何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

嗚呼・・・・またあの光景が・・・・・・

2016年03月10日 | 死別体験
「うわあああああーーーーーーーー!!!!」

・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・・・

嗚呼、あの時のお前の叫び声が・・・・・一日に何度もフラッシュバックする。

きょうも台所を掃除していたら、突然あの声がよみがえって来た。


怖かったんだろう・・・・苦しかったんだろう・・・・・・助けてほしかったんだろう・・・・・・・・

死ぬのはいやだったんだろう・・・・・・・・・


そして、そして叫んで倒れ込み、助け起こしたおっちゃんの膝の上に、

「おっ!おええええええええええーーーーー」
と、大量に血を吐いたあの光景も・・・・・・・・・

悔しそうな、残念そうな、なんで俺がというようなあの表情・・・・・・・・・・・・


「祥一郎おおおおおお!!!、祥一郎おおおおお!!!!祥一郎おおおおおおお!!!!!」


というおっちゃんがありったけの大声で呼びかける声もむなしく、お前は意識を急速に失っていった・・・・・・


これから先、私にどんな大きな災厄が降り掛かろうと、私の命が尽きようと、決して忘れることのできないあの日あの時の光景。


おっちゃんが傍に居たとはいえ、冷たい台所のフローリングの上で、お前は乱れたパジャマのまま、血だらけになって息絶えていった・・・・



人は言ってくれる。

「けいさんが居ない時に、祥一郎さんが誰にも看取られること無く亡くなるよりは・・・」

「祥一郎さんの人生の半分ほどを一緒に過ごしたけいさんの傍で天に召されたのなら・・・」

そう言って慰めてくれる。

確かにそうかもしれない。

でも、そうやって自分で納得しようとしても、どうしても納得などできないし、悲しみが減じることもないし、苦しみや後悔が些かも無くなることはない。


だめなんだ、だめなんだよ・・・・・・祥一郎・・・・・・・・


せめて、せめて例えば温かい病院のベッドの上で手を握り合いながら、できることなら何か意志を伝えながらお前との今生の別れができたなら・・・・

そんなことを考えてしまうんだ。


この祥一郎の症状はおかしいと思い、病院に行こうとしていたものの、まさかその日に突然逝ってしまうなんて、まったくの予想外だった。

心の準備など、いっさいできずに、お前はおっちゃんの元を去ってしまった・・・・・・・


長く苦しまなくてよかったのか・・・・

真綿で首を締めるように徐々に死が迫りくる恐怖は感じずによかったのか・・・・

そんなことも考えようとするけれど、だめなんだ・・・


たった一人の最愛の人を亡くしてしまうシチュエーションは色々あるのだろう。

でもそれらと比較したところで自分が味わったあの地獄絵図は、自分の中から消えることはない。

同じ境遇に遭った人は、それぞれそういうものを抱えて生きて行くんだろう。

貴方の方がまし、自分の方が悲惨・・・・そんな比較など、何の意味も無いのだろう。

そう、自分が見た、経験してしまったあの日あの時・・・・・

おっちゃんが最愛のお前、祥一郎を喪ってしまったあの光景は、おっちゃんだけのもの。

そしてそれを忘れることなく、これからも何度も何度も涙を流し、胸を叩き、あの床に座り込み、
慟哭することになるんだろう。



祥一郎・・・・・・・・お前を助けられなかったおっちゃんは、助けられなかったおっちゃんは・・・・・・・


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