありませんけどね。チョットお高いですけど、いいですか? ヘッ、ありゃぁ、何しろキンでできてますからね。やはりお支払いも金(キン)ということで如何でしょう? マ、そうですね、あの急須茶釜に入る金の量と同量ということで如何でしょう」
「ウウム、その方なかなか商売がうまいの。しかし、殿がいたくお気に入られているので致し方あるまい。よし、それではそれで手を打つが、一体どれほどの金が入るのじゃ?」
「ハイ、1升ほど入ると思います。
「何故、1升と分かるのじゃ?」
「ハイ、『急須に1升を得た』と申します」

「祈りの手」 デューラー

2011-07-17 | 趣味のいろいろー絵画編



「祈りの手」Albrecht Dürer (German artist,)

今、水彩画に凝っている。
と言っても、最近気まぐれで急にやりたくなって始めただけで、週末の気が向いた時に描くくらいだが、始めた理由に少し伏線がある。

ある宗教関係の機関から、何時も丁寧に冊子が送られてくるが、先今号に「ハンスの手と白い鳥」と題して、アルベルト・デューラーの「祈りの手」にまつわる童話が載っていた。不勉強でデューラーという15世紀のドイツの画家を知らなかったのだが、この絵だけは知っていた。

と言うといかにも他の絵は知っているみたいだが、そうではない。実は、この絵はアメリカのアートの店(日本の店は知らない)に行くと必ずといっていいほど見かける絵や彫刻で、20数年前、偶々入ったロスアンゼルスの工芸品店で見たとき、キリスト教でも仏教のように指を組まず合掌する祈り方があるのかと思った程度である。それにしても、この単純な素描は(例えプリントものでも)かなり心に訴えものがあった。

小生もそれなりにルネッサンス期の有名画家も含めて素描を見ているが、これほど心に残る絵はない。そして最近送られてきた冊子の中に、このデューラーと「祈りの手」のモデルになった友人の逸話が載っていて、その内容を改めてネットで調べて始めて分かった次第だ。

小生も中学2年の頃まで漫画家になりたいと思っていたクチで、その後、中学卒業とともに、いろんな夢を捨てたが(夢が夢と分かっただけ)、絵もそのひとつだった。それが、この絵を観て何故か急に描きたくなったというわけだ。 

そこで早速、アート関係の店に行き、鉛筆、スケッチブック、水彩絵の具などを買い込み、その足で日本の本屋さんにも行って「水彩画の描き方」というようなタイトルの本を数冊買い込んで目下練習中というわけだ。日本の水彩画は「淡彩」というのか、絵の具をそれほど使わない経済的なので大変気に入っている。 

ま、そんなわけで、今月末にはスケッチのために、わざわざ東京経由で京都まで行く予定である。それを知人に話したら、日本の夏は信じられないほど蒸し暑く、特に京都は東京より暑い上に、今は節電でクーラーもなく、ロスの涼しい気候に慣れている者には無理無理と鼻で笑われた。

それでも既に航空券、新幹線、ホテルの予約まで一気呵成にしてしまった今では後戻りできず「エエイ、ままよ」と行くことにした。

7月末に、大原近辺で熱中症で倒れているベッカムに似た男が居たら小生に間違いない。


(第二部) 下きりスズメの部

2011-07-16 | 落語、小話、
エー毎度のお運びありがとうございます。

エー、さて今回は、タマ手箱を開けた浦島太郎がおばあさんになったところからお噺が始まります。

エー、おばあさんになった太郎は、その後、流れ流れて陸奥の国に行き、そこでペットショップを開きウサギや亀を販売しながら余生を送るようになりました。
そして、その隣には、歳の頃なら28-9で、影もピンク色をしてるというくらい色気たっぷりな若後家さんが住んでおりました。

ある日、帝の勘気を蒙り都落ちしてきた、つまり左遷された藤原の左近衛中将実方(さねかた)というお公家様が、この陸奥の国へとやってまいります。 この実方というお方は大変和歌の道に秀でたお方でございますが、なかなか色の道にも達者で、一説には色恋沙汰で都から放逐されたという噂もございます。また、死後スズメとなって都へ帰ったという逸話もございます。

「あーぁ、まったく陸奥ッてとこはホントに田舎だね。山じゃ狐にだまされて道に迷うわ、さっきは猫に折角昼餉(ひるげ)に食しようと思った焼き魚を取られるわ。 ンとに『狐にゃだまされ猫にゃとられ ニャンでコンなにへまだろう』って麻呂のことだね。 それにしても昨日は疲れたね。あの花魁もなかなかオツなもんでしたよ。 『アナタに見しょとて結うたる髪を 夜中に乱すもまたアナタ』ってなことを言われてついつい長居をしてしまいましたョ。 『ゆうべしたのが今朝まで痛い 二度とするまい箱枕』なんてネ。それにしても腹がへったな。そうだ、そこの家で何か食べさせてもらおう」と、丁度目に入った若後家さんの家にのそりと入ります。この後家さん、亭主をナニで衰弱死させたというウワサがあるくらいのシトですから、ご主人が居なくなってイライラしており扱いもつっけんどんです。

「許せよ。何か食するものは無いかな。麻呂は藤原の左近衛中将実方である」
「何だィ。エー?売れ残りの内裏雛(だいりびな)みたいなのっぺりしたのが入って来たよ。冗談じゃないよ。エー、家(うち)にゃぁ季節はずれの雛壇に供えるものはないよ。あっちへ行った、行った、シッ シッ」


「見た目はそそるもんがあるのに乱暴なオンナじゃな。しかし、腹がへったナ。それでは隣のペットショップの老婆の所へ行ってみよう。老婆ならやさしいじゃろう。老婆心というくらいだからな」
「これこれ、麻呂は腹がへりま(練馬)の大根じゃが、ナにか食するものを所望じゃ」
「これはこれは、まずいシャレでうまいことをおっしゃるお方でございますね。難儀でございましょう。ここは都と違ってフランス料理やイタリアン、マンカン全席などはありませんが、桃の節句が過ぎたばかり。丁度余った桃がありますので、これでもお召上りください」と太郎ばあさんが大きな桃を差し上げました。
「ヘェーなんだね。随分と落差があるね。ま、しかし食いもンがあるだけマシだ」「ムシャムシャ。ムムッ、なかなかの美味じゃ。誉めてとらすぞ」
「ハハァー恐れ入ります。で、お公家様はこれからどちらへ?」
「ウム、麻呂は帝のご命令でこれからさらにみちのくの奥の奥のどんづまりまで一人で行かねばならぬのじゃ。つまり、『みちのくのくのくの一人旅』じゃな。ついては、もし麻呂の身に何かあれば、これも何かの縁じゃ。きっと何かに化けてそちの家に帰って参るぞ」。 帰ってきてもらっても困りますが、そこは数百年も生きた太郎ばあさん、如才なく「あぁあぁ、それはそれはお難儀なことでございますね。えぇえぇいつでもお帰りください」と送り出した。

さて、旅路を急ぐ実方中将。どうにも体の具合が悪くなりとうとう山道で動けなくなりました。
「あーあぁ麻呂もとうとうみちのくのみちばたで死ぬのか。今ごろ帝はどうしているだろうか。 麻呂のことを思い出してくれるかなぁ。時世の句でも読むか。『帝(みかど)はいまごろ醒めてか寝てか 思いだしてか 忘れてか…』これじゃまるで都都逸だよ。そうだ、スズメになって都へ帰ろう」。と決定してこの世を去りました。そのとき口から3条のうっすらとした煙が出たとみるとそれはスズメに変わり都めざして南へと飛び立ちました。

さて、その実方スズメですが本体が病気だったところに糖尿病の気がありましたものですから、とても都まで体が持たず、以前世話になった太郎ばあさんのところに緊急着陸いたしました。
太郎ばあさん「おや、まあ、可愛いスズメだこと。それにしても随分とのっぺりして。これは前に立ち寄られたお公家さんの生まれ変わりに違いない。お気の毒にお亡くなりになったんだね。これも何かの縁、以前にもカメを助けていい思いをしたことがあったから、1度あることは3度あるという。今度はこのお公家スズメに親切にしてあげよう。また、何かいいことがあるかもしれない」。どうも人間の品格というのは何年経っても直らないようで。
「さあ、スズメさん、おなかも空いただろう?ン、ヤキトリでも鳥雑炊でも作ってあげるよ。ナニ、食い合わせがよくない? そうかもね。まあ、ゆっくりしていきなさい。着ているおべべも大分汚くなったね。着替えは持ってないの? ナニ? 着たきりスズメでこれしかない? 間違いないわねェ。それじゃぁね、わたしが布団の切れっ端で着物を縫ってあげよう」

いろいろと親切にしているうちに、実方スズメもすっかり元気になりました。元気を回復するとこの実方スズメ、出自は公家で女を追っかけるのが仕事みたいなものでしたので、やはり体力がつくと精力もついてくる。ついつい昔のクセでお隣の色気たっぷりの若後家さんに言い寄ったりするようになります。

この実方スズメ、なかなかの手管の持ち主で、まっすぐ後家に言い寄らず、桃をくれた太郎ばあさんにまとわりついて、後家さんをじらします。「浮気スズメは後家さんじらし、梅干さけて桃(モモ)に鳴く」なんてネ。そうこうするうちに後家さんも実方スズメに餌を与えたりするようになり、だんだん深い仲となっていきます。つまり、若いスズメですな。

しかし、実方スズメは何しろオンナに目が無い方ですから、後家さんだけでは満足できず、そのうちに里の若いオンナ達にも手を出すようになった。何しろ本人は空を飛べますので何時でも何処でも好きなところへいける。そんな若いツバメならぬ若いスズメであちこち飛び回っているうちに元の後家さんをないがしろにするようになってしまいました。「あついあついと言われた仲も 三月せぬ間に秋(飽き)が来る」というように、段々二人の間も冷えてまいります。

ある日、里のオンナと逢っているところを後家さんに踏み込まれます。
「アンタ! 私というものがありながら、また浮気して。エーッ、この間は何て言ったィ。『すずめ百までワシャ99まで 共に白髪の生えるまで』なんて言っておきながら。 クヤシーッ、おのれ、こうしてくれる!!」と持ってきたハサミで実方スズメのアソコをチョッキンと切り取ってしまった。それ以来、スズメは自分の一物を探して「チョンチョン」と鳴くようになったということでございます。マ、あまりアテにはなりませんが。しかし、これがホントの「下切りスズメ」でございます。

シタを切られたスズメは恥ずかしくてこのままでは都へ帰ることもできませんので、チョンチョンと泣く泣く、スズメのお宿のある新潟の方へと飛んでまいります。

さあ、太郎ばあさんはそんなこと知らないから急に居なくなってしまった実方スズメを探し廻ります。「スズメのお宿は何処じゃ」と言ってあちこち竹をたたいて探します。これはなんです。昔から梅にウグイス、スズメには竹と相場が決まっております。「雪をかぶって寝ている竹を 来ては雀がゆりおこす」という位ですからナ。

そしてようやく太郎ばあさんが実方スズメのお宿を探し当てると、実方スズメもすっかり感激して大歓待です。太郎ばあさんもすっかり喜び、「ヘェー、 スズメの隠れ里ってのは結構不便だと思ったけどなかなかいい所だねェ」「はい、スズメば都(住めば都)というくらいですから」

さて、太郎ばあさんはそこで、実方スズメ達から下にもおかない接待を受けまして帰りには大きなつづらを土産に持って帰ります。
「あヤァー、またもらっちゃたよ。お土産を。前には開けたらケブが出て、ばあさんになっちゃったから、こんど開けたら灰になっちゃうんじゃないかねェ。ケブが出て灰になるなんて世話ないねぇ」なんてェことをつぶやいていましたが、どうも中が気になってしょうがない。じゃあ、ちょこっとだけ見ようと恐る恐るつづらの蓋を開けると中にあったのは…

ちゃんと入っていました。大判小判に金銀財宝が。ザックザックと。そして太郎おばあさんは、大金持ちとなりました。めでたし、めでたしィ。

イヤ、 まだ終わりではございません。続きがございます。

これを見た隣の若後家さん。「チキショー。あのスズメめ。アタシというものがありながら、あんなババアに土産をくれて。そうだ、アタシにも慰謝料ってのを請求する権利があるって誰かが言っていたョ。こうなりゃ、アタシもスズメのお宿に乗り込んでお土産をふんだくってこよう。四の五の抜かしたら、前はシタを切ったから今度は上のシタを切るぞと脅してやろう」 思うやいなや、流石ご婦人だけありまして直ぐに行動に移ります。先ず、隣の太郎ばあさんからスズメのお宿の場所を聞き出し、竹をたたきながらスズメのお宿に向かいます。

さて、若後家さんに乗り込まれた実方スズメも困ってしまいましたが、何しろ頭に来るとナンデモ切っちゃう相手だから怖い。ともかく、この若後家さんの我ままを聞いて一応歓待いたします。
さて、そろそろ頃合というときに、この後家さん「あーぁ、そろそろ家にも帰らなくちゃいけないいんだよ。そう言えば隣のばあさんは何か結構なお土産を貰ったそうじゃないかェ。アタシも土産はそんなもんでいいよ。エッ?ナニ?もうお土産はない?冗談じゃぁないよ。子供の使いじゃあるまいし、手ぶらで帰れるか!」と実方スズメの首根っこを押さえつけ頭をポカポカ殴りつけました。堪らず実方スズメは泣き出し「ひぇー許してください。今出せるのはこれだけです」
「なんだそれは?」
「ハイ、スズメの涙です」

これにて「下切りスズメの項」読み終わりといたします。

「夏子の冒険」

2011-07-14 | 映画ーアレコレ
夏子の冒険

人間の脳みそは、つくづく不思議なものだ。つい昨日何を食べたか覚えていないのに(小生だけかも知れないが)、昔のことは結構覚えている。

そう言えば何と言う落語の枕だか忘れたが、頭脳の明晰さでは歴史上最も高名な孔子(だったと思う)に、ある人が「孔子様は頭が良い人で昔のことを良く覚えておいでと聞いていいますが、一番古い記憶ってのは何です?」と訊くと孔子曰く「うむ、母親の胎内にいたときだな」。「ヘェ~、お母さんの胎内ってどんなもんなんすか?」「うむ、寒くもなく暑くもなく、丁度秋のようだったな」「へぇ? どうして春じゃなくて秋なんです?」「うむ、ときどきマツタケが生えていた」。

小生の場合、古い映画の記憶をたどると、いろんな映画が時間差なしに断片的に出てくるが、そのうちのひとつが、「夏子の冒険」。 調べてみるとリリースが昭和28年とあるし、小生の長岡を出た時がその頃だから、多分、長岡で観た最後の映画だったのかも知れない。

これは三島由紀夫原作の映画だそうだが、それを知ったのはずっと後年。この映画を観た時の記憶に残っているのが、若原雅夫や高橋貞二の7・3に分けた髪の、ヒカリを反射した部分が青く光っていたことだ。多分、子供心に髪の反射した光は白いものと思っていたのが青く見えたので不思議に、また新鮮に感じたのだろう。後に、これが高峰秀子主演で日本最初の総天然色映画の「カルメン故郷に帰る」の次に出たカラー作品ということだから、小生が観た初めてのカラー映画ということで、その意味でも記憶しているのだろう。

それと、この頃から色気づいていたのかも知れないが、映画では、森の中を若原雅夫が夏子(だったと思うし、女優が誰だかも覚えていない)のお尻(確かチェックのスラックス姿?)を前に向け両足をもって片方の肩に担いで歩いていて、夏子が何か言うと、もう一方の手でお尻をはたくというシーン。何故かここだけ鮮明に覚えている。

ここまで書いて思い出したが、少なくとも昭和30年代は映画のポスターに「総天然色」とサブタイトルが付いていたように思う。ということはモノクロームに対する表現であるが、その過渡期に「部分カラー」という映画があった。一番有名なのが、黒澤明監督の「天国と地獄」かも知れない。これは間違って誘拐された子供のために、本来狙われた子供の父親である会社重役の三船敏郎が提供した身代金を入れたカバンに薬剤を入れておき、燃やすと煙に色が付くという設定で、そうとは知らぬ犯人がカバンを燃やすと、画面の焼却炉の煙が突然モノクロからカラーになる。

「部分天然色」(今ではパートカラーというそうな)が主流だった昭和40年代には、どちらかというと「大蔵映画」に代表されるような成人向け映画に「部分カラー」が多くあったが、これにバーンと「総天然色」で登場したのが日活ロマンポルノだった。やはり一世を風靡しただけのことはある。

新諸国物語「笛吹き童子」

2011-07-07 | 映画ーアレコレ
新諸国物語「笛吹き童子」、

子供時代の楽しみにひとつにラジオドラマの「笛吹き童子」があった。
週末を除く毎日夕方には、どんなに群れて遊んでいてもその放送時間になると、不思議に時計も無いのにピタッと止めて家に飛んで帰って聞いた。

ラジオからは「北村寿夫原作、「新諸国物語 笛吹き童子、笛、福田蘭堂(石橋エータローのお父さん)」の声が流れるとワックワクして15分の放送に聞き入ったものだ。

この頃は未だ長岡に居たが、それから暫くして東京の鎌田へ引越し。その頃には「笛吹き童子」も「紅孔雀」となり、また「大林清原作、異国物語、ヒマラヤの魔王」などが続々と出てきた。そして、これらが東映で中村錦之助、東千代の介主演の映画となって、3本立てチャンバラ全盛時代を迎える。

そう言えば一つ思い出したが、確か「蒲田ヒカリ座」(蓮沼駅近く)といったと思うが、そこでは映画休憩の度に非常口を開けて空気を入れ替える。なにしろ、通路まで観客がぎっしり詰めかけていた時代だ。そのとき、非常口の外側近くに居て、次の上映で非常口の扉が閉まるときに何食わぬ顔で入るのだが(つまり無銭観劇)、その内、その非常口の係員のオジサンに顔を覚えられてしまったが、これがいい人で(自分にとって)、外に居ると手招きして入れてくれた。
実にいい人だったなぁ。勿論、名前は覚えていないが半世紀以上経った今でも、顔は覚えている。その人の孫かひ孫に会えたら是非当時のお礼を言いたい。

そこで、もうひとつ思い出したが、昨年50年ぶりに昔住んでいた蒲田の小林町(現、新蒲田)近辺をセンチメンタル・ジャーニーで訪ねた。当時は無かった環状8号線が走っていて、かなり様相は変わったが、小林八幡神社は若宮八幡と名前こそ変われ存在していたし、力道山のプロレステレビを見せてもらうためにお世話になった「そばやのひぐちや」、近所の中心療法研究所、それに、筆舌に尽くし難いほど世話になった輿○さんのお宅も昔のまま。 唯、輿○邸は、突然であり既に3-4代目と思われるので、今回はお訪ねはしなかったが、次回には先に電話を入れて是非輿○正○氏にお線香でもあげさせてもらいたいと思っている。

話は戻るが、そのヒカリ座は今は無かったが、その辺りは当時、小生が新聞配達していた区域で、何故か覚えている寺○邸の前に立ったら、今でも変わらずに当時の陶器製表札が出ていた。タイムスリップの一瞬。

話をもう一つ戻してラジオ放送だが、山東昭子が語り手となった「赤胴鈴之助」。これも夢中で聞いたが、このとき千葉周作の娘役千葉さゆりの声優が吉永小百合だった。ひょっとしたら、彼女の芸名(?)の「小百合」はここから取ったのかな? 本名かも知れないが。今でも覚えているのが山東昭子のナレーションで、「と、あるとき」「と、そのとき」など言葉の前に「と」をつけるのが、何故か耳に残っている。

そう言えば、彼女はその後参議院議員となったが、先日日本語放送を見ていたら、自民党の会議(説明がなかったらヤクザの集まりかと思った)の映像の中に彼女が居た。正直驚いた。これほど永く議員をやっていたとは。流石というか、やはり赤胴鈴の助の歌詞どおりの人生を歩んでいたのか。「票を取っては日本イチニ」。


獅子丸一平

2011-07-05 | 映画ーアレコレ

#2 「獅子丸一平」

昭和20年代のチャンバラ少年としては、先ず市川右太衛門、片岡知恵蔵辺りから始めたいが、何故か「獅子丸一平」の一場面が気になっているので、ここから入りたい。

川口松太郎原作の新聞小説を中村錦之介主演で東映が製作した映画だが、あらすじなどは他を見ていただくとして、獅子丸を身ごもった茂(喜多川千鶴)を助けて、その後、獅子丸の育ての親となる新宮時光春を演ったのが悪役や声帯模写(当時はモノマネをこう呼びましたね)で名高い月形龍之介。

その彼が茂に、「そなたの美貌と拙者の武勇があれば、素晴らしい子供ができる」と口説く場面があった(但し、昔の記憶なのでそれほど正確ではない)。

多分、察しの言い方ならお分かりのように、バーナードショーと(一説には)美貌の大女優サラ・ベルナールのやりとりだ。ホントかどうか知らないが、サラ・ベルナールが「あなたの頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたらどんなにすばらしい事でしょう」と言い寄ったとき、ショーは「私のやせ衰えた肉体とあなたのちっぽけな頭脳を持った子供が生まれたら大変ですよ」と答えたと伝えられている。

誰が脚本を書いたか知らないが、今思えば吹き出すようなセリフだが、それでも一観客の記憶に半世紀も刻み込まれたのだから、それはそれで名セリフと言っていいかも知れない。

そう言えば、1年ほど前のテレビでこんなセリフがあった。
女性鑑識課員が主人公のサスペンスドラマで、あるとき公園(?)で通行人が白骨死体を見つけ警察に通報。鑑識課に「白骨死体発見のため出動要請」があり、くだんの女性鑑識課員がかけつけて、しばし周りを掘ってから言ったセリフが「アッ、これは人骨だわ」。

ジョン・ウェイン

2011-07-03 | 映画ーアレコレ
ジョン・ウェイン
戦後の映画全盛時代に物心ついた小生が映画を語るには、松竹、東映の3本立て映画を夢中になって見た頃から話を始めるべきだが、ここは先ずジョンウェインから始めたい。何故かというと、一番古い映画の記憶を思い出そうと脳みその容器(味噌甕?)をガラガラ振っていたら出てきたのがジョン・ウェインの映画なのである。

ジョン・ウェインの日本での最初デビューが「駅馬車」だと聞いたことがあるが、小生の記憶としては彼が潜水夫に扮した「怒涛の果て」のように思う。と言っても、当時は未だ4-5歳。それも洋画好きだった親父に長岡の映画館に連れて行ってもらったのだが、眠くて殆ど覚えておらず、途中の大きな貝に足を挟まれる場面や、(多分)最後の場面で潜水服に水がどんどん流れ込んできたシーンくらいだ。 もしかしたら、「駅馬車」が先で人気が出た後に「怒涛の果て」だったかもしれない。

兎も角、それから随分経った昭和30年代に「駅馬車」がリバイバル(懐かしい響きですね)され、銃声が鳴ってジョン・ウェインが駅馬車を止めるシーンを見たとき、何とも言えぬ懐かしさを覚えた。

まぁ、それはともかくジョン・ウェインの映画はShootistに至るまで殆ど観ている。この時代には丁度日本の時代劇のように、主演、競演、助演にはこと欠かずハリウッドの西部劇は面白かった。その後、いろんな事情で昭和40年代に入ると映画を観る機会は激減したが、今思えば昭和30年代は映画漬けだったような気がする。その話は後日。

ジョン・ウェインの話から少しそれてしまったが、初めてアメリカに出張に来たのが1979年の春で、この頃彼はガンで病床にあり(カーラジオで毎日病状を伝えていた)その年の11月に永眠した。因みに、彼はロスアンゼルスの南にあるオレンジ郡に住んでいたので、同郡の国際空港はジョン・ウェイン空港と名付けられている。私の知人が、以前彼の邸宅を借りて会社のパーティをしたことがあったが、今もできるかどうか分からない。

先日ツアーを取って西部劇の場面に欠かせないモニュメントバレーに行った折、ツアーガイドがジョン・ウェインは意外と背が低いと説明していた。そこでインターネットで彼のBiographを調べてみると、USC(南カリフォルニア大学)Football部に所属しておりそのときの記録で6.1-6.3(191cm以上)となっていた。十分にデカイと思う。

最後に一番好きな彼の映画はどれかと訊かれたら「3人の名付け親」と答えている。