『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《玉の断章》 空海から副島蒼海〜 宇宙を象る 「書」

2021-11-29 22:27:20 | 「書」入木道

__むかし、ヴィットゲンシュタインの『反哲学的断章』が好きだった

内容はそこそこで、このタイトルが素的だと思ったので、ちょいと拝借しよーと思い、起承転結まで持ち込めない断片を 《玉の断章》 と名付けて、まとめて貼ることにした

 

 

● “ 正統なる神道家〜 副島種臣(雅号=蒼海)”

佐賀の副島種臣については、以前NHKで書家の石川九楊さんが解説した番組を面白く拝見しました

空海の神品に匹敵する書をのこした、史上唯一の書家であるとの評価でした

「カリグラフィー」の意味では堪らない書家なのでしょーが、副島蒼海の書は余技であるところに彼の真面目(しんめんもく)があると思います

書を専門に手掛ける「職業書家」では、決してないのである

外交官としては、大陸で提唱した「士大夫の道」でも注目され、政治家としても高度の教養を兼ね備える仁士として、西郷さんからも後事を託されるほどの有為な偉材でした

 

【画像=明治23年(明治天皇の恩赦の後)荘内藩によって発行された西郷さんの語録『南洲翁遺訓』の序文は、副島翁に依頼された】

 

そんな副島が、深く神道を修めた人であることを忘れてはならないと思います

本田親徳 に「鎮魂帰神法」を学び、大本教の出口王仁三郎に古神道を教えた 長沢雄楯 とは相弟子である蒼海は、本格の神道家なのです(山形県遊佐町蕨岡の大物忌神社拝殿の大額を書かれた有栖川宮熾仁親王は、王仁三郎の父御だと云われます)

[※ 薩摩藩士の子息で、「精忠組」では重く用いられた異能の親徳は、明治六年頃西郷さんの紹介で副島と会い、「帰神」による危急の見立てを伝えた、「明年早々西郷は衆に擁せられて兵を挙ぐるにつき未然に防ぐには種臣自ら赴いて説き東京に倶う外道なし。若し挙兵にいたらば災必ず汝の身に及ぶ故難を国外に避くべし」…… これにより副島は清国へ向かい、西南戦争の前後は日本に居ない]

 

本田親徳はまた、明治天皇に伯家神道を教えた 高濱清七郎 翁とは親友です

いま567感染者を激減させた「ファクターX」としてネットで注目されている今上陛下の「祝(はふり)ノ神事」とは、120年振りに挙行された伯家神道の秘事であるのです

それほどまでに古神道に精通した蒼海は、根本の意念からしてその辺の書家とは隔絶した境涯にあるのです

老子ー王羲之ー空海ー日本の入木道(青蓮院流など)へと連綿として流れる神仙道の意念は、天皇家でも脈々と受け継がれております

秋篠宮の修めた「有栖川流書道」がそれですが、副島翁は大正天皇の「書」を高く高く評価されておられるほどなので、その深淵は窺い知れません

 

まー、私しにとりまして書の道は趣味などとゆー生易しいものではなく、生き方全般につながる道標と云えるものです

伊勢白山道が、神道の書は「清」と「凜」だと喝破されていますが、高野山の両部神道、比叡山の山王一実神道、慈雲尊者の雲伝神道、現代では伊勢神宮内宮の荒木田神主の書にまで、日本古来の神道の「中空」性は観て取ることが出来ます

 

尊円親王の『入木抄』(1352年)より引用します

「古賢能書の筆のつかひ様は、いづくにも精霊有りて弱き所無し」

「能筆の手跡は生きたる物にて候。精霊魂魄の入りたる様に見(へ)候うなり」

 

‥‥ 「昔からよい書というものは、どこもかしこも生きていて、弱いところがない」とはその通りだと思います

現代書家の、白い紙に墨液を塗りたくっただけのよーな作品は果して「書」と云えるのか

王羲之伝来の「入木道」では、「大」の字ばかり、三年の間ひたすら練習させられると聞く

 

三島の龍沢寺(入木道の正統伝承者である山岡鉄舟が参禅した臨済宗の禅寺)の師家、山本玄峰老師(終戦時の鈴木貫太郎首相が参禅された)は無学であったが必死に筆字を稽古された、孫弟子の鈴木老師がその様子を書き留めておられる

 

「まず、紙を展べて筆を執る、そのとき、

・太い筆の軸の上に重い米俵を三俵ほど載せて、

・石工が、堅い石を刻むように、

・文字を石の中へ、突きさすように

して書きます。つまり禅定力をもって書くのです。丹田に気力を満たして書きこむという方法です」

[※  鈴木宗忠『玄峰老師への追憶』より]

 

‥‥ 現代書道界は、このよーな「境涯の書」を、書道技術の拙さをもって本格的にとりあげることなく、傍流の位置に追いやってきた

ジョン・レノンは、白隠の書を床の間に掛けるためだけに、わざわざ和室まで新築したんだよ、あなたがたの書にそこまでの魅力があるのかい?

とはゆーものの、NHK大河『青天を衝け』の題字みたいに、ただの素人が書いたような「書」を「境涯の書」とは言わんから 💢プンプン

 

 

● 空海さんのサイン(署名)”
[2021-05-06 01:47:26 | 玉の每水(王ヽのミ毎)]

 

大乗仏教の祖、八宗の祖とも云われ、「小釈迦」の異名で景仰される龍樹菩薩……
『華厳経』にある「菩薩の52位」で、唯一最高位の52段の悟りまで辿り着いた人間は釈尊だけで、
次席の41段目まで至ったのは、わずかに龍樹菩薩と、唯識派の無著(アサンガ)菩薩だけだと聞く


空海の密教(秘密仏教)の淵源を辿れば龍樹に行き着くし、龍樹が阿弥陀の本願を明らかにして下さったことを衷心より感謝なさっている親鸞……
この御二方は、龍樹菩薩の後継者なのです

 

さて、なにかと気になる空海さんですが……
高校時代、書道部だったにも拘らず、三筆の空海さんを素通りした私でした(到底人の手になる書とは思えなかったから、王羲之にも肌身でそー感じた)……
はて、空海さんって、どんな署名してたかしらん?
つまり「空海書」と末尾に添えて落款(ハンコ)を押すのが、書家の仕上げ方だから
でも、空海さんは時代が古いから、禅宗の「墨蹟」みたいな作品としては遺ってはいないはず
とはゆーものの、かの『風信帖』(最澄さんにあてた手紙をまとめたもの)ならば、お便りだから「空海」の署名があろー
で、見てみると……
いやあ、驚きました、あの空海さんがカッコつけているのです


「則天文字」といいますか、通常使われている書体ではなかったです
「空」の字はそのまま、「海」の字はサンズイ篇を「水」に見たて、「每+水」を縦に並べた漢字をお使いになっています
每(つねに)水、水象のイメージを大切になされたのかと存じます
[ 同じ用法として、「峰峯」「島嶋・嶌」「崎・﨑㟢・嵜」などがあります]

 

🔴 以下の4枚の貴重な画像は、『花筏(はないかだ)』と仰る、博覧強記の学術的サイトから、引用させて戴いた。(このサイトのリンクを貼っておきます、是非ご高覧いただき深掘りしていただければと存じます)

空海 | 花筏

 

【この「海」の異体字は、かの『康熙字典(こうきじてん)』にも記載されているそうです。】

 

 

【画像= 空海の『ご請来目録』を、最澄が借りて書き写したもの。巻頭と末尾に「沙門空海」の文字が見えるが、さすがの秀才・最澄も書き慣れない書体に四苦八苦している様が窺えて、そぞろに可笑しい ♪ 

空海さんって、ほんとに変わり者だったんですね。】

 

 

 

 


やはり、宗祖として世間的に目立たせる必要があったのだろーか?
20
年の留学生(るがくしょう)としての義務を自分勝手に破って、2年で帰国したものの…… 朝廷から入京のお許しが出るはずもなく、3年もの間、無駄に九州太宰府に留め置かれる
「密教の正統伝承者」(数多の中国人を差しおいて日本人の空海が指名された)として、洋々と帰朝なされた空海だったが、朝廷のお墨付きのある最澄とは、依然として置かれた立場が地位が余りにも違いすぎた
嵯峨天皇の寵愛を得るまでは、ご苦労が絶えなかった在野の巨人であったのである

 

> 書の極意は、心を万物にそそぎ、心にまかせ万物をかたどること。
正しく美しいだけでは立派な書にはならない。
心を込め、四季の景物をかたどり、字の形に万物をかたどる。
字とは、もともと人の心が万物に感動して作り出されたものなのだ。

[ 空海『性霊集』より]

 

 

‥‥ 万能の天才空海と同時代に遭遇したがゆえに、最澄さんは比べられて気の毒であったが、しかし、
例えば空海さんが唐より持ち帰った品々の「ご請来目録」(上掲の画像参照)は、長らく空海さん直筆と思われていたが‥‥
延暦寺印などが押してあることから、実は最澄さんが書き写したものが現存するものだと分かった
つまり、空海直筆と間違われるほどに、最澄さんも能筆であられるのである
端然たる静けさにおいて、空海にまさる最澄であると私は思う


秘蔵っ子の泰範(最澄の「澄」が泰澄大師から由来するよーに、泰範の「泰」も同様であろー)は、最澄を裏切って空海になびいた様に、何をやっても抜群の器量を示した、並ぶ者なき空海さんであったが……
東嶺金蘭の最澄さんのよーに、後年に次々と宗祖となるよーな人傑を比叡山ならぬ高野山で輩出することは遂に叶わなかった
空海さんが出来過ぎていただけで、墨蹟で観る限りは、最澄さんの書に匹敵するよーな鎌倉時代の宗祖はおられない


伝承の難しい密教の不安定性に対して、比叡山の開かれた顕教は防波堤とゆーか土嚢(どのう)のよーな重要な役割は担ったことと思う
この陰陽が必要不可欠だったのだと思う
東密(真言宗)と台密(天台宗)は、これまた最澄の後を継いだ、天才の慈覚大師・円仁によってバランスを取るに到った

 

「正しく美しいだけでは立派な書にはならない」
とは、いかにも山野を自由自在に駆け巡った空海さんらしい
「万物をかたどる」、象る、つまり字の形に森羅万象を映すと云われている
このあたりが、スーパーエリート最澄さんが在野の自由人空海さんにどうしても及ばない処だと思われる

            _________玉の海草

 


 日本の伝統が失われる〜 映画 『るろうに剣心 最終章』 の題字 (筆字)

2021-11-15 04:44:29 | 「書」入木道

__少しでも567の感染リスクを回避するために、映画館の大スクリーンで観るのを我慢していたが、とうとう予約していたDVDが届いた

漫画『るろうに剣心』については、実際の維新風景もこのマンガの描写に近いのではないかと研究している学者もいるやに聞く

 

【画像=映画『るろうに剣心』第一作のタイトル題字(後述)】

 

 

緋村剣心は、河上玄斎がモデルとも言われるが、「人斬り抜刀斎」のよーに有名になった暗殺者ばかりではなく、無名でも十人や二十人斬った闇の剣客はいたのではあるまいか

そんな明治の殺伐とした街並みが、随所に活写されてあって京都庶民の暮しぶりに目がいった

 

剣心が、長州藩の奇兵隊の応募に応じる情景は、壬生の狼「新撰組」のそれに似た、生々しい遣りとりがあった

佐藤健の居合、抜刀して納刀する一連の流れるよーな所作には目を奪われた

腰、間、瞬息のうちに展開する「動と静」、まるで一幅の繪のよーで、ほとほと見惚れてしまった

 

そして、長州藩おかかえ宿での食事のシーン…… 何度も繰り返し出てきて(巴が給仕をするよーになった為)、興味深かった

健くんは正座が端正である、食べる仕草まで武家らしい

 

ー新撰組の探索(志士狩り)で、その常宿に乗り込まれ、どこぞに雲隠れするしかなくなったとき、

桂小五郎から、巴は剣心に付いていって郊外の農家に隠れるよーに促されたとき…… 

巴は「お供させていただきます」と云った

これが、昨今日本国内で流行っている「〇〇させていただきます」の良き使い方の例であろー

 

「〇〇させて頂く」、つまり相手の許しを乞う形で、自分を謙譲する言い回しだが…… 

大阪の芸人は、「勉強させていただきます」とは昔からつかっていた

最近では、「感謝させていただきます」とかネットでよく目にする

勉強とか感謝とか、自分の裁量でなんとでもなるものに関して、相手に許しを乞う言い方は、何かコテコテの大阪商人を思わせる

「へりくだる」とゆーよりも、卑下している感すらある

[※  「させていただく」を詳しく深掘りしたものは、

《玉断》 畏れるべき関西文化〜 「させていただく」の是非 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

をご参照くだされ]

 

この巴(有村架純:演)の、宿であり勤め先を追い出されて、ゆくあての無い境遇であればこそ、「お供させていただきます」が相応しいのである

 

お庭番衆のよーな闇の組織をひきいる北村一輝は、終始さえなかった

殺陣も闇のラスボスとしての風格がまるで感じられず、ダレた一幕となったが、手下のトラップを仕掛けた命懸けの戦闘は忍びの者らしくてシビれた

 

冬の粉雪舞う決闘シーンは、『鬼滅の刃』の傑作な雪原シーンに優るとも劣らず、巴の紅とあいまって、幻想的な美しさと身も凍る厳寒とが同時に感じられた

この巴とゆー役は、「永遠に女性なるもの(ゲーテ)」をイメージしたと大友監督も仰っていたが、実に精神性の高い武家娘ならではの気高さが凛と張りつめて、いっそ神々しかった

 

有村架純を美女だと認識したことはなかったが、この巴は内に秘めた思いにしろ立ち居の清々しさにしろ、実に歴史に残るお姫さまキャラではあるまいか

黒くて長いおろし髪が、上品な着物姿が、こんなにも伝統的なご新造さんを感じさせる女優は現在では稀有な存在である

聞けば、有村架純は「茶道」の嗜みがあるそうだ、和服に慣れておられるような気がした(スクッと立った姿勢と立居振舞い、着物の裾捌き等に品があった ♪)

 

とはいえ、最後に決定的なイヤミ言を告げねばならないが、和綴じの日記に筆を走らせる場面があるが、あの筆字は到底いただけない(のちに弟の縁が監獄の中で読む「姉の日記」に書かれた細字は、巻頭はまあまあの出来だった)

筆力のまるで欠けたヒョロヒョロの細字は、巴の芯のあるキャラクターにはそぐわない(女性の細字で名人とされるのは、富岡鉄斎を育てた蓮月尼であろーか)

 

そして、エンドロールに流れるタイトルの筆字の「るろうに剣心」…… 

監督はじめスタッフも、あの毛筆で書いた字のあらわす意味がわからないのだろーか?

ネットで題字について調べると、ポスターデザイナーの知人の書であるらしい

味のある書体にひかれて、オファーを出したらしいのだが、小学生ころにでも何年か書をたしなんだ経験があれば、あのタイトルの書は小学校五年生くらいのレベルと分かるのではあるまいか

ネットでも、タイトルの字が下手で萎えたと言っていた人がひとりおられた

見る者が見れば、あの筆字は「幼い」、若い字だと言えよーか

 

書体から立ち昇る風趣は決して悪くはない、素直で素朴な書であると評することも出来る

だからといって、この「若気」は胡魔化せない

 

※  参考までに、毛筆で書いた 大人のカタカナ を紹介しましょう

【アニメ映画『AKIRA』(1988)のポスター題字である。お書きになった方は、侍漫画で、独特の重厚な画風を誇った、平田弘史さん。(最近、物故された)

『るろうに剣心』のヒラガナとの違いにご納得いただけるだろうか。毛筆に慣れた方の筆蹟は、かくの如く格調がある。そうなるわけは、字体のバランス、詳しくいうと「正中線」が通っているのだ。全体の配置と余白のバランスも、書道をたしなむ人は、カッチリと調和が取れている。これが大人の書く筆字である。】

 

 

酒田の南洲会館に、西郷さんの秘蔵っ子である村田新八の書がある

西南戦争にて、42才で自決なさっているので、ほぼ30代の頃の揮毫かと思われる

 

【画像=酒田の人気ブログ「Rico Room2」より引用、村田新八の真筆(南洲会館所蔵)】

 

つぎに西郷どんの練達の書(40代か?)を上げるが、見比べてみてどーだろー……    村田新八の書は素直で真面目、筆鋒は潤いがあって形も筆力もたいしたもの(私は大好きだ ♪)だが、西郷さんの幾たびか辛酸をなめた境涯から生まれた書とは到底同列には並べられないのは明らかである

 

【画像=西郷南洲書「敬天愛人」、西郷さんの本名は「隆盛」ではなく「隆永」であることを知る庄内では「南洲翁」とお呼びする】

 

 

書の綿密さにおいて、西郷さんから私学校の校長を任された篠原国幹も実に見事なもので、百戦錬磨の海軍的柔軟さと年輪を感じる(※  「西郷南洲顕彰館」に展示)

【強靭で綿密な線、端正で風流な豪傑・

篠原国幹の書】

こーした毛筆の風合いは、たとえば一年間四季折々に床の間に掛け軸にして眺めていれば、素人でも歴然とその違いが体感できるものだと云ふ

『るろうに剣心』の題字も、副島蒼海や盤珪禅師なんかの「稚気」を帯びた良さも勿論ある

 

…… が、どーしよーもなく「若い」、ある意味文明開化の明治の物語にはぴったりなのかも知れないが、日本伝統の書になじんだ者からすると、間違いなく「幼い」筆致ではあるのだ

千年以上にわたって連綿と練り上げられた筆法や技は、職人芸のよーな確かさがあって、その出来にごまかしは利かない

それを書いた本人が年若いから、「若い書」になるわけではない

たとえば、京都建仁寺の風神雷神図を書で表現なさった、新進気鋭の書家・金澤翔子女史の字は、「おさない書」とは到底言えない風格があるのだ

【画像=金澤翔子の屏風書「風神雷神」、実際に建仁寺で国宝「風神雷神図」の隣に展示された】

 

俵屋宗達の名画(国宝)に、よくも書き添えたり「風神・雷神」の書、俄かには信じられないことだが、

琳派の天才・俵屋宗達の傑作に、位負けしていないのだ

かたちにしろ余白にしろ筆力にしろ、無心にして墨気冴えて入魂の見事な書である

金澤翔子は、いまは無垢な天才である

ただ、その作品はあの母上との合作のような気がする

     【スッキリした隷書「無一物中無尽蔵」】

           【「飛龍」】

         【「言霊(ことだま)」】

 

 

ーやはり、日本の先人が連綿と受け継いで、いまに遺した伝燈(伝統)とゆーものが、厳然と存在する

昭和の時代には、たとえば選挙の投票所や入学式や卒業式での看板に書かれた筆字とか、すこぶる達筆な毛筆の書が、全国津々浦々で見られたものであった

[※  名筆・達筆については以下も併せてご覧ください]

 

「書」 でわかる〜 その人の 「悟り」 の境涯 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

__最近は、「達筆」とゆーほどの書には、とんとお目にかからなくなったテレビ画面に時々大きく映される、たとえば「防衛省」の看板の筆字…… ありゃ酷...

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いまや、政府の省庁の看板ですら、酷い筆字を基にして彫刻されている

昭和の時代は、時代劇の俳優名を書いた、オープンロールやエンドロールは、実に独創的な書体で統一して書かれていたものだった

それが、自由な書道の名のもとに、「永字八法」のよーな基礎鍛錬を積むことなく、まるでレタリングの授業のよーに「自由に」書かせる

筆法の基本が出来ていないと、たとえば岡本太郎は芸術的な筆字で「夢」とか書いているが、書道家からみれば、ちゃんちゃら可笑しい筆字であろー (お祖父さんが書家だから、その筋の才はあるんだろうけどね)

【『遊ぶ字』なんて本を出版している、この「湯♨️」はなかなか味わいがあるね。でも、岡本太郎の筆字は単なるレタリングですね、かえって横文字の「TARO」の方が滋味がある】

 

そのへんの、「分かる人」の絶対数がいなくなったのが、令和の現実である

書の道に限らず、道は極めれば万事に通じると宮本武蔵ばりにゆー気はないが、一事を修めた人はなにかしらの風格はまとう感じがする

昔のひとは、それを「ひとかどの人物」と云ったのではなかっただろーか

        _________玉の海草


  「丹田呼吸」 は、日本のおおもと

2021-09-26 02:26:39 | 「書」入木道

 

 

__『鬼滅の刃』無限列車編まで、TVで拝見した

なかでも、蝶屋敷編で繰り広げられた鬼殺隊士の訓練風景が一際おもしろかったので、「呼吸法」について語ってみたい

蝶屋敷における機能回復訓練で、同期のカナヲにまったく刃が立たないタンジローは、三つ子みたいな女の子から、全集中の呼吸に常駐すると基礎体力が格段にアップするとゆー秘訣を聞く

その呼吸法を追ってみると……

・慣れない人は少しやるだけでヘトヘトになる

・瓢箪を破裂させるほどの肺活量になる

・「肺」呼吸である

・寝ているときに行う自然な呼吸では、全集中の呼吸にならない、つまり意識的な呼吸法である

 

全集中で常中とゆー辺りは、坐禅の折の 「丹田呼吸」 に似ている

白隠禅師は、坐禅で「全集中」しすぎて、いわゆる「禅病(自律神経失調症のヒドイ症状)」に成ってしまったほどに傾注した

そんな白隠さんの太鼓腹は、「篠(しの)つく鞠(まり)のごとく」と云われ、すべすべの肌にまん丸く張り出した布袋さんのよーな見事な腹が出来ていた

仏道の祖・釈尊も、呼吸の鍛錬は極限まで実行なさっていて…… 

悟りに到る前の 猛烈修業中のシッダールタ(釈尊)は、例えば呼吸法を駆使するヨーガ(瑜加)では、止息から断息に移行して、体内気圧の昂まりから耳の鼓膜が破れるに至るまで 徹底して行じている

[※  村木弘昌 『大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法』 柏樹社・参照]

 

禅の呼吸法は、天台宗の「摩訶止観」と同様に、初めは「数息観(すそくかん)といい、「一、ニ、三〜」と数を数えることに集中して行う

釈尊に倣い、呼主吸従で「呼気(息を吐く)」のときに数を数える、細く長く吐き切るまで行えば、吸気は自然に入ってくるに任せる

科学的に言えば、呼気は副交感神経を促しリラックスして脱力した状態を導く

例えば、柔軟体操で筋を伸ばすときは、息を吐きながら(呼気で)おこなうとやりやすい

 

剣道で「隙あり」と打ち込むのは、吸気に変わるタイミングである、息を吸うときは身体が心持ち硬直するからである

だから、長く吐いて短く吸う、大本教・出口王仁三郎の「息長(おきなが)の呼吸(古神道の呼吸法)も同じ消息である

長く吐くためには、横隔膜 をつかって大きく空気を吸い込み腹圧をかけなければならない

横隔膜は神経叢を司る臓器でもあるので、精神の安定に寄与する面がある

 

空海さんは、「阿字観」のときには、舌を上顎につけて、鼻呼吸して肛門を締めておられた

秘訣はここにある

禅者は、川で溺れて意識を失っても、坐禅の功用で肛門が閉まっているため、たやすく仮死状態となり、溺死しないものだと聞く

「常中」、つまり 常に(無意識に)お腹が膨らんで肛門を締めた状態 をキープしているのである

 

そこで、タンジローの呼吸法だが、長い呼気は坐禅の呼吸と同じものだと思う、体力も気力も充実する

しかし、彼はこれを「肺」で行なうのである

伊勢白山道の腹式呼吸でもそーだが、安定した大容量で爆発呼吸できるのは、「腹式」の呼吸である

 

天成の歌い手MISIAの超ロングトーンは、誰にも真似できない素晴らしいものだが、彼女の肺活量は普通以下のレベルだそーだ

空間に音を振るわせる技術があると彼女は云っておられたが、肺の使い方にも奥が深いものがありそーだ

歌い手ならば、「肺」呼吸は重要事だが、こと身体能力が要求される競技や芸においては、ほとんど「腹式呼吸」である

瓢箪を破壊する爆発呼吸も、中国武術は勿論のこと、空手にも「息吹(いぶき)があるが、よく鍛練された腹式呼吸である

 

全集中の呼吸は、肺で行なっても腹で行なっても、その事自体危険なんじゃないかな

人は意識して深呼吸を行う場合、わずか5分ですら継続して出来ないものだと云ふ

そーした 「意識した不自然な呼吸」 は、もしクソ真面目に継続して行なうと極めて危険である

 

吸入する平均酸素量の数値を不自然に上げることは、深刻な自律神経障害を引き起こす

 

白隠さんの「禅病」がそのいい例であり、西洋医学では修復できない重い病いを患うことになる

白隠さんは、おそらく道教由来の白幽老人から伝授された「内観法」とか「軟酥鴨卵の法」の意念をつかったイメージトレーニングみたいな方法でかろうじて復活した

 

結論すれば、「全集中の呼吸」などと、子どもが真似して無理な酸素吸入量の呼吸をつづけるのは危険だとゆーこと

一般に「腹()が据わる」と云われるよーに、確かに禅の「丹田呼吸」は、心の安定にも作用して耐久性も上がるのは私も実感している(独習で坐禅をしていた経験から)、まず驚いて飛び跳ねることは無くなる、メンタルに耐性がついてヘコタレなくなる

しかし、大東流合気柔術の佐川幸義宗範が云われていたよーに、不自然な呼吸法は即座の用には立たない

佐川師は、たとえ宮本武蔵が生き返ったとしても佐川師には敵うまいと云われる程の超一流の達人だけに、若い頃から強くなるためにあらゆる呼吸法を試された挙げ句のご発言だけに、傾聴に値する重みがあると私は信ずる

呼吸法に頼るのは、やはり弱さの現れなのだと思う

 

『鬼滅の刃』は、登場人物が味わい深い漢字のお名前だし(「煉獄」なんてダンテの『神曲』以来、確かキリスト教の用語だ)、大正ロマン漂う風情も好きだ

炭治郎の実家のある山奥の、雪山や深山の森の描写が見事だった、ホワイト・アウトを巻き起こす横殴りの吹雪の恐怖に、雪の懇々と降り駸々と積もる風景、無音の雪山の不気味さが画面から立ち昇って観えた

下弦の十二鬼月が集合させられた、あの、エッシャーの騙し絵みたいな日本家屋の奥行きある空間なぞも、実に見応えがあった

まだ年若い女性作者に、時代劇の詳細な考証を求める気もないのだが……

漫画本ではヒジは張って刀を抜いたり(刀は腰を回して抜くもので腕で抜くのは下手)、鯉口に添える指の位置が可笑しいとか YouTube で取り上げられてもいて、興味深く拝見した

 

『子連れ狼』の小池一夫は、居合の名手で、若山富三郎と勝新太郎のご兄弟と三人で技を競って一番上手かったと聞く

だから、名匠・小島剛夕えがく処の、裏柳生の総帥・柳生烈堂は腰の据わった達人の佇まいであったのである

『子連れ狼』は、本来弱い足手纏いになる子ども(大五郎)を連れて、冥府魔道の決死行を貫く処に、判官びいきの世俗の妙味があり、大人にならないと分からない深みがある

『鬼滅の刃』も同様に、守るべき妹のネヅコを背負って歩くが(ウルトラセブンみたいに小さくもなれる処が面白い)、鬼の血が入ったネヅコは弱いどころか、ときどき兄のタンジローを助けたりする処が、なんともいままでにない新展開である

 

また、日本では長らく鬼や異形・幽霊は退治されるものであったが、鬼の中に愛すべきものを見いだす辺りは、上田秋成『雨月物語〜浅茅が宿』以来の怪異小説の伝統を継ぐ漫画でもある

[ 荒俣宏御大によると……    美貌の妻をおいて京に商いに出向いた夫が、関東の戦乱のために帰れず七年後にやっと帰宅した吾が家に、やつれた妻が幽霊となって喜んで出迎えてくれた、夫は翌朝その真実を知り、切々と妻を懐かしみ偲んだ「浅茅が宿」の怪談話……   この話によって、退治するべき異形(異界の霊、鬼神)が、初めて愛すべき心を寄せる対象となったのだと云ふ]

 

ー 『鬼滅の刃』に「丹田」とゆー言葉は出てこないが、長らく失われた日本文化を復権させた物語となったことは、高く評価されてしかるべきだと思う

第二次世界大戦の戦中に、大日本帝国の軍人をはじめとして、神国・日本の伝統の根幹である「丹田文化」が大々的に一般庶民にまで浸透していた

終戦を迎え、厚木基地に降り立ったマッカーサー元帥が、いの一番に着手したのは……

伊勢志摩の大空襲で伊勢神宮に落とされた爆弾がことごとく不発弾となり、一発も爆発していなかったとゆー報告の詳細な現地調査と、日本精神を型作る「武士道文化」の解体であったと云ふ

豊臣秀吉の「刀狩」さながらに、GHQによる「廃刀令」の徹底的な履行や剣道をはじめとする武道の禁止などによって、戦時中にもてはやされた「丹田文化」はすっかり忘れられてしまった

武道に限らず、能狂言や歌舞伎においても、「丹田呼吸」は必須の修得科目だったわけである

戦時中は、「武専」と呼ばれる武道専門学校まであったのが、戦後は軍部への反動からか、武道及び武士道文化はいっさい顧みられなくなってしまった

戦時中は、文武両道はあたりまえの教養だったのである

 

その象徴的な傑物として、病弱に生まれた吾が身を鍛えに鍛えて、数々の偉大な成果を結実させながらも、未来をも予知できる境涯を獲得して、日本国と人類全体の未来を憂えるあまり49日間にわたる断水断食の果てに、72歳で自死なさった 肥田春充(1883〜1956) がいる

いわゆる「肥田式強健術」の創始者である

「丹田」を科学的なアプローチで自分なりに詳細に解明して、「正中心」として定めた

驚くべき結実をあげたのは、何も運動能力だけではない、その悟境は曹洞禅の飯田欓隠(とういん)老師からも「見性」を承認され、暗記や暗算などの学習能力にまで及び、並外れた神秘的といってもいい程の能力を発揮した

創始者肥田春充ほどに「聖中心」を完成させた者が、後進の弟子には現れなかったものだから、いまは完全に忘れ去られている

わたしには彼の鑑定は出来ないが、とてつもない人物であるのは、その書に明らかである

この画像を説明すると…… 毛筆で書いた墨蹟である

場所は、肥田春充の家の廊下で、巾は180cmで長さは9mほどある、「中心○」と揮毫されている

「中」の字の縦軸が長〜く、なんと6mにも及ぶ

巻き物用の条幅紙に、立って一気に書いたものだろーが、何よりもその金剛力士のよーな筆力に畏れ入る

芯の通った、生きた線を6mも引き伸ばすなど、到底人間業とは思えない、前代未聞の入神の技である

この長い「棒」は、白隠の禅定力あふれる「棒」をも凌ぐものであろー

凄んごい日本人がいたものだ ♪

わたしたちは自らの内に潜む、日本人のDNAを誇っていいのかも知れない

         _________玉の海草

 

 

 


  「書」 でわかる 「悟り」 の境涯〜 墨蹟を観る心の眼

2021-08-15 02:52:05 | 「書」入木道

__最近は、「達筆」とゆーほどの書には、とんとお目にかからなくなった

テレビ画面に時々大きく映される、たとえば「防衛省」の看板の筆字…… ありゃ酷い、素人の小学生レベルかと存ずる

 

書道の手習が大人の嗜みであった時代は、少なくとも水準以下の自分の書を世間に出さないだけの慎みがあったものだ

筆字は、書くひとの修練とスキルが如実にあらわれる伝統芸術であろー、看板に書くのは一際難しい

もっとも、現代書家と呼ばれる輩も、ただ珍しい形(ロゴ・デザイン)や筆致(人工的なカスレや染みの濃淡等)を求めるあまり、古典における品格もなく、迫力にも濃やかさにも欠ける

 

いわゆる「自由な書(❓)」がもてはやされる風潮に便乗したよーな基礎鍛錬の出来ていない書家が多いよーに感じる

昔の、たとえば昭和の時代のテレビ時代劇では、独特の書体(オリジナルの書体)を持った達人が、出演キャストの人名クレジットを書いておられた、実に味のある書体で統一されたエンドロールやオープニングロールは見事なものであった

 

いまはNHK大河のタイトルであっても、感心しない変な字体(レタリング)と筆遣いの書が目白押しである(特に若手がイビツな字形に走りやすい)

かえって、『真田丸』のよーに、左官職人が一気呵成にモノしたコテの書の方が、自然な風韻を湛えて心地よい

 

 

__ ちょっと「書道」の始源に遡ってみたい

書家の誰もが「書聖」と崇める人物といったら…… 

中国の東晋王朝の名門で、老子と同じく高級官僚だった

王羲之(おうぎし、303〜361)であろー

王羲之から連綿と地下水脈のごとく伝承され、はるばる大陸を訪れた 

空海(774-835) の御手に大切に手渡され、

伝わるべき人に正しく伝授された中華文明の御宝以上のモノ…… 

王羲之…… 智永和尚…… 唐の虞世南・褚遂良・欧陽詢・顔真卿……

陸彦遠…… 張旭・徐浩・徐◯(王+寿)…… 韓方明…… 空海…… (嵯峨天皇・淳和天皇)

それが、今では書道と呼ばれている『入木道(じゅぼくどう)であった

[※  但し、福島県の『うつくしま電子事典』によると、

入木道とは東漢の学者・蔡邕(さいよう)の霊地で、仙人より伝えられた書法が始まりだといいます。

 

この呼び名は、王羲之が墨で字を書いた祝版(神祭りの祭文を書く板)を、工人が削ってみると、なんと墨が三分(約9mm)も木の内側に染みこんでいたとゆー王羲之の筆力の強さを物語る「入木三分」の故事に由来するものである

 

尊円親王が著した『入木抄』(1352年)より

「古賢能書の筆のつかひ様は、いづくにも精霊有りて弱き所無し」

訳;昔からよい書というものは、どこもかしこも生きていて、弱いところがない

 

‥‥ この『入木抄』を解釈した書である、

橘行精『入木抄釈義』の巻末には、入木道相承の系統図が示されている

その中で、特に丸印を付けられた人物が五人いる

・空海〜

・藤原行成〜 (この御仁の和様には惚れ惚れする)

・持明院基規〜

・青蓮院宮尊円法親王〜 (新陰流の剣豪・丸目蔵人は「青蓮院流」の能筆だった)

・清水谷一流祖集材〜

 

この流れを汲み、入木道五十三世を継いだのが、無刀流開祖・山岡鉄舟である

『鉄舟偶語』の中から、自身の筆法を述べた条りを引用すると

>唐・韓方明より釈僧・空海入唐して直伝を受たる十二執筆の法なり、

幼年の頃、古伝統五十二世飛騨国人・岩佐一亭に従ひ学ひたれとも、書は尤拙し、然れとも数年かきなれたる処ありて、

【 天地萬物 悉く皆 一筆に帰する 】 

処を発明す、

故に終日幾万字を書すれとも、曽て労せす、倦さるあり、

…… 師の一亭は、若き鉄舟(当時は、橘氏系の小野高歩.後に山岡家養子)に以下を授ける

「大師伝来十二点」

「永字八法」

「永字七十二点」

「変体附法(八分書点画、草行楷点画)

「篆書法(別梵字之書法)

 

鉄舟は、王羲之の『十七帖』を特に尊んだと伝え聞くが、習い始めは「一」の字ばかりを三年只管(ひたすら)書き続けたとか…… 

 

真摯な神道家でもあった、明治の政治家にして能書の副島種臣(蒼海)に似たよーな習字法がある

全心の書 】 とは、副島が習字をしていた使用人に次のように語った逸話に基づく。

「まず全心をこめ、これより遅くは書けないというくらい遅く最初の線を書く。

その後も気をこめて出来るだけ遅く書く。

構成や間隔は考えるな。

そうやって修業を積めば、曲がっても筋の通った書になる。」

 

‥‥ 山岡鉄舟は、書・禅・剣の三位一如であったから、

鬼鉄・ボロ鉄と称された剣のモーレツ修行よろしく、毛筆の修行も参禅と並行して徹底して行なった

 

その正統が、谷中の全生庵(安倍元総理も坐禅に通った)で、「筆禅道」とゆー形で伝承されている

 

惜しまれてならないが、物故なされた寺山旦中居士がやっていらした「筆禅道(横山天啓翁の命名)」の修行道場があった……    寺山さんは、酒田の南洲神社にも西郷さんの真筆を御覧になるためにお越しになったことがある

【左の和服姿の人物が、書仙と称された横山天啓(雪堂)翁。右の人物は、水平社の行者・栗須七郎。

山形県生まれの横山は、福島県生まれの龍禅子・張堂寂俊(入木道正統四十六世)に師事した。

背景の「神人不ニ」の墨蹟は横山の一行書、なんとも大らかにして凄まじい】

 

【明治40年に、比叡山の北泉藻誉上人から「入木道」の口秘を伝授された張堂寂俊老師。山岡鉄舟が伝承した入木道とは異なる系譜につらなるが、入木道の正統伝承者。一子相伝ではないからね、色々な連枝がある。

「心を水の如くせよ。心を無心に岬を去る雲の如くせよ。然らば書は自ら自在なり」(龍禅子🐉)

【龍禅子・大龍と号した張堂寂俊の自由自在な書】

 

 

【寺山旦中居士による、「入木道」の「無字棒(一本線)」の練習。入木道では、横一文字(横棒)ばかりを三年練習しつづけるが、寺山の筆禅会では、対角線の一の字を書き続ける】

【寺山旦中、「心外無法」「天下第一峰 富士山🗻」の書画作品】

 

 

 

墨気(ぼっき)の冴えとか、筆運びにあらわれる禅機とか、通常の習字法の観方とはまったく違った観点から発される、寺山さんの「書」評は独創的なもので、古人の達人ぶりを今に伝えている

> この書(最澄『久隔帖』)を見て

第一に気付くのは、清澄極まりない墨気と、格調の高いその風姿である。スッキリとしていて、隅々まで心がゆきとどいている。筆端が活きていて、一点のスキもないのである。少し単調だと言えば言えないこともないが、そこがてらうところの微塵もないところで、基礎に最も適すると思うのである。わずかでも気どりや、はったりのあるものでは、基礎には不適当である。

清い風韻は古今随一で、品格の高いその風姿は、「集字聖教序」にそっくりである。最澄が「集字聖教序」を習ったことは、この書風や、奈良時代の手習が羲之の書を尊重したことなどからして、まずまちがいない。「集字聖教序」の肉筆が、もし現存したら、恐らくこのような線質を有するものと思えるのである。

たいていは、こういう品格の高いものは、初心者には無理だから、もっと容易なものをやれというが、初心者こそこういった癖のないものをやるべきなのである。学び易いからといって癖のあるものをやると、一度ついた癖を除くのは大へんだからである

[※  寺中旦中『筆禅道』参学名品より]

 

宮本武蔵『五輪の書』に云ふ、「観の目つよく、見の目よわく云々」とゆー消息でありましょー

ちなみに鉄舟も、書を習う初学者から、最初のお手本は何にすべきかと訊かれて、「まよわず第一等のものに参じなさい」と王羲之を薦めたと聞く

 

ここで、鉄舟を深く崇敬して「高歩院」(「高歩」は鉄舟の名より)を建立なすった大森曹玄老師にご登場していただこー

大森師は、かの天覧兜割りの剣客・榊原鍵吉の後継者・山田次朗吉から、直心影流を学び、その正統を継ぎ…… 

禅は、天龍寺の関精拙・関牧翁両師から(滴水下の)臨済禅の印可をうけている

花園大学の学長もつとめられた大森師であったが、『剣と禅』『書と禅』とゆーシンプルなタイトルの名著もモノしておられる

特に『書と禅』(春秋社刊、1973)のなかで、禅匠の書(墨蹟)が一風変わった特徴を持つことを、割と科学的アプローチでもって証明なさっている

禅僧の墨蹟は、「境涯の書」と呼ばれ、現代書道では傍流あつかいでまったく芸術的に評価されていないが…… 

よく出来た 墨蹟の墨字を、電子顕微鏡で約3〜5万倍に拡大して見ると、その粒子が規則正しく整列してあることを突き止めた

なんの力によるものか、実際に大森師の書籍にはその電子顕微鏡の写真が掲載されてある

禅僧の禅定力が、分子配列に影響を及ぼすとゆーことになる

実例として、山岡鉄舟は49歳で大悟徹底されたが、それを期に書風が一変されている、悟る前と後とでは素人がみても違いがハッキリと判る

 

ここで、寺山旦中/角井博『墨跡の鑑賞基礎知識』(至文堂刊、2000)より、寺山居士の観る処にも耳を傾けてみよー

> (鉄舟の真筆と贋筆の電子顕微鏡写真を見較べて)これを観ると、本物の方は墨汁の粒子が生きた立体的構造のように感じられるが、偽物の方は雑でバラバラに感じられないだろうか。

> ‥‥ 書の墨は、炭素という極めて鋭敏な物質が主成分ゆえ、作者の人体エネルギー(これをといってもよい)の程度により、墨汁の粒子が活性化されると思われるからである。

その人体エネルギーの強弱、清濁、精粗によって、炭素粒子が微妙に反応し、墨気に迫力・清澄・明朗・深厚・幽玄・高雅・尊厳・温潤・崇高等の美観を呈するのであろう。

ゆえに書は、三千年来他の物質に代ることなく墨を使用し、しかもそれが古いほどいいなどと言っているのである。古い方がニカワが枯れて、炭素が純化する為であろう。

最近は墨磨り機なるものまで開発されたが、やはり人間の手で磨る方がよいというのは、これ又人体エネルギーに係わる問題だ。そんなことが今日、次第に科学的にも解明されつつある。

[※ 『人体科学』第3巻第一号、平成六年五月、「書のサーモグラフィによる一評価」町好雄参照]

 

‥‥ その良き墨蹟とゆーものは、素人の眼でも長い間眺めていると自然に感じるものらしい

たとえば床の間に掛け軸を吊るして、一年も眺めていれば、その妙味がはっきりと分かる、飽きないのだ

汲めども尽きない魅力を肌で感じるといったらよいか、例えば白隠の「棒」や「南無地獄大菩薩」などの禅機に溢れたドギツイ書は、床の間に掛けると「息が詰まる」ほどの圧力を感じて、普通の人は掛け続けられないものだと聞く

白隠の禅画は、ジョン・レノンも自宅の和室(「白隠」を迎えるために特別拵えした部屋)に掛けて、「イマジン」などの名曲のインスピレーションとなったとは有名な話だ

ある日曜日、湯島の店を任せていた娘が自宅に走ってきたという。

店にジョン・レノンとオノ・ヨーコが来て、浮世絵を見たいといっているという。

もちろん、木村はレノンの何たるかは知らない。程度の悪い北斎でも見せる積りで自宅に招くと、入り口の床の白隠の達磨図を見て動かない。

売って欲しいという。値を云うとかまわない。

二階に通すと、曾我蕭白を見て、また欲しい。ついでに仙崖も。そして芭蕉の短冊をどうしても譲れという。

俳句なんか分からないだろうといってもきかない。

負けて譲ると、ロンドンに帰ったら、この軸のために日本家屋を建てて、これを架けるから、御願いだから悲しまないでくれ、とジョン・レノンは木村東介をかきくどいたという。

こうなれば、下手な日本人に売るよりよい。

レノンに頼まれて、別の店に連れていく途中、時間があわないというので、歌舞伎座に寄ることにした。

演目は、歌右衛門と勘三郎の隅田川。もっと派手なものがよかったのに、と思っていると、ジョン・レノンは滂沱の涙を流している。

東介は、レノンを歌右衛門の楽屋にともなって紹介した。

「英国のビートルズの首領、ジョン・レノンが来て、貴方の隅田川の演技を見て感極まり、是非紹介してくれというので連れて来ました。一目会ってやって下さい」(「ジョン・レノンと歌右衛門」『不忍界隈』)

この時、購入した白隠の『遠羅天釜(おらてがま)』の直接的な影響のもとに作られたのが、名曲『イマジン』である。

[※  福田和也『日本国怪物列伝』〜木村東介〜「ジョン・レノンの涙」より]

人物紹介;木村東介(19011992山形県米沢市生れの美術商、東京湯島の「羽黒洞」店主、ジョン・レノン夫妻の来店は1971年の出来事。

 

禅定力のある高僧の墨蹟には、それだけの力が潜んでいる

この消息は、仏像も古いものほどシンプルで神品であるし、刀剣も古いものほど神韻縹渺たる佇まいを纏うものらしい

古人は純粋な志しをもち、入神の技を無心で発揮するからであろー

書の名品は、茶道でも珍重されるが、「侘び茶」の嚆矢たる

村田珠光は、臨済禅の一休さんの下に参禅なされて印可の証として、墨蹟『流れ圜悟(えんご)』を譲り受けた直弟子である

茶の湯の千家では、大徳寺(一休さんの寺)で参禅修行するのが通例であるよーだ

 

圜悟克勤(1063〜1135)は、禅宗五祖法演の法嗣で公案集『碧巖録』を著した中国宋代臨済宗の傑物である

茶の道では、曰く付きの『流れ圜悟』『破れ虚堂』(虚堂和尚の墨蹟)は、茶掛けの掛軸の双璧である

ほかにも禅僧の墨蹟で重宝されるのは、大燈国師や白隠(ともに毒々しいまでの太字)、良寛や蓮月尼(ともに細字の高手)、

一休宗純や慈雲飲光も異彩を放っている

現代では梅林僧堂の三生軒や香夢室、山本玄峰や足利紫山、加藤耕山などの叩き上げの老師方が居られる

 

【さすがはご皇胤と云われる一休宗純。「諸悪莫作 衆善奉行」の造形・筆捌きともに凄まじい禅機にあふれている。この奔放すぎる筆致は習った字ではないだろうと見られている。】

 

【慈雲尊者とうやまわれる、別格の仏教者。「不識」「南無仏」、破格の書であり、一目で慈雲飲光と判別できるオリジナリティあふるる書風】

 

【白隠の、大迫力の「南無地獄大菩薩」「棒」】

 

【梅林僧堂の護法鬼、三生軒の豪放な書

東海猷禅玄達老師(三生軒) Yuzen Gentatsu(1841〜1917)

【三生軒から嗣法した香夢室の、綿密な書】

 

【私の禅は、この山本玄峰老師に始まる。「玄峰塔」は絶筆である。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ」の詔勅の一節は、鈴木貫太郎(総理)閣下が玄峰老師の言葉を忍び込ませたものらしい。幼い頃から苦労の人であった。】

 

意外にも、鈴木大拙や西田幾多郎 も良い墨蹟を書いたらしい、学者ながらきちんと本格の参禅をなさっているからね

 

 

墨蹟とは、一般に禅の書なのだが…… 

墨蹟の最高峰となると、文句なしに真言宗の空海さんなのだ

道元さんも日蓮さんも、素晴らしい風格の逸品なのだが、「三筆」の空海さんと較べることは敵うまい、ひとり最澄さんの静かで謙虚な書風のみが匹敵するくらいであろーか

空海の書は、現代書道家からも最高評価をうけている、いわばオールマイティーな、無敵の能筆なのである(空海は、顔法=顔真卿・ガンシンケイ=顔儒に所属する顔回の子孫、も大好きで取り入れている♪)

伊勢白山道のリーディングでは、書聖王羲之は老子の転生因子を持ち、空海はその王羲之の転生因子をもつ

[※ たしか王羲之『十七帖』の中に、丹薬(仙人になる薬、水銀か?)を常用していたとの記述がある、ご長男には、王玄之と名付けておられる

道教の煉丹術は唐の時代にも大流行していて、第十二代皇帝・憲宗は、丹薬の副作用で命を落としている

一方、空海も「丹生(にふ)=水銀」とは極めて縁が深い、高野山結界七里の霊域は、すべて巨大な水銀鉱床の上にある、お大師さんの晩年の皮膚病は、鉱毒(水銀中毒)によるもので、病死されたと診る向きもある

因みに、空海開山と伝わる、出羽三山奥の院の湯殿山も水銀鉱床の上にあり、かの「即身仏」のミイラ信仰は湯殿山独特のものである]

若き日の私は、王羲之の真筆がもはや存在していない(唐の太宗皇帝が亡くなるときに、愛蔵の真筆を自らの柩の中に入れさせた為)ことを、心から儚んだものだったが…… 

上野の国立博物館で、空海の書に対峙したときに、まちがいなく王羲之の風韻を身体全体で感じて震えた

「入木道」は、空海さんを通して漏れなくまるごと日の本に伝えられたのである

 

入木の伝承者、唐の虞世南の楷書を、槍の名人・高橋泥舟が裂帛の気合をこめて臨書したものが、王法の楷書の臨書手本として最高峰のものらしい。

【非の打ち所がない、泥舟の楷書】

【江戸っ子の代表的人物、高橋泥舟の枯淡で風流な筆遣い】

 

あの、枯れ枝が這うよーな、独特の筆遣いをみせる泥舟が古式に則り一点一画揺るがせにせずに筆を振るった楷書は、すこぶる王道にかなった神品であった

王羲之の精神といおーか、スピリットが老荘の道教の深奥と同源だとすれば、それが書にあらわれても不思議ではない

新約聖書にキリストが砂浜に字を書いた記述があり、キリストの墨蹟も見てみたいと切に思う

やはり、そのひとならではの屹立した境涯が反映された書になることだろー

陶芸の加藤唐九郎や、板画の棟方志功、右翼の頭山満翁(慈雲尊者と似ている)や八極拳の劉雲樵(中国人)などもよい

 

【棟方志功の堂々たる書、「乾坤一掃」】

 

【頭山満「敬神」】

【西郷南洲の遺志を継ぐ志士、立雲☁️・頭山満翁の破格の書、「敬天愛人」】

 

【八極拳の神槍・李書文の最後の弟子・劉雲樵老師の、あまりにも達筆な書】

 

一休さんの純粋無雑な「一」の字は、さすがは天皇のご落胤と思わせる風韻があるにしても、またいくら白隠の如く波瀾万丈すぎる境涯をおくったとしても……  「境涯の書」とゆー意味では、到底弘法大師・空海には遠く及ばない

つまる処、人間が手の延長で筆をつかい、自らを露わにしたものが、書画とゆーことになろーか

中国の修行者で溢れる一山の禅道場で、何千人もの僧を束ねる長者を選ぶのに、目の前を歩かせてみて決めたとゆー逸話が遺っている

その宗教が宇宙の真理につながったものであるならば、その宗教にもとづいた身体の動かし方が存在するのは最もだと感ずる

ならば、その手の筆遣いが宇宙の真理を体現することもありそーにも思える

不思議なことに、墨とゆー液体はその波動に反応するといえるのかも知れない

書道は、かたちに囚われなければ、存外に奥深いものである、面白い手遊びであることは確かである

手遊びとはいうものの、天地人照応させて行なう全身全霊運動であることは確かである。

生涯をかけて磨くに足るものであろう。

ゆめゆめ手の先だけの「書」とならないように。

         _________ 玉の海草