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「舞夏。お前…」
どうしたのかと問われる。
目の前には穂坂桃里。たった今、自分の本気の恋心を認識し、直後の失恋を味わっている。
「どうして泣くの」
え?
桃里にそう言われ、何を言ってるんだと笑おうと思った。でも、できなかった。涙が、言葉を繋ぐことを阻んだから。
原嶋舞夏の初恋は呆気ないほど短い時間で終わった。
こうなったら覚悟を決めて泣こう、そう思って俯いた。桃里が動くのは分かった。でも顔を上げられない…。
「はい」
後ろから声がして、肩に腕が乗った。横を向くと、その手にハンドタオルがあった。お礼を言って受け取り、顔を埋める――。
「このタオル、どこから湧いてきたんですか」
一頻り泣いた後に、見覚えのないそれを見て聞いてみる。
「そりゃ、隣からに決まってるでしょ」
言いながら、髪をぐちゃぐちゃとかき回される。
「お前、男とつきあったこと、ないでしょ」
桃里はそのままいつもの場所に落ち着いてこちらを向いた。
「当然です。中卒の女の子に声をかけようなんて思うのは、馬鹿な大人ばっかり。そんな大人と本気でつきあえるとは思えません」
そう言ったら、桃里は正しいと言って笑った。
「俺もさ、高校中退。普通に働こうとしても、どこも相手にしてくれなかった」
でもさ、と続ける内容は、どうして夜の世界に身を置くことになったかのきっかけだった。それは、ひとつ間違えば舞夏も同じ道を辿ったかもしれないという恐怖だ。
「夜の世界はさ、学歴関係ないし、稼ぐヤツが一番だから」
そこでウィンク一つつけてくれた。
いや、そういうのはいらないです… どきどきが増してくる。
気付くと、そこで桃里の言葉は切れていた。逸らしていた目を向けると、いつものように押入れに背を預け、よれよれのシャツに色の抜けたジーンズ姿でこちらを見ている。
「何、ですか」
「もし、本気でつきあってって言ったら相手にしてもらえるかな」
水商売に身を置く自分は、この先もまともに生きていけるかどうか分からないと、さっき聞いたばかりだ。通用しなくなったら、どこかで皿洗いでもするかと自嘲するように笑った彼に、そんな転落は想像もつかない。
桃里は何を考えているのだろう。
「この状況のなかで、どんな返事をしてもきっと後悔すると思います。そうですね、季節が三度巡ったら、改めてそのお返事をすることにします」
それでいいか、という意味の視線を送る。言葉ではなく、頷くだけで桃里は答えた。
「先ほど言われた内容は有効とします。もし約束の時までに事情が変わったら、鍵を取り替えて下さい。それまではここに残ります」
その後はこの件に触れることなく、久しぶりだからと二人で夕食までを共に過ごした。そして午後十時になり、桃里はホスト仕様に変身し出かけていった。
もう逢うことはないだろう。三年は長い。桃里を三年もほっておく女がいるとは思えない。
でも本当は、よれよれのシャツに穴あきジーンズの桃里が好き。忘れることはない。時々、部屋の空気を入れ替えに行く。その時だけ思い出に浸ることにしよう。
舞夏の決意は、これまでの経験からである。しかし男女の機微に疎いというのが誤算だった。どんなに頭で割り切ろうとしても、どうにもならない感情は時に暴走しそうになった――。
街にはハロウィンの飾りが施され、スーパーの飾りも黒とオレンジが基調となり黒猫と南瓜の置物が交互に並べてある。
ふとした日常。あの別れから一月余り。一緒にカートを引いた日の桃里の後姿が蘇る。
嫌だ嫌だ。
もう何百回も同じことを呟いた。そして今また呟く。あれは似たような背丈の人で、彼がこのスーパーに現れることは二度とない。そう言い聞かせ仕事に戻るために小さくかぶりを振った。
そしてラッピングされたお菓子をハロウィン用のワゴンに並べていく。その時、お客様の手がお菓子の一つを手にした。気付いたところでお礼の言葉と共に顔を上げる。
「どうして…」
「今夜、鍋な」
これだけ残し去る背中。
桃里…
仕事を終え、裏口から出ると彼がいた。スーパーの袋は持っていないので、一度部屋に帰ったのだろう。
舞夏の顔を見るとお疲れとだけ声をかけ、歩き出す。舞夏は何も言わないまま、その後ろをついていった。
帰ると、今夜はこっちと桃里の部屋に呼ばれた。
高そうな座卓に卓上コンロ、さくら色の土鍋にはすでに下拵えの終わった寄せ鍋ができている。
「美味しそう」
「じゃ、食べよう」
「あの…」
どうしてこんなことをするのかと聞こうとしたら、まとめて全部後だと言われ湯匙を渡された。
とりあえず食べよう。寄せ鍋は美味しいうちに食べた方がいい。桃里の作った寄せ鍋に箸が進む。
「お料理、上手ですね」
「そりゃ、小学生の頃から自炊してたようなもんだから」
お母さんが出ていったのが、そんなに小さな頃だと初めて知った。でも、お父さんが料理をしてくれる人じゃなかったからとそんな小さな子が自分でするだろうか。
親のいない舞夏には分からない。
「泣くなよ」
そう言われ瞳にたまった涙が、今にも落ちそうなところで留まった。
「舞夏はさ、体と頭の中だけ大人になったんだ。きっと家族とか男女の関わりとかはさ。中学生並み…」
そうかもしれない。人として欠けている部分が多すぎる。それを補う術もなく、冒険する勇気もない。
桃里は、静かに舞夏を見る。そして、だからさと言葉を紡いだ。
「一緒に暮らそうか」
聞いた言葉が理解できない。否、言ってることは分かる。ただ自分に置き換えることができない。
駄目…
「そんなことしちゃ駄目。私なんか、相手にしちゃ駄目です!」
思わず大きな声を出した。
「舞夏。自分のこと、なんかって言わないの。俺と一緒に暮らして、人の温もりを知りなさい」
という桃里の言葉が分からない。
「家族っていいよ。たとえ二人きりでも同じ家に帰ってくる人がいて、帰る家に人の温もりがあるって」
か、ぞく。人の、ぬくもり…
今度こそ本当に、涙腺破壊された――。
この一ヶ月で桃里の人生は舞夏の知るものとは全く変わっていた。ホストを辞め、小料理屋を居抜きで買って始めてた。今はホスト仲間や客だったホステスが多いけれど、と言うものの最近になってサラリーマンも来てくれるようになったらしい。
「舞夏に店に立って欲しい。居酒屋の看板娘なんだから簡単だよね」
そして店を閉めたら同じ家に帰ろうと言う。
「恋愛はなしですか」
すると、まさか~と笑って卓を回ってきた。
「普通、とかはなしな。舞夏と俺の時間で恋愛しよ」
何せ中学生だからさ、と笑う桃里の膝を思い切り叩いた。
「こういう距離、いいでしょ」
泣いた顔が笑い顔に変わっている。
三年後という約束は、と聞くと、そんなもの最初から守る気はなかったと笑われた。
「さて、鍋に蕎麦入れようぜ」
「は?」
「だから、そば」
「うどんじゃないの?」
「え? そばでしょ」
どうやら桃里も普通の家庭の味には疎いかもしれないと、舞夏は初めて彼を身近に感じた。
「もう何でもいい。早く作って」
任せろ、と言って卓上コンロに火を点ける。隣に並ぶと、彼の綺麗な指が少し荒れていることに気付いた。あんなに手入れされた綺麗な手だったのに。
本当にホスト、辞めちゃったんだね。
「何?」
「何でもない」
醤油を注し味を調える姿を見ながら、舞夏は人の温もりをゆっくりと感じ始めている――。
今夜、泊まっていくでしょと桃里は言う。
「自分たちの時間で恋愛するんじゃないの」
「そうだよ。だから、まずは合宿でしょう」
言いながら、湯匙を渡される…。
一緒の朝を迎えるのは二度目になる。早起きの舞夏は明け方には目が覚める。明けの明星のなか、桃里の寝顔を想像し何だか嬉しくなる。
「明日の朝は、夜明けの珈琲淹れてね」
勿論、と言う桃里はやっぱりすごくカッコよかった。
【了】 著 作:紫 草
小題:そば