🔴「夢をもて」なんて言い始めたのはいつから?
進学校において、成績のよい生徒は教育学部にはいかないとは、私の生の実感である。
「先生」と呼ばれる方々は、ほどほどで諦めた経験が多いと思う。
日本の教育現場は、最高の頭脳と徳性を持つ者からは避けられる処に、国策の根本的な誤りがある。教育者は、本来最高の者が担うべきなのである。
その学校教育の現場で、しきりに「夢を持て」と言われ出したのは、いつ頃のことなのであろうか?
こういう意見があります。
> 「夢を持て」と強要する、大人たちがダメすぎる
子どもの将来のために「よかれ」と思って、「夢を持て」と励まし続けた結果、子どもから言わせると「ドリーム・ハラスメント」になっていたと。
単細胞で善人づらした、ほどほどで諦めてきた凡庸な大人たちは、
杓子定規な善意から、子ども達の「ドリームサポーター」であろうとして、
かえって「ドリーム・キラー(夢の破壊者)」となっていることに気が付かない。
老子的な現実認識に欠けているからである。
北野武『新しい道徳』のなかに、こんな言及がある。
> 今の社会は、夢を持てとか、自分らしさを生かせとか、やたらとそういうことを子どもたちに強調する。
道徳の授業もそうらしい。
夢に向かって努力することが生きる喜びになる、なんて書いてある。
貧乏だった時代には、そんなこといわなかった。
「清貧」が、あの時代の道徳だったはずだ。
最近の道徳の教科書に、そんな言葉は見つからない。
清く貧しく美しくなんてのは、もう流行らないらしい。
節約とか節制なんて言葉もあまり見かけなくなった。
時代が変われば、道徳は変わるのだ。
> 夢をかなえた、ごく一握りの人にスポットライトをあてて、夢を見ろと煽る。宝くじの宣伝と同じ程度の話なのに、学校の教師までが、子どもに夢を持てなんていっている。
夢を追いかけるといえば聞こえはいいけれど、それはつまり輝ける明日のために今日を犠牲にするということだ。
夢なんてかなえなくても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。俺は心の底からそう思っている。
>どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
贅沢と幸福は別物だ。
慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
人生はそういう風にできている。
>人がほんとうに生きられるのは、今という時間しかない。
その今を、10年後だか20年後だかの明日のために使ってどうしようというんだろう。
昔はそういう人間を、地に足が着いていないといった。
夢なんかより、今を大事に生きることを教える方が先だったのだ。
まだ遊びたい盛りの子どもを塾に通わせて、受験勉強ばかりさせるから、大学に合格したとたんに何をすればいいのかわからなくなる。
…… 夢破れた凡庸な教師に、学校🏫で教えられた「夢を持て」を、そのまま何の疑いもなく子どもに教えている未熟な大人たち。
[※ 昔はよく「でもしか先生」と言われたものだ。「先生にでも成るか」「先生にしか成れない」凡庸な成績の学生さんの行く末を揶揄した言葉である。]
「地に足を着けて生きる」と「夢をもつ」を両建てで進めるのが、成熟した大人のあり方であろう。
「夢を持て」といわれて、現実を見つめずに現実逃避し始めたのは、「団塊ジュニア世代」以降ではないかな。
つまり、きわめて底の浅い人生観といえる。
大人が子どもに厳しいことを言うのは、子どもの人生に責任があるからに他ならない。
夢ばかり語っているのは、精神年齢が子どもなのである。
🔴ポジティブ一辺倒な危うさ(薄っぺらな人生観)
戦後、自分たちの権利を主張するためにリベラルに便乗した「団塊の世代」は、欲望のおもむくままに「自分探しの旅」と称して、親や大人社会に逆らうようになった。
戦前の日本を全面的に拒絶した彼らは、権威という権威を壊しまくって飽きることがなかった。
その子らが子供を持つ頃には、調子に乗って「夢をもて」だの「有意義な人生をおくれ」だの、「自分らしく個性を磨け」だの、ポジティブ一辺倒なことを口走り始めた。
そんなことを言い始める以前の日本人は、つつましくささやかな幸せを尊ぶ「清貧」が皆の共有する道徳だったのである。(たけし談)
史上、ネガティブな思想の代表が、釈尊の「諸行無常」(すべては過ぎ去る)であろうか。
人生に、生きること自体に意味はない、自分が思っているほど自分という存在は確かなものではない。
ほんと、一見、救いようのない達観ですが……
深く思いを致せば(静観すれば)……
本当にそうだとすると、「前向きに生きる」とか「自分の個性を発揮する」とか「有意義な人生をおくる」とかと、別に肩肘はって自分の課題とする必要はないということです。
「自分探し」して、「生きる意味をみつける」なんて、生きてゆく上で特に不可欠なものではない。
それは、日本の高度成長期に全世界的に流行した、リベラルの一過性の思想に過ぎないことが腑に落ちてくる。
皮肉にも、親に反抗して好き放題に日本文化を踏みにじった「団塊の世代」の子供たちが成人して就職するころには、日本は「就職氷河期」を迎えていた。
過大な夢を抱かされて、その夢に敗れた子供たちは、ニートに堕ちていった。
75歳ー50歳ー25歳、「団塊の世代」の孫世代は、祖父母からも両親からも(日本古来のものではない)厄介な思想を吹き込まれて、いまがある。
二代に渡る反面教師と、同じ屋根の下で暮らすのも結構なストレスであろう。
往って還る、登って降りる、その帰り道や下り道にも見るべきものはある。
アンチエイジングではなく、エイジング(老い)で徐々に弱ってゆくことの中にも救いがある。
遺伝子🧬レベルの生存戦略では、人間はネガティブな情報(危険性)を優先させる。
ネガティブな釈尊と表裏一体、太陽族の王子だった陽気な(ポジティブな)釈尊もいることを忘れてはなるまい。
ポジティブ一辺倒なんて、疲れるし長続きしない。
無理が通れば、道理がひっこむのである。
自然体の内に、安らぎがある。(身の丈に合った分相応の境涯)
__ 夢を持っている人も、修行に打ち込んでいる人も、将来のために今の時間を使っていることでは同等である。
🔴「修行」を美化しないこと
使い古されて、スピ系の垢がついている言葉「修行」には、
何かしら努力し続けて、報われる図式みたいなウソを感じます。
タモさんの「ジャズな人」じゃないけど……
修行者なんて、「明日の(悟りの)ために生きている人」ですよ。「今を生きている」わけではありません。
ある目的のために、全力で努力することは、目的(例えば「悟り」)に対する凝視があるわけで、それは強い執着ということです。
いわば、明日への執着のために今日という日を犠牲にしている人です。
道元のいうように、修行に果てしがないのならば、準備し続けて終わる人生もあるでしょう。
__ 最後に、人類全体が己自身にかけた呪縛というか、ポジティブに言えば「夢」。異性と一緒になって幸せになる夢を持てと無意識にけしかけられているが、そのステレオタイプに潜む、本質的な二律背反の罠。リベラルの目指した「自由恋愛」は、社会的な結婚制度の崩壊をもたらした。
男の思い描いた「理想の女」、女の思い描いた「自分だけの男」、互いの夢は決して交わることはないのに、薔薇色のカップルになろうとする悲哀。
「夢をもて」とばかりに、高望みして現実を踏まえない無邪気さは、後年深刻な心のキズを刻むこととなるだろう。
以下の拙稿は、ブログ『伊勢-白山 道』のコメント欄では、不掲載だったものだ。なにゆえに拒まれたのか、かえって興味が湧いた。
🔴人類の男女ツガイ・モデルは崩壊したのか、自由になったら結婚しない皮肉
NHK・Eテレの特集で『100分deフェミニズム』を興味深く拝見した。
お笑いの賢女バービーのMCで、出演者全員女性で、わたしの贔屓の上野千鶴子女史も出ておられた。
その筋では、名の通った論客を集めたものだった。
お一人ずつ、フェミニズムに多大な影響をもたらした著作を推薦しながら、話が進められた。
千鶴子さんのは、セジウィック『男同士の絆』であったが、男性社会における女性排除によるホモ・ソーシャルな構図(女性蔑視と同性愛嫌悪を共有する男同士の仲間意識)が、イラストで図解されると、ほんとうに分かりやすく理解された。
家父長制そのものが、女性差別だったことに思いあたると慄然とせざるを得ないものだ。
日本の旧家や、庶民でも『寺内貫太郎一家』のような昔ながらの頑固親父は「家父長制」を礎にしている。
ヨーロッパからロシア・アジアまで、貴族から一般家庭までみんなそうである。お父さんは例外なく家庭の支配者だったのである。
女優の安藤玉恵ちゃんのロックな朗読も素的でした ♪
【NHK朝ドラ『あまちゃん』にもご出演、あまりの色っぽさに仰天した、知性あふるる女優・安藤玉恵】
田中美津・水田宗子・上野千鶴子の本をかじり、男女の溝について理解が進んでくると、同時にそのどうしようもなさにお手上げするしかないようだ。
ミロクの世の到来(2039年)、半肉半霊とは、最早男女のツガイでは人類は成り立たなくなっていることを示唆してはいまいか。
女に対する、大母性に対する、あらゆる幻像が完膚なきまでに破壊される体感がある。
天照太御神が輝かなくなったと言ってよい。
釈尊のサンガ(僧のコミュニティ)に女性を引き入れた阿難尊者は、果して正しかったのだろうかと、いまでも時々アタマを過(よぎ)る。
ービートたけしの云われた、戦前の日本人が尊んだ「清貧」の美徳。
高度成長期では、大量生産・大量消費を謳っていたから、まさしく「清貧」の逆のベクトルを進んだ。それがバブル経済が崩壊して、30年にも亘ってゼロ成長時代を続けた日本国は、また揺り戻して「清貧」の現実性に立ち返るのではあるまいか。
文字通りの「清貧」とは行くまいから、今流行りのコトバで「カチヘン(価値の変化)」ということになろうか。
NO MUSIC, NO LIFE の産みの親、箭内道彦が云っておられた。
> 特技を生かすじゃなくて、短所で生きるみたいな事がカチヘン(=価値を変える)だと思っている。
…… これは、アンチ・エイジングではなく、エイジング(自然に老いる)を受け入れることにも繋がる。「価値とは欠けている何かである」と言ったのは誰だったか?(サルトル?)
堂々と朽ち果てて、没落のうちに生を全うするといった風情になろうかのう。
欠けてゆくことを豊かさに転換する、生存のスキルをこそ「老人力」というのであろう。まだまだ、愉しみは続くのである、
青春が終わったら〜 朱夏〜 そして白秋〜 最期に玄冬
それぞれに、時分の花があるというもの、螺旋状にステージは上昇してゆくみたいですね。終わったら始まる、始まったら終わるもの、何の気なしに移り変わってゆく、そーゆーものであるということで、いいんじゃない。
_________玉の海草
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