『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《玉断》 「フェミニズム」ってのは、 時に、 男まで解放しちゃう

2022-10-13 01:09:03 | 女という夢

 

__ 日本では、インテリ女は嫌われる風潮があるようだ。誰が言ったのか、「頭のイイ女はほとんどの男から嫌われるが、賢い女はすべての男から愛される」とか言う諺めいたフレーズを何度となく読んだことがある。

今回とりあげる女性フェミニストたちは、すこぶる付きの頭脳をもった、いわば女傑であるが、フィジカルな強さとはまた違った種類の勁さであろう。ここまで頭が冴えていると、景仰したくなるが、彼女らの数はそう多くない。

※ フェミニズム = 女性解放思想

 

似而非インテリは、完膚なきまでに叩かれるのを私もみてきているから、中途半端なインテリもどきの屁理屈女子には、ネットでも時々遭遇するし、辟易もしているのだが…… ここに挙げた彼女たちほどの知性は、性別の垣根を越える。つまり、頭のよい男性に匹敵する、あるいはそれ以上の知性が感じられる。論理性や空間認識において、ハンディがある女性脳を持っていて尚、これだけの論考を構築したことに満腔の敬意を表するものである。

 

●「未熟な女性コメンテーター」

(女性解放)運動をする中で、大学を経た女性に接し、大学に行くことにより

男と同じ言葉や理論で思考・行動することで、男並みになろうとする方向に行ってしまいやすいこと、

結果として女としての言葉を取り戻すのにかえって苦労している……

[※  wiki「田中美津」より引用]

 

…… 1970年に日本で初めて女性解放街頭デモを挙行した、日本のウーマンリブのカリスマと言われた 田中美津女史 のご意見である。(彼女自身は、ご自分の意志で大学に行かなかった)

男女平等論者や女性解放運動の闘士は、何か男まさりの短髪でストイックな独身インテリ女性の印象がつよいが(市川房枝、土井たか子、上野千鶴子等)……

彼女みたいに、柔らかく地に足のついた現実的な運動を展開した女性オピニオン・リーダーが、この日本から輩出されたことが嬉しい。

くれぐれも、理屈でかためた、人生経験も未熟な独身インテリ女性に、全女性を代表させるかのように代弁させてはいけません。(テレビのコメンテーターに多い)

彼女たちは、頭は良くても、女の一生のうち半分も知らないのですから。

 

● 思想家・上野千鶴子

NHK『京都人の密かな愉しみ』シリーズにハマる余り、「ウエノ千鶴子よりオオハラ千鶴(いけずの京料理研究家)」などと、冗談めかして失言してしまいがちですが…… 

流石に、上野千鶴子女史でした。

『スカートの下の劇場』以来の読者だから、随分になるが、いつも何かしら新鮮なひとだ。

インテリ女性も彼女くらい突き抜けると、安心感がある。

なにかいおうとすれば、たちまち男の思想でしゃべることになる。(石牟礼道子)

 

…… 上野千鶴子『〈おんな〉の思想』からの引用だが、この本には彼女が甚大な影響を被った、フェミニズムの先覚たちを並べて論じている。

日本人では、森崎和江/石牟礼道子/田中美津/富岡多惠子/水田宗子 の五人。

いづれも素晴しい文体である。よくぞ男仕立ての思想(言葉)をここまで習得なさったものだ。

ちづこ女史から、この本に載っている抜粋とまとめを読んで、先覚の彼女らを読んだ気になるなよ、とキツく釘を刺されているが……

よくまとめられた、実に読みやすい文章だと感嘆した。(世の中で数少ない)頭の良い男の文章と並べてもまったく遜色がない。

男のものであった思想を自家薬籠中の物とした、稀有な女性であると思う。(先覚では水田宗子女史の文章が一番読みやすかった、イェール大学でアメリカ文学を専攻なすった彼女は英文学者にして詩人でもある、女性の文章でこれだけすんなり入ってくるのは稀有である)

 

★参考文献、抜粋

水田宗子(のりこ)『ヒロインからヒーローへ』1982.より

聖処女、母なるもの、あるいは永遠の娼婦像 それらの女性像は男性の夢の根源であると同時に、女性自身にとっての幻想でもあった

 

水田宗子『物語と反物語の風景』1993.より

II「女への逃走と女からの逃走ー 近代日本文学の男性像」

[※  この論考をもって、上野千鶴子は日本のフェミニズム批評の達成のひとつ】と最大限の評価をしている。

この著作は絶版になっているが、上野女史が編集委員のおひとりとなって編まれた『新編 日本のフェミニズム』全十二巻の内の、

『新編 日本のフェミニズム11 フェミニズム文学批評』(2009年)にも収録されている。> 批評とは迂遠な自己表現の回路で有る。(上野千鶴子)]

 

ーそれでは、水田宗子女史の水際だった名文に触れましょう♪

日本の近代文学には、女にこだわる男たちを主人公とした小説が圧倒的に多い。

恋愛に苦しむ男、妻との関係に悩む男、痴情に溺れる男、夢の女性を求める男、そういった女に悩む男の物語が、近代日本文学🗾のなかでも代表的なジャンルである〈私小説〉の世界を作っている。

 

封建制度下、そして明治憲法下では、

現実的に女性は立入禁止であった女不在の領域、すなわち政治、法律、経済といった〈公〉の世界での男のドラマを展開する形での小説は、大衆小説としては発展していくが、いわゆる純文学としての作品を生まなかった。

近代日本の文学小説は、〈公〉ではない〈私〉領域の、とりわけその〈内面〉を扱うところに、その最も純なることの根拠を置いて成立していったのである。

 日本の近代文学🇯🇵において、男をこの内面の発見へと導くのは〈女〉である。

そこでは、男は〈公〉の場=社会から離脱して、〈私〉の領域へと沈潜する

〈私〉の空間にいるのは女であり、〈女〉に誘導され、また〈女〉を求めて、男は〈私〉の領域へと没入していく。

…… 凄いと思いませんか、この条り。

日本独特のあの陰気な「純文学=私小説」のもつ構造と何故この類いの小説が日本に蔓延ったかを見事に解説し尽くしています。わたしの印象では、女を追い求めているだけのクズ男が、あたかも何らかの求道者のように描かれているのが不思議だった。女が出てこない哲学小説の如き佳作も、一定数存在するが、それらはけっして主流とならない。(石川淳『普賢』、稲垣足穂『彌勒』等)

 

> 「私小説家は一生かかって一つの長編を書いている。」(芥川龍之介)

 

私小説を書く上においてもっともむづかしいことはー私小説が他の小説と異つてむずかしいところは、自己をぶちまけ、自己を明らさまにすることの困難さである。自己をぶちまけさへすれば私小説が書けるとはいうものの、その、自己をぶちまけるといふことが、生易しいことではなく、なかなか大変なことなのである。(上林暁『私小説作法』より)

…… 私小説家の代表として、柴田錬三郎(流行大衆作家だったが、彼自身佐藤春夫の弟子で純文学を志していた)から「私小説であっても嘘である」と名指しで批判された上林暁を引用したが、

ほかの箇所でも「…… 私小説を書かうとして、良心的であればあるほど、一作一作に仮借なき苦行を重ねねばならないのである。」として、「剥皮の苦痛」とまで表現なさっている。あげくは「酒の力🍶を借りるよりほかなくて」と薬物(?)をつかってまで、内面への旅に真剣なのである。

しかし、それが個人のリアルに過ぎないのか、普遍的な探究なのかと言われると、首を傾げざるを得ない。まったく日本ならではの「求道的な」嗜好(志向?)といえよう。(ある一定数の読者を獲得したことは、意味があったのかどうか?)

まー、日本でしか通用しないとも言えそうである。

このユニークな小説形態を、近代日本🗾が置かれた社会構造から筋道たてて説明して、余すところのない水田論考は、まさに快刀乱麻を断つ一撃で、やはりイェール大学仕込みの本格の西洋論理(在米生活24年間)とは、かくも鮮やかに抉り出すものかはと感心すること頻りである。

おそるべき、鶴の一声であろう。なんたる明晰さであることか。深く日本人の情緒に潜り込まないと、ここまでの截然たる確言は生まれない。驚嘆すべき才能だと思った。とても及ばぬと…… 

 

男たちにとって、

国家公共の問題を考えること 

女を考えること とは

二律背反の関係にあった。

…… 日本人の男の「公私」、建前と本音(表と裏)は「仕事」と「女つきあい」なのですね。戦国時代の戦場から現代の営業最前線まで、男尊女卑の男社会で生き抜くということは、滅多に仕事のライバルとして女性に相見えることがないので、こうした生態をおびるということか。

男には戦士としての自覚があり、その戦場には女がいないという共通認識がある。男にとって女に向かい合うのは、戦っていない時なのであろう。

 

政治や国家公共のための活動、公の世界での仕事や生き方によって、自らの社会的価値や人格を確立しようとする男にたいして、女との関わりにおいて、あるいはそれを通して、私的領域に没頭し、自らの内面世界に沈潜していこうとする男が、近代日本文学の主人公として描かれてきたのである。

こういう男たちにとって、女は内面への道の誘導者 だった。

 

 

【オトコとオンナを天秤棒に乗せたイラストは、おなじみの構図だが、本質的にその捉え方は違う気がする。その点、上のイラストは「家父長制」の重心をよく描いているように思う。日本の「処女信仰」も家父長制に由来するものだと云うし、この、世界中で普及している「家庭システム」には隠された陰翳が内包されているようだ。】

 

男たちの私領域=女への逃走の経路には、二つの目立ったパターンがある。

ひとつは家庭への逃走であり、

  他は家庭からの逃走である。

家庭という保護領域の中にいる、妻という自分だけの女のもとへの逃走と、家庭という小社会にいる妻という世俗から逃れて、より純粋な女を求めての色街への逃走。

 しかし、この両方ともに、主人公は求める女をそれらの〈私〉領域に見つけることはできない。

なぜなら、彼らが求めるのは〈女〉というメタフォアによって示されるセクシュアリティであり、その〈女〉のセクシュアリティによって見えてくる、至福に満ちた自らの内面風景なのだからである。

[※ 私注:メタフォア=メタファー、隠喩。(例)「顔が曇った」< 天気の曇りと顔の陰鬱な表情との類似性から]

それどころか、彼らがそこに見出すのは、メタフォアとしての〈女〉ではなく、生身の女という性的な他者である。

したがって、彼らは女と自らの内面のどちらからも逃走しなければならない羽目になる。

〈女〉というメタフォアに自らの内面の救済を求める 近代日本文学🗾の男たちは、〈女〉との結びつきなしには内面が見えてこない が故にそれにこだわり、現実の女に失望し、苦しみ、そして女から逃走する。

 

《以下の箇条書きは、私的なまとめ》

■ 2つのパターン〜 女への、そして女からの逃走

・家庭と家族を守るためにあえて公共の場を捨てて帰ってきた〈闘う家長〉

・家長を放棄した〈色好みの男〉

 

> 問題は、この男にとっての〈私〉領域と考えられてきた家庭や家族、そして色街の、その二つともが、女にとっては 決して私的な領域ではなかったことにある

 

 女性が公的な構造の中心からはずされていた近代の日本社会で、男たちが女のいるところを私的な領域と考え、そこに私的な精神の空間があると夢想したことは、それ自体根拠がないことではなかった。

〈女〉によって救われようと希求して、家庭という自分の領域へ、あるいは家庭を逃れて、家庭から排除された女のセクシュアリティへという経路は、男たちに与えられた、いわば必然の筋書きであったからである。

 しかし、公の領域から私的な空間へ、〈女〉へと逃走してきた男たちが、彼らの夢想と期待にもかかわらず、女を愛するのでも幸せになるのでも、ましてや女によって救われるのでもなく、ひたすら女にこだわり、苦しまざるをえなくなるのは、その私的な空間に彼らが見つけたものが、〈女〉ではない、性的他者であるからにほかならない。

女のように見えるが、彼らが夢想したような〈女〉ではない性的他者がそこにいることを発見するからなのだ。

男たちは、〈女〉へ没入することによって純粋な〈私〉の領域へ、自己の内面の奥深くへと〈退行〉することを願望したのに、救済者でもなく、救済への誘導者でさえもない、不可解で不気味な他者をそこに見出したのだ。

 

〈公〉が女を排除すればするほど、その度合いの大きさに比例して〈私〉の世界と〈女〉は結びつき、政治や法律や経済の支配する社会や世間から遊離した、〈女〉と〈色〉の私的な空間が現れてくる。

男にとって、その女と色の私的空間が、内面世界への導入路であるばかりではなく、往々にして内面世界そのものであった。

日本の文学では、女のいない内面世界を、例えば宗教や芸術の世界に展開する主人公は、西欧文学に比べて大変少ないのである。

文学自体が社会の活動の中心からはずれた無用な営みと考えられた近代日本の社会構造の中で、〈私〉の空間に文学的表現の根拠を置く私小説が、文学の主流的なジャンルとなり、女にこだわる男たちが主人公になったのは不思議ではない。

 

男性作家が女性を理解せず、女性を正確に描いてこなかった、人間としての女性を描いてこなかった というのは、それ自体は正しい指摘だが、男性作家批判としては的を外している。

男性作家は現実の女に失望したから、夢の女を求めて内的な風景を描き出した のだろうからである。

 

〈女という夢〉を追ってはじめて、男は〈公〉からの脱出を企て得た。彼らの作品から見えてくるものは、男が作りあげた〈女というディスコース〉を通して鮮明になる男の内面風景であり、それが〈男というディスコース〉なのである。

[※  私注;言説(英:discourse, 仏:discours)とは、「書かれたり、言われたりした言語の意味」を指す用語です。原語であるフランス語では「ディスクール(discours)」といい、フーコーの権力論と強く関連づけられた用語となっています。]

 

 近代の女性作家たちの作品には、男が作りあげた〈女というディスコース〉の拒否と、それへのさまざまな反抗が描かれているが、男たちが自らの夢想した〈女〉を通してその内面を展開したのにたいして、女たちは男から離れることによって自らの内面を発見し、そこに入っていったのである。

女性作家の作品から見えてくる〈女というディスコース〉は、〈男というディスコース〉を女が修正したり、新たに作りだしたりするのではなく、男の内面との関わりを、とりわけ〈男というディスコース〉との格闘を、自らの内面から排除したところに成り立つのだ。

 近代の女性作家は、その意味からも、男をほとんど描いてこなかった近代の女性作家は、〈恋愛すること〉と〈書くこと〉に自己意識の根拠を置き、そこに自己表現と自己成就を託したのだが、

〈恋愛という制度〉の中では、〈恋愛〉は女性にとって男性の自我との闘争の場となり、〈私〉の領域とはなり得なかったのである。

(中略)[※ 田村俊子『木乃伊の口紅💄1913.参照]

女性作家は〈書くこと〉にのみ〈私〉の空間を見出し、そこに自らの内面風景を展開させようとしたのだが、

彼女たちにとって、〈書くこと〉への契機は男への失望であることが多かった。男を通して自らの内面に到ろうとするよりは、男から離れたとき、つまり恋愛が終わったとき、自らの内面が見え始めたのである。

 女の内面が男不在だというのではない。それどころか、男によって女の自我が封じ込められてきた制度の中では、女の内面は、まさに男によって、男との闘争によって形っくられてもいたのである。

ただ、それ故にこそ、女が自らの内面を見ることができるのは、男を通してではなく、男と離れたときなのである

男との距離が大きくなり、その内面に働きかける力が弱まるにつれて、自らの、女の内面が鮮明度を増して浮かび上がってきたのだった。

 女が自らの内面を見ていく過程が、男から離れようとする過程でもあることを、多くの女性作家が描いてきた。

女性は、理想の女を求める男性のようには理想の男を求めようとはせず、男から離れたところに自らの自立した内面を見出そうとすることに専心したのである。

…… この条りを読んで、わたしが女流文学を読まないのは、女(作家)の内面にある男が作品の中に出てこないからだったのだ。

出てこないどころか、女流作家は男の存在を必要としていなかったからなのだ。わたしは女性の内面に関する自分語りには一切興味がなかったことがよく分かった。(求道的な自己中心的レアリストであったから)

それにしても、よくぞいったり【女という夢】、男とはロマンチストだとはよく云われることだが、何の事はない、夢ばかり追いかける子どもだったとは、完膚なきまでにぶちのめされた気分だ。こんなに頭のいい女がいることに、わたしは戦慄を覚える ♪

[※  この条りについて、上野千鶴子の付したコメントが有る。

「理想の女を求める男性のようには理想の男を求めようとは」(水田1993:78頁)しない女性と男性とのあいだには、目もくらむようなジェンダー非対称性がある。

〈男というディスコース〉を反転しても〈女というディスコース〉にはけっしてならない 理由がここにある。]

…… やっぱり心の何処かで、男とゆーものを反転させると女になると云った思い込みがありそうだ。

男は「女という夢」を懐いて【理想の女】をもとめて彷徨うが、女には男に夢なぞ懐いておらず【理想の男】を追求するという志向が見られない。

染色体でみると、女性のX染色体が基本単位で、その人を男性にするY染色体なんぞは、単なる攪乱分子にしか見えない。

男は、特殊な異分子であり、それを反転させたとて、基盤たる女にはならないということかと思う。

 

精神と肉体を合体させる〈恋愛〉を通して自己成就を図るという恋愛幻想は、一夫一婦制の結婚を正当化し、制度化するための、〈恋愛という制度〉が定着した、西欧近代の産物である。

 

近代日本文学🗾の多くの男性主人公は、〈女〉の中に自らの近代自我、その男性的自我を溶解させたいと希求する。

近代の〈男〉というディスコースは、男の自我超越への希求による、〈女〉というメタフォアとなって、その中心を作りあげているのだ。

《__ 引用ここまで》

 

…… このへんなんか、原哲夫・武論尊による格闘哲学マンガ『北斗の拳』を彷彿とさせる。暴走する覇者ラオウは、自らの手で自らを止めることが出来ない。それ故に歯止めをかける強敵を希求していたのだ。それが弟のように可愛がったケンシロウだったのである。(本当はユリアであって欲しかったのかも知れない)水田女史の批評では、それが〈女〉というメタファーということになろうか。

 

 

【とてつもない名著のようですね。

> 抵抗文化の「敵の武器をとって闘う」というポストコロニアルな批評実践。

……  パレスチナ人🇵🇸のサイードが、仇である西洋人の武器(英語と論理)をとって、西洋人に対峙した魂の作品。「オリエンタリズム」のアナロジーを駆使して、西洋人に突きつけた明晰さに瞠目させられる。】

 

以下、上野千鶴子『〈おんな〉の思想』からの引用

サイード『オリエンタリズム』の章で……

[※エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』1978.]

オリエンタリズム‥‥ 西洋が東洋に与えた図式

 

「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構築し威圧するための西洋の様式(スタイル)なのである」(サイード)

西洋が東洋に与えた「歴史的割り当て」、言い換えれば「指定席」には、美と官能だけがあり、それ以外のものは期待もされず許されもしなかった。

彼らは 東洋にエキゾチックな審美性を求めるが、知性も思想も求めない。せいぜい芸術と文学は存在を許されるが、科学や理論を東洋から学ぼうとは思わない。(上野千鶴子)

> 「オリエンタリズムそれ自体が、もっぱら男性的な領域であった。(中略)オリエンタリズムもまたみすからとみずからの主題とを性差別主義の色眼鏡を通して眺めたのだった。

このことは、旅行家および小説家の著作にとくにはっきりとあらわれている。

女性とは、通例男性的な権力幻想によってつくり出された生き物なのである。女性たちは限りない官能の魅力を発散し、多少なりとも愚かで、なにはさておき唯々諾々と従うものなのだ。」(サイード)

オリエントはジェンダー化される、すなわち女性として表象される。(上野千鶴子)

…… 絶対主体たる西洋(オキシデント)と、それに従属する東洋(オリエント)との消息が、そのまま男性と女性との消息でもあり……

つまり、男性主人たる西洋が、女性従者たる東洋を隷属させる(植民地化させる)ための、態のいい褒め言葉が「オリエンタリズムの賛美」である。

同じオリエント内でも、日本と半島のK国との消息でもあり、柳宗悦が李朝の陶器を持ち上げた「民藝運動」のベクトルも、オリエンタリズムの文脈で解釈できるとは、芯底驚かされた。

千利休がK国人との説もあり、井戸茶碗や高麗茶碗の風味を愛でたことは「民藝」の先駆けではあったろう。

しかし、敬愛する柳宗悦が何故にあんなにもK国に入り込んだのか理解が及ばなかった。

柳は、K国半島を「彼女」と呼んで愛玩した。

なるほど、K国やC国が何ゆえにこんなにも生理的な嫌悪を日本に向けるのか大日本帝国が内蔵していた『オリエンタリズム』をフェミニズムで読み解くと得心がゆくような気がした。

つらいことだが、観光立国・日本が成立する根拠もまた、この「オリエンタリズム」だよね、媚びを振って女性化するって事なんです。

判らなかったことが、芋づる式に有機的に繋がって……  このお盆は滅多に音連れない知的な興奮に浸ることができた。

 

さすがの「うえの・ちづこ」、ご馳走さまでした、堪能いたしました

彼女の御顔を拝見したのは、ここ三年くらいの事なのだが、リブや女性解放で騒ぐのはブばかりという偏見が横行していたものだから、

(田中美津女史に拠ると、初期のウーマン・リブ運動に集まってくるのは大卒の知的な美人が多かったそうです。女性解放運動に参加しているのは「ブスばかり」という風評が社会に浸透していて、かえって実際のブ○は来にくい状況にあったらしい)

こんなにイイ女だとは思いも寄らなかった。チベットの聖なるカイラス山へ、感動をもって参拝しているのも意外である。

【聖なるカイラス山、(wikiより)> 標高6656mの未踏峰。仏教(特にチベット仏教)、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教で 聖地 とされる。】

 

知らぬはばかりなり

雪女を抱きながら4にゆくとゆーのは、ある意味で男のロマンです。地女に娶(めあわ)されて、家庭では妻子から馬鹿にされながら定年まで飼い慣らされるよりかは幸せなんじゃないでしょうか。

[※  この条りは、水田宗子女史の論文にピッタリ分析されていましたので紹介する

反世俗としての女のセクシュアリティは、男を堕落や破滅へ、あるいは死へとさえ導くかもしれない。

しかし、女のセクシュアリティによって世俗からの脱出を冀望(きぼう)する〈色好み〉にとって、女による破滅こそは至福である

泉鏡花から坂口安吾まで、世俗の対極まで出なければ見つけることができぬ美しく恐ろしい女のセクシュアリティに捕らえられ、食い尽くされたいという、男の山姥幻想 は、色好みのヒーローを貫いているのだ。]

…… いや〜、みごとに見抜かれていますね ♪ あたしは、鏡花や安吾が大好物なんですよ。東北人だからか雪女に惹かれますね。

雪深い冬山❄️で遭難すると、眠気に負けた者は即、死にます。

あの安らかな睡眠への誘惑が、雪女とのまぐわい=凍死への甘美ないざないとなって浪漫的に昇華されたものなのでしょう。

抱いて抱かれて、そのこと自体が直接死(=エロス)におもむく耽美性、偏愛しています。

「エロスとは、タブー(禁忌)への侵犯である」(ジョルジュ・バタイユ)

 

 

最近のボーイズは、付き合う前から絶望していますからね、誰から教わったのか賢いものです。

父をないがしろにして、洗濯物さえ分けて洗った娘たちは、いま絶望的な婚活に身を削らなければならないハメに陥っています。

フェミニズムが倖せをもたらすかどうかは別問題ですが、確実に「結婚制度💒」というものを破壊したとは言えるかも知れませんね。

           _________玉の海草


 女と男の違い〜 太古に固定された、それぞれの進化方向

2022-03-24 02:05:07 | 女という夢

__ 最近は、男女平等の進まぬ日本にシビレをきらして、やれ女性の国会議員を増やせだの、女性管理職の割合が低すぎるとか、「ポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)」の大義の下、男女比の「是正」に躍起になっているよーに見えます。

だけど、そんな一律に「男女平等」にしてしまって問題ないのか?

男が圧倒的に多いのは、そーなった理由がありはしないか?

「女と男は、違う生き物だ」って実感があるのに、同じにさせるって、それはどちらかを追い詰めることにならないのか?

 

1998年に上梓され、日本で200万冊の大ヒットとなり、従来の男性観・女性観を完全に覆した、ある種の「事件」となった本を紹介しておきたい。

【アラン&バーバラ夫妻が書いた、画期的な「男女の違い」本】

 

若い人たちは、読んでいないだろーから、40歳代以上の基本認識となっているであろー、この本の基本コンセプトを知らないでいる。

男女の違いは、心理学よりも「脳科学」で扱う主題となってきているが、その先駆けとなった書物がこの本である。

この本の基本的アプローチは、次の一文に集約される。

【男女平等は政治や道徳の問題だが、

 男女が同質であるのか或は本質的に違うのかは、科学の問題である】

__ 「はじめに」に記載されている家族間の会話の具体例が、見事にこの問題を浮き彫りにしているから、見てみよー。

> よく晴れたのどかな日曜日の午後☀️、

ボブとスーは10代の娘たち3人を連れて、家族そろってドライブ🚘に出かけた。

ハンドルを握っているのはボブ。妻のスーは助手席に座っているが、何かというとうしろを向いて、娘たちのおしゃべりに加わっている。

しかし、ボブには、4人が好き勝手にしゃべりちらしているようにしか聞こえない。がやがやとうるさい声が切れ目なく聞こえるだけで、まったく内容がつかめないのだ。

ついにボブはキレた。

「うるさいぞ、静かにしないか!」 車内は水を打ったように静まりかえる。

「どうして?」。スーが口を開いた。

「運転できないだろう!」 ボブは腹立ちまぎれに答える。

妻と娘たちは顔を見あわせ、「なんで?」とつぶやいた。

なぜボブがどなったのか、彼女たちにはわからない。自分たちのおしゃべりが運転とどんな関係があるというのだろう。

また、ボブはボブでわからないことがある。どうして女たちは、それぞれ全然ちがう話題を一方的にしゃべるばかりで、相手の話を聞こうとしないのか。少し静かにしていてくれないと、運転に集中できやしない。ボブは思った。その証拠に、出口を見過ごして高速道路🛣を降りそこねてしまったじゃないか。

この問題の根本的な原因は、男と女はちがうという単純な事実に尽きる。

どちらが良い悪いではなく、ただちがうのである。

これは科学者、人類学者、社会生物学者には常識でありながら、あえて世間には知らせてこなかった事実だ。(私注;1998年当時の見解)

というのも、人種や性別、年齢などで人間を差別しない、つまり「政治的に正しい」(私注;現在の「ポリティカル・コレクトネス」)ことをめざす社会的では、そんなことを口にするとつまはじきにされるからだ。

いまの世の中では、技能や適性、能力において、男女差はないことになっているーだが、その前提が完全な誤りであることは、科学の世界では以前から知られていた。

だとすると、私たちがいままで拠りどころにしてきた考えも、大きく揺らぐことになる。男と女がもっと充実した人生を送るには、おたがいの弱点をあげつらうのではなく、性によるちがいを理解するしかない。

 

__ この本を読み進めるにあたって、大前提として、「太古の人類が如何にして生活を送っていたか」ー何十万年も続いた、その太古の男女共同生活のモデルを頭に叩き込んでおかねばならない。なぜなら、それらの遺伝子情報は、私たちの脳の古い層に間違いなく蓄積されてあるからだ。

> 昔々、はるか昔のこと、男と女は仲むつまじく楽しく暮らしていた。

男は危険だらけで油断のならない外界に毎日出かけては、自分の生命を賭けて食べ物🍖を手に入れる。それを女と子どもたちに食べさせ、猛獣や敵から家族を守らなくてはならなかった。こうして長い距離を自由に動きまわる感覚が発達し、動く標的を確実にしとめるために弓矢の腕もあがった。

男の職務内容をひと言で表すとすれば、メシの調達係に尽きるー それが、男に期待される役回りだった。

いっぽう女は、男が家族のためにわが身を賭してくれることで、自分の価値を実感していた。男の優劣は、獲物を殺して家に持ってかえれるかどうかで決まり、その奮闘ぶりを女が認めてくれれば、男の自尊心は満たされた。

メシ調達係兼保護者という職務を遂行しさえすれば、家族は男を頼りにしてくれたのだー 「二人の関係を見つめなおす」必要もなければ、ゴミを出したり、おむつ交換を手伝うことも求められなかった。

女の役割もまた明確だった。子育て係に任命されたことで進化の方向も定まり、その任務に見あった能力を発達させていった。

周囲に危険はないか監視し、家の周囲の狭い範囲を動きまわる能力を磨いた。目印を頼りに道を見つけたり、わが子にかぎらず相手の行動や外見の微妙な変化に気づくのが得意になった。

女は子どもの世話をしたり、果物🍊や野菜🥬、木の実🌰を集めたり、同じ群れの女たちといっしょに過ごしたりして一日を送る。

食料調達の最終責任を負う必要はないし、敵と戦うこともない。家族生活をきちんと維持できるかどうかで、女の優劣は決まる。家事や子育てがじょうずだと男に認めてもらうことで、女は自尊心を満足させるのである。

生命をはぐくむ秘密は女性しか持っていないので、子どもを育てる能力は神秘的なもの、神聖なものとされていた。

だから、動物を狩ったり、敵と戦ったり、切れた電球を交換する役目は女に期待されなかった。

こうして、生きるのがせいいっぱいで、人間関係まで手が回らなかった時代が何十万年も続いた。一日が終わると、狩人たちは獲物を持ってかえってくる。獲物は平等に分配され、同じ洞穴に暮らす仲間といっしょに食べる。女たちが集めてきた果物や野菜と交換もする。

食事を終えると、男たちはたき火🔥のまわりに陣取って、燃えさかる炎を眺めたり、ゲームに興じたり、物語を語ったりする。

いまならリモコンでテレビのチャンネルを変えたり、新聞を読みふけるようなものだ。(私注;1998年当時)

狩猟で疲れきった男たちは、翌日に備えて休養しなければならない。女たちは子どもを世話しながら、男が空腹を満たし、ゆっくり休めるよう気を配る。

ここでは、男も女もおたがいの貢献を認めているー 男は寝転んでいるからといって粗大ゴミ扱いされないし、女は「私は家政婦じゃないんだから」と憤ることもない。

ボルネオ島、アフリカやインドネシア🇮🇩の一部、オーストラリア🇦🇺のアボリジニー、ニュージーランド🇳🇿のマオリ族、カナダ🇨🇦やグリーンランド🇬🇱のイヌイットたちは、いまもこのようにシンプルな暮らしをしている。(私注;1998年当時のこと)

そこでは、誰もが自分の役割を承知し、理解している。

 

__ この共同生活の経験が、骨の髄まで(遺伝子レベルまで)浸み込んでいると思って間違いないだろー。

男は、狩猟民として永らく生活していた。女は、男たちの狩りの間、子どもと家庭生活を守っていたと。

その昔ながらの行動に近いことであれば、熟練しているしストレスも少なく精神的に安定している。

ところが、何十万年も狩りして暮らしてたのに……   ある時から農耕にシフト・チェンジしなければならなくなった。

 

> もともと男は意思疎通ではなく、狩りを第一の役目として進化してきたことを。狩りをするときは、言葉以外の合図でやりとりするし、ときには物音ひとつ立てず、獲物を何時間も見張らなくてはならない。

現代の男たちも連れだって釣りに出かけるが、おたがいひと言も口をきかないで釣り糸を垂らしている。気の合う仲間と釣りができるのは楽しいに決まっている。ただ、わざわざ口に出して言う必要を感じないだけだ。

__ 狩猟民に適した攻撃性ホルモン、テストステロンは遣り場がなくなり、別の方面で発散せざるを得なくなる。じょじょに狩猟本能から離れた生活を余儀なくされる。

農耕から商業や工業へ、つまり自然から離れた仕事が増えてくる。脳の古い層に蓄えられたスキルでは、適応できなくなるほどに社会全般が様変わりして、その結果男女ともに多大のストレスを抱え込む仕儀となる。

イギリス産業革命以来、世界中の国で職業選択は複雑になっても、そーそー私たちの脳は変わらない。生き残るために身につけた男脳・女脳は、心の奥底で「遺伝記憶」として生き続ける。ただし、例外的な脳も存在する。

男の15〜20パーセントは女っぽい脳を持っていて(私注;その多くはゲイになる)、

女の約10パーセントは男っぽい脳の持ち主だ。

 

__ 現代に生きる「裸のサル」は、PC💻端末とゆー究極の遊び道具を手に入れても、なかなか脳内の思い込み(既成概念)は変わらない。

この本では、まるで箴言みたいに、男と女の間に横たわる真実を表現している。それを抜き書きしながら、寸評を加えてみよー。

> 9割の女は空間能力(右脳)に限度がある。

> 女の空間能力が劣っているのは、男以外の生きものを追いかけたことがないから。

> (女は)立体地図を使えば、驚くほど楽に地図が読めるようになる。

> イギリスの自動車学校🚗が実施した調査によると、イギリス男性の82パーセントは、舗道の縁石にぴったりつけて車を停めることができるし、71パーセントは一発で縦列駐車ができるという。

しかし女性になると、同じようにぴったり車を停車できる人は22パーセント、縦列駐車が一発でできる人は23パーセントしかいない。

シンガポール🇸🇬で実施された同様の調査でも、縦列駐車の正確さは男が66パーセントに対して女が19パーセント、成功率は男68パーセント、女12パーセントだった。

 

__ たいがいの女は縦列駐車が苦手である。そして地図を見て道を辿ることが苦手、ナビゲーター失格の烙印を押されている。

たとえば、地図製作自体は平面作業なので、男女の能力に差が見られない。しかしその地図を基に3次元立体に起こしてイメージすることが女には難しい。縦列駐車も同じことで、要するに空間を立体で認識することが苦手なのである。

そして、この空間能力の不足が、女性が自らを客観視できないことと繋がってくる。

> 空間能力が必要な仕事__ 航空機関士/エンジニア/レースドライバー/原子力技術者/パイロット/航空管制官/ドラッグカー・バイクレーサー/建築家/運行乗務員/保険数理士/ビリヤード🎱・スヌーカー選手/会計士

__ 圧倒的に男が多い職種、勿論女性に門戸はひらかれているが、現場の声を聞くと、その専門職になる為の「養成コース」に女性志願者がいないとの事。

 

 

> チェス、作曲、ロケット工学🚀といった、空間能力と数学的推理力が求められる分野で、過去に女が男を凌駕したことはめったにない。

> 教職、上演芸術、人材育成、文学など、女が優れた能力を発揮するのは、抽象的な推理力が最重要ではない分野だ。

> 空間能力が同等なら、女のほうが有能である。

> 女の施主から注文をとりたい? それなら立体模型を作ることだ。

__ 作曲って、交響曲ともなると最早数学の領域ではないかと思う。坂本龍一の芸大での卒論は、テーマが数学的アプローチで音楽に取り組むよーなものだったと記憶する。

同じよーに、小説は構成とか、プロットの繋げ方とか極めて数学的なアプローチを伴うものだと思っているので、女性が文学に優れた能力を発揮するとは、韻文的なものだと私は思う。

男性的テストステロンに富んだ私は、一般に女流作家は読まない。根源において、女性の経験は男の生き方に何ら役立たないと思っている。身体の構造が、別の生き物である。生理も出産もないし、女性のよーに受ける性ではない。

いままで、瀬戸内晴美・山田詠美・吉本ばなな・柴門ふみ・シモーヌ=ヴェイユくらいか、2冊以上読んだことがある女流は。わたしは根っからのレアリストであるから、実地に役に立たない見解や思想は、時間をかけて読むまでもないと堅く決めているのよ。

やはり、筋道が立っているとゆーか、辻褄が合うとゆーか、精緻な整合性を求めると、女流では破綻が出てくる。生きる指針とゆー意味では、同性から得ることの方が圧倒的に多い。

男のバカさとゆーか、純粋で軽やかな処は、女性のよーに血腥い生活からは生まれない。女性は尊い本質を兼ね備えているのは間違いないが、天使は天使でも、どこまでもいっても、天に舞い上がられない「地縛天使(アースバウンド・エンジェル)」に過ぎない。

大地性と現実性が強すぎて、次元をまたぐイメージを抱けない。

 

> 女は過ちを認めることをいとわない。なぜなら女にとって、過ちを認めることは相手との信頼関係を築き、つながりを強めるひとつの形だから。しかし、男はちがう。自分の過ちを認めた男は、インディアンと戦ったカスター将軍を最後に存在が確認されていない。

> どうしてモーゼは40年も荒野をさまよいつづけたのか? 人に道を訊かなかったから。

> 男にとって失敗とは、敗北にほかならない。

> 男は批判されることを嫌う。だから処女と結婚したがる。

__ この辺読んでいると、社長の自死は、ほとんどが男であることに何か納得してしまう。モーゼが女だったら、40年もかからなかったって、案外真実をついているかも知れないな。頑なな男は、飛び抜けてデキる男に多い気がする。

この頑なさは、職人には不可欠な要素である。腕のいい職人には、並の職人が意識していない処に徹底的に拘る頑なさがあるよーだ。この段階をつねに完璧に仕上げるから、全体に締まりが出てくる、そんな拘りがあるものである。

それを、自分律(自分の鉄則)として、風が吹いても槍が降っても必ずやり遂げる覚悟を決めているから、仕上げの品質にブレがないのである。これは、その人なりの「ルーティン(信仰みたいなもの)」なのだと思う。

こーゆー、空中楼閣を頭の中に築いている感覚は、立体の完成図が出来上がっている感覚は、女には感じられない男の職人ならではのものじゃないかな。凄いものです、法隆寺なんか千年後のたるみまで頭に描いているのですから、高度な建築家は神(アーキテクト)に近い存在ですよ。

 

> 人間関係に悩みがある女は仕事に集中できないし、仕事に行きづまっている男は人間関係にまで気がまわらない。

> 女が悩みについて話すのは、ストレス軽減策にすぎない。聞いてもらいたいだけで、解消してほしいとは思っていないのだ。

> ストレスがたまればたまるほど、女はしゃべって、しゃべって、しゃべりつづける。

__ 人間関係って、太古の男は、ほぼなかったんじゃないかと思います。狩の間はほぼ無言ですし、同じ思いで働いている同性は自分の分身みたいなものです。皆の力を合わせて、ひとつの狩りを成功に導きます。おのおの任された自分のパートを成し遂げることに精一杯で、悩んでいる時間もなかったのではないかと想像します。狩の腕前や技や力の差は、お互い歴然とわかっていたと思いますし、男社会はタテの序列がはっきりしていますから、案外安定していたのではないかと。男子校みたいなイメージでしょーかね。

男は、悩みに対して、一直線に解決の方向に向かいます。だから、女から相談されても、自分なりの解決策を提示できれば、会話はそれで終わりです。女が、話を聞いてもらいたいだけで、解決してほしいなんて露ほども思っていないのが本音だなんて、驚天動地の指摘でした。

この本に出逢った頃、三十を過ぎていましたが、ほんとうに驚いたのを憶えています。そーだったのか、これで辻褄が合うなと、過去を振り返り安心したものでした。さんま師匠の『恋のから騒ぎ』での女子の会話が初めて腑に落ちたといいますか……   男付き合いが主体の社会生活だと、言われるまで女の本音はわからないものです。

いまは、男は解決策を話題にしますが、それで女と話しが噛み合わなくなっても、それはそれで良いと思うよーになりました。何故ならそーやって永い永い数十万年もの月日を過ごしてきたご先祖の遺伝子を受け継いでいるからです。人類が生き延びるために、安全を確保するために、「狩り」のために必要だったからです。

狩人としての遺伝記憶が、いまの私を動かしているのならば、それは有り難く受け取っても良いし、喜んで背負う十字架☦️でもありますね。別に女に好かれなくとも良いわけです。

 

> 刑務所にいる囚人の9割は男だ。

> 人類で男が優位にたっているのは、その攻撃性に拠るところが大きい。

動物王国では、テストステロンの多い者が支配者となる。

スポーツは狩猟の代わりである。

> 男は理想のパートナーを探しつづける。しかし結局はむだに年をとるだけ。

__ 攻撃性=テストステロンの数値、男の強さは、テストステロンの多寡で決まるとは、ちょっと意外です。闘志といいますか、闘争心が大切なんですね。どんどん強くなって、益々テストステロンの分泌が激しくなる。そーなると、自分以外のすべてが自分の獲物と化すのだろーな。

週刊『少年チャンピオン』に、格闘哲学マンガ『刃牙』が連載中だが、「地上最強の生物」として君臨する、範馬勇次郎(刃牙の父)はテストステロンの数値が異常に高く、その攻撃性は全ての人類(女も男も)を自分の獲物と見做しているとゆー設定となっている。

攻撃する者が、社会の優位に立つとは面白い指摘だ。社会の首位にも立つし、落伍者の首魁とも成ると。世間の両極端に等しく存在するとは、これは良いことなのか、悪いことなのか、さすがの異端のY遺伝子🧬だけのことはある ♪

 

> 男の頭は問題点に索引をつけて整理できるが、女の頭はひたすら問題をかきまわすだけ。

> 女の子が男の子よりおしゃべりになるのは、それだけ母親から話しかけられる時間が長いからかもしれない。『社会行動と言語の獲得》という本を書いている精神科医マイケル・ルイス博士の実験では、母親は娘のほうに多く話しかけ、みつめていることが確認された。

> 女はおしゃべりが恋人

> 男は自問自答する

> 科学の世界では、はじめにイブありきだった!

> 女の知能は男より3%ほど高い。(脳細胞の数は男の方が40億個ほど多い)

> 男の「魅力」は免疫系の強さにある。研究によると、女は男に出会ってからたった3秒間で免疫系の分析を終えるという。

> 女は周辺視野が広く、男はトンネル視が得意。

女はメイクラブ、男はただのセックス

> 人間も動物だと断言されると、たいていの人は難色を示すだろう。しかし、私たちの身体の96パーセントは、ブタやウマと同じなのである。人間にしかできないことは、ものを考えて、先の計画を立てることぐらいだ。

__ わたしも、聖書ではアダムが先に生まれ出たことになっているが、人類の基本成分は女性だと思っているので、イブが先にコノ世に産まれたのだと思う。アダムがいなくとも無性生殖で存続していた時期があったのではないだろーか?

突然変異で、男アダムが生まれたとする方が、科学的には納得できる気がする。つまり男は、攪乱分子とゆーわけである。ただし、極めて貴重な異分子である、なんとなれば人類史で大事にされたのは「男子」であったから。弱いし、平均寿命も短い。それなのに、人類に変化をもたらすのは、この「バカ」のみで、期待を一身にうけて育つ。

成人しても、バカはバカだが、自分の意志で計画的にバカを実行する、現実的利益を度外視できるバカである。女には、こんな天文学的な無駄が信じられない、生き残るのに現状維持で十分だと思っているから、バカほど人生に挑戦することは少ない。

つまり、バカは変革担当で、落ちこぼれも多い。でもその中には珠玉の逸材が眠っていることもある。長い目でみたら、バカもそれなりに役立っているなとゆーのが女の正直な感想だったのかも知れない。

それに甘えてとゆーか、母から励まされて、弱々しい異分子は、いつしか覇権を目指すよーになった。母に背中を押されて、泣き虫だったバカは、いつしか王となり、宰相となり、大統領と成った。

お騒がせの🅿️大統領かて、母に慈しまれ抱きしめられた温もりを憶えていよー。わたしは、報道は真実を伝えてなくて、🅿️大統領の正義は間違いなくあるのだと信じるが…… いまは、全世界の敵である。これもまた、異分子である男のバカだからこその所業で、後世の歴史評価はいかなるものとなるものか…… 

         _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


《問題作》 女のうえに 「用事」 のない男が、語ると……

2022-03-14 20:20:08 | 女という夢

 

__ 《問題作》とは、伊勢白山道に投稿して掲載されたが、後に削除された拙稿や、コメント欄に不掲載だった拙稿のうち、見るべきものもあるのではないかと自己救済して、あらたに書き下ろしたものも含めて、ここに私的に発表するものである。

      *   *   *   *   *   *

テーマは、昭和の「男尊女卑」から、男女平等の機運が高まり、女性の社会進出を招いて、いまの日本の労働力を担うのみならず、文化・芸術方面の創り手や実業家としても鼻息の荒い女性たちは…… 

いよいよ主張がはげしくなって、選挙にしろTVにしろ、女性層の支持するものが社会の主流となってきた。

そんないま、見えない水面下で、女性に向けられる視線の質が如実に変わりつつあると、私は強く感じる。昭和の男たちが「女性なるもの」について懐いていた憧れやら崇敬、そして人間的な親しみは急速に萎んできている。相対的に、いまの女は昔に比べ魅力がなくなったと思う。

【三砂ちづる女史には、名著『オニババ化する女たち』(2004年)もある】

 

【合気道七段、文武両道の真インテリ・内田樹さんのご推薦ならば必読書であろー。遊廓の女性(にょしょう)は、そんな段違いに凄かったの! 

吉原の遊女は自信たっぷりに嘯(うそぶ)いたとさ、「(吉原女は)とうてい、地女(じおんな=普通の民家の女)のおよぶ処にあらず」と。

吉原花魁> 吉原遊女> > 江戸の地女>>  明治の女> > >昭和の女> > > >  いまの女は…… 、推して知るべし。】

 

【吉原女の「地女の及ぶところにあらず」とゆー矜持。その口伝の伝統は、明治・大正と受け継がれ、昭和の御代にもストリップ芸の「花電車」として知られていた。

この芸の発祥は、大正期の大阪の飛田遊廓らしいが、東京の玉の井でも昭和初期に見られたそーだ。上記の新書は読んでいないが…… 

東郷隆『花はどこへ行った』の中に収録されてある短編「ブリンギング・イッツ・トゥゲザー」が、「花電車」芸人を主人公にした佳篇なので、少し引用したい。

花電車芸人の宣伝文句>『秘芸日本一、エンジェル・エミ』『茹で玉子を出し入れし、バナナを輪切り。吹き矢で風船も割るという驚威のアソコ!!』

「あたしたち芸人は毎日、腸を空っぽにして、逆立ちします」

「腸をおなかの中まで下げておかないと、力があそこに入らないンです。身体が鈍(なま)ったと感じたら二週間ぐらい食事抜いて、膣内(なか)を締める練習ばかりやります」

「人を乗っけない。見せるだけだから花電車というんですけど、この手の芸人になると修業は厳しい。身体を酷使して、あそこが使いものにならなくなってしまう恐れだってあります。」

__ この「花電車」とゆー芸は、元は遊廓のお座敷芸だったと云ふ。吉原遊廓は北条家の忍者・風魔党の流れを汲む。

聖徳太子の時代に伝わった、大陸伝来の「散楽」などは、単なる舞踊に止まらず、精密な体術・武術・奇術・火術なども内包するもので、後の世の「能楽」の源流ともなった。

観阿弥と服部半蔵と楠木正成が親戚筋であるよーに、能楽〜兵法〜忍術〜房中術と地続きの身体操作法であることを忘れてはならない。】

 

「女体」のあまりの神秘と深淵に、つい横道にそれたが…… 

先の戦争で崩壊させられた日本文化の地下水脈に流れる、男の秘かな思いを、男の更年期を迎え〜ED気味で〜年齢の自然により性欲から解放された〜わたくしが、覚めた目で女の生態を描写してみよー。「女の受難期の到来」か知らん。

 

 

● NHK総合『恋せぬふたり』第2話で、印象に残るセリフがあった

 「恋愛感情のない男女が、家族になる理由ある?

‥‥ アセクシャル・アロマンティック(他者に性的に惹かれないし、他者に恋愛感情を抱かない志向)の男女が、「恋はしない、でも独りはさびしい」と同居を始めるストーリーなのだが、観ていてなんとなく共感が芽生えた

男の更年期を経て、女性の性的魅力に反応しないで生きられるよーになった経緯も関係するのかも知れない(物心ついて以来、長年にわたって性欲に支配されて来た)

こんな心的指向があるなどとは、いままで一度も考えずに生きて来たと思う

社会的にみれば、セクシャル・マイノリティなのかも知らないが、ひとつの段階の境涯である可能性もある

「恋愛する」あるいは「結婚する」ことが人としての幸せだと思い込んでいる風潮…… これには「幸せにならなければいけない」と決めつける暗黙のコンセンサス(刷り込み)がこれを後押ししているよーにも思う

「恋をしない人はおかしい」とゆーあなたも、実は充分におかしいと云ってもよかったのだ

 

 

● 女は、「女とゆーもの」を画一化して見ないでほしいと口にする。

例を上げれば、「あたしとオバサンは違うのだ、一緒にしないで。」と。

・ハタチ後とハタチ前。

・高校生とオバサン。

・売り出し中の十代と、賞味期限切れの三十女。(『恋のから騒ぎ』基準)

・結婚前の未婚女性と既婚者であるオバサン。

いづれの対比も、女同士で行われるもので、酷い差別意識に心底驚かされる。

いわば、女としての商品価値(男社会が決める)を、当の女性たちは例外なく意識していることを証ししている。

女心の根底にある、いい男を射止めた(結婚した)女が勝ちとゆー価値観。

いい男と付き合うことではなく、自分のもの(夫)にした者が勝ちなのである。

いい男は、色々な女とつきあったが、最終的に私を選んだことに意味があるのだ。

これが男の私から観た偏見ではないことを示すのに、恰好な事例がある。

男の立場からしたら、女のこの態度はとてもとても信じられないよーな反応なのである。

【女は浮気されたとき、自分の夫を責めることなく、浮気相手の女を攻撃する】

男は、妻の浮気相手へ怒りが向かうより先に、自分を裏切った妻にまず怒りの矛先が向かうものだと思う、女のよーに夫の浮気相手を殺すところまでは到底行かない。

女が、同性の浮気相手に怒りが向かうのは、他でもない彼女(盗人女)が自分の既得権益を侵したからである。自分のものである夫を奪ったとゆー解釈である。男からすると女のこの思考は全く理解が出来ない。違う生き物を見るよーな目で見ていることだろー。

 

昔の大奥は、いまで云えばナース・ステーション辺りか?

女の群れつどう場所は、鬼門である。

瘴気があるとまでは言わんが、実際には血の匂いがする。

女性が、女性同士間で厳密に定めたランク(地位)付け、

レディースも宝塚も、タテ社会である。

 

 

●  “ 赤んぼうから「オバハン」へ〜 移りにけりな徒(いたづら)に ”

赤ん坊って、きわめて不思議なもので……

愛されるよーに仕向ける特殊な能力がある。

頭が大きいとか柔らかいとか、いくつか特徴があるが、同種の人間たちから愛されるのみならず、異なる種〜例えば猫とか犬とか、野生の狼などからも決して異物として攻撃されることもなく、大切に保護される。

赤ちゃんを攻撃できるのは、真の “ SATAN ” のみであろー。

 

人間とゆー種にあっては、乳児・幼児・児童と、その「愛され方」は継続する。

子どもは地域全体から愛される、地域の活力の源である。小学生から中学生へと、だんだん頭が小さくなり身体の筋肉量も増してくる。

これがヒゲ生えたり初潮を迎えたりすると、すこし様変わりしてくる。社会の基本単位「成人」となる予備軍みたいな扱いに変わる。

それから、なんやかやと成人式あたりまでは社会の庇護を受けて育つ。モラトリアムの大学生も完全な「大人」扱いではない。

 

社会に出るとは、一個の大人として働くこと。

もし高卒で働けば、そこから男は最早「保護される」扱いはされない。

 

そして花の20代、さんちゃんは名物番組『恋のから騒ぎ』で、30歳手前までを「若い女の子」として、ちやほやして、アラサーには喜劇的に手厳しく当たった。

男性社会から大切にされるのは、29歳までだと線引きしたのだ。

人気のあった番組だけに、社会的影響は大きかったと思う。(さんちゃんは「バツイチ」も発明なさっている)

 

ーさて、ここから本題だが、

女性は、若いうち特に大切にされるのは何故か?

子どもを産むこと、育てること(母親として景仰される)が種の生き残りの基盤、あと容姿的な見た目の可愛いらしさ、性的な魅力あたりが代表的な理由かしら。

女性は少女時代から既に、自分の「愛される価値」とゆーものを肌身にしみて解っている。

その未成年女子の間での競争は激しく「15才過ぎたらおばさん」とか象徴的に云われたりする。

社会的な商品価値として、「女子大生」「女子高生」ブームが起こったことも大きい。消費の喚起や購買促進の意味合いから、社会全体の出汁につかわれたとも言えよー。

 

女性が大切にされるのは、何歳までか?

男が女性にお金と手間をつかう、それも自主的に熱心に口説く・仕える・貢ぐのは、女が生物として魅力がある年齢にある場合のみである。

わたしも、若い時分に異様に女性の腰のクビレに惹かれることがあって、不可思議に感じたのだが、なんのことはない……

生物学的にいえば、腹部がくびれていることは「現在、妊娠していない」と示す外的な特徴であるとの事。

種の保存のために、私は無意識に「繁殖」を念頭においていたとゆーことになる。

 

性的な歓び(種の存続の為のプログラム?)と、子どもをつくる為に、男は女を大切にしてきた。

社会もまた、女性の欠くべからざる貢献を認めているから、女性特有の条件も社会に取り入れられた。(生理・出産休暇等、実際は運用されていない様だが)

 

ーじゃあ、この優遇措置がとっぱらわれたとき、女性はどーなるか。

とっぱられないよーに女性化同士でスクラムを組むのである。

例えば、男の子に「男らしくしなさい」と育てたのは、「女性」を護らせる躾でもあったと思います。か弱いもの小さいものを守りなさいと、その代表が「女・子ども」と一括りにされて特別扱いされました。

会社でも、女性は群れて集団的な圧力をかけます。

女性の見えない戦略、それは昭和頃までは見事だったと思います。「大和撫子(やまとなでしこ)」とゆー日本婦女子の理想像に秘められた、おそるべき戦略、女性の魅力を最大限にひきだす為に昔の日本人のとったシステムに、たいていの男は嵌められます、それも自ら進んで。

 

現在は、男女平等を社会のスローガン(決して履行されないから叫び続ける)にして、女性の社会進出や女性リーダーがもてはやされて、昔日のせっかくの智慧(叡智といっても過言ではない)を無効にしてしまいました。

だからいま、女性たちは大変なストレス下に生きておられることでしょー。

 

「オンナの生きにくい時代」

性別で分けずに、男女の機会(チャンス)平等であるはずが、男女の条件(労働条件等)平等になってしまっている所に、そしてそれをオンナが受け入れている所に悲劇がある。

一か月のうち、沈んで調子の悪い期間がほぼ一週間は確実にある人と、一か月丸々調子のいい人と、同列に働けるだろうか。

オトコは、いままでもそうやって働かされてきたのだから男女平等でも問題はないが、オンナはどうだろう?

オトコと同じように働かされて不利なのは明らかである。オンナの引き受けなければならないストレスの如何に膨大なことか。彼女らはいつもイライラしている、憐れでならない。

オトコは、オンナが崩れるのを待っていれば、好機は自然と訪れる。

見かけが近づいたからといって、男女を同質のものとして認識している人は、つねに情況を見誤る。

 

「オバハン」とは、男性の庇護をうけられなくなった女性の総称です。

彼女らは最早、男の獲物ではありません、男は追いかけません、彼女たちの為に何もつかいません。

いつから「オバハン」になるのか、個人差が著しいです。

たとえオバハンでも、ご近所付合いや仕事付合いがあれば、その中では、そー無碍に扱われることもありません。

社会的に貢献しているとか、親しまれている、仁徳があるオバハンは、大阪では特に「おばちゃんと呼ばれ、地域の尊敬を集める社会的な存在です。

 

「おばはん(おばさん)」と呼ばれる時点で、ほとんどの女性優遇措置はとっぱらわれています。

一個の「人」として、直面されるのです。ちやほやされた過去をもつ女性にはショックでしょー。男はしかし、社会人になった瞬間からそのモードで生きています。

一個の「人」として、「おばさん」「おじさん」はほぼ男女平等だと思います。

閉経して更年期を迎えたら、尚更に男女は平等になってきましょー。

 

その、女性への特別扱い、庇護、遠慮を意識的にとっぱらったのが、昨日の私の投稿です。(下記に引用)

_________

 

> ● 話したとて、どーなるものではないが……

ご自分が責めている相手と同じことをしていることに気づきましたか。世間では「語るに落ちる」と申します。

わたしは「女性化」に抵抗しているのですよ、男にとって女性の生き方は直接参考になりません、月一の生理もないし出産もないのに対し、

女性の性ホルモンはダブル・スタンダード(発情促進エストロゲンで「待ってたわ ♪」 & 発情抑制プロゲステロンで「おととい来い」)、不安定な情緒に異なる価値観、安易に一緒くたに同意を求められても応じられません。

ここ(ブログ『伊勢-白山 道』)では、ほとんどが女性投稿者ですから……

私もやっと、口に出して云えるよーになったんです。

女から解放されて、いままで無駄な気遣いしてきたなと。もー獲物じゃありません、もー追いかけません

 

あれは、あまりにもモノ知らないんで、正直に口にしたまでで……

何故そんなに、優しさとか思いやりに神経過敏なのかしら?

いつもしてもらうことを期待しているからです。

「他人様に思いやりを求める」ってのは、「道徳」ではないよ。

ほんと今のひとって、精神年齢ひくいと思う。

してもらわなければやっていけないなんて、子どもです。

_________

 

はじめて、「優遇されない女性」の立場に置かれる経験をした人もいたんではないかな。

むかしの文人は、女性のことを「やらずぶったくり」「やらずぼったくり」とよく云ったものです。

但し、そーゆー「恨み節」が出るのは、男が頼まれてもいないのに「アプローチ」するからです、つまり昔の女には、男が問答無用で突進さざるを得ない魅力が間違いなくあったのです。

いまは違います、その最初の獣性的な突進が見られなくなりました。その結果、女は仕掛けられて発動する「後の先」の戦術がつかえなくなったのです。

あらゆる種の生物をみても、雄(男性性)は「追いかける」前提で、雌(女性性)は「待っている」前提なのです。

この自然の摂理を無視して、「追いかけない」男を前にして、女に何が出来るでしょー。ここで注意しなくちゃならない事は、彼は「ゲイ」ではないのです。

女性のうえに「用事」を持っていない男性は、これからも増えつづけるでしょー。

いままで、女性に払われなければならなかった社会的義務(マナー)を放棄したら、いったいどのよーに反転するのか。

むかしは、女神かとばかりに崇め奉りましたが、現在の女性たちにはそんな魅力はありません。

心して相手してくださいね、でも「女を必要としない男」は、付き合いが楽です。

ただ、女にまったく期待していない人は、言葉のもっとも残酷な意味で「正直」だとは言えます。

 

 

● いま、リーマンさん(『伊勢-白山 道』のブログ主)の応答コメントをルーシェ検索(ブログ内の高速検索システム)で見てみてください。

質問している人の10人に1人も、男性はいません。

おおむね、女性なんです、そして口を揃えて「世界が大変なときに、われよし(=自己中の)の質問で申し訳ないのですが…… 」と頭につけます。

このへんの感覚が、母胎をあずかる事からくるサガ(「産む」とは創造です)なのかも知れませんが、自分だけはゆるされるとゆー思考回路は、女性に特有のものです。

駐車場の「通路」に車を停めて、「通路」を塞いで通れなくするのは、女性に顕著な傾向なんですよ。(但し、女々しい男は停める様です)

オトコは論理的で整合性(何事にも筋を通す)をとうとびますから、駐車場の通路を塞いだら、駐車場として機能しなくなるのが直感的にわかる人がほとんどです。

「空間概念」の分野でのIQが、女性よりずっと高いとは云えます。

女性は、自分一人ぐらいは、自分だけはゆるされるとばかりに平気で通路に停めるのです。

わたしは、実際に出られなくて苦労したことがあります。スーパーの駐車場でした、「ちょっとだけ買い物だからいいでしょ」と、私の車の前の「通路」に停めたとゆーのです、見た目は普通のおばさんでした。

それと……

さっき思い出したんだけど、職場でも倉庫でも、通路にふさがって我が物顔に商品を広げて、他の人が通れないよーに仕事をしているのは、きまって女性社員でした。

そこ(通路)で仕事をしたら、他人が通り抜けられないと、脳内で想像出来ないのです。職場の見取り図をパズルのよーに、脳内で描けない(空間認識が鈍い)からだと推測します。

挙げ句の果てに、「邪魔だったら何か言ってくるでしょ」と開き直り、ふてぶてしく居座ります。文句言われた時のために、むげに怒りをぶつけられないよーな可愛い嘆願「ごめ〜ん ♪」を入念に用意しておきます。もし、キレられたら、こんな事くらいでキレる相手がおかしいと周りに思わせるよーな、周りの共感を誘う芝居を見事にこなします。

何十回と観てきた、ベテランのオバサンの生態です。

もひとつ云えば、出入り業者にたいして、おもて向きは如才なく親切に振舞い、陰では平気で後回しにしたり、長い間待たせたりもします。

力関係の上下に敏感だと言えます。軽い気持ちで差別します。社員と派遣の間でも、自分優先を主張するのは女性社員に多いです。女性は一般に選挙を棄権しません。なぜなら、既得権益はたやすく手放さないからです。

 

つらつら具体例を述べてきましたが、すべて繰り返し私が経験した実話です。勿論一部の人達ですよ、ただ積極的にこちらからコミュニケーション(気を遣うこと)をとっておかないと、こーゆー憂き目に遭遇することになるでしょー。

そーゆーサガがあります、世界の中心にいるのは自分だとゆー意識が確実に根付いていそーです。自分を「客観視」(鳥が空から見ているよーに全体を俯瞰する能力)するのは、いかにも難しいよーです。

そー指摘されても、認めたがらないのもまた女性なんですよ。「私はちがう、そんなひと(女)たちとは違う」と。

 

ダメ押しに、歴史を例にして権力者となった女性を見てみると…… 「中国三大悪女」と呼ばれた、呂后(漢代)・則天武后(唐代)・西太后(清代)が、玉座に座るときに見られた、共通する現象がある。

男とゆー生物は、ある日突然王位につけられても、王である自分を受け入れられずに四苦八苦するものらしい。自分に不相応な立場にビビる小心者なのである。慣れるまでオドオドしている。

卑近な例えだが、男はいきなり社長の椅子に座らされても、すぐには社長として振る舞えないのだ。

女はそーではない。いきなり王位につかされても、次の日には既に「女帝」としての貫禄を帯びて、平然と女帝然として振舞えるものだと云ふ。

穿った観方をすれば、玉座につかされて即座に事態を掌握し、スムーズに適応したとゆーよりも、女は恒に「女王然」として生きているとゆーことである。

社交辞令として、立場上は会社に仕え、家に仕えしていても、その本質は、「太っ腹な女王(世界の中心)」の意識なのでしょー。

すべての女がそーではないが、女帝の立場と、身近な例では息子に嫁を迎えた「姑」の立場とは相似形であろー。権力を握ったとき、欠かさずそれを行使する、それが女性の特徴である。

歴代の悪女の、最高権力者に成った際の切り替えの速さ(態度の激変)は、それは見事だったとか…… 

西太后は、近年に現れた女傑なので写真があるが……  若い頃は人目を引く美人で、老年になってからも小綺麗なおばさんである。女性は普通の感覚で、身を割くよーな出産の苦しみにも堪えるし、平気で他人に残忍にもなれるのである。その「普通さ」「何気なさ」の内に、女性の真の恐ろしさが窺われる。(彼女のお写真は、「魔除け」にもなりそー ♪、ここには掲載できない雰囲気があります)

 

__ 最後に、類まれなる「心揺さぶる歌声」をもつシンガーをご紹介しておきましょー ♪

リーマンさんが注目なさったアーティストなので、(伊勢白山道の引用は厳禁につき)、出来るだけ正確に彼の審神をお伝えしましょー。

・彼女の声は【二重波動の癒やし】を持つ珍しい声であること

・彼女の声の波動は、【チベット密教僧が読経するときの波動】と同じ意味をもつこと

[※  2017年2月11日のコメント欄にて、読者の質問「現在活躍している歌手・俳優のなかで光っていると感じる人は?」に応えて、上記のリーディングを披露する。そこに添付されたYouTubeの引用曲は『誰より好きなのに』の「MP3」版でした。]

 

それでは、特別な「癒やしソング」をあなたに…… 

古内東子『だいじょうぶ』『誰より好きなのに』をお聴きになって、怒りで真っ赤になられた御心をお鎮めになって給ふ。

この、ロンパリ(賢い)で蓮っ葉な風情なのに、咲う(破顔)と上品で不思議にあたたかな東子さん、私は伊勢白山道で注目される前から、ヘビー・ローテーションしておりましたよ ♪

 

古内東子  大丈夫

SMDR公式HP「otonano」で定期公開される映像プレイリスト「極!音楽映像万博」第6弾、“CITY POP魂🔥”の1曲として公開。 ...

youtube#video

 

【TBS系の東芝日曜劇場『オトナの男」主題歌(1997年)】

 

古内東子 - 誰より好きなのに Music Video

1996年5月22日リリース 7th.シングル 「誰より好きなのに」 MUSIC VIDEO

youtube#video

 

【 YTV・NTV系ドラマ『俺たちに気をつけろ。』挿入歌(1996年)〜保阪や袴田と中谷美紀が共演した、卓抜なストーリーが記憶に残るドラマ、弁護士役の保阪が車椅子にのるよーになってからが、頗るカッコイイ ♪】

 

__愛されるために微笑んでいよーと決意する、これは妊娠前の雌女、

愛するあまり微笑んでしまう、これが聖なる母御の大母性(=女神)、

その子は一生死ぬまで「おかあさん」のその聖母の微笑みを忘れない。

 

それなのに、嗚呼それなのに……

近頃はその母親といえども、子ども達の一番の味方ではない。

何が可哀相といって、幼い自分のすべてを任せきった母親から、そのいたいけな生命を絶たれる幼な子ほど、憐れな者はコノ世にいない。

母性に目覚めることのなかった女は、かくも残酷な所業ができるのである。幼な子にとって、「母」とは神に等しい存在なのに…… 

人類の有史以来、いかなる聖者といえども、母親の胎内から産まれなかった者はいない。

 

  女をば法の御蔵と云うぞ実に    

  釈迦も達磨も

ひょいひょいと生む (一休)

 

女をば法の御蔵というぞげに、

釈迦も達磨も

出ずる玉門     (一休)

 

[※  ふたつのバージョンを載せました。「法の御蔵(のりのみくら)」は、仏法を内蔵する有難い蔵。「玉門(ぎょくもん)」は、解りますね、大事な処です。]

            _________玉の海草