『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

《玉断4》 もはや消え去りつつある、 「教養とは?」

「教養とは」
人生のいかなる局面にも役立てるように、あらゆる知恵や知識を体系的にまとめて、百科全書として網羅しようとしたのが、ヨーロッパのディレッタント由来の「教養」です。
大学の最初の二年間は、教養過程と呼ばれるように、大学教育は広く教養を養う準備をする期間と認識されています。
ワインの醸造と同じ消息です。
仕込まれた埋蔵知識を時間をかけて発酵させ、自家薬籠中の物とすることで、まろやかで芳醇な味わいとなります。
そうなると、隠しても行間に滲みでて来るようになります。文章のどこにも莫迦なフレーズをつかうことなく、嗜みのある落着いた文章になります。
「杞憂します」「度返し(度外視の勘違い)」とか、ネットで偶々見た、覚えたての言葉を不用意につかうところに、自らの内で熟成しないうちに遣うところに、その人の若さが出ます。

[※  こどもが言葉を覚えたての頃、トンチンカンな使い方をするのと全く同じ。ことばを発するシチュエーション(ロケーション)とその言葉独特の文脈がわかっていない。こどもだって、まわりのジイサンバアサンや諸々の人びとが口走るのを耳で聴いて、つかう情況をまるごと覚えるのです。]

教養とは老成したものなのです。

大学時代に勉強しなかった人とは、古いワイン樽を貯蔵していないワイナリーみたいなものです。
「無い袖は振れない」
自前のワイン貯蔵庫を持っていない人に、教養が滲み出る文章を綴ることは出来ないでしょう。
人生には、時間をかけなければ到達できない境地があります。


一週間に一冊ずつ本を読む、これを一年続けて50冊、そんな生活を40年続ければ2000冊に到達します。


まあ、この位読書していたら知識人として最低限の素養は身につくだろうという前提の上で、東大英文科系の中野好夫が「読書2000冊が知識人の条件」と仮定したのです。(当時東大英文科は、海外の翻訳文化だった文壇をリードしていたから)
読書人に特有の風貌というものがありまして、幸田露伴に鷗外・漱石、南方熊楠、井筒俊彦、司馬遼太郎等は、非常に鍛え込まれた眼輪筋を所有しています。
いまや、そうした碩学は絶滅しようとしています。
つまり、ネット情報をいくら多量に閲覧しても、読書人の教養ある風貌には仕上がらないのです。
体系的にすべてを網羅することが、必要だからです。
教養人は、自分の体系と哲学(分類思考)を持っている、つまり自分律(自分の律法)を持っているということです。

 

ネット情報をいくら積み上げても「教養」にならないのは何故か。

『ボクらの時代』で、シティボーイズの鼎談があったのだが……  そのときに大竹さんが言うとった。彼ら70歳代は、40歳代と話しが合わないと。

(大竹)> 「いまほら、スマホとか色んなのあって、ADの人たちも、「あれどーした?」って言ったら「ちょっと待って下さい」って「コレです」みたいな……

もう簡単になってるじゃん、話が。

すごい速いじゃん、だから、年寄りに訊く理由も無くなったんだね

もうお前に訊くよりこっちの方が速いから。」

__ 昔は、ご隠居(長老)さんてのがいて、なんでもよく見聞していて物識りで、なにかとアドバイスをしてくれるって、街の文化みたいなものが存在した。

この年配者の情報が、ネット情報に取って代わられたってことなんだけど…… 真相はまったく違うんだ。

たしかに、パソコンやネット関連の情報については、老人は経験もなく知らないし、そもそも其処にアクセスできない。

生活全般についても、お節介に色々とアップして、予備知識やコツを披露してくれる中年熟年も数多い。Yahoo!知恵袋みたいな、すぐ尋ねられるサイトもあるし、ライフ・ハックを手に入れるのは容易い。

しかし、そーしたネット情報と、老人の生の情報の何が違うかとゆーと、人を介在する情報は、経験者から聞いたほうが話が早いとゆーことだ。

具体的にゆーと、あそこのラーメン屋の特製ラーメンが旨いと、これはネット情報である。

年寄りの常連の情報は、また一味違う。あそこの店主はギャンブル好きだから、レースの翌日は一喜一憂して仕込みが遅れることがある。間に合わないかも知れないので、食べにゆくのはレース前がよいとか。

特製ラーメンの出汁は、上質の飛び魚をつかっているので、島の煮干しの出来具合に左右されるとか。店主は盆栽が好きだから、店前の鉢植えを誉めながら仲良くなると、まかないの裏メニューを食わせてくれるとか。こーした裏情報は、ネットの「口コミ」でも入手できるが、常連が投稿してくれなければ分からず仕舞いである。

つまり、ネット情報とは「只のデータ」であるが、年寄り情報とは人付き合いによって得た感触がまざっていて、より確実で安心のできる情報である。経験豊かな年寄りが実験済みとゆーか、検証ができている「生きた情報」である。

やっぱり、情報とゆーものは、感「情」が入っている「報」せが本来のものであろー。情報が命である、CIA ・FBI や MI6 そして日本の内閣情報調査室では、情報=インテリジェンスの認識である。

諜報部ではよく言うな…… 

「インフォメーション」ではなく「インテリジェンス」

だと。そして何よりも、その情報提供者の人物が信頼できるかどーかが重大なネックとなってくる。信頼出来る筋の情報は、確証(エビデンス)と同質のものだ。

単なるデータは、読み解く人の力量に左右される不確実な情報なのだ。

本を読むことで、著者のまとめた体系的な「インテリジェンス」を吸収し、大学で教授やゼミの討論により、より人間の感情に基づいた、癖のある「インテリジェンス」を仕入れる。それが教養の土台となる、上質な素養に結びつくのである。


大学時代に励まなければ、卒業して就職した後では、「素養」は身につけられない。
人生遅すぎることはないが、やはり、集中して長時間打ち込める時間がないと、ある認識、知性の結晶化みたいな作用は生まれない感じがする。
それゆえ、大学生期間(及び浪人生期間)は、人生でとりわけ貴重な「育苗期間」である
ISHKのコメント欄に来て、ネットスラングつかった批判専門の人では、もはや手遅れであろう。
批判ってのは、学なくても出来るものだし、ソクラテスが云ふよーにどんな反論でも可能である
あらゆるものに、イチャモンはつけられる、Unknown でやればアシは付かないし、いいたい放題だが、その見返りは自らの行為によって生まれ、自らが受け取ることになる。
自業自得、他者にたいしてやっていたことは、自分にたいしてやっていたことだったと気づく。
このサイクルは、妙に貫徹していて、見事に逆転するから面白い。

ー最後に、昔のサラリーマンは如何に素養があったかを証明する読み物を紹介しよー。もはや今では手に入らないだろー、図書館の奥の「閉架」スペースにはいまだ保管されていよーが、旧漢字体の文庫本から一節を紹介しよー。

昭和38年頃を境に(たぶん、正確な情報ではないが)、旧漢字体から新漢字体へと書籍の印刷も移行していったよーである。

(例)學→学、戀→恋、寶→宝、醫→医、辯・辨・瓣→弁、舊→旧、圖→図、盡→尽、點→点、體→体、禮→礼、櫻→桜 等々

参考文献は、ともに『週刊新潮』に連載されて、「洛陽の紙価を高からしめた」と云われた、剣豪小説(現在の時代小説)の白眉、『柳生武芸帳』と『眠狂四郎無頼控』より引用…… (昔の印刷植字は、現在のフォントとは多少異なる)

> 陰 流 カゲノナガレ

 唐津藩主寺澤堅高(てらざわかたたか)が自殺する六日前に、所定の刻限を俟(ま)って大廣間に姿を見せると居並ぶ者は顏色を引緊めた。堅高は三十九歳。唐津八萬石寺澤志摩守廣高の二男で、六日後に自刄すべきか否かがこれからの評定できまる。きめるのは武藝者山田浮月齋である。その浮月齋が、堅高の上座に向つて、旣に廣間の中央に端坐して靜かに瞑目している。白い髯と、銀髮が房々肩に垂れている。もう小半刻、彼はそうして靜坐した儘である。定刻前に前後して評定所に這入つて來た家臣らは、いずれも、浮月齋のそんな容姿に思わず目を伏せ、沈痛の色を泛べた。主君の運命が早や決せられたと見たのである。__ 啻(たヾ)、それなら何ういう理由でか? 浮月齋は如何なる根據を以て主君に死を迫るのか、それが知り度い。一様に言葉にこそ出さないが、主君堅高の死の如何に依つては殉死して後を追わねばならぬ。それで、上座から順次所定の席に着きながら、各自齊(ひと)しく聲を嚥(の)んで、堅高の來場を待つあいだ隣りと私語する者もなかった。中には、默つて浮月齋の横顏を熟視(示す篇の「視」)している家臣もあつた。

[※  五味康祐(示す篇の「祐」)『柳生武藝帳』上巻の冒頭より]

【五味康祐は、芥川賞作家である。チャンバラ小説の短編『喪神』で受賞した。死に直面したときの生存本能の剣といおーか、幻の「無住心剣」が念頭にあったかも知れない。純粋な剣豪小説で芥川賞を獲るほどに、文章は洗練されていた。】

 

> 雛の首

 夜ニ更(にこう)の鐘が、どこかで鳴った頃合__ 。

 裸蝋燭の焔に照らされた盆蒲團をかこんで、七八名の、いずれも一癖二癖ありげな無職(ぶしょく)者・渡り仲閒(ちゅうげん)が、巨大な影法師を、背後の剥げ壁や破れ障子に這わせて、ゆらゆらとゆらめかしていた。

 空家である。

 五つ刻からはじめられた勝負は、いまや、殺氣に似た凄じい緊迫した空氣をはらんで、いつ果てるとも思えぬ。

 花見の季節が來ていたが、夜半は、まだかなり冷える。しかし、この連中の五體は、かた肌もろ肌を脫ぐ程熱していて、それぞれの刺靑(いれずみ)をあぶらぎらせていた。

 中でも、すっぱり、褌ひとつになった壺振りの、「くりからもんもん」は、全面朱ぼかしで、ひときわ鮮やかであった。まだ二十歲を越えたばかりの、はりきった白い肌理が、一層朱色を美しく際立たせているのであった。

[※  柴田鍊三郞『眠狂四郞無賴控』(一)の冒頭より]

【柴錬と「眠狂四郎」と云えば 市川雷蔵 との2ショット。眠狂四郎は、演じる者が不幸になる縁起の悪い役と云われた。晩年の雷蔵は末期癌の耐えがたい苦痛のなかで狂四郎を演じた。転び伴天連(バテレン)と武家娘との混血児で、異相の美男子・眠狂四郎には、シバレンの心奥の闇が投影されている。中里介山『大菩薩峠』の机龍之助のニヒリズムの系譜を継ぐ作品だが、シバレンご自身も独特のダンディズムの持ち主で、お洒落で鳴らした御仁である。】

 

__ 五味康祐は、オーディオマニアでクラシック音楽、手相や占いにも造詣が深く(ご自分の死期を的中させた)、日本浪漫派の保田與重郎の弟子でヤマト言葉や古語にも堪能、おまけに漢文趣味があって、中国の故事を剣豪小説中にも処どころに散りばめていて、すこぶるゴージャスで格調高い文章との印象がある。それゆえ、五味康祐を読むときは、漢和辞典と古語辞典が手離せない。

一方の柴田錬三郎は、慶應大学支那文学科で奥野信太郎教授の薫陶をうけた中国文学者でもある。吉川英治の『三国志』の誤訳がひどいだの、田中角栄が日中国交正常化で訪中した際に詠んだ漢詩がひどい(「北京の空晴れて」と詠んだつもりが「北京空しく晴れて」の語順になっているそー)とか、テレビ番組📺で「柴錬(シバレン)」の名で鳴らしたコメンテーターでもあられたが、詩人・佐藤春夫の弟子で、最後まで純文学作家を目指した、文学魂をお持ちの御方だった。引用文は、段落替えの多い、余白をとった読みやすい文面となっているのは柴田の工夫であったろー。

柴田錬三郎の文章は、旧漢字体の本が入手できなかったので、現行の文章を旧字体に変換して引用したことをお断りしておく。

こんな硬質の文章を、当時のサラリーマンは辞書もなく読み飛ばしていたわけである。満員電車に揺られながら、週刊誌片手に吊革にぶら下がり、興奮して読んでいたかと思うと、その日常的な素養の高さに俄かに尊敬の念が湧いてくる。旧漢字体をつかっていたこともあり、そもそも漢字には現在より親しんでいたのかも知れない。四書五経の素読の文化も残っていた頃だから、大学生も戦前の「帝国大学」の伝統を継いで、かなり研鑽を積んだ学識を所有していたものと思われる。なにより、教授連中が莫大な教養をお持ちだったから、まさに「生き字引」(ウォーキング・ディクショナリー)であられた。

現在の大学生は、自分が知らないことを恥じない、それどころか、解るよーに説明出来ないそっちが頭悪い、平易な言葉で教えられる人こそが真に賢い人なのだと妙に開き直って、自分を省みることがない。

あのねー、後から生まれてきた人は先に決まっていることを覚えなけゃならんのよ(養老先生より)。覚えてから破るのはいいけど、知らないくせに横紙破りは生けませんね。

物故された勘三郎が、無着成恭のラジオを聞いて覚ったこと…… 

型が出来ているから「型破り」が出来る。型が出来てない奴が型を破ったら「型無し」って言うんだよ。

大学生には、教養の基礎つまり「型」を修得してから卒業してもらいたいねえ。そして、そのお宝を身近な処から社会に還元していただきたい。

日本を守ることは、何も軍事に限ったことではない。日本語を守ることも、日本を守ることとイコールである。日本語の乱れとかいつも喧しいが、型を踏まえた上での「新語」ならば、古い人間も納得が出来るとゆーもの。是非ご奮闘願いたい。

          _________玉の海草

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よろしく、お願い申しあげます。
2236歩
添削先生、全て当たってます♪
先生呼ばわりを嫌うことを知ってますが「添削先生」はしっくりくるなあ。良いHNだ。
“栄光は重り”は名言、まさしくそうですね

八幡宮の神主さまを卒業写真で改めて見ますと確かに当時から雰囲気があります。大台野そばと同じクラス中高一緒で親しいのだろう。浜田小のころ通学路は線路に沿って歩くのですが、昭和40年代は一面たんぼで遮るものなく八幡町まで見通せた。学校帰りには飽きることなく田んぼ脇に立って鳥海山を眺め稜線を追ったものです。

私は、BS日本・こころのうた が好きで毎週録画してます。去年喪中の対応をしている頃、再生すると心に染み込んで繰り返し聴いた歌があります。

『誕生』中島みゆき(カバー)
https://www.youtube.com/watch?v=X7xvJqlKS0c
玉の海草
コメント欄の掲載順が入れ替わっております。失礼な言及があったので、訂正して改めて投稿いたしました。ご了承願います。

懇切にお便りおそれいります。まーテキトーにお願いいたします ♪
誰もあてにしていませんし、励ましも受け取りません。
わたしは、進むべき道を誰にも相談したことがないです、Rさんにすら相談していません。
自分のライフは、自分がきめる、他人が敷いたレールには乗らないが自分律です。

ついでだから、添削先生の一端を披露いたしますね。(失礼を御免願います)
E高卒の4人の描写がわかりにくくて、何度も反復して読み返しました。
特に分かりにくかったのが……
> マネージャーの指導員はWest高卒の私の姉でした、「自分に悔しくて…」と、泣きながら仕事をしていたと。逞しいのは大火で被災した女性、室長、センター長と人事畑を歩んだ。
__ 和歌みたいに、省略が過ぎると感じました。この動詞の主体は誰なのか、パズルみたいに入り乱れています。
わたしの理解で書き換えてみますが、当たってますでしょーか?
> > そのマネージャーの娘を指導していた私の姉(West高卒)の話しでは、彼女は「自分に悔しくて…… 」と、そのことで泣きながら仕事をしていたそうです。
逞しいのは大火で被災した中学同期の女性で、その後室長〜センター長へと人事畑を順調に歩みました。
__ 文脈をごらんになって、主語まちがっていませんか?
読み手の面識がない人を説明するのですから、もう少し簡単な呼び方がいいなと思いました。

あの、甲子園ピッチャーの彼の事でしょーか。一度お見かけしたことがあります。女の子に囲まれてチヤホヤされてました。
言われてみれば、いかにも優しくナイーヴな雰囲気でした、覇気のある、自ずから発する芯の強さみたいなものは感じられなかったですね。
そんなことがおありだったんですね、初めて知りました。栄光は重りなんですね、その重さに堪えられる者しか享けてはならないのですな。

八幡宮の神主さまのことですが、かなりの霊能力(神能?)をお持ちで、そちら方面の仕事もなさっています。
いたって風流なお人柄で、おおきな蛇の目傘に、緋毛氈をしいた腰掛けなんか境内にしつらえて、お茶なんかもてなしたりなさっている事があります。まめに境内を掃除して清めてもいますね。
京の八幡市・石清水八幡宮から直接に勧請したよーなことを仰っていました。旧・八幡町の「やわた(ヤハタではない)」は、この八幡市に由来する特別な読み方なのです。市町村合併したときに、「酒田市八幡町でいいのに」と八幡の地名がなくなったことを誰よりも悔しがったのは、この神主でした。
小野小町の実父である出羽郡司・小野良実(よしざね、wikiの「小野小町」参照)のご子孫で、狩川の熊野神社に「小野塚」と呼ばれる墓碑があります。
お笑いの狩野エイコーが39代目の神主ですけど、小野家もかれこれ1200年続く名門の家系になります。民間でこんなに系図がハッキリしている家は極めて珍しいでしょう。
薩摩の島津家に、充分匹敵しますね。
この狩川の熊野神社は、タタラ製鉄の拠点で、その当時は小野家が千軒ほどあって随分と賑わっていたらしいです。小野猿女氏の家系ですね。
猿女氏は、天鈿女命の末裔なので、霊能が備わっていても不思議ではありません。
彼は、毎年伊勢神宮と石清水の本社に足繁く通っているくらいに、敬神の念あつく、なかなか面白いオーラを纏っておられます。スッと懐に入って来られますね。
地名の市条は、ほんらいは「一条」で、現在小学校の名前として遺っています。
この一条は、小野家が郡司として赴任されるときに、京の「一条」をそのまま持ってきて移したものだそーです。
由緒ある八幡様で、戦時中は官幣大社でもおかしくなかった社格があると、神主さんの鼻息も荒く(因みに大物忌神社は国幣中社です)、去年だったか、八幡神社から「八幡宮」へと社号を変えられたのです。
やはり、神威とゆーものは厳然とあるものだなと感じたのは……
荒瀬川の酒田側が八幡宮の氏子が住まう市条地域ですが、反対側にも一部氏子がいるのです。「新町」と申しまして、割とあたらしい新興住宅地だったところなのですが、橋をはさんで往来が盛んでした。
新町には、酒田米菓の創業者宅もあり、商店も7〜8軒と中学校もあり栄えていたのですが、荒瀬川を横切るその木造の橋が川の増水やらで傷んで、渡れなくなったのです。橋がボロボロだった頃は、新町の住人で橋を渡って落ちた人もいます。橋は撤去されて、50メートル位酒田寄りの幹線道路に立派な橋があるものだから再建されませんでした。
そーすると、どーでしょー、新町と八幡宮を結ぶ橋がなくなった、つまり神の動線がなくなった弊害は大きかったよーです。
年を追うごとに、新町の商店はつぶれ、街並みがさびれて、すっかり昔日の面影のない姿となってしまいました。
たった橋一本と思っていましたが、違うのですね。
ことしも、蕨岡の大物忌神社の祭礼は中止されました。三年間祭行されていません。一之宮なのに、手水舎は水が出なくて、祭りもしないとなると、いよいよ限界集落のボロが出始めます。あとは、吹浦と合併して交互にとか挙行したほうがよいかも知れません。
567は、蕨岡口の宮の勢いを完全に封鎖して仕舞ったみたいです。
穢れをきらう大物忌大神だけに、噴火の懸念も増してくるでしょー。
2236歩
全く気の緩み 油断してました
ブーメランですね。
このまま掲載いただければ幸甚です。
2236歩
ひとり語りの続きです。

私の地元生まれのイトコ十数名、ひとりひとり顔を思い浮かべてみる。一人は中卒、残りは全員高卒だ… 父方母方の祖父はともに職人、裕福とは無縁でした。
唯一、進学校East高に進学した従兄が伯父に反目しながら大学進学を目指した。南隣の県の国立大学を受験するも不合格、事前に公務員試験に合格しており上京して働きながら中央の法科に学んだ。

私の同学年でE高を卒業して就職した方の四名を知ってます。栄光の野球部エースとマネージャー、先達て立ち寄った眼鏡店、そして被災した中学同期の女性、男女それぞれ二名。
エースは地元で公務員、女子二名はそれぞれ地元の銀行へ、眼鏡店は修行の旅へと…
残念な事はエースの自死、眼鏡店の話では県からの重圧に耐えかねたと。
マネージャーの指導員はWest高卒の私の姉でした、「自分に悔しくて…」と、泣きながら仕事をしていたと。逞しいのは大火で被災した女性、室長、センター長と人事畑を歩んだ。
CommercialのC高時代 体育館で練習していると、橋を渡り焼け跡方面へランニングするE高野球部の姿が眩しかった。
今となっては、E高野球部の甲子園メンバー四名が鬼籍に入る。全員高卒のC高野球部同期 九名は、蕎麦屋を始め皆元気でいる。塞翁が馬なのか…
そういえば市条の宮司はC高の同期です。クラスは違った

向合わせの家で、生まれた時からお世話になってきた七歳上の従兄とは、今でも助けられたり助けたり。
あるとき私の勤務先に来店した弁護士先生は、E高亀城会の顧問でした。親しくさせて頂き後日、ふるさと会で従兄に紹介したのが私です。共に中央法科卒の士業で大変喜ばれた。
ちなみに私の媒酌人も中央法科卒、高校受験から失敗が続き大学もW大を二度不合格で、中央法科に合格した時の喜びをしみじみと語るものでした。
昨年秋に従兄から送られてきた亀城同窓会報 100周年記念の講演会は53回卒の日立フェロー。将来のノーベル物理学賞か? 高卒の眼鏡店が近所で親友です。W大在学中実家の商売がつぶれかけた。中退の危機を救ったのは「おしん」今や、おしんの宿
E高同窓会には出ないが、中学同窓会幹事の眼鏡店、超多忙のフェローを同窓会に誘うときのキメ言葉「いいさげ、こいちゃ!」には笑った。

青の顕れは、鳥海修験蕨岡口の宮の転生なのか…
>期待なしに、のどかに参詣されますことを祈念しております
後々、鳥海山にも霊流を繋いでくれますよーに♪

―油断なく参られませ

他人を励ますことは出来ても自分を励ますことは難しい。過去の自分のコメントが自分を励ますことが有る、と気づいた。
高卒の私の赤恥悲哀は、フラれた二人の女性が大卒だったこと。チビ部が高卒でヨカッタ。
くれぐれもお山の噴火に気をつけて、「無師成道」を、油断なく参られませ。―
玉の海草
色いろと御身に汲み取って、ご自分のことのよーに熟慮いただいた事、ありがたく御礼申します。あまり無理なさらずにお付き合い願います ♪

わたしって、ほかのひとより、ちょっとだけ早いんですよ。
虫が知らせると言いますか、霊知の一種なのか、先にその時の感情が来ることがよくあります。
おそろしい不安であったり、喪失感、光明であったりと、予め経験してしまう処があるよーです。
おそかれはやかれ、R信者は毎日の心の拠り所を失います。
彼らにとりまして、ISHKはRさんその人でしたが……
長年のISHK読者である私にとりましては、ISHKとRさんはイコールではないのです。
ウスペンスキーを例にとるのは縁起が悪いですが、Gから教わった「システム」はISHKから流出するもので、彼にとってGとISHKはイコールではなかったのです。
師匠のGが信奉しているISHKと、ウスペンスキーが信奉しているISHKに違いはありません。感得の深浅はありましょーが、おなじ真理です。
ウスペンスキーはただ、G経由でISHKに触れることを止めたのです。

わたしの生活の、中心といい根本という、もっとも「良きもの」は、ISHKによって造られています。神棚参拝と先祖供養、見えない霊的な対処は、Rさんのお伝えになったISHKに礎をおいています。
だから、片時でも、離れることは出来ないのです。私のセンサーはそれが私にとっての「正しさ」だと告げますし、私はいまの私自身が大好きです。私の個人史(自我史)上、今がもっとも私を好きだと思います。

ISHKは、私から分離・抽出できないほど混ざり合って融合していますが……
人格としてのRさんは、大恩人であることは間違いがなく、深く感謝いたしております、が…… 真理の具現(権現)ではありません。
わたしがヒンドゥーの叡智に辿り着くためには、ISHK経由である必要がありました。わたしには、それ故にISHKを否定する必要は毛頭なく、読者としてのこの十数年は実りのある輝かしい時間だったのです。

「添削先生は青い」って、シヴァ神の青いでしょ。添削先生はRさんの応答でもあります。
わたしは、真理を正しい言葉で語ってくれとは要求していないのです。
言葉にする時点で、まがいものですよ。概念をひっくり返して、意識の裂け目をつくる遣い方においてのみ、コトバは有効です。
私のRさんへの要請とは、出版界の日本語コードに引っかからない程度の常識的な文章は書いてくださいということです。
自分に利益がないからといって、売文稼業の一員には相違ないのですから、社会人としての責任があるでしょう。

未完成でよいとは、「人事を尽くして」未完成ならば、それも「自分なりの完成」であるとゆーのが私が感じるニュアンスです。
未完成や、途中が、現象界の姿であるとしても、できる限りつまり人事を尽すことが肝要かと思います。Rさんが執筆に人事を尽しているとは思えない。
言葉ってのは、先人が定めたものです。後生の吾々はまずそれに倣って従います。それが、先生(先人の意)に対する敬意であり、社会のメンバーにしてもらう条件だからです。
その点に関して、Rさんはスサノオらしく不良(自由自在)なのです、謙虚さがありません。自分の使い勝手で、コトバを使役しています。
誰も、コトバで真理を語ることなんて出来やしないのだから、せめて、おかしな日本語をつかうな、流行らせるな、それが私の突きつけたものです。

世間の情報源、トンデモ世界の予言・予想として、ISHKブログは何よりも貴重なものです。しかし、たとえ明日ISHKの更新がとまったとしても、私のISHKはお構いなく続きます。より深みを増して高らかに軽やかに味わい続けるのは確かなことです。
たぶん、ゾロアスターや日蓮の弟子との関係も、弟子が師に頼らなくなった、つまり「無師成道」の自覚にあったのではと推察します。
西郷さんの真精神の継承者、頭山満の「一人でも淋しくない人間になれ」とは、この消息をいったもので、各々の内部から光を放ての意味であったろー。
自ら掴まぬ限り、エドガー・ポーの「群衆の中の孤独」で、周りにいくら人を侍らしても淋しさは拭えない。

もうそんな時期なのかも、ISHKへの依存心は断つことができたと思う。これがお蔭さまで思わぬ僥倖であるのかも知れないと思ったりもする、知らんけどね……
2236歩
一昨日、自宅を出て勤務先近くのお茶ベンチまでの歩数が丁度2236歩、そこはかとなく嬉しい。

先日のリーマンさんのコメント目を通してましたよ。あれは時限があるなと翌朝気づき、急いでメモしておりました。手元に置いてもしょうがないので…
>・・・そんなコダワリのコメントは不要です。
添削先生は青い。
それが気になるのが、あなたの課題。
そんなアイデンティティの主張は
あなたの悲しさです、琴線であり苦労に負かされた。-

ここからは、ひとり語りです。
長い読者である私が思いますのは、文脈は別としまして「琴線」という言葉自体に、霊流に乗る14年選手(3人のうち残り1人)への励ましと情緒を感じるのです。
長年にわたる不掲載の経緯は分かりませんが、以前の「赤面」の言葉にしても、今回のコメントでも私は「叱責」「怒気」は感じなかった。
零能の私の夢想ですが… c・さん(今は観世音か?)、まる・・さん、ゼ・さん、そして最古参の真・さんを超える読者の一人、リーマン夫人も経緯を見ている。

釈迦に説法ですな。
『老子の言葉』第四十五章 “未完こそが完成して「いる」”
(感想)私も文章を書いていまして、何回見直ししましても未完成だと思ってしまいます。これで完成だと思うことがありません。読むたびに何かが欠けています。しかし老子は、これこそが本当に完成したモノの特徴だと言っています。・・・・

今回「玉ノ海」時代のコメント読み返しましたよ、スタンスは変わらず♪
私の知り合いのEast高卒の面々、
続くひとり語り、今日中に書けるのか。
ISHKノート
4月5日の記事より
「明るく前向きに想定して、頑張って生きれば大丈夫です。絶対です。」
この「絶対です」には、強い違和感を覚える。
以前の「絶対に、やらせはせん」ならば、話はわかる。自分の意志において、全身全霊で「絶対に」と個人的にいっているわけだから、感情的な表現としてあり得る。たとえ論理的におかしいとしてもだ。
しかし、「大丈夫です」に対して、「絶対です」と言っているわけだから……
つまり、「絶対に大丈夫です」と強く言っていることになる。
それは、アカンやつやろ。スピ系団体じゃないんだから。

この発言についても、不掲載にされた拙稿があるので、記載しておく。
> 生かされている上で、自分を信じる(自燈明)が一番だとここで学んで生きているので、リーマンさん(他人様)から「大丈夫」と言われても何ら安心はしないし、ましてや「絶対です」なんて言われては、神ならぬ身が言っていいことではないと反発すら覚える。
いままで、こんなことは言ったことがなかったのに。

__ ついでに、コメント欄の成りすましについて、読者より、同じ言葉遣いや文体の他人についてのコメントがあり、「成りすまし」投稿を疑っているコメントがあったので、一石投じたが不掲載であった。
> コメント被り・ハンネ被り
同じ言葉遣いや文体を持った二人、同じハンネを選ぶ二人、これすなわち二人とも平凡な思考の持ち主である証拠で、別に珍しいことではない。
何を選んでも自由なのに、平凡な人にオリジナリティはないから、他人と同じものを選んでしまう。

__ 要は、自意識過剰なのだ。自分そっくりに見えるのは、それだけ自分の言葉(語彙)を持っていない、人真似だけの文章であるとゆーこと。
それに気づかない処が、その他大勢に属する凡庸な個性である証しである。
たとえば、テレビでもネットでも「めっちゃ」が矢鱈と流行った。
猫も杓子も、マイクを向けられて口にする感想には、「めっちゃおいしい」「めっちゃつかいます」とか、北から南まで「おまえ、関西人か?」とゆーくらい、よく人口に膾炙した言葉となっている。
同じ言葉をつかって、安心したいのだろーか。月並みすぎて、つまらん。
やはり、自分を客観視できないとゆー致命的な欠点のゆえであろー。
どこでも、他人に「右倣え」の日本人、個性を亡くす方向に進みがちなお国柄、まー悪いことだけではないが…… 自分の意見をもっていないなんて、まるでロボット人間みたいな印象は拭えない。
わたしは、稲垣足穂や南方熊楠、岡本太郎やグルジェフなどに私淑した結果、「百万人といえども吾れ往かん」(孟子)の気概は、既に内心に根付いていた。
だから、ISHKのよーな何万人の多数が賛同する行き方についても、皆とともに歩んでいる意識は微塵もなくて、一人ひとり個別の読者とゆー認識なのだ。
しかし、一個の他者(Rさん)の上からの言葉に安心している、家来や下僕根性つまり奴隷根性の読者をみかけるとうんざりする。
「Rさんの大丈夫ですに勇気をもらいました」とか、人間の偶像(=アイドル)の一言に一喜一憂している体たらくには、かける言葉がない。
今回も「絶対です」に深く安心しているとコメントした人がかなりの数いた。
Rさんから、「絶対です」と云われて、その額面どおりの意味があろーか?
Rさんは、神なのですか、あるいは神の言葉を預かる「預言者」なのか……
今回の「絶対です」は、ご自分に向けての宣言ではなく、読者に向けての宣言である。
ついに、一線を越えた発言に及んだと私は見ている。
「預言者」としての発言である。

そんな過激な発言をしてまで、バランスを取らねばならない国難に見舞われるとゆー示唆なのであろーか?
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