8.11 追加記事
原発作業員143人所在不明のニュース
急遽、全国から集めたり、あちこちに応援を頼んだり・・
東電さんにも事情はありましょうが・・・所在不明はマズいんじゃないの?
いよいよ栃木の牛肉も全頭検査、遅くない?
栃木名物「ちたけ(きのこ)」もたぶん食するのはヤバいでしょう
いろんなものが放射能にまみれているようだ
ガソリンスタンドの洗車機の泥からは高い放射能が・・・捨てる場所も無い・・
自治体ではどうしようもない、法律も無いのでそこら辺に置いておいてください?
このままでは放射能汚染物があふれてしまう
『放射能のゴミはこうやって処理する!」という方法が無いのに原発をつくってきた
それを見て見ぬ振りをしてきたニッポン国民・・自業自得か?
広島に住んでいた頃、8月6日8時15分にはサイレンが鳴った・・黙祷・・今はどうでしょうか?
子供の頃、「夏休み帳?」なるものには原爆(被爆者)の手記が書かれていた
今!
広島、長崎の放射能治療の実績? が役に立つ? といわれている
そんな時代がくるとは思わなかった・・・
原爆に関する興味深い記事が2つあったので読んでみてください
北国新聞より
広島で原爆投下直後に降った「黒い雨」に由来するとみられる放射性物質を、金大の山 本政儀教授(環境放射能学)らのグループが、爆心地から約20キロ離れた民家床下の土 壌で検出した。
黒い雨研究は未解明な部分が多いが、小松市の尾小屋地下実験室での測定 で、微量放射線を確認した。
原爆投下から6日で66年。当時の住民の内部被ばく評価に 向けた一歩となり、福島第1原発事故で懸念される放射線の人体への影響を探る基礎デー タとしても注目される。
当時、黒い雨による高い放射線量が観測されたのは、爆心地の西2~3キロ。
それ以外 のエリアで住民の証言によらない「直接的な証拠」を確認したのは初めてで、広島市が国 に長年求めてきた降雨域への援助拡充に追い風になる可能性もある。
山本教授は長崎市の 間の瀬地区でも「黒い雨」の痕跡調査を始めており、年内に結果をまとめる予定だ。
黒い雨の調査は、1950年から60年代初めに行われた米ソの大気圏内での核実験で セシウム137などが世界中にばらまかれたため、原爆由来の汚染痕跡を見いだすことは 極めて困難となった。
山本教授がメンバーに加わる「黒い雨」の研究グループでは3年前 から、終戦以降で大気圏核実験の始まる49年以前に建てられた家の床下にある土壌を使 った調査に取り組み、広島の爆心地から北西に7~20キロの20カ所の土壌サンプルを 採取し、測定した。
ごく微量の放射性物質を測定できる世界トップレベルの施設である尾小屋地下実験室で の分析では、1平方メートル当たりに広島原爆由来のセシウム137が20~50ベクレ ル含まれていると推測された。
30年の半減期などを考慮すると、当時は数百ベクレルが 降下したと予想されるという。福島第1原発事故より低い線量だった。
広島原爆では、瞬間的に放射線を外から浴びる外部被ばくの調査は行われたが、「黒い 雨」による低い放射線量の内部被ばくは詳しく調べられず、放射線の人体への影響が学術 的には解明されないままとなっている。
山本教授は、福島第1原発事故が発生した今、黒 い雨調査の意義は大きいとし、「調査地点をさらに増やし、線量推定の精度を上げていき たい」と話している。
高知新聞より
矢野さんが広島防空隊の一員として任務に就いていたのは、広島市中心から南へ約5㌔離れた宇品(うじな)島。
島には当時、複数の高射砲陣地が構築され、矢野さんは島の北端、標高約30㍍にある陣地から「測高機」を使い、敵機の角度や高度を測っていた。広島の町並みが手に取るように見える所だった。
その日、午前8時から監視に当たっていた矢野さんは、双眼鏡の中に三つの白い落下傘を発見。
「おい、落下傘が落ちてくるぞ」と同僚に声を掛けた直後に、「地上数百㍍と思われる所」で巨大な閃光(せんこう)を目撃し、大爆発にさらされた。
爆発は、それまでに体験した「ずしーん」としたものではなかった。
陽炎(かげろう)のようにゆらゆら、めらめらとした「得たいのしれないもの」「物ではないもの」が町並みの上3~4㍍ほどを波状にうねりながら島の陣地にも迫ってきて、「何だろう」と思った瞬間、「どーんと爆風が体にぶつかった」。
「無色透明。うねりながら襲い掛かってくる様子は、津波そっくり」だったという。
矢野さんは全身の気だるさと下痢に見舞われ、翌朝の点呼に出られない状態だったが、命の危機にひんする深刻な事態にはならず、投下2日後、大本営の調査団に目撃内容を説明した。
立ち上ったきのこ雲が風にたなびいて遠ざかり、上空の雲と一緒になるまでを見た矢野さんの説明は詳細。調査団の報告書に記されている「キノコ雲の高さ九、五〇〇㍍」(「広島原爆戦災誌」から引用)などの内容は、矢野さんらからの聴取によるものとみられる。
矢野さんは「自分のように被害が軽微な者が原爆を語っては、深刻な被害を受けた方々に申し訳ない」との思いから、自分の体験を語ることはほとんどなかったというが、「このまま死ねば、自分の体験が永久に失われてしまう」と昨秋、手記を執筆。友人らに配ったほか、広島平和記念資料館にも送った。
同館は「軍の調査で矢野さんの証言が重視されたことは、広島県史(1972年)などでもうかがえる。被爆当日の様子を補完する貴重な証言」としている。
原発作業員143人所在不明のニュース
急遽、全国から集めたり、あちこちに応援を頼んだり・・
東電さんにも事情はありましょうが・・・所在不明はマズいんじゃないの?
いよいよ栃木の牛肉も全頭検査、遅くない?
栃木名物「ちたけ(きのこ)」もたぶん食するのはヤバいでしょう
いろんなものが放射能にまみれているようだ
ガソリンスタンドの洗車機の泥からは高い放射能が・・・捨てる場所も無い・・
自治体ではどうしようもない、法律も無いのでそこら辺に置いておいてください?
このままでは放射能汚染物があふれてしまう
『放射能のゴミはこうやって処理する!」という方法が無いのに原発をつくってきた
それを見て見ぬ振りをしてきたニッポン国民・・自業自得か?
広島に住んでいた頃、8月6日8時15分にはサイレンが鳴った・・黙祷・・今はどうでしょうか?
子供の頃、「夏休み帳?」なるものには原爆(被爆者)の手記が書かれていた
今!
広島、長崎の放射能治療の実績? が役に立つ? といわれている
そんな時代がくるとは思わなかった・・・
原爆に関する興味深い記事が2つあったので読んでみてください
北国新聞より
広島で原爆投下直後に降った「黒い雨」に由来するとみられる放射性物質を、金大の山 本政儀教授(環境放射能学)らのグループが、爆心地から約20キロ離れた民家床下の土 壌で検出した。
黒い雨研究は未解明な部分が多いが、小松市の尾小屋地下実験室での測定 で、微量放射線を確認した。
原爆投下から6日で66年。当時の住民の内部被ばく評価に 向けた一歩となり、福島第1原発事故で懸念される放射線の人体への影響を探る基礎デー タとしても注目される。
当時、黒い雨による高い放射線量が観測されたのは、爆心地の西2~3キロ。
それ以外 のエリアで住民の証言によらない「直接的な証拠」を確認したのは初めてで、広島市が国 に長年求めてきた降雨域への援助拡充に追い風になる可能性もある。
山本教授は長崎市の 間の瀬地区でも「黒い雨」の痕跡調査を始めており、年内に結果をまとめる予定だ。
黒い雨の調査は、1950年から60年代初めに行われた米ソの大気圏内での核実験で セシウム137などが世界中にばらまかれたため、原爆由来の汚染痕跡を見いだすことは 極めて困難となった。
山本教授がメンバーに加わる「黒い雨」の研究グループでは3年前 から、終戦以降で大気圏核実験の始まる49年以前に建てられた家の床下にある土壌を使 った調査に取り組み、広島の爆心地から北西に7~20キロの20カ所の土壌サンプルを 採取し、測定した。
ごく微量の放射性物質を測定できる世界トップレベルの施設である尾小屋地下実験室で の分析では、1平方メートル当たりに広島原爆由来のセシウム137が20~50ベクレ ル含まれていると推測された。
30年の半減期などを考慮すると、当時は数百ベクレルが 降下したと予想されるという。福島第1原発事故より低い線量だった。
広島原爆では、瞬間的に放射線を外から浴びる外部被ばくの調査は行われたが、「黒い 雨」による低い放射線量の内部被ばくは詳しく調べられず、放射線の人体への影響が学術 的には解明されないままとなっている。
山本教授は、福島第1原発事故が発生した今、黒 い雨調査の意義は大きいとし、「調査地点をさらに増やし、線量推定の精度を上げていき たい」と話している。
高知新聞より
矢野さんが広島防空隊の一員として任務に就いていたのは、広島市中心から南へ約5㌔離れた宇品(うじな)島。
島には当時、複数の高射砲陣地が構築され、矢野さんは島の北端、標高約30㍍にある陣地から「測高機」を使い、敵機の角度や高度を測っていた。広島の町並みが手に取るように見える所だった。
その日、午前8時から監視に当たっていた矢野さんは、双眼鏡の中に三つの白い落下傘を発見。
「おい、落下傘が落ちてくるぞ」と同僚に声を掛けた直後に、「地上数百㍍と思われる所」で巨大な閃光(せんこう)を目撃し、大爆発にさらされた。
爆発は、それまでに体験した「ずしーん」としたものではなかった。
陽炎(かげろう)のようにゆらゆら、めらめらとした「得たいのしれないもの」「物ではないもの」が町並みの上3~4㍍ほどを波状にうねりながら島の陣地にも迫ってきて、「何だろう」と思った瞬間、「どーんと爆風が体にぶつかった」。
「無色透明。うねりながら襲い掛かってくる様子は、津波そっくり」だったという。
矢野さんは全身の気だるさと下痢に見舞われ、翌朝の点呼に出られない状態だったが、命の危機にひんする深刻な事態にはならず、投下2日後、大本営の調査団に目撃内容を説明した。
立ち上ったきのこ雲が風にたなびいて遠ざかり、上空の雲と一緒になるまでを見た矢野さんの説明は詳細。調査団の報告書に記されている「キノコ雲の高さ九、五〇〇㍍」(「広島原爆戦災誌」から引用)などの内容は、矢野さんらからの聴取によるものとみられる。
矢野さんは「自分のように被害が軽微な者が原爆を語っては、深刻な被害を受けた方々に申し訳ない」との思いから、自分の体験を語ることはほとんどなかったというが、「このまま死ねば、自分の体験が永久に失われてしまう」と昨秋、手記を執筆。友人らに配ったほか、広島平和記念資料館にも送った。
同館は「軍の調査で矢野さんの証言が重視されたことは、広島県史(1972年)などでもうかがえる。被爆当日の様子を補完する貴重な証言」としている。