生前の業績から、思考や結論は異なってもマルクスとマキアヴェッリは思想家、著述家と呼ばれる。アカデミックの世界なら、この2人を同列に論じること自体論外だが、無名ブロガーの私はそのような制約は受けないので、彼らについて気随気侭に記すことにした。ただし、2人の思想や主義について論じるのではなく、彼らの生涯を考察する。
マルクスとマキアヴェッリには、共に歴史を学んだ上で思索、著述したという共通点がある。そこから導き出した結論は全く正反対となったものの、2人の生き方の違いも影響していると私は思う。才能と人格は別個であり、両方に恵まれている者は稀の上、才能に溢れていても、人格破綻者も珍しくない。それでも、その者の人生は思想と無関係でいられるだろうか?ルネサンスと近代という時代の違いがあれ、2人の生涯を知れば、あの思想に至ったのも肯ける。
実は私はマルクスの著名な『資本論』『共産党宣言』を未だに読んでいないが、有難いことにネットでは様々なサイトでこれらが紹介、引用されており、思想のエッセンスだけは味わうことが出来る。それよりも、興味深いのはマルクスの生き方だった。
以前の私もそうだったが、マルクスには労働者の権利を獲得するため、その生涯を捧げた理論家であり、困窮と不遇の果て死亡した…というイメージを抱く人が少なくないだろう。歴史上の偉人を紹介する民放番組『知ってるつもり?!』でもマルクスが取り上げられ、一般に流布するイメージ通りの描き方だった。この番組だけを見れば、頑固で世渡り下手の不器用な男ながら、家族、殊に子供思いの優しい父親だったと思うはず。かなり前に見たので内容の大半は忘れているが、マルクスはかなり悪筆であり、書いた文字が読めないため職に就こうとしても方々で不採用になったという箇所だけは憶えている。
ネットというのは改めて便利だと感じたのは、共産主義圏の実態やマルクスの本性について詳細に解説したサイトが幾つもあるからだ。「近世のユダヤ人史」という見事なブログ記事があり、管理人「ブルガリア研究室」氏による『ユダヤ人の歴史』(ポール・ジョンソン著、徳間文庫)への書評だった。その中でも「3.ユダヤ社会の寄生虫的ラビの生き方:カール・マルクス」の論評が素晴らしいので、是非紹介したい。
-ユダヤ人社会には、裕福な商人達が、共同体の中の貧しい者達、特に勉学にのみ専念し、自らは何も生み出さない「職業的物乞い(シュノレル)」を経済的に支援するシステムが存在した由である。確かに一部の賢明なラビ達は、自ら商業を営み、富を確保すると同時に、共同体の指導者として、精神面でも指導したが、他方では、自らの個人的研究にのみ没頭して生涯寄生虫のように生きるラビ達も多かったという。
カール・マルクスの場合は、時代の啓蒙主義の影響を受けて、ユダヤ教を捨て(棄教)、反ユダヤ主義者、無神論者として「共産主義革命理論」を唱えるのだが、実は、歴史は厳密な法則に従うという同人の歴史観は、極めてユダヤ的である由。マルクスの考えた共産主義の千年王国は、ユダヤ教の黙示思想とメシアニズムに深く根ざしている、という。革命を統制するのは、テキストを熟読して学び、歴史の法則を理解しているエリートの知識階級であり、彼らが「管理機構」=幹部を構成する。資産を持たないプロレタリアは単なる手段であって、彼らの義務はただ服従するだけだ、という。
マルクスは一度も工場の中に足を踏み入れたこともなかったし、エンゲルスが工場を視察しようと誘っても断ったように、彼の結論はもっぱら書物から引き出したものであるという。自分の書斎に閉じこもって、万物の神秘を解明するという方針だった由。彼は永遠に学び続けるラビと同じように、金銭的には、当初は家族に、次いで実業家であったエンゲルスからの支援を期待したという。マルクスが書いた、遠慮のかけらもない、金の無心の手紙が、数多く残っているらしい。今の日本の言葉で言えば、「オタク」である。
要するに、マルクスは、ユダヤ社会の寄生虫でしかなかったくせに、棄教して、啓蒙主義の賢人を気取り、その上、自らの偏執的な反ユダヤ主義思想も、強烈に共産主義思想の中に埋め込んだようなのだ(そのくせ、その社会主義理論は、ユダヤ教思想の影響を色濃く受けているという)。自らがある宗教から離脱すると、その反動で、元の宗教をより強烈に批判する、ということは、著名な独詩人ハインリッヒ・ハイネとも共通する心情であるらしい。
善意に解釈すれば、ユダヤ人知識人達は、祖国を持たない根無し草として、コスモポリタン的思想家、あるいは世界を改革する革命家として、ユダヤ人以外の人類の救世主となろうとして、苦悩し、頭脳を振り絞っていたとも言える。しかし、この救世主思想こそは、ユダヤ教の中のメシア待望論と同じで、そういったユダヤ教教義の中に散りばめられた神秘主義、迷信などと深く関わっていたこととなるのであり、本当にそういう意味では逆説的で、悲しい物語となる…
その②に続く
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マルクスとマキアヴェッリには、共に歴史を学んだ上で思索、著述したという共通点がある。そこから導き出した結論は全く正反対となったものの、2人の生き方の違いも影響していると私は思う。才能と人格は別個であり、両方に恵まれている者は稀の上、才能に溢れていても、人格破綻者も珍しくない。それでも、その者の人生は思想と無関係でいられるだろうか?ルネサンスと近代という時代の違いがあれ、2人の生涯を知れば、あの思想に至ったのも肯ける。
実は私はマルクスの著名な『資本論』『共産党宣言』を未だに読んでいないが、有難いことにネットでは様々なサイトでこれらが紹介、引用されており、思想のエッセンスだけは味わうことが出来る。それよりも、興味深いのはマルクスの生き方だった。
以前の私もそうだったが、マルクスには労働者の権利を獲得するため、その生涯を捧げた理論家であり、困窮と不遇の果て死亡した…というイメージを抱く人が少なくないだろう。歴史上の偉人を紹介する民放番組『知ってるつもり?!』でもマルクスが取り上げられ、一般に流布するイメージ通りの描き方だった。この番組だけを見れば、頑固で世渡り下手の不器用な男ながら、家族、殊に子供思いの優しい父親だったと思うはず。かなり前に見たので内容の大半は忘れているが、マルクスはかなり悪筆であり、書いた文字が読めないため職に就こうとしても方々で不採用になったという箇所だけは憶えている。
ネットというのは改めて便利だと感じたのは、共産主義圏の実態やマルクスの本性について詳細に解説したサイトが幾つもあるからだ。「近世のユダヤ人史」という見事なブログ記事があり、管理人「ブルガリア研究室」氏による『ユダヤ人の歴史』(ポール・ジョンソン著、徳間文庫)への書評だった。その中でも「3.ユダヤ社会の寄生虫的ラビの生き方:カール・マルクス」の論評が素晴らしいので、是非紹介したい。
-ユダヤ人社会には、裕福な商人達が、共同体の中の貧しい者達、特に勉学にのみ専念し、自らは何も生み出さない「職業的物乞い(シュノレル)」を経済的に支援するシステムが存在した由である。確かに一部の賢明なラビ達は、自ら商業を営み、富を確保すると同時に、共同体の指導者として、精神面でも指導したが、他方では、自らの個人的研究にのみ没頭して生涯寄生虫のように生きるラビ達も多かったという。
カール・マルクスの場合は、時代の啓蒙主義の影響を受けて、ユダヤ教を捨て(棄教)、反ユダヤ主義者、無神論者として「共産主義革命理論」を唱えるのだが、実は、歴史は厳密な法則に従うという同人の歴史観は、極めてユダヤ的である由。マルクスの考えた共産主義の千年王国は、ユダヤ教の黙示思想とメシアニズムに深く根ざしている、という。革命を統制するのは、テキストを熟読して学び、歴史の法則を理解しているエリートの知識階級であり、彼らが「管理機構」=幹部を構成する。資産を持たないプロレタリアは単なる手段であって、彼らの義務はただ服従するだけだ、という。
マルクスは一度も工場の中に足を踏み入れたこともなかったし、エンゲルスが工場を視察しようと誘っても断ったように、彼の結論はもっぱら書物から引き出したものであるという。自分の書斎に閉じこもって、万物の神秘を解明するという方針だった由。彼は永遠に学び続けるラビと同じように、金銭的には、当初は家族に、次いで実業家であったエンゲルスからの支援を期待したという。マルクスが書いた、遠慮のかけらもない、金の無心の手紙が、数多く残っているらしい。今の日本の言葉で言えば、「オタク」である。
要するに、マルクスは、ユダヤ社会の寄生虫でしかなかったくせに、棄教して、啓蒙主義の賢人を気取り、その上、自らの偏執的な反ユダヤ主義思想も、強烈に共産主義思想の中に埋め込んだようなのだ(そのくせ、その社会主義理論は、ユダヤ教思想の影響を色濃く受けているという)。自らがある宗教から離脱すると、その反動で、元の宗教をより強烈に批判する、ということは、著名な独詩人ハインリッヒ・ハイネとも共通する心情であるらしい。
善意に解釈すれば、ユダヤ人知識人達は、祖国を持たない根無し草として、コスモポリタン的思想家、あるいは世界を改革する革命家として、ユダヤ人以外の人類の救世主となろうとして、苦悩し、頭脳を振り絞っていたとも言える。しかし、この救世主思想こそは、ユダヤ教の中のメシア待望論と同じで、そういったユダヤ教教義の中に散りばめられた神秘主義、迷信などと深く関わっていたこととなるのであり、本当にそういう意味では逆説的で、悲しい物語となる…
その②に続く
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成る程、エンゲルスが“タニマチ”だったという解釈は眼からウロコです!仰るとおり、この関係では応援する者の人格は問われず、支えること自体が生き甲斐だったのかもしれません。
wikiで見る限り、エンゲルスとマルクスの人格は対照的ですが、それゆえに“タニマチ”になれた?資産がない庶民には、タニマチやパトロンになれそうもありませんし。
エンゲルスもいわばタニマチだったのではないでしょうか。もうけをねらっていればパトロンですがみかえり目的がすくなそうなのでタニマチでしょう。
私の方こそ、この記事を拝読し、マルクスの本性がやっと分かりかけました。そこで、是非他の人々にも読んで頂きたいと思い、ネタにしました。単なる性格上の問題だけでなく、ユダヤ人のラビという家系や社会にも原因があったのですね。
ユダヤ教に限らず他宗教でも、平信者に寄生する聖職者は珍しくありません。これは一神教、多神教変わりなく、私が時々取り上げるゾロアスター教にも、ターター一族のような財閥神官ばかりでなく、平信者にたかる困った神官もいるのです。そのような聖職者となれば、平信徒も見る目が厳しい。
エンゲルスが生涯マルクスを支え続けたのも不思議ですね。wikiには「若い頃より活動的で、正義感と勇気があり、終生マルクスの誠実な友人であった」「病にあって苦しんだ死の間際まで、周囲への思いやりと闊達なユーモアを欠かさなかった」など、こちらは人格者のようです。
共産主義思想くらい、世界の大きくの人々を不幸にしたものはない。それを無視して未だにこの思想に共鳴するのは、お目出度いと言うか…
マルクスは悪筆だけでなく、原文を読んだ人に悪文だといった人がいます。翻訳の問題もあるかもしれませんが、大仰でもったいぶった詭弁を駆使すれば、実際は空理空論でも何か立派な理論に見えてくるのかもしれないし、衒学的な論文なら大学者の印象を与えることもできます。
後で書きますが、マキアヴェッリは人間の本性を見据え、それに基いた思想を展開した人物です。この人は人間の本質は何時の時代も変わらないと喝破、おそらく共産主義など聞いても信じなかったはず。
現代でも似間天国を信じる人がいるのは、不幸な人が絶えないこともあるのではないでしょうか。宗教でも哲学でも人間の悩みは解決せず、苦しい時に何かにすがりたくなるのでしょうね。
また小生のブログをご紹介下さり、ありがとうございます。ポール・ジョンソンの著書は、本当に奇跡のように、ユダヤ社会に関する理解を助けてくれる書籍で、小生にとっては目から鱗の記述が満載でした。
ラビ達が、同胞を集めた集会で、旧約聖書、タルムード、などを教え、説教していた(謂わば毎週のセミナールというか)し、一部のラビは生涯自分の知的興味にのみ基づいて書籍を買い集め、読書三昧に明け暮れ、富裕な同胞からの生活支援に寄生していた!とはいえ、偶には、集会での研究発表の義務はあったらしいけど。
エンゲルスなど、マルクスに一生生活費をたかられるのですが、それでもマルクスの知性と理論に惚れ込み、後悔はしていない。むしろ、マルクスが浮気したときなど、事後処理などにも協力したらしい。ある意味それほど、魅力ある知性というか、エンゲルス(有能な経営者で、金儲けはうまかった)はすっかりマルクスに惚れ込んで、飽きなかったというか。
他方我々にしてみれば、スターリン、毛沢東、金正日などの独裁者、同胞大量殺害者を生み出した共産主義思想など、世界人類にとって、迷惑千万だとしか思えない。
ヘーゲルはそんなことを知ってか知らずか弁証法にこだわったようですが、なるほどと思います。この考え方に慣れてくれば、自然現象のみならず人間世界も弁証法に単純化して考えるようになる。
マルクスは、そんな弁証法を詭弁を用いて自らの理論の骨格とした。
彼の理論には、彼の人生がそのまま生き写しとなっているのではと思われます。
マルクスの生涯に詳しくはありませんが、彼の理論によって、多くの死の山が世界中で築かれることとなりました。彼の、理不尽な人生に対する恨みが多くの不幸を生んだことも確かで、その罪は大きい。
そして今なお共産主義という似間天国への方法論が幅を利かせています。
弁証法で説く理論には非常に判別しがたいものがあり、多くの人々は勘違いをしています。
なぜ間違いやすいのか。
彼の人生を見つめることによって、あるいは解けるかもしれませんね。