シニア・ソレイケ

昭和生まれ専科

Kiri Te Kanawa

2013-01-26 | 思いつくまま



諸兄は、Kiri Te Kanawaという歌手をご存知か?

どうも、ブログを書くたびに思うが、このようなものがなければ諸兄の面前に自分の無知をさらけ出すこともないのだが、さりとて、知らないこと知ったような顔をするのも、普段仕事で存分に使っているので、このようなときくらいは素直になりたい。

このKiri te Kanawaだが、マオリ族と呼ばれるポリネシア人の父の姓を名乗る1970-年代80年代を代表するニュージーランド生まれの世界的なオペラ歌手で、数年前にもアルバムを出している(とさ)。

実は小生、この世界的な大歌手の名前を全然知らなかった。こちらアメリカでは月に数十ドル払うと140チャンネルくらいのラジオ放送を聞くことができるが、小生もこのサービスを買い、車の中で主に高音質のクラシックを聞いている。 ダッシュボードに作曲家、演奏者、曲名などがデジタルの文字盤に表示されるが、あるとき一味もふた味も違う女性ソプラノの曲が流れた。

それほどのクラシックのファンではないので運転中は主にクラシック音楽(こちらでは何故かPopsと呼ばれている)とオペラにチャンネルを合わせて聞き流しているが、かなり小さい音にセットしているにも拘わらず、胸(耳?)に響いてきたので、液晶パネルを見ると「Kiri te Kanawa」となっていた。曲の前後の解説でよく日本人の演奏家の曲も出てくるので、このKiri Te Kanawaというのは、日本人が歌っている曲で「行きて、かなわず」かなんかのミススペルと思った。

しかし、どう聞いても日本人にしては豊かな声量と表力、そして英語ではないが心の奥まで沁みるような歌声で、終わったあとの短い解説でもKiri-te-kanawaといっていた。

そこで早速調べた結果がこのブログの冒頭と相成った次第だ。

歌の意味などは不明でも、その歌声は素晴らしいのひとことである。You-Tubeでも沢山アップロードされているので是非聴いて欲しい。

絶対色感

2013-01-26 | 思いつくまま


水彩画を描くことから暫く遠ざかっているが、そのひとつの原因(逃げ口上の方が正しいかも)が色感の欠如だ。

世に絶対音感というのがあるとは良く聞くが、絶対色感というのはあるのだろうかと素朴な疑問が湧き、インターネットで調べたら、どうも絶対音感のように生まれついてのものではなく、修行経験で身についていくもののようだが、はっきりしない。

兎も角、絵を描くときに、見たままの色がでないというのは面白くない。例えば、木を描くとき、どうしても幹の部分は茶色を使ってしまう。 確かに杉など茶色をしている木も多いが、街路樹などは殆ど黒に近い灰色だ。また、水といえば水色を塗ってしまうが、実際はくすんだ緑色や天候や太陽の位置によって橙色や紫、灰色、無限の色を出す(とさ)。 ところが小さいときからの習慣で、水といったら水色、土といったら土色と決まっていて、その域から出ることができない。これでは写真のような写実性のある絵なんか描けっこない。

絵の本にはこういう景色や物はこう描けばよいと簡単に書いてあり、本当に写真みたいに生き生きと描かれ、「これは15分でスケッチしました」などとオソロシイことがかいてある。人間の簡単な所作のスケッチでも、一体を描くのに30分を費やしてもそれらしく見えない。一体どうしたらいいの?

小生の過去ログをお読みの方ならとうに感じておられるとおもうが、どうも絵にしろ、ゴルフにしろ、写真にしろ、楽器にしろ、道具を買って教則本を揃えると、それで達成感を感じてシマイそれでオシマイ。というか、少なくとも本に書いてあるプロ仕様のものを手に入れると、それだけで彼らと肩を並べたような安心感を覚えて、後は何時かこれを使って作品を作れば、オレも同じものができるという錯覚をしてしまう。つまり、文字通り「道具」と「目的」を履き違えているわけだ。

よく英語は意思伝達の道具であるというが、実際はその道具を使える奴が、例え中味がカラッポでも羨ましい。ロスのダウンタウンにたむろしている乞食に英語で話しかけられても劣等感を覚える。

そんな屈折した心理があって、今も「道具」の追及に血道を上げている。

「冒険」とは

2013-01-26 | 思いつくまま

つれづれなるままに「冒険」とは若者の特権かどうか考えた。

よく年寄りは、若い人をつかまえて「もっと冒険しろ」とけしかけるが、どうなんだろう。確かに若い人は「冒険」の結果、それが失敗に終わっても、まだ「明日があるさ」で、それを経験値として、明日の人生に生かせる。だから、いろんなことにチャレンジすべきだろう。

次は年寄りだが、これは「冒険」して失敗しても、それを引きずる時間がない。つまり、失敗しようと成功しようと「明日が無い」んだから、どっちでもいい。それなら、年寄りも最後の花を咲かせるか散らすか、イッパツやってみればいい。

さて、そうするとその間に位置する所謂「中年」。これは難しい。「冒険」の結果、失敗に終わったら、会社での地位、子供の学費、家のローン、奥様の化粧代など、全てパーになった上にその後ン10年生きなければならない。

だから、中年は若いときに乗り遅れた「冒険号」という列車を、高齢者といわれるようになるまで待機し、65歳を過ぎたら乗ればいい。待機晩成ともいうから。

そんなわけで、冒険は若者だけに任さず、年寄りも「年寄りらしくなく」いろんなことに挑戦すべきだ。

今や日本人口の25%を占める年寄りよ。大志をいだけとは言わないが、中志ぐらいは持て。シニア・ソレイケである。