もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

ねねの日記・30 ・・・ サンタクロースは絶対いる!!

2017-12-19 11:07:59 | E市での記憶
アタシたちがまだちっちゃいころ
クリスマスが近くなると
「サンタさんに何お願いした?」って
カンゴフさんからよく聞かれた。

アタシもおねえちゃんも
何もお願いしたことなかったけど
朝起きると、枕元にいつも
可愛い長靴にはいったお菓子が
置いてあった。

おねえちゃんは
クリスマスの話になると
いつも本気で言った。

「あのね、サンタさんは
ほんとにいるんだよ。
あたし見たことあるもん!」

カンゴフさんとかおばあちゃんとか
おとなの人たちはニコニコして
「そうだよね」って。

みんなちょっと
嬉しそうな顔に見えた。

でも・・・

少し大きくなるとおねえちゃんは
学校なんかで

「サンタクロースなんていないよ」

って言われるようになったみたい。

「そんなはずない!!
あたしほんとに見たんだもん!」

おねえちゃんの眼は真剣で
アタシがそばにいるときは

「ねねちゃんも見たよね。
覚えてない?」

アタシは何も言えなくて・・・

たまには「見た見た」なんて
ウソもついたけど
ほんとは全然覚えてなかった。

アタシが覚えてないってこと
おねえちゃんはわかってたと思う。


サンタクロースが
おとうちゃんだったこと
おとうちゃんの口から聞いたのは
いつ頃だったのかなあ。

「友だちとそういう話になって
あの赤い服とか帽子とか
白いひげも綿で作って・・・」

夜、暗くなってから
(でもまだおねえちゃんが
眼を覚ましてる間に)
玄関から入ってきて
プレゼントをあげたんだって。

おねえちゃんが
すごーく喜んだって
おとうちゃんも嬉しそうだった。

そのあと、お友だちのおうちにも行って
そこの子どもさんたちも
みんなきゃーきゃー言ってたって。


おとうちゃんは、ずっと後になって
身体の不自由な子どもさんたちの
「施設の医者」になってからも
たまーに「サンタクロース」に
なってたみたい。

「子どもがみ~んな喜んでくれて
やって良かった」って言ってた。

おとうちゃんの膝が悪くなって
仕事場で車椅子使うようになる前の
まだ元気だった頃のことだったのかな。

でも、その日はちょっとクタビレタ顔で
帰ってきたの覚えてる。



おねえちゃんはそれからは
「サンタクロース」のこと
言わなくなっちゃった。

「なあんだ」くらいじゃない
納得いかない感じがしたのかもって
アタシはちょっと思った。

でも、おとうちゃんは
そーゆーヒトだったんだと思う。

話してるときの楽しそうな顔
今もはっきり覚えてるよ。

でも、おねえちゃんも
そーゆー子だったんだよね。


アタシもおとうちゃんのサンタクロース
覚えてたかったな・・・





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ねねの日記・29 ・・・おねえちゃんの馬の絵 ③ 

2017-09-13 09:23:59 | E市での記憶
「ねねの日記・27」の記事を書いた後の「釈然としない」気分は
自分で読んでさえ面白いと思わないこと
なのに「いつか書かないと」と思ったらしいこと

つまり・・・

一体何を「書いとかないとイケナイ」などと思ったのか
自分でもわからなかったからだと思う。
(忘れたのではなくてそもそも「わからない」)


前回書いたエピソードも、元々忘れていたわけじゃなかった。

ただ、これも別に面白くない?話であって
わざわざ書く気にならなかっただけ。

それが、ぼんやり考えているうちに
全然別の輪郭の話に見えてきたんだと思う。



「おねえちゃんの馬の絵」の何が私を魅了したかというと
あの風を纏ったような「自在さ」だったと思う。

と、突然閃いた。


「あの馬たちは、おねえちゃんの中の
『自由』の結晶だったんだ!」


そう思ったら、謎がバラバラ解けていった。


「アタシたちは、あの頃ほんとに自由が無かった。
おねえちゃんにとっては、『自由』って
あの馬たちみたいなもんだったんでしょ?」


アタシは言葉には出来なかったけど
「なあんとなく」でも気がついていた。

あの頃どんなに『自由』に飢えたか
アタシとおねえちゃんは
よく似た立場だったから。


外から見たらアタシたちだって
普通に言いたいこと言ってる
子どもに見えたと思う。

でも、実際は・・・何も言えなかった。
何もさせてもらえなかった。

何を望んでも
どんなに勇気を出して頑張って言っても
絶対聞き入れてもらえないのもわかってた。

たとえば・・・


髪は絶対伸ばせない。
(髪型はいつも前髪プッツンの後ろ刈り上げ)

ピンクや赤のお洋服もダメ。
(「そんな野暮ったい色!」)

夕方来る、みんなが見てる紙芝居も見せてもらえない。
(ついてくるお菓子が「フエイセイ」だから)

よその家でお菓子なんかもらっても
他の子は食べてるのに食べられない。
(一度帰っておかあちゃんに見せてから)

学校から帰ったら、毎日!家庭教師の所へ。
(友だちと遊ぶ約束も出来ない)

土曜日はピアノの先生のとこ。
日曜日はお茶とお花。
(アタシはどっちも全然やりたくない!)

食べ物の好き嫌いは言っちゃいけない。
(キライなもの飲み下すのに涙が出た)


でも、そんなのは大したことじゃない。


おねえちゃんは、「学校から言われた」って説明だけで
行きたくもない遠くの新しい中学を受験させられて
「こんな田舎にいるのに受かるなんて思わなかった」って
おかあちゃんに言われながら
電車で1時間以上かかる町に「下宿」させられて
1年間その学校に通った。

初めて都会に出る中学1年生の女の子。

でもその「下宿」は知り合いでもなんでもない
「お金目当て」の「シロート下宿」で
おねえちゃんは「しつけのなってない子」って言われて
冷たい扱いを受けたらしい。(大人になって初めて聞いた)

おかあちゃんが様子を見にいったという話も
アタシは聞いたことがない。


うちではその頃、開業医をやめて金沢に行こうとしている
おとうちゃんとおかあちゃんと、反対するおじいちゃんたちとで
別の嵐が吹き荒れていた。

おねえちゃんに「手紙頂だい」って言われても
アタシは一度も出さなかった。

なぜかはわからない。でも書けなかった。

アタシはアタシで周りに誰もいなかったけど
おねえちゃんは「他人に囲まれて」
誰もいなかったんだって
ずっと後になってから、やっと気づいた。


おねえちゃんとアタシたちとは
1年後の4月に、金沢の新しいおうちで
また一緒に暮らすようになった。

ちょっと前の12月、アタシたちは3人で
先に金沢に引っ越していた。

おねえちゃんにも「こっちに来ないか?」って
おとうちゃんは聞いたらしい。

おねえちゃんは「この学年終わってからにする」
って言ったって、おとうちゃんは感心してた。

アタシはおねえちゃんの気持ちが
よくわからなかった。

ほんとにそれでいいのかな?って
ほんのちょっとだけ思ったけど。


3ヶ月間、親子3人で暮らした。

新しい学校では、もしかして
いじめられてたのかもしれないけど
そんなことなんでもなかった。

おかあちゃんと暮らせるのが嬉しくて。

金沢弁を必死で覚えた。
2ヶ月で自由に喋れるようになった。


おねえちゃんのこと・・・
アタシは忘れてたかもしれない。



「午年」の年賀状の話は
おねえちゃんも一緒に暮らすようになって
半年くらい経った頃。

中学生になったおねえちゃんは
もう「山を駆け回って」遊んでた頃の
おねえちゃんじゃなくなってたけど
アタシは「そんなもん」なんだと
勝手に思ってた。

ただ・・・

おねえちゃんは友だちを
作らなくなった。

友だちなんて
要らなくなったみたいに。

寂しくないのかなあ・・・って
アタシはいつも不思議だった。



おねえちゃんの描いた年賀状の馬たちと
大学の馬場での経緯を思い出したことで
アタシは初めて、おねえちゃんを
可哀想・・・と思った。

アタマでは、おねえちゃんの方がアタシより
ずっと辛い目にあって育ったって
解ってるつもりだったけど・・・

おねえちゃんは誇り高いヒトなので余計に
「かわいそう」なんて思ったことなかった。


でも、おねえちゃんは「馬」を描いてるときが
一番自然な顔してるって、あのとき思ったの
思い出したから。

おねえちゃんは、『自由』の結晶みたいな
馬たちのいる空間でだけ、ほんとのおねえちゃんに
戻るのかもしれない・・・って、そんなこと
心のどこかでアタシは感じてたと思うから。


あの「馬に乗る」話のとき、誰も
おねえちゃんが本気で嫌がってるのに
気がつかなかった。

おねえちゃんの描く馬が
動物の馬じゃあないかもしれないって
誰もカケラも思ってないみたいだった。

おねえちゃんにちょっとでも目を向けて
ときどきでもじっと見てたら
なあんとなくでもわかることなのに。

誰もそれくらいのことも
してくれてなかった・・・


おねえちゃんは寂しかったと思う。

自分じゃ気がついてなかったかもしれないけど。


アタシはおねえちゃんのこと
あんまり好きじゃなかったかもしれない。

でも、おねえちゃんのこと
なあんとなくでも見てたよ。


だからあの馬たちのことも
おねえちゃんが可哀想な目にあったことも
アタシは絶対忘れない。

死ぬまで忘れない。初めてそう思ったの。


だからこんなショーモナイもん
長々と書いたんだって
やっとわかった。







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ねねの日記・28 ・・・おねえちゃんの馬の絵 ②

2017-09-12 13:57:03 | E市での記憶
前の記事を書いた後
なんだか釈然としなくて
ずっとぼんやり考えていた。

なんでこんな、そう面白くもないこと
わざわざ書こうと思ったのかなあ・・・って。

「私のおねえちゃんは
子どもの頃馬の絵が上手でした」

それだけのこと。

だからタイトルだけ立てて
何年も下書きファイルに
放ってあったのに・・・


そんなことを思ってたら
おねえちゃんの「馬」の話は
もう一つあったのを思い出した。


「午年」の年賀状より後のこと
じゃないかと思う。

その頃、うちには大学生のおねえさんが
「下宿」してた。

「下宿」っていうのは
一緒に晩ご飯食べるし
夜一緒にTV見たりもする。

その人はおかあちゃんの
女学校時代の「親友」の妹さんで
アタシたちとも普通に話をしてくれる
優しい感じの人だった。
「理学部」で「生物」の勉強してる
学生さんだって言われた。


夏休みだった気がするけど
違ってるかもしれない。


ある朝、その人がおねえちゃんに

「馬に乗ってみたくない?」

馬術部の友達に聞いたら
いいよって言ってたから・・・って。

そんなに馬が好きなら・・・って
その人は、おねえちゃんが喜ぶと思って
言ってくれてるのがわかった。


おねえちゃんはちょっと
困ったような顔をした。

正直、アタシも困ってた。

アタシは知らない人と会うのもイヤだし
馬なんて大きな動物に
近づくのもコワイし。

でも、おねえちゃんは
もっとフクザツそうな困り方で

「乗りたいわけじゃないんだけど」

みたいなことをボソボソ言った。

結局、「せっかく言ってくれてるんだから
行くだけ行ってみなさいよ」って
おかあちゃんに言われたりして
そのおねえさんと3人で
大学の「馬場」に行ったんだと思う。


しばらく待っていたら、おねえさんのお友だちが
馬に乗ってきてヒラリと降りると

「さあ、こっち来て」

下宿してるおねえさんも

「さあ・・・乗せてくれるって」


おねえちゃんが本当に困ってるのが
アタシはわかった。

アタシはもちろんイヤだけど
おねえちゃんも乗りたくないんだ。

家にいたときからそうだったのに
どうしてみんなわからないんだろ・・・
と思ってるうちに、おねえちゃんは

「あたしは見てるだけでいい」

おねえさんたちは
せっかく来たのにそんなこと言わないでとか
ちゃんと手綱持ってるから怖くないよとか
おねえちゃんを説得しようとしたけど
おねえちゃんはジリジリ後ろに下がって
小さな声で

「見てる方がいいの・・・」


その後は、お友だちが乗るのを
おねえちゃんは黙って見てた。


風がさやさや吹いてきて・・・

馬が走っているときは
おねえちゃんも
気持ち良さそうだった。

でも「馬術部」の練習だから
馬は走るより歩く方が多くて・・・

退屈になったアタシたちは
早めに帰ってきたんだったと思う。


家で「馬場」での話が出たときも
乗ろうとしなかったおねえちゃんが
責められるようなことはなかったけれど
下宿してるおねえさんは
やっぱり不思議そうな顔をしてた。

食卓でも、おとうちゃんが
「軍隊で乗った」馬の話とか
とにかく「生き物」としての馬の話ばかりで
アタシはアタシで妙な気分だった。


アタシの眼には、おねえちゃんの描く「馬」は
「生き物(哺乳類)」としての馬には
なあんとなく見えてなかった。

だから、ホンモノの馬に乗りたいとか
思うわけがないって、最初から
わかってたんだと思う。

おねえちゃんが困ってたのもわかったし
なぜ困ってるのかも(なあんとなくでも)
わかる気がした。

なのに、どうして
おねえさんもおかあちゃんも
わからないんだろう・・・って。


お姉ちゃんの「馬」は
普通の馬じゃあないんだよ。

手綱つけたり、鞍乗っけて
人が上に乗ったりなんかしない!


あの馬たちは、おねえちゃんの
アタマの中にしかいない
生き物なんだから。

だからあんなにきれいで
描いてるときのおねえちゃんは
あんなにシアワセそうなんだって。

小学生のアタシにわかるのに
たぶんおとうちゃんも
わかってない・・・

なんでなの???


そんな気持ちが
当時の私はしたんだと思う。





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ねねの日記・27  ・・・ おねえちゃんの馬の絵

2017-09-11 12:32:40 | E市での記憶
おねえちゃんは、絵ェ描くのが好き。

白い紙があると、さ、さ、さっと
女の子とか、走ってる馬とか
あっという間に描いてしまう。

すごーく上手なの。でも・・・

女の子はアタシも描くけど
馬は・・・なんでなんやろ。

走ってるとこなんて
見たこともないのに。


こっち見てる馬。

後ろ足で立ってる馬。

何か飛び越えようとしてる馬。

頭だけだったり
走ってる脚だけだったりもする。

脚四本だけでも
走ってるってわかる。


おねえちゃんは
ちょっと描いてみて
うまくいかないと
その紙がイヤになるみたい。

ポイッって放って
次のチラシの裏にまた描く。

それもダメだと
それもポイッ。

「ねねちゃん、使う?」なんて
描き古しを何枚もくれたりする。

なんか・・・嬉しくない。
(ま、アタシは絵がへただし
いいんだけどさ)


おねえちゃんが
あんまり絵が好きだから
白い紙、文房具屋さんで
買っておいでって
おかあちゃんが言ってくれた。

二人で買いに行ったら
「もぞーし」っていうのが
安くてきれいだったんで
それにした。

最初10枚買ったんだけど
あっというまに無くなって
次から20枚ずつ買うことになった。

広告の紙と違って裏表両方描けて
おまけに絵がきれいに見えて
なんだかすごーく
ゼイタクしてるみたいな気がした。

おねえちゃんはそれからも
何枚も何枚も馬の絵を描いた。



アタシたちがずっと大きくなってから
おとうちゃんは、「午年」の年賀状を
おねえちゃんに頼んだことがある。

「どんなのでもいいから
馬の絵を描いてほしい」

お父ちゃんの年賀状は
毎年200枚くらい。

表書きはおかあちゃんがして
裏側にはアタシやおねえちゃんが
芋版とか簡単な絵で干支を描いた。

でも、せっかく「午年」なんだから
おねえちゃんに馬の絵描いてもらおうって
話が自然に出たらしい。


お姉ちゃんは全然ためらわず
さっさと引き受けて描き始めた。

表書きと同じように
筆と墨とで走り書きする。

お習字も習ってないし
普段筆なんて使わないのに。

アタシなんて、見てるだけでも
書き損じたらどうしよう・・・って
緊張して手が震えそうなのに
おねえちゃんは平気みたい。

いろんな姿の馬、馬、馬・・・

タテガミと尻尾がカールしてるのも
脚が長いのも太いのも
サラブレッドみたいなのも
もっとちんまりしてるのも。


何日かかかって描き終えた後
「飽きなかった?」って聞かれて
「一番最後の頃、ちょっと飽きた」って
おねえちゃんば笑ってた。

アタシの目には「飽き」てたようには
全然見えなかった。



今思うと、私は午年だから11歳
辰年の姉は13歳の中学2年生。

姉はそれ以降、馬の絵も何の絵も
ほとんど描かなくなったと思う。

「なぜ馬だけ絵に描いたの?」と
いつか聞こうと思っていたのに
それもそのまま・・・

50年が経ってしまった。




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ねねの日記・26 しらたま 

2017-07-16 17:25:23 | E市での記憶
アタシは「よく寝込む子」って言われる。

おねえちゃんや近所の友だちが
外で遊んでるのに
庭の方から声が聞こえてくるのに
アタシは「外に出たらイケマセン!」って。

熱もないのに外で遊べないと
なんだかすごく悲しくなる。

こーゆーのをサビシイって
言うのかなあ。


このあいだの日曜は、朝早くから
おねえちゃんもおとうちゃんも
カンゴフさんたちも、み~んな
「レクレーション」に行っちゃった。

アタシはまだ寝てなくちゃいけなくて
「電話番」のおかあちゃんもお留守番。


2階で寝てると、天井の板の上を
お日さまの光が踊ってるみたい。

お外はきっと青空なんだろな。


ぼんやりしてたら、おかあちゃんが
階段上がってくる音がした。

「ねねちゃん、オナカすかない?
白玉作ったら少し食べる?」

おなかはすいてなかったけど
いらないって言うの、悪い気がして
「食べる」って言っちゃった。

食べられなかったら
どうしよう・・・


またぼんやりしてるうちに
「出来たよ」

寝てたみたい。
あっという間。


おかあちゃんの「しらたま」は
ガラスのいれものに
ほんのちょっとだけ。

あま~いシロップに沈んで
カンヅメのみかんと桃と
サクランボがひとつ。

結局、半分しか食べられなかったけど
おかあちゃんは「よく食べたね」って。

ほめられて、ちょっと嬉しかった。


おねえちゃんたちは
暗くなるころ帰ってきた。

海に行ってたんだって。
スイカ割りもしたって。

帰りは、ミクニのトージンボーで
サザエのツボ焼き食べたんだって。


いいもん。アタシは
「しらたま」食べたもん。

「しらたま」は白くて小さくて
もにゅもにゅしてて・・・

色もきれいでハイカラな感じ。

アタシはたぶん好きだと思う。





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サクラ、桜、さくら

2017-04-24 18:24:19 | E市での記憶
アタシがまだ小さい頃
おばあちゃんとおねえちゃんと
「お花見」に行った。

お茶と、おやつをちょっとだけ持って
すぐに帰ってくる「お花見」だって。

でも、アカネ川の並木にも
カメヤマのサクラの木にも
花はあんまり、咲いてなかった。

遠くの山には
あんなにたくさん
「白っぽい」木が見えてるのに。

おばあちゃんは
「山のサクラはようけ咲いてる。
サクラは遠目が
いっちゃんきれえやでの」

アタシは、目が悪いから
近くでないとよく見えない。

足がボーになって
カメヤマさんで一休みしたら
ちっちゃ~な木が1本だけ
「花ざかり~」になってた。

おねえちゃんといっしょに
木の周りをぐるぐる回った。

そこで、やっと
おやつになったんだよ。




金沢に行ってからは
父はよく家族みんなと
散歩に出かけるようになった。

兼六園までは、歩いて10分。
当時は出入りも自由だったから
なんやかやで、よく行った。

杜若の蕾の弾ける「音」を聴きに。
老松の雪吊り風景を見に。

でも、忘れられないのは
初めて「夜桜」を観たときのこと。

満開の桜も、たそがれどきには
憂いを帯びた風情を見せる。

暗くなるにつれて
しん・・・と静まり返って
身動きしなくなるみたい。

やがてピンクの提灯が灯ると
その近くだけは
化粧したみたいな美しさ。

でも、灯りから遠ざかるほど
闇の支配が強くなるほど
桜は妖しい白さになる。

薄絹を深く被った遊女より
もっと強くこちらを見ている。

近づくのが怖いような
そのままどこかへ
連れていかれそうな
ただならぬ気配を感じさせる。

「きれい・・・だね」
「そう、綺麗だろ?」

母は、父の生前、よく
「時において楽しめ」と
言われたらしい。

「今しかない楽しみは疎かにせず
今という時間を大切に味わいなさい」


そういえば「夜桜」を一緒に観たのも
そのとき限りだったと思う。




高校の後半、私は学校を
休んでばかりいた。

病気ではなく、なぜかただ
行く気になれなくなったのだ。

起きるのは、父の出勤後。
姉は都会の学校に進学して
家には既に居なかった。

サイフォンでコーヒーが出来るのを待ち
母と一緒にお喋りをする。

毎日毎日、なんでもない
本当にただの四方山話を
1時間くらいはしたと思う。

母は、私が妙な時間に登校するのも
「今日は行かない」とあっさり言うのも
全く問題にしなかった。

父は、心配していたらしい。
それでも、「放っておけばいいの。
帳尻は自分で合わせるでしょ」という
母に倣ったのだと後から聞いた。


ある日たまたま、(人の)イメージを
花に喩える話になった。

「おねえちゃんは何?」
「あの子は『木』だわね。草じゃなくて」
「じゃあ・・・桜かな。たった1本立ってる
でも花ざかりの、さくらの木」
「ああ、そうね。バラかなって思ったんだけど
ソッチの方が近いわね」

当時の姉は、薄いピンクの靄を纏っているような
柔らかな雰囲気を感じさせる人だった。

「・・・アタシは?」
「あんたは・・・多分『草』に咲く花」
「例えばどんなの?」
「フリージアとか水仙とか、そういうの」

フリージアも水仙も大好きな花だったので
私はとても嬉しかった。


母も何かの花に喩えた筈なのに
なぜか思い出せない・・・

母は「喩えられる」のを嫌って
上手く話しを逸らしたのかも。


黄色のバラにも
満開の藤の花にも
もしかしたら「夜桜」にさえ
ちょっと似たところのある?人だった。




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ねねの覚え書き③・・・おかあちゃんの料理 

2017-04-06 16:58:00 | E市での記憶
おとうちゃんは昔、おかあちゃんのことを、「ヤリクリは上手い!! でも料理は決して上手じゃない」って「断言」したことがある。(おかあちゃんはちょっと傷ついた顔してた)「僕の育った家の料理は、義姉さんの方に全部行っちゃったなあ」とも。

おとうちゃんは別の時に、「新婚旅行から帰った翌朝、真面目な顔で『ご飯ってどうやって炊くんですか?』。僕もよくはわからなかったけど、まあこのくらいの米なら水はこれくらい・・・とかやってみて、なんとか一応ご飯になった(笑)」。おかあちゃんはあっさり「だって炊いたことなかったもの」。

おとうちゃんのお母さんは、ほんとに料理の好きな人だったらしい。外に食事に行くと、作り方を料理人さんに必ず聞いて、時には厨房まで押しかけて見せてもらったりしたとか。(「僕らは早く帰りたいんだけど、おふくろが動かないもんでどーにもならんかった」) お菓子を作るのも上手で、「うぐいす餅とかシュークリームとか、作るときは何十個も作ってた。兄貴たちと競争で食べたなあ。一日でなくなったよ」。(だからおとうちゃんはシュークリームが好きだったんだと納得) おかあちゃんは山里に生まれ育って「何でも砂糖と醤油で煮るだけ」の「田舎料理」しか知らないって、おとうちゃんは(めったに文句を言わなかっただけで)実はず~っと不満だったんだ・・・って、亡くなった後になって気づいた。


それでもアタシは、おかあちゃんの料理は美味しいと思ってた。小さい頃に「仕出し」でお刺身や焼き魚を食べさせられてた頃よりずっと、おかあちゃんの「ヤリクリ」料理はアタシの口に合ってた。(好き嫌いが絶対ユルサレナイのだけは、相変わらず迷惑だったけど)

というわけで、おかあちゃんの料理の話。

カニのカナッペ・・・おとうちゃんのお母さんから教わったんだって。他で食べたことがない、うちの名物料理の一つ。(生のカニがいいんだけど、カニ缶でも出来る) 茹でたカニの身をほぐして、丁寧に骨を取り除いて、薄切りたまねぎを炒めて作ったホワイトソースに混ぜる。サンドイッチ用の食パンを四等分したのにマーガリンを塗って、一枚ずつにカニ入りソースを載せ、粉チーズとバターのかけらも載せてオーブンで焼く。食べ出すと止まらないような美味しさで、家族みんなが好きだった。

クリーム・シチュー(カレーもほぼ同じ)・・・フライパンにバターを多めに溶かし、小麦粉を振り入れ、焦げないように弱火で炒める。それから、ダマが出来ないように少しずつ牛乳でのばす。最後に鍋に作った野菜スープ(シチュー本体)の汁も少し足して、ホワイトソースになったら鍋の方に移して、さらに弱火で煮る。(当時は既製品のルウが無かったから、これがごく普通の作り方だったんだと思う。アタシは何でも、テキパキは出来ないけどノンビリならいくらでも?出来たから、ホワイトソースを作るのはいつの間にかアタシの役目になった)

ごく薄味おでん・・・おとうちゃんが、おかあちゃんの作った「茶色い」おでんを食べて、「これはおでんじゃない」。「それなら食べに連れていきなさい。食べたことないもの、作れない」というので、ある晩みんなでおでん屋さんに。初めて食べた「おでん屋さんの」おでんは、ほとんど色がついてないくらいで、ほんと~~に美味しかった! おかあちゃんの作るおでんはガラッと変わって、その後は「おでん屋さんで食べたの」風に。うちの冬の名物料理になった。


金沢に移り住んで最初の数年間は、本当に切り詰めた生活で、食生活もギリギリな感じだった(詐欺に遭って借金が出来たなんて、子どもは知らなかった)。スイカの皮(当時は「白い部分」が結構厚かった)も、お味噌汁の具や漬け物になって食卓に出た。遊び心もあったのだろうけど、子どもたちに「食べてみたい」って言われたとき、おかあちゃんは内心喜んだかもしれない。

テキトーギョーザ・・・既成の皮を使って、「どんな風に包んでもいいから」とよく手伝わされた。豚の挽き肉が少しとみじん切り玉ねぎ、あとはありあわせの野菜で。春菊が入ってたときには驚いたけど、水ギョーザにすると、それも結構美味しかった。(おばあちゃんが香辛料をあんまり使わなかったように、おかあちゃんもニンニクなどは使わなかった。そもそもニラやニンニクは、ニオイが大っきらいだったと思う。おとうちゃんは使わせようと頑張ったけど、おかあちゃんは頑としていうことをきかなかった)

小イワシのあんかけ・・・お母ちゃんの創作料理かも。10センチもない小さいイワシを一皿買って、、お醤油味の唐揚げ(2度揚げする)にして、ありあわせの野菜の薄切りで作った薄味の「あん」をかける。スープ皿によそって、夕飯はそれとご飯で終わり。骨ごと食べられて、生臭みは全くない。「必要な栄養はこれ一皿でとれる」「洗い物も簡単」とかで、おかあちゃんは「一皿で済む料理」を追求してた気がする。(何事によらず「早く片付けてしまいたい」ヒトだった)

セルフサンド・・・朝食でときどき見かけたオソロシク簡単なメニュー。8枚切りの食パンのトーストに牛乳1杯。各自のパン皿には、斜め切りのきゅうりが数切れ&薄っぺらなハムが1枚。それを「自分で挟んで」食べるだけ。(和食のときは、ご飯に味噌汁(具は1種類)&何か卵料理・・・が定番。こっちの方がずっと手間がかかる)


おかあちゃんの料理の特徴を少し。

「自分の嫌いなモノは使わないし作らない」・・・たとえば、うちでは長い間サバはあんまり出なかった。おかあちゃん自身、元々は食べたことがなかったんだと思う。(おばあちゃんは「あんなオゾイ(貧しい・ショーモナイ・下品な)もん」って言ってたくらいで、当時「山里」まで「生」では来なかっただろうし、塩サバに「アタル」のも怖かったのかも)

「娘たちに手伝わせる」・・・カツやフライの衣つけ、ホワイトソース作り、卵焼きにオムレツ、ギョーザの皮包み。肉団子を丸めるとき、おせちを重箱に詰めるとき・・・などなど、「誰か手伝って」と、よく呼ばれた。おばあちゃんも、つまみ菜をより分けるときや味噌すり・ゴマすりのときは、幼い孫たちに手伝わせていたから、女の子を台所仕事に馴染ませるためのごく当たり前の習慣だったのかもしれない。とはいえ、おかあちゃんの方が、どこか遠慮がちに見えたのは不思議。「家事なんて、自分が担当する身になってしまえば、いつでも出来るようになる。料理もそう。だからアンタたちも、今は自分が必要なコトの方をしなさい」って、よく言ってた。(今思うと「料理なんか手伝わなくていいから、まずは勉強しなさい!」って言いたかったのかもしれないけど、娘には全然通じてなかった(^^;)

「丸ごとの魚は自分でおろす」・・・「ひとに頼むのは(相手がプロの魚屋さんでも)クヤシイから、練習して出来るようになった」のだとか。知り合いの漁師さんが、捕れたばかりのハマチやブリを毎年届けて下さったりしたから「必要に迫られた」のだと思う。出刃包丁を磨いでから作業を始めるときのおかあちゃんの顔は真剣だった。



ここまで来て、ふと気づいたことがある。


私たちも大人になってから一度だけ、各々大型のハマチをおろさせてもらったことがあった。(新鮮な魚の弾力のある硬さに驚き、なるほど包丁の切れ味次第だと解った一方で、相手は「食べ物」じゃなくて「生き物」なんだと実感。畏れ多い気持ちになったのを、今も覚えている)

結婚を控えた姉が「魚のおろし方教えて」と頼んだのがきっかけだったけれど、母は最初「何で私が」とでも言いたそうな顔で、「魚屋で買うときにおろしてもらえばいいじゃないの」と素っ気なかった。あの頃は気づかなかったけれど、そもそも母は「教える」こと自体、好きじゃなかったのかもしれない。

でも・・・単にそれだけのことでもなかった気もする。

何事によらず、身につけたいこと、解決しなければいけないことがあるなら、「親(年を取ってからなら子ども)を頼らず、自分で道を切り開いて前に進むべきだ」というのが、晩年に至るまで変わらなかった母の考え方だった。たかが「魚をおろす」程度のことでも、母は「親を頼ってくる」のを嫌ったのだ。

だから「誰か手伝って~」に駆けつけると、時にはちょっと遠慮がちな風情も見せたし、果ては「遺骨は故郷のお墓に」という頼みにも、「面倒なコト頼んで悪いわね」なんて言ったのだろう。高校を出ると同時に家を離れ、結婚する前も後も、自分や自分の家族のことを全く相談しようとしなかった私に、「○○ちゃん(姉の呼び名)はおとうちゃんそっくり。アンタの方が私に似てたわね」などと言ったのだろう・・・と。


「料理」のことを思い出したかっただけなのに、「人」の話になってしまう。5年前に亡くなった母も、ほとんど行き来の無くなった姉も、私にとってはまだまだ生々しい存在で、文字にするのは無理なのだろうか。

(記事の最後の20行ほどは、無い方がいいとわかっているけれど、「覚え書き」なのでやっぱり消さずにおきたい。ゴメンナサイ)



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ねねの覚え書き②・・・おばあちゃんのお惣菜(春~夏)

2017-04-03 11:05:14 | E市での記憶
おばあちゃんのお惣菜で、最初に「春」を連れてくるのは「フキノトウ」だったと思う。おじいちゃんが好きで、まだ雪がとけないうちから、人に探してくれるよう頼んでいたのを思い出す。

フキノトウの味噌あえ・・・独特の苦味があって、「子どもには美味しくなかった」料理の1つ。(今となると、すごーく食べてみたかったと思う。作り方も習ったことがないのが残念)

ツクシの酢の物・ヨモギの天ぷら・・・春になったのが嬉しくて外遊びに出た孫たちが摘んできたのを、料理してくれたことがある。ツクシのハカマを外して、軽く湯がいて・・・と、手間がかかる割りに、ほんの少しになってしまうのを見て、孫たちもちょっとがっかり。(でも、どちらも結構美味しかった記憶が)

タラの芽の天ぷら・・・子どもには回ってこなかった(と思う)。

ワラビのお浸し・・・これも子ども向きじゃないとのことで、見た記憶だけ。(今思い出すと、色もきれいで美味しそうだったな~と。おばあちゃんは、鰹節を削ってかけてた)

ゼンマイと揚げの煮物・・・ゼンマイは灰にまぶして?乾燥させたものが普通だった。年中目にしたもので、好きでも嫌いでもなかった「懐かしいお惣菜」の1つ。

竹の子ごはん・煮物・穂先の味噌汁・・・春しか食べられない、でもごく普通のお惣菜。穂先の部分も、お吸い物じゃなくて味噌汁にする。ほどほどの歯ごたえが大好きだった。昆布を敷いて煮ると、昆布は半分とろけたようになって、おかあちゃんは「不思議ね」といいながら、でも美味しそうにその昆布も食べていた。(金沢に引っ越してから、竹の子の刺身その他の「フルコース」を食べさせる場所があると知って驚いた。そんなタイソウなものじゃないと思ってたので)

フキの煮物・・・うっすらとした緑がきれいだけれど、大量になると皮を剥くのも結構手間がかかるので、よく手伝わされたのを覚えている。(当時のフキは指先がアクに染まるのが普通で、後から困った。仕上がりが薄緑にならないことも多かった)

ウドの酢味噌あえ・天ぷら・味噌汁・・・山から採ってきたばかりのウドは、とてもいい香りがした。天ぷらにすると苦味が薄れて、子どもでも食べられる味になった。生で食べるには刺激?が強いのと、かなりの分量一度に手に入るせいで、味噌汁の具が毎朝ウド・・・なんてことも。(赤カブの味噌汁とどっちがマシか悩む感じだった(^^;)

新ゴボウのキンピラ・・・おばあちゃんのキンピラはササガキじゃなくて、細めの拍子木に切ってあって、人参はあったりなかったり。歯ざわりがあるのが好きだった。ごま油で炒め煮にするのだけれど、辛味をつける香辛料はおばあちゃんはほとんど使わなかったから、最後に一味を振ったりもしなかったと思う。(「刺激物」は子どもの健康に良くないって、おかあちゃんに言われてたのかも)

ナスのオランダ煮・・・「油で炒めてから煮るからオランダ煮」なんだとか。味付けはみりんとお醤油。油はごま油。

ナスのシギ焼き・・・オランダ煮はナスに十文字の切り目を入れてそのまま使うけれど、シギ焼きの方は切り離してから炒めて、醤油味に生姜を効かせて仕上げる。歯ざわりがある程度残っているほうが美味しい。
(それとは別に、味噌をお酒で溶いて味をつけるバージョンもあって「シギ焼き」っていうのは元々はソッチだって言われた。味噌味の方は柔らかめの仕上がりで、アタシは生姜・醤油バージョンの方が好き)

ナスとミガキニシンの煮物・・・秋ナスがよくこの煮物で出てきたと思う。山に囲まれた盆地の町なので、魚は加工品の方が一般的だったのかもしれない。子どもの頃はニシンの小骨が気になって苦手だったけど、今となるともう一度食べたい「おばあちゃんの味」の1つ。(ニシンは一度湯通しをして、生臭みを取り除かないといけないんだって)

太キュウリの冷やしあん・・・「トウガンも美味しかったのぉ」って、おっきなキュウリを切りながらいつもおばあちゃんは言った。「トウガンって何?」「もっと大きゅうて・・・今は見んのう」

ピーマンの塩炒め・・・これで孫たちはピーマンが好きになった。当時のピーマンは結構辛味があって、天ぷらにしても子どもは普通、あんまり好きじゃなかった。(今思うと、丁度「味の素」が発売された頃かも。お味噌汁とピーマンについては、「アジノモト」の威力は凄かった(^^;)


トマトは塩?砂糖??・・・おねえちゃんが、トマトを輪切りにしてお砂糖かけて食べてみたいって言ったとき、おばあちゃんはちょっと笑って「赤ナスビって昔は言うたんやけどの。塩ふっておかずにするモンもおった」。お砂糖には反対みたいだったけど、結局おねえちゃんの粘り勝ち。(私も一緒に食べてみたけど、後からおねえちゃんと「トマトは生の丸かじりが絶対一番美味しいね!」)


アユの塩焼き・・・子どもにとってはそれほど美味しくなかった気がする。最高のアユを食べさせてもらってた筈なのに。そもそも子どもには食べにくい魚だったし。(「尻尾をちぎって、アタマを箸でつかんで、背骨をゴッソリ引き抜く」食べ方を習ったのは、その後30年くらい経ってからのこと。そうやって食べた四万十川の鮎は、とても美味しかった)

塩味の卵焼き&ほうれん草のお浸し・・・おじいちゃんは、あんまりご飯を食べなくなってからも、この2つはおばあちゃんに時々作らせていた。塩だけしか使わない卵焼きは、「砂糖が入ったのみたいに焦げない」っておばあちゃんが言ってたけど、出来上がりが本当にきれいだった。ほうれん草はアジノモトとお醤油をちょっとだけかけたの。(テレビはうるさいってあまり見ないおじいちゃんも、アジノモトは嫌いじゃなかったみたい)



でも・・・今思うと、一番美味しかったのは「おむすび」だったかもしれない。(湧き水とお米がものすごく美味しい土地だったんだと知ったのは、ずっと後になってから。当時はそれが当たり前と思っていて、その贅沢さに気づいてなかった)

遠足や運動会に作ってくれる「三角おむすび」の中身は、うちで漬けた梅干をちぎったものだけ。それを焼き海苔で丁寧に包んで、あとは固ゆで卵と、たまにウサギの林檎くらい。(食の細い子どもだったので、量もほんの少しだったと思う) 私の育った辺りでは、昭和30年代当時の「遠足のお弁当」は、その程度のものだったのだろうか。おねえちゃんは一度「甘い卵焼き入れて。みんな持ってきてる」って言ったけど、「悪うなるから」って、おばあちゃんは絶対お弁当に入れてくれなかった。(おむすびの具を鰹節にしてって言ったときも同じ、「悪うなるから」でオシマイだった)





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ねねの覚え書き①・・・おばあちゃんのお惣菜(秋~冬) 

2017-04-02 17:41:27 | E市での記憶
おばあちゃんの家にいた頃食べてた料理を、思いつくままに書いてみた。


サトイモの煮っ転がし・・・これは特別な美味しさ!ほとんどソウル・フードかも(^^)(大人になってから、実は里芋の名産地だったと知った。その後あちこちに住んだけれど、ああいう歯ざわりと味の里芋に出会ったことがない。今となっては、作り方のコツもわからないまま、幻のお惣菜に)

赤カブの甘酢漬け・・・梅酒を作るような大きなガラスびん2~3個分、冬の前に作ってたと思う。真っ赤なカブラが自分の赤みで、とてもきれいなピンクに染まる。赤カブは味噌汁の実でもよく出た(ちょっと苦味があって、子どもの私はあんまり好きじゃなかったので、何日も続くとちょっと悲しかった)

タラの白子の味噌汁・・・いつもおじいちゃんとおとうちゃんにだけ。見た目は白くてお豆腐みたいだけど、とにかく形が不気味でノーミソみたいって思った(「とても美味しい、ちょっと表現できないような味」って、おとうちゃんは褒めてたけど)

けんちん汁・・・大根と人参の大量の千切りをごま油で炒めて、出汁と里芋を入れて煮る。火が通ったら塩とお醤油で味をつけて、お豆腐を崩しながら入れて、出来上がり~。(おねえちゃんは里芋は入れない方が美味しいって言うけど、アタシはどっちでも構わない。おかあちゃんも言ってたけど、冷たくなったけんちん汁が好き。冷やせば夏でも美味しいんじゃないかな~っていつも思う)

のっぺい汁・・・けんちん汁より、材料の種類が多い。鍋に出汁を温めて、小さく刻んだものを順番に入れていくだけ。大根・人参・ゴボウ・干ししいたけ・糸コンニャク・薄揚げ・キクラゲ・・・味付けはみりんかお酒が少々に塩と醤油・・・かな? 小さい頃はキクラゲが苦手だった)

粕汁・・・新巻鮭の骨とかで出汁を取って、あとはありあわせの野菜で作る。味噌味なんだけど、最後に入れる酒粕の迫力が結構スゴイ(これも小さい頃は苦手だった。そもそもニオイにノックアウトされそう。酒粕ってどこが美味しいんだろって思ったけど、お正月には火鉢で焼いて、黒砂糖を包んで「おやつ」になって出てきたりも。アタシは「お砂糖だけの方がいいのにな~」っていつも思ってた)

豚の生姜煮・・・千切りの生姜を多めに入れて、細かく切った豚肉を味噌味で煮詰めたもの。おじいちゃんが好きだったみたいで、たまにおばあちゃんが作ってた。冷たくなっても美味しくて、お姉ちゃんやアタシも分けて貰ったりした。(おばあちゃんが使う香辛料?は、生姜と木の芽(山椒)くらいだった。胡椒もあんまり使わなかった)


ここからは、ちょっと「特別」な時のお料理。

関西風すきやき・・・砂糖と濃口醤油だけで味をつける。水っぽくなったら「麩」を絞って入れる。煮詰まったら焼き豆腐とかお酒とか。(おとうちゃんは「あそこまで甘じょっからいのは・・・どうなのかなあ。僕がこれまでに食べてきたスキヤキとはまた別物。おいしいのは美味しいんだけど」)

焼きマツタケ・土瓶蒸し・松茸ご飯・・・マツタケは「昔は山でいくらでも採れた」とか。でも、アタシが子どもの頃には既に「珍しい」モノになっていた。(焼いたのは子どもは食べさせてもらえなかった。土瓶蒸しは時々出て、アタシもおねえちゃんも大好き!だった)

越前ガニ・コウバコ・・・いわゆる「カニ」はオスで、「コウバコ(香箱)」はメス。(コウバコの卵はなかなか殻からはずれない。美味しいのに・・・って、いつもちょっと口惜しかった。おとうちゃんは、「僕なんかの子どもの頃は、コウバコは「おやつ」だったんだよ、ほんとに。大鍋で茹でて、卓袱台にドサッと一山作って、兄弟みんなが競争して食べた」「それにしても、カニの殻が薄くなったなあ。昔はもっとギッシリ身が詰まってたのに」)


毎年じゃあなかったと思うけど、おばあちゃんの言う「ホンコさん」の時のお料理も「特別」だった。お寺関係の行事で、「殺生をしてはいけない」から「野菜ばっかり」で作るのだと教わった。

「報恩講」の精進料理・・・人参の白和え、柿なます、野菜の炊き合わせ(大根・人参・干しシイタケ・里イモ・こんにゃく・キヌサヤ?)、ゴマ豆腐、焼き銀杏、百合根の煮物   (子どもにとってはどれもそんなに美味しくはなくて、人参の白和えの甘みなんて、ほんとにイヤだった。「甘いでしょ。もっと食べなさい」って簡単に言わないでほしい。柿の入ったなますも。干し柿のままで食べたいな~なんて、いつも思った)


こうして書き出してみると、なんだか文句ばっかり言っていて、好きだったのは「松茸の土瓶蒸し」「けんちん汁」「里芋の煮っ転がし」あとは「カニ」くらいしかない。(今では国産の松茸は超高級品で、あの土地の里芋はネットで注文でもしないと手に入らず、カニはアレルギーで食べられなくなって・・・私にとっては「幻」が増えていく一方だ)

おばあちゃんは大所帯向けの賄いを担当していたので、魚料理などはほとんど毎日、一人一皿の「仕出し」が、近所の魚屋から届いていた。ここに書いた「おばあちゃんの味」が精進に偏っているのは、そのせいもあるだろうけど、私自身が、食が細く肉も魚もあまり好きじゃない、ベジタリアンに近い?子どもだったというのもあると思う。(「仕出し」で届く魚料理は、刺身も焼き物も私は苦手なことが多かった)


それでも、おばあちゃんの料理はもっともっとあった気がする。思い出したら、また追加して書くかもしれない。(思い出す作業をしているときは子どもの「アタシ」に戻っていて、でも書いているのは今の「私」なので、妙に軸がグラグラする?書き方になっているけれど、「覚え書き」なので・・・ゴメンナサイ)



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ねねの日記・25 ダンナイ、ダンナイ、明日は晴れ

2017-01-01 12:43:50 | E市での記憶
アタシがまだ
すごーく小さかった頃。

朝、ご飯食べてると
お米粒がいっぱいこぼれて
タタミの上に散らばった。

おねえちゃんは
あんまりこぼれない。

なんでアタシばっかり
こぼすんだろうって
なんとなく納得いかない感じ。


「お米は、一粒出来るまでに
一年かかる」って
いつもおじいちゃんや
おばあちゃんに言われてた。

だから、こぼれたら一粒でも
ちゃんと拾って食べなさいって言われた。

でも、あんまりいっぱいこぼすと
拾っても拾っても
なかなかきれいにならない。

ご飯食べなきゃいけないのに
拾うだけで、もう精一杯!


そんなとき、おばあちゃんがやって来ると
にこにこしながら「ようけこぼれたの」。

で、そのあといつも
「ダンナイダンナイ。明日はいい天気やのぉ」って。

おばあちゃんが拾うの手伝ってくれると
あっという間に、タタミはきれいになった。

お米粒バラまくと
なんでお天気になるんやろ・・・って
アタシは不思議だったけど。


アタシが、もっと大きくなって
おばあちゃんの家から引っ越した後
「ダンナイ」っていうのは
「大事無い」ってことだったんだって
やっと気がついた。


あんなにお米を大事にしてたのに
「バラ撒く」のも、それはそれで
「景気のいい」コトだったのかなあ。

そういえば、お米とぐとき
米粒がちょっとこぼれても
おばあちゃんは、なるだけ拾ってた。

でも、アタシたちが
ちょっと多めに流しちゃったときは
「ガキにほどこす、ガキにほどこす」って
言えばいいんだって。

「ガキ」っていうのは
「ガキドウ」に落ちて
食べるもののない人たちのことで
アタシたちが流しちゃったお米が
その人たちのご飯になるんだって。


「ダンナイダンナイ」って
アタシも誰かに言ってみたかったなあ。


でもね、今でも
「餓鬼に施す」は言うよ。

ブ~ンって来た蚊を叩いたときとかも
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」って
つい言っちゃう。

で、おばあちゃんは言わなかったけど
「また人間に生まれておいで」って
アタシは続ける。

なぜかわからないけど
そういうクセがついちゃった。





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