名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

@ 非論理エッセイ 【笑える宗教】

2025年02月02日 | 日記
 ウンベルト・エーコに「薔薇の名前」という言語学風宗教的怪奇サスペンス推理小説があります。その物語の中に「神が笑いを禁じた筈がない」という主旨の言葉がある。もっともだと安易にうなずかれても困ります。何故ならば、教会も、仏殿も、祈祷所も、企業も、学校も、軍隊も、牢獄も笑いを不謹慎だとして締め出し続けた長い歴史と、今に残る悪習があるからです。

 確かに、宗教に可笑し味がないのは変です。人生には苦もあるでしょう。しかしながら、究極の苦悩から悟りが生じる。悟りには歓びがある。宗教の中には、笑いを勧めた例外もあります。中国本禅の系統、達磨、慧能、百丈、黄檗、大愚、臨済、普化、慧念の伝説には、深遠な葉隠れ精神に基づく禅問答を繰り返しながら、けらけらと笑う場面が多い。日本でも、沢庵、白隠、良寛の様な本ものは冗談ばかり云います。

 三船敏郎主演の映画「宮本武蔵」で、名優中村九郎衛門が演じた沢庵和尚の洒脱な人物像は見事でした。創作とはいえ、日本の伝統である武士道や葉隠れ精神、悟りの正しい姿が描かれています。米国のアカデミー名誉賞(最優秀外国映画賞)を受けてから、戦後日本人を見る世界の視線ががらっと変わったと聞きます。黒沢映画の「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」にも優れた武士道の表現があります。全く可笑し味のない名作は少ない。それが、本ものと贋ものを見極めるコツかも知れません。音楽にも、絵画にも、映画にも、藝道にも似た様な観点があります。

 子供の頃、臨済録を読んで笑い転げた思い出があります。あれ程おかしい滑稽本はない。同時に、史上最高の禅書とも云えます。人類の生んだ名著の窮みでしょう。思考が柔軟な子供達に読ませたいものです。学校に行きたくない。宿題などしたくない。授業中に笑うと叱られる。罰則は嫌だ。恥ばかりかかされる。反動的に今や核家族と揶揄された結果、TV番組のCM、皮相的なタレント風の笑い、幻覚癖に侵される。これが健全な現代っ子の平均的な環境です。その分母には、儒教的教育制度がある。欧米人から見ると、学校で道徳を教える方式が不思議な光景と映る様ですが、教会で道徳を教えるのも同じ事です。教育の基盤に「孔子」を置くよりは「老子」や「臨済録」を読ませたい。

 道徳は、本来教わるものではありません。幼少時から親が躾け、自分自身で選択しながら自覚を積み重ねる。押し付けられた道徳はいずれ化けの皮が剥がされ、教条的な視線からしか人生を見なくなるものです。回りを見渡すと、そんな方々ばかり。

 臨済録を含む禅の名著を読むと、子供達の心構えが変わります。先祖代々の宗教や学校道徳の概念ではなく、心の裡から自由な生きた想念が芽生える事でしょう。


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@ 非論理エッセイ 【白隠禅師と隻手の音声】

2025年02月02日 | 日記

 冬竹や   光も陰もあやもなく 
 雨の調べが 降りそそぐ

 巷に広がる詩や俳句の概念は、人惑でどろどろに塗り固められています。本当の詩や俳句は、言葉の背後にある想念を表現する行為です。藝術か如何かと云う観点にも、何ら意味がありません。何故か…【藝術】という言葉の正しい想念は、レベルの高い芸術家ほど無処無住で捉えているからです。詰まり…形式などまやかしの常識に過ぎず、藝術には留まる処が無いのです。

 良く短歌の基本型として「5・7・5・7・7」と云う事を云いますが、本当でしょうか…。実際には【溜め】と【間】があるので、【8・8・8・8・8・】。8x5音律であり、シェクスピアの5韻律と似ている。下記の【*】を一つずつ数えると、8拍子である事がお分かり頂けるかと思います。

 ふゆたけや*** ひかりもかげも*  
 あやもなく*** 
 *あめのしらべが ふりそぞぐ***

 それもともかく…お遊びの俳句をひとつ。

 冬竹や 雨振りそそぐ 鐘の音

 第一節は【静】、第二節は【動】 第三節は【ものや具象を離れた想念】。初学の方々は、この様に書くと俳句らしく観えます。

                   *

 白隠禅師の公案に「隻手の音声」があります。論理的には、片手で出す音を聞けという矛盾した問い掛けです。物質的に不合理だと考える限り、答えは無い様に思えます。観点を変えて、アインシュタイン博士の論理を適用してみましょう。「常識を疑う」「前提を外す」「同じ類の現象として同属化する」。それ程難しい思考法ではありません。

 「隻手の音声」の音とは、空気を伝わる常識的な波動音でしょうか。「片手の音」に物理的な前提はあるでしょうか。「片手」と「音」は異なる存在概念でしょうか。常識、前提、差別化を放下すると実体が観えて来ます。
 一例を示して見ましょう。

「隻手の音声」とは音そのものではない。聞くのではなく智慧の力で直観する。直観する自分自身も居ない。心で観ると云うその心も消える。色も音も形もない。その彼岸に隻手の音声が鳴り響いている。要するに、隻手も音も捨て去れば無為自然の存在概念が現われる。

 チンプンカンプンだと良く云われます。だからこそ、詩や禅思想は面白いのです。

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@ 非論理エッセイ 【ウィンストン・チャーチルの言葉】

2025年02月02日 | 日記


 偉大な政治家となる条件は二つ。

 ひとつは、先を読みながら最善の解決策を見出す事。だが、二つ目が更に重要な素質だ。

 良い選択肢が見付からない場合に、うまい云い訳を思い付く能力である。



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