「…根も葉もない噂ではないの!? 噂の出た時、花音は家の中にいたという私の言葉間違っていたのかしら」
母の強張る表情は、ある予感を秘めている。
何か、重い… 重くて辛い予感。
「花音を連れ出した」
孝哉は断言した。
「いつだよ」
孝彌には記憶がない。花音を家から出したことなど、一度もないと思っている。
「雪が降ってきた。ちょうど裏から帰ってきて、離れの窓から雪を見上げる花音と逢った」
外に出てごらん、と云うと、最初は孝彌に叱られると云っていた。
でも、孝彌は兄には逆らえないし大丈夫だと云ったら、今度は捨てられるまで約束は守るという。
捨てられるとは、どういうことだと聞くと、記憶にある限りの実母のことを話した。
「孝彌さんが飽きて私を捨てるまでだから、だからずっと家にいなさいと云われるのなら私はここから出ない」
孝哉が、その時何を思って何を考え、そして花音を連れ出したのかは誰にも解らない。
その時、孝哉は離れに入り花音を外へ連れていこうとした。
そこで激しく首を横に振る花音を、そっと抱きしめた。
孝哉の腕の中にあって、初めて人に抱かれるという感触を味わう花音は、それがどんなに甘美で幸せな気持ちになるのかを知った。
そして再び孝哉に促されると、今度は素直についてきた。
窓ごしではなく外に出てきた彼女の手を取ると、いつも孝彌の描く黒揚羽が左手首に見えた。確かに、よく似ている。
これを黒揚羽に見立てるなんて、孝彌のセンスはやはり最高だと、孝哉は思った。
「孝彌が何を云っても、花音はずっと此処にいたらいい。俺が、面倒みてやるから」
その時の言葉に偽りはない、と孝哉は云う。
近くに新しく出来た教会まで、手を繋いで歩いた。
雪が次第に激しくなって、子供たちの声も聞こえなくなった。
教会の中も、がらんとして誰もいないと思った。
ふたりでマリア像を眺めながら、手を繋いで時を過ごしただけだった。
ただ孝之輔と違い、孝哉は決して人当たりのいい青年ではない。
だからこそ、ふたりの様子を垣間見た誰かが、一つの噂を流す。
「次男の愛人であることを隠すために、養女にしたのではないかしら」
と…。
そして尾ひれがつく。
姉小路の男の誰かの愛人らしいわ。
姉小路家の男たちの愛人らしいわ。
いつも、隠れた場所で逢引しているらしいわ。
お屋敷に専用の部屋があるらしいわ、と。
「この縁談、お受けしましょう」
突然、凛とした母の声が響いた。
この母の言葉には、三人ともが驚き絶句する。
「お話の内容では、すぐにでも結納を交わし、秋には祝言を挙げたいということでした。今日からアトリエへの出入りは禁止します。孝彌さんもモデルとしてのスケッチなら充分でしょう。そして孝哉さん」
そこで言葉を切ると、孝哉にだけに向かい声をかけた。
「貴男の優しさから出たこととはいえ、私は花音の噂を簡単に否定し過ぎました。二度と花音を連れ出してはいけません。孝之輔さんと孝彌さんもです。今日から花音は許嫁のある身だと、お考えなさい。いいですね」
それだけ云うと居間を出ていってしまった。
「嘘だ」
孝彌が、孝哉を睨んだ。
「孝哉兄さんが、余計なことをするからだ。花音を返してくれ」
孝彌に胸元を摑まれても、孝哉には何も出来なかった。
やがて孝之輔も出ていった。
残された二人は、母に連れられて母屋に来た花音の足音を聞く。
聞こえる母の言葉に、縁談を断わることはできないという内容が含まれる。
確かに嫁にいく方が、花音は幸せなのかもしれない。
素性や噂、何より兄弟で争う種になりかねない。
孝彌は、無理矢理そう思い込もうとした。
どのくらい時が流れただろう。
ふと、顔をあげ孝彌は孝哉を見る。
彼は、静かに泣いていた――。
To be continued
※この物語はフィクションです。
登場する人物名・団体等は実在のものとは関係ありません。
母の強張る表情は、ある予感を秘めている。
何か、重い… 重くて辛い予感。
「花音を連れ出した」
孝哉は断言した。
「いつだよ」
孝彌には記憶がない。花音を家から出したことなど、一度もないと思っている。
「雪が降ってきた。ちょうど裏から帰ってきて、離れの窓から雪を見上げる花音と逢った」
外に出てごらん、と云うと、最初は孝彌に叱られると云っていた。
でも、孝彌は兄には逆らえないし大丈夫だと云ったら、今度は捨てられるまで約束は守るという。
捨てられるとは、どういうことだと聞くと、記憶にある限りの実母のことを話した。
「孝彌さんが飽きて私を捨てるまでだから、だからずっと家にいなさいと云われるのなら私はここから出ない」
孝哉が、その時何を思って何を考え、そして花音を連れ出したのかは誰にも解らない。
その時、孝哉は離れに入り花音を外へ連れていこうとした。
そこで激しく首を横に振る花音を、そっと抱きしめた。
孝哉の腕の中にあって、初めて人に抱かれるという感触を味わう花音は、それがどんなに甘美で幸せな気持ちになるのかを知った。
そして再び孝哉に促されると、今度は素直についてきた。
窓ごしではなく外に出てきた彼女の手を取ると、いつも孝彌の描く黒揚羽が左手首に見えた。確かに、よく似ている。
これを黒揚羽に見立てるなんて、孝彌のセンスはやはり最高だと、孝哉は思った。
「孝彌が何を云っても、花音はずっと此処にいたらいい。俺が、面倒みてやるから」
その時の言葉に偽りはない、と孝哉は云う。
近くに新しく出来た教会まで、手を繋いで歩いた。
雪が次第に激しくなって、子供たちの声も聞こえなくなった。
教会の中も、がらんとして誰もいないと思った。
ふたりでマリア像を眺めながら、手を繋いで時を過ごしただけだった。
ただ孝之輔と違い、孝哉は決して人当たりのいい青年ではない。
だからこそ、ふたりの様子を垣間見た誰かが、一つの噂を流す。
「次男の愛人であることを隠すために、養女にしたのではないかしら」
と…。
そして尾ひれがつく。
姉小路の男の誰かの愛人らしいわ。
姉小路家の男たちの愛人らしいわ。
いつも、隠れた場所で逢引しているらしいわ。
お屋敷に専用の部屋があるらしいわ、と。
「この縁談、お受けしましょう」
突然、凛とした母の声が響いた。
この母の言葉には、三人ともが驚き絶句する。
「お話の内容では、すぐにでも結納を交わし、秋には祝言を挙げたいということでした。今日からアトリエへの出入りは禁止します。孝彌さんもモデルとしてのスケッチなら充分でしょう。そして孝哉さん」
そこで言葉を切ると、孝哉にだけに向かい声をかけた。
「貴男の優しさから出たこととはいえ、私は花音の噂を簡単に否定し過ぎました。二度と花音を連れ出してはいけません。孝之輔さんと孝彌さんもです。今日から花音は許嫁のある身だと、お考えなさい。いいですね」
それだけ云うと居間を出ていってしまった。
「嘘だ」
孝彌が、孝哉を睨んだ。
「孝哉兄さんが、余計なことをするからだ。花音を返してくれ」
孝彌に胸元を摑まれても、孝哉には何も出来なかった。
やがて孝之輔も出ていった。
残された二人は、母に連れられて母屋に来た花音の足音を聞く。
聞こえる母の言葉に、縁談を断わることはできないという内容が含まれる。
確かに嫁にいく方が、花音は幸せなのかもしれない。
素性や噂、何より兄弟で争う種になりかねない。
孝彌は、無理矢理そう思い込もうとした。
どのくらい時が流れただろう。
ふと、顔をあげ孝彌は孝哉を見る。
彼は、静かに泣いていた――。
To be continued
※この物語はフィクションです。
登場する人物名・団体等は実在のものとは関係ありません。