今のように猛暑でなかった昭和の夏の夜、わたしは5才で、添い寝をしてくれている祖母が、団扇でゆっくり撫でるように扇いでくれていたのを覚えている。
窓は開いていて、月明かりで茂った樫木の影が見えた。
たまに車が通ると、天井と壁にライトがグルーッと巡っていった。
丘の下にある遠くの池からは、ウシガエルの、グブウグブウという大合唱が響いていた。
目を瞑ってしばらくしたら風の動きが止まったので、わたしは横を向いた。
祖母は、薄闇の中で団扇を手にしたまま眠っていた。
あ、おばあちゃん先に寝ちゃった。
ちょっと取り残された気分で、ふと思った。
「いつかおばあちゃんが死んじゃったら、冷凍して、一人分のおっきな冷凍庫にそのままずっといてほしいな。そしたらいつでも会えるから」
それから、窓の外に、カチンコチンのおばあちゃんが立ってるところを想像してみた。
よく身に着けていた、ブルーに白い小さな花柄の付いたかっぽう着で。
❄❄❄
それから22年後、祖母の臨終の知らせをもらった時、お医者さんは、東京にいるわたしが名古屋に駆け付けるまで命がもつか難しいと言った。
3時間半後の夕方、わたしは最寄り駅のホームに降り立った。
途端に、両脚の膝下にみるみる赤い蕁麻疹が広がっていき、痒くてたまらなかった。
部屋に着くと、祖母は布団で、ヒュー、ヒュー。と全力で荒い息をし、目線は少し上を向いていた。
もう、通常の反応はなかったけれど、わたしが今までと同じように話しかけているうちに、少しずつ少しずつ、ヒュー、ヒュー、がかすれていって、30分くらいかけて祖母の目は静かに閉じていった。
わたしはただひたすら、祖母のそばにいた。
逝ってしまった後も、握っていた手は温かくて、わたしの「おばあちゃん」という呼びかけだけが残った。
❄❄❄
カタチあるものはみんな消えてしまうけれど、祖母の素敵だったところも、今思えば未熟だったところも、全部宇宙のデータになって、そこかしこに存在している。
去年、わたしは趣味を通じて、祖母の出身地と同じ小さな町に暮らす人と知り合い、ふしぎな懐かしさを覚えた。
相手も同じだったようで、その人は、親戚なんじゃないかと言って家系図を調べたりしていた。
なぜか、祖母と彼には共通点を多く感じた。
懸命さ、気力と忍耐力の強さ、グレーがかった少し心細そうな目の色、湛えている孤独の種類。
内面の深くまで、自分か、一緒に探索してくれる誰かを持たずにがんばってきた人特有の、シャキンとした気配。
「わたしたち」になりきれず、一人称の「わたし」から発せられる強くて切ない、やさしさ。
祖母は、おばあちゃん子だったわたしそのままを、ただ側にいることで見てきてくれた。
そして祖母自身も、命をかけて愛情や弱さを見せてきてくれた。
そのことは、ずいぶんわたしに勇気をくれている。
❄❄❄
今、自分にとって大切な人と会えなくても、上手くいっていなくても、その時できたことが限られていたって、自分の中にその人の、本来の命への「まっすぐ」な想いを灯し続ければ、後から「わたしたち」になって目の前の景色を美しく見せてくれる。
その時、お互いの弱さや未熟さも、きっと、愛おしくなると思う。
その時、お互いの弱さや未熟さも、きっと、愛おしくなると思う。
散歩コース山下公園の、季節ごとの花壇。
ベランダから見た横浜港。