『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

(🥛)  乳粥日記 ❶ ❷ ❸ 〜小鼓のような柏手

2023-12-28 01:06:07 | 雑感

⚪️‥‥ 20230101

 “ 小さい仏教と大きい仏教 ”

 

昨今は、東京🗼でも僧衣(袈裟)の坊さんが街角に立って、布教しているようです。

かれらは、日本🇯🇵の伝統仏教(お寺)の僧侶ではない。

スリランカ🇱🇰、ミャンマー🇲🇲、ラオス🇱🇦、タイ🇹🇭などのいわゆる「南伝仏教」の坊さんなのである。

昔は、かれらは「小乗仏教」と呼ばれたが、小乗(小さな乗り物)と呼ぶのは、大乗仏教側からの差別であり、蔑称だということで…… 

テーラワーダ仏教(上座部仏教、あるいは部派仏教)と正式に呼ばれることとなった。

 

日本には大乗仏教しか伝わっていないから、馴染みがないのだが…… 

大雑把にいうと、

・テーラワーダは、自利(個人の悟り)を追求して、

・大乗仏教は、自利利他(すべての人びとの救済)を追求します。

 

テーラワーダは、輪廻転生から解脱する「阿羅漢の悟り(灰身滅智)」であり、

大乗仏教では、衆生済度を目的とする「仏陀の悟り(無上正等覚)」であり、その行動は菩薩行となる。

 

最近になって、テーラワーダ仏教の スマナサーラ長老 が、『般若心経は間違い?』(2007年刊)というタイトルで、新書を出版された。

 

【かなり学問のある人という印象をうけるが、どうも日本で云う「上人」と敬われるお顔ではない。ときどき人相がなあ〜底意地がわるいような、なんとなく怖いお顔である】

 

葬式をとりしきり、墓を守ることで、漫然と生きながらえてきた日本の伝統仏教にとっては、スマナサーラ長老の激しい非難は、おなじ仏教徒からの内内の指摘として、襟を正す機会となったのではあるまいか。

スマナサーラ長老は、哲学の勉強をみっちりされた方で…… 

大乗仏教を産む原因となった、龍樹の哲学については高く評価しつつも、龍樹の仏教僧としての実践(仏道)に対しては烈しく攻撃している。

なぜなら、釈尊は形而上学や哲学を仏教に持ち込まなかったからである。争論のための哲学談義などもっての外だったのである。

それを龍樹は、「空」の哲学を押し立てて、釈尊の仏道を捻じ曲げてしまったというのが、スマナサーラ長老の説く処である。

 

一見するところ、小乗と蔑まれたテーラワーダ仏教が、大乗仏教の到達点である日本の仏教を攻撃している構図なのだが…… 

大乗サイドでは、小乗サイドの仏典や行法も尊んで研究する姿勢をとっているのに対し、小乗サイドでは大乗仏典を一切認めないで、小乗で定めた「お経(パーリ語やサンスクリット語の経典)」しか承認しないのである。

正統に継承されていれば、それもひとつの姿勢と見識とも言えるのだが…… 

スマナサーラ長老のスリランカ🇱🇰のテーラワーダ仏教は、歴史上2回も失伝している

法灯が途切れているのである。

おまけに、テーラワーダ即ち「上座部」を名乗っているが、

釈尊歿後の第三結集において、伝統的な上座部の教えに反対したのです。つまり、上座部の代表的な「説一切有部」から分かれて「分別説部」と呼ばれるセクトとなったのです。

 

「結集(けつじゅう)」と呼ばれる、仏弟子が一堂に会しての「釈尊はこのように仰ったよね」と確認する会議が、100年毎くらいに開催されたが(最初はすべて暗誦による口伝で、文字で記録されることになったのは第4結集から)…… 

やっぱり仏弟子のあいだでも、認識の違いは生まれてきたようだ。

 

釈尊歿後100年で、仏教教団は二つの部派に分裂した。

【上座部(じょうざぶ、保守的な長老たち)】

【大衆部(だいしゅぶ、革新的な一般僧たち)】

[※  部派仏教が国から保護されると、どうしても貴族的な学問仏教になってしまう。いきおい、現実から乖離してポピュラーなものから離れてゆく。そうした状況に不満をもつのは、いつの時代も一般大衆である。

日本でも、比叡山や高野山は貴族仏教だったから、鎌倉の新仏教が庶民に浸透して大衆化させたのであろう。]

それ以降も、分裂をくりかえし、部派仏教と呼ばれるセクトに分かれていった。

最終的に、上座部と大衆部あわせて合計20部派のセクトが出来上がった。

スマナサーラ長老が所属する「分別説部」は、この20部派にも入らない、上座部から異端扱いされているマイナーなセクトなのです。

それでも、そんな部派仏教も次々と滅びて失伝していって、まがりなりにも「三蔵(経・律・論)」が揃っているのは、この「分別説部」だけなので…… 

スマナサーラ長老たちは、まるで上座部の代表のように「テーラワーダ仏教」を名乗っているというわけです。

 

この部派仏教は、二回失伝しているほかにも大きな問題を孕んでいます。

「分別説部」の三蔵は、5世紀のスリランカ🇱🇰僧・ブッダゴーサ(仏音)という人が、個人的に編集したもので、仏教の伝統的な正統性は無いのです。

釈尊の経典よりも、ブッダゴーサの説のほうが権威があるのですから、困ったものです。

最近になっても、マハーシ(1904〜1982)という僧侶の瞑想センターが人気があって…… 

その結果、テーラワーダで行する瞑想は、本来「止観」といわれる

サマタ瞑想(=止)

ヴィパッサナー(=観)瞑想

の二つのうち、ヴィパッサナー瞑想に偏るようになっていまいました。

 

こんなに、仏教教団として問題をかかえているのに、

「わたしたちの説く教えは、釈尊の教えを踏襲する原始仏教である」と主張しているのですから、困ったものです。

テーラワーダ仏教というのは、日本で行われている大乗仏教のことは、釈尊の仏教として一切認めていないのです。

 

何故、こんなにも不完全な「テーラワーダ仏教」が、日本人に訴える処があるのかというと…… 

かれらは、かれらの修行メソッドで「悟った者」を実際に輩出しているからです。

かれらには、仏教修行の実践があるからです。

かたや、わたしたちの伝統仏教である大乗仏教では、高度な理屈でいいまかされることはあるものの、「悟り」や「解脱」にたいして、明確な方法論を持ち合わせていないのです。

私たちにとって、坊主とは宗教実践者ではなく、「葬式仏教」のエージェントに過ぎないのです。葬式担当のビジネスマンに堕してしまっています。

スマナサーラ長老は、「アンガー・マネジメント(怒らない)」の本📕を出版したり、仏教僧として仏説から「生きる智慧」を提供しています。

宗教者として生きているのです。

日本には、宗教者としての坊主が何人いるのか、ほんとに情けない有り様に泣けてくる。

伊勢白山道は、「宗教は無くなります」と予言しているが、そうでなければならないと思う。

現在蔓延っているような「職業宗教者」は本来いらないのだ。

仏教者は、釈尊も云われたように「流れにさからう者」である。だから、世間を出る=出家というのだ。

アウトサイダーであり、アウトローである坊主(仏教者)が、世間から受け容れられるために戒律がある。

日本の坊主は、戒律も自分律ももっていないからね。

こうした大乗仏教の腐敗ぶりを目の当たりにすると、スマナサーラ長老の怒り💢も分かるような気になる。

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⚪️‥‥20231231

 “ 最高の女性ヴォーカリスト、山下達郎にコーラスを教えた無敵の女 ” 

 

わたしらの世代は、フォーク音楽も知っているし、ニューミュージックの黎明から知っている世代だ。

シンガー・ソングライターが出始めた頃に、十代を迎えている。演歌・歌謡曲から〜フォーク〜ニューミュージック〜そのまま洋楽へという、夥しい変化量はそれは凄まじかったものだ。

そのころの象徴的なアイコンといえば、いまも活躍しているユーミン中島みゆき吉田拓郎・井上陽水から山下達郎に続く天才たちの系譜のなかから、彼女が露われた。

はっぴいえんど(細野晴臣、松本隆と親密)・ティンパンアレイシュガー・ベイブでも、コーラスに参加したりしていたから、彼女の声は早くから耳に馴染みのあったものだったんだよね。

あらためて聴いてみると、70年代後半からは、目立ったヴォーカリストだったんだね。

 

ただ、雷⚡️を落とされたような衝撃を感じたのは…… 

1981年に、FMラジオ📻から鳴り響いてきた「TOWN」だった。なんだこのグルーヴは!、黒人そのものじゃないか、ブラック・ファンキーですよ…… 

 

日本人離れした黒人的リズム感覚をもって、鮮烈にデビューした久保田利伸が顕れる、あの「TIMEシャワーに射たれて…… 」がリリースされる5年前のことですよ。

松田聖子のデビューが、前年の1980年でした。

まず、聴いてください。「TOWN」(1981)

【アルバム『Monsters In Town (1981)』の最初の曲が、Town 。2曲目も佳いよ、2. 06:19  Lovin´ You 、美奈子さんは、高揚と抱擁が交互に来ますね。】

 

あの時代、こんな曲聴いたらブッ飛びますよ。

なんか聞いたような、知った名前じゃないかと思って…… 

どんな女なんだと、音楽情報誌なんか見て、ぶったまげましたね。こんな髪型している女は当時いなかった。

根性入っているなと、感服した覚えがある。

ただ、お声は限りなく優しく、包み込むような大母性がある。人間離れしてるんだよね。

 

 

 

キャー♪、美奈子さん、突き抜けていらっしゃる。とんでもない人間力なんだよね。

ミチコ・ロンドンはUK🇬🇧なんだけど、どこか美奈子さんに似ている気がする。

 

ユーミンや中島みゆきからも天才シンガーソングライターと言われていたし、あの生意気な凄腕メロディメイカーで杏里成り金と云われた角松敏生さえ、美奈子姐さんのことは崇めておられる。

大瀧詠一「夢で逢えたら」(1978)も、歌いこなして大瀧を感心させている。

次の「恋の流星」(1977年)もその当時の作品。

 

 

アンルイス「恋のブギウギトレイン」(1979年)の作詞も手掛けている。

 

🗼FM東京『サウンドストリート』で流れた(1980)、美奈子さんと達郎のデュエット。コメント欄📝にこんな書き込みがあった。

> 達郎さんが、日本で一番歌が上手い女性歌手は美奈子さんだと言ってたのを思い出しました。

Niteflyte の知る人ぞ知る伝説の名盤からの一曲だが、SMAPの「がんばりましょう」の元ネタの曲 “ You Are ” もこのアルバムだった。

 

 

この “ If You Want It ” からインパイアされて出来た曲が、誰もの人生を鼓舞するギター・カッティング🎸曲 “ Sparkle ” (1982)である。

【以前貼った動画が削除された🆑から、替わりに2023年の公式MVを貼っておくが、この新しいMVは好きではない。「スパークル」がリリースされた80年代のウネルような陽性の爆発力💥が感じられない。こんな無機質でパステル調の楽曲ではないんだよね。わたしは、「プラスティック・ラブ」に匹敵する「魂を鼓舞する曲」(地面を踏みしめるリズム)だと思うんだよね。

達郎は、サブスクにも手を出さないように、著作権©️にすこぶる五月蠅いアーティスト(アルチザンか?)なんだよね。おそらく、YouTubeで自分の曲を使った気に入らない動画があると、抗議して削除🆑させてるんだと思うんだよ。

金や契約で苦労した達郎だけに、その気持ちや拘りは分からんではないけど、いまの時代感覚ではどーしても狭量に映るのは否めない。ジャニーズ問題でも老害扱いされていたし、恩義を忘れない昔気質の職人そのものですね、ただそこが達郎の良いところでもあるんですね。まー、アーティストは作品がすべてですよね。達郎の替わりは誰もいないものね。】

 

 

 

1978年のアルバムから〜

1. 00:00 愛は思うまま (Let's Do It)  

3. 09:03 時よ (Time)

4. 12:38 海 (The Sea)

【このアルバムは、美奈子さんはあんまり納得していないようなのだが、良い曲が多い。まー、EW&Fが本来の自分たちのサウンドではないと言っていた大ヒット曲『ブギー・ワンダーランド』みたいなものですね。レコード会社の圧力が強かったんだろうね。達郎も当時苦しんでいたもの。】

 

1982のアルバムから〜

1. 00:00 Light'n Up

2. 05:49 頬に夜の灯

4. 14:46

【デュエットの 4.「風」も佳い、渋いし温かい。美奈子さんの純粋な資質がよくあらわれたアルバム】

 

80年代の末尾を飾るアルバム。この頃、美奈子さんのご主人が亡くなって、精神的に一番大変だった時期の作品群。

【2. Gifted 5:23  は、けだし名曲。大聖堂(カテドラル)のミサ曲みたいな荘厳さに厳粛になっちゃう。】

 

 

__ 最後に、90年代の名曲アルバム『EXTREME BEAUTY』(1995)から

3〜4曲目の「Mistic Paradise 9:29 」「Coco 16:15」が心揺さぶられる曲、

竹内まりや「プラスティック・ラブ」山下達郎「スパークル」に通じる、魂を鼓舞するヴァイブレーションが堪らない。

 

__ 美奈子さんも、現在御ん歳70歳になり、ちょっとぽちゃとして、可愛らしくなられた♪

まるで魔法使いのような、深い眼差しをしておられる。

可愛いおばあちゃんになってて、安心する。この御方は、菩薩や如来であっても驚かないであろう。

わたしは、おそらく吉田美奈子を信仰している。

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⚪️ ‥‥ 20231227

    “ ぽんぽんと気持ちよく柏手を打つには ”

 

この15年、神前での拍手👏で、鼓を打つような妙音(ぽんぽん)を出せるように、日々試してきたが…… 

ようやくこのごろ、ほぼ確実に鳴らせるようになった。

 

わたしの拍手のやり方は、伊勢神宮の神官の拍手(両手を重ねてから、両掌をずらして拍手した後に、ふたたび両掌を重ねる)とは、異なるかたちになったことを予めお断りしておく。

 

まず、下準備として、

・リラックスするように、揃えた両足のかかとを三度上げ下ろす(合気道で、重心を落とす時に行う基礎動作)。胸のあたりで、てのひらを上にあげてから下におろす(二回)。「意識を下に、重心を下に」、武道の自然体を心する。

・ まず両掌を合せて腕を前に伸ばして真っ直ぐに。そして、心持ち胸元方向に引き寄せる。(拍手👏は、余裕をもって打った方がよい)[20240502. 付け足し]

…… 最初から胸元で掌を合せてもよいが、叩く時に力が入り過ぎるキライがある。肩に力みが入らぬように、身体をほぐしておくと良い。

 

 

  二拝

1)両掌をズラさずにピッタリと合せる。

2)中の三指を揃えてから、

親指を上の方向に小指を下の方向に、すこし離す。

親指と小指の合わせた先を「こころもち」離す。

 

このときに、親指の反らし方が「PON音の鳴る空間」を造る。

[※  掌全体を脱力してゆるませる。但し、ある程度緊張していても両掌の空間の形がよければ、PONと鳴る]

親指のねもと「金星丘」と小指側の「月丘」が軽く接する。

[※   漫画『刃牙』で取り上げられていた赤ん坊の拳の握りがヒントになった。この究極の正拳突きのためのグリップを参考にした]

 

 

3)三本(人差し・中・薬指)の指先のみをかるく接する感じで、掌(たなごころ)の窪みで音の鳴る空間を意識する。[※  掌の脱力か緊張か、どちらでも良い]

4)勢いを念頭にこめて、(10センチ位離して)ぽんぽんと潔く打つ。

左手が「《  」の形で、右手が「  》」の形を取る。両掌の「くの字」の頂点同士を勢いよくぶつからせる感じ。そのとき、両掌の「くの字」で形成される「菱形◆」が両側から押されて、「一本の棒」と化す。菱形の空間内の空気が勢いよく噴出される。

ちょうど井桁を畳むように

それは、ぽんぽんと妙音となって響き渡る。

  ニ拍

4拍(出雲系)や8拍(伊勢系)の場合には、打ち終わったあとに、そっと音の鳴らない【陰打ちを1拍添える】のが定法であるようだ。

  一拝

 

…… ひとつひとつ着実に間違いなく履行すると時間がかかるが、そのくらいの心の余裕と落ち着きはほしい処だ。

かくて、能舞台で鼓を打つときの、ポンポンと明るく朗らかな音色が響き渡るわけである。

掌内の空間を無心に感じとると、妙音の鳴る形というものがあるような気がする。

 

__ ここで参考までに、山蔭神道の表博耀先生の拍手を紹介しておきます。古義に基づいたといいますか古式に則った「音が割れない、竹🎋を割ったような拍手」を詳しく解説してくれています。

【動画の、6:10秒あたりから、両掌をずらす拍手の古義とやり方を実演して下さっています。神社庁の神主の奏でる正統的な拍手の型です】

 

白隠さんの「隻手音声(せきしゅおんじょう)」の公案を思い出す。

両掌相打つと、音声を生ずる。

その音を、神をお呼びする声(合図)にしているんだねえ。

神聖な音だから、なるだけ、ぽんぽんと気持ちのよいものにして奉納したいものだ。

小鼓を打った音色ってものは、乾いて円やかで天に達しそうな音だものね♪

     _________玉の海草

 

 

 

 


(🍶) blog 内 twitter 「どの口が言うか!」

2023-10-20 10:33:50 | 雑感

●「渋谷に来ないで!🎃」のロゴが素的(20231029)

さすがは、渋谷ですねえ。

地名どおり「谷」だから、水象の土地柄なんだよね。

街のアップダウンも激しめだし、それがいい風情を醸している。渋谷は、タワーレコードと東急ハンズに通ってたんですよ、埼玉・杉戸から遥々と。

それだけ魅力のある、ひとの集まる霊地なんだろね。

渋谷駅の連絡通路には、岡本太郎の大壁画『明日の神話』も鎮座していますしね。

『呪術廻戦』でも、いま「渋谷事変」を放送中で…… ベタベタ貼られたり吊るされたりしている「渋谷に来ないで!」のロゴに囲まれると…… 

異世界に呑み込まれそうな氣分になる。

『明日の神話』の中央の骸骨は、メキシコ🇲🇽のドクロ信仰をも象徴するものだし、呪術師の伝統「トルテック」、つまりカルロス・カスタネダのブルホ(呪術師ドン・ファン)にも関連するものでもある。

おなじ時期に造っていた、『太陽の塔』とこの『明日の神話』は、まさに陰陽☯️を成すものだが…… 

『太陽の塔』の三つの顔も、メキシコに原型があるとも言われていますね。

『ジョジョの奇妙な冒険』の冒頭、「石仮面」も生け贄の神具だし、伊勢白山道によればインカやアステカ・トルテカの神さまは、奈良の大神神社⛩️の大物主大神であり、宇宙から渡来した地球規模のおほがみ様であるらしい。

そんな生死を司る境界が、渋谷にあるのではないかな。

この「渋」のフォントが大気を締めているような気がするんだよね。

センター街の入り口、「大盛堂書店」の店主が、『ゴールデンカムイ』の「不死身の杉元」のモデルであるらしいし、…… 

実写版が撮られていることも、渋谷の磁力🧲に関係するかも知らんね。

ヒロインのアイヌ少女のアシリパさんは、こどもの顔した珍しい女優・山田杏奈だし、白石を演ずる矢本悠馬も佳きかな。

なかなかの面構えの俳優が揃っているんだよね、あの変態だらけの突き抜けた『ゴールデンカムイ』を、戦争の狂気とともにうまく描けるものかしらね。

時代柄、アイヌ人〜ロシア🇷🇺、アイヌとまったく同じ顔した沖縄人〜中国地🇨🇳、このシンクロもあるのかも知れない。

時代の底流が、おおきく動き出している感触がある、どうなるものか。

_________

 

 

 

20231020

🔴  上皇后陛下美智子さまのお誕生日を祝して、

ゆかりのあるお花(私の一番好きな花でもある)について、昔の拙稿に美しい画像を添えて、再掲したい。

 

御所のお庭にMY悲恋」

[2012-06-09 18:19:31 | 玉の海]

 

ゆふべ、仕事の道具を買いにいったついでに立ち読みした本『御所のお庭』(扶桑社刊) に、目が釘付けになってしまいました

【マイヒレン(舞妃蓮)と呼ぶ花だとか

御所の北庭に咲く、その氣高くふんわり優しい佇まい(写真)を目にした時

その、あまりの美しさに陶然となった!

睡蓮の仲間の蓮花なのだが

昭和35年に、両陛下が米国をご訪問された (ご結婚後初めての海外旅行) 際に、

日系人から贈られた黄蓮の実を大賀博士が開花させ、皇太子殿下に因んで 王子ハスと命名される

この王子ハスと、古代の大賀ハス(3000年前の種子より)とを掛け合わせ、長い年月をかけて作られたのが、この大輪の優雅な花を咲かせる【舞妃蓮】である

これを作り出した阪本氏は大賀博士のお弟子さん

最初は「クラウン・プリンセス (皇太子妃) 」と名付けよーと思案していたらしいのだが、

上京して東宮御所で当時の両殿下にお目にかかった後に     【舞妃蓮】 と名前を改めたものらしい(ほんとうは、My悲恋なんだよ、きっと)

美智子さまのご印象を彷彿とさせる、聖なる花である

 

 

 

【画像=「球わかば.net」https://tamawakaba.net/maihiren_2017/より】

 

 

 

御所通用門から内玄関へと続く途中の左側、

生け垣の向こう側には、

50坪ほどの薔薇花壇がある

昭和40年に、英国のアレクサンドラ王女が来日された際にもたらされた

オレンジの花弁も美しい新品種のバラは、翌41年にイギリスにおいて、

正式に 「プリンセス・ミチコ」 と命名された

 

淡いクリーム・ピンクの、優しい色合いの花びらを持つ

 「エンプレス・ミチコ」 と共に、

英国・北アイルランドのバラ種苗会社・ディクソン社の作出になるものである

 

まあ! 上品この上ない雰囲気をもつ薔薇の花である

このバラ花壇には、もう一つ忘れられない薔薇がある

其名も 「プリンセス・サヤコ♪」 ―昭和57年、仏国のミッテラン大統領夫人・ダニエルさんから贈られたものである

こちらは、オレンジがかったサーモンピンクの花弁が、いと可憐で繊細な風情を醸し出している

御所のバラ園に、仲良く母子の御名を戴くバラが咲き誇る

先頃、美智子さまの語録が出版されていたが

その中で 紀宮には (どこか) 楽しいところがある とお話しになっておられた

黒田清子さんは、ご一緒に話したら、きっと樂しい女人だと思ふ

彼女のお印であった

「未草(ひつじぐさ)―その、白く凜呼たる清楚な睡蓮花も、御所のお庭には咲いている

_________

 

 

 

 

● 新ドラ『いちばんすきな花』

今回第二回をみて、ようやく何を描きたいかが分かったんだよね。(TVer で初回分を改めて見直しましたよ)

正直ゆーと、多部ちゃんでているから観たけど、初回はつまらなかったんです。

 

よくあるマイナス志向の、幼い時のトラウマを引きずっている人びとが次から次に現れるわけですよ。そら、つまらんわ。前フリが長すぎると思った。

クアトロ(四人)主演とか謳っているものだから、それぞれのキャラを説明しなければならない初回だったのだろう。

 

 

『silent(サイレント)』のスタッフが作ったんだってね。気になる台詞がよくあったから、脚本はよく出来ている。

人生における「ふたり組」の在り方  にフォーカスしたもので、

「好きな人とふたり組に成りなさい」と言われて、うまくパートナーを見つけられずに、

最後にひとり余ってしまう

そんな引っ込み思案の「つきあい下手」を四人集めて、テーブルを囲ませて、彼らがほっと安堵できる居場所が初めてできる物語なんだねえ。

世間で暮すなかで、思いが通じないことを、期せずして囲んだテーブルで吐露すると、いままで決して得られなかった「共鳴」が連鎖しあう居心地のいい時間が流れる。

 

独特の視点ですね、それだけ理解されないマイノリティが多いということなんですな。(オードリー若林と水卜アナの『おかえり、こっち側の集い』も面白いものね、いままで明るく仕上がった、テレビ向きのキャラ(あっち側の人)しか、テレビ的に許されなかったのだから、初めて見る裏側の事情なのですね。

こっち側の人が四人いて、主演だなんて新しいね。

 

クアトロ主演なんて言っても…… 

現実に主演がつとまるのは、多部未華子しかいないのです。(NHK『これは経費で落ちません!』続編を蹴って、このドラマに決めたんですね。相手役の重岡くんが『単身花日』の主演に決まったから、続編を断ったんでしょ、残念ですね)

他の三人は、どこか足りないというか、欠けているピースがあるんだよね。主役になれる、役者の幅と奥行きに欠けているんです。それが、今回のドラマではピッタリと欠落部分に役柄がハマるのだから面白い。

今田美桜は、その最たるものですね、このドラマでは彼女のヒリヒリするいびつな個性がよく映えています。

主演男優ふたりも、引っ込み思案の弱腰おとこがよく似合います。地でやっても務まりそうです。

かれら全てをまとめるのは、やっぱり多部ちゃんなのだろう。(一番好きな花は薔薇🌹、王道を愛する多部ちゃんなのだ)

 

それにしても、こんなにピアニッシモが響くドラマは、 映画『Love Letter(1995)』 以来かしら。

あの、岩井俊二監督の名作は、主演のふたりに少年時代のふたり、この四人の役者のすべてが 「魚座♓️」 の生れという、極めて珍しい雰囲気の映画なんです。

 

【中山美穂♓️と豊川悦司♓️】

【少年時代を演じた、酒井美紀♓️と柏原崇♓️、柏原くんは弟さんもイケメン俳優だが、この「神のマスターピース」とも言うべき美少年ぶりには驚かされたものだ。現在は、内田有紀のマネージャーしてんだってね、さすが柏原くん♪】

 

 

あの、弱々しく繊細なのだが、神々しくも、芯の強い「発光体」のような愛情濃やかな主人公たちを描いた、そこはかとなく移ろう「もののあはれ」を写したような映画🎞️でしたね。

 

縁の下の力持ちのような、目立たない陰の人柄が注目される時代になったのかしら。

若者たちの「つきあい下手」は、危険水位に達したようで、「おひとり様」でも生きられないし、複数人でも深く付き合えないと来ている。

生き残るために、もっと真剣にならないといけないと私は思う。

このドラマは、来週も観よう、テーブルでの会話がなかなか聞かせるのよね。

滅多に聞けない、謙虚な人びとの声と感性に、しばし耳を傾けてみよう。

      _________玉の海草


(🍶)  ブログ内Twitter みたいな感じ

2023-10-10 16:50:53 | 雑感

__ Twitter が、亡くなったからでもあるまいが、随筆としてまとまらない「つぶやき」を書いてゆく。精神衛生上、心の内に溜め込んでおくのは良くない👎。

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● 20231011

“ 芯から驚いた恋愛ドラマ ”

この間終わった、フジテレビ月九ドラマ『真夏のシンデレラ』は、予想通りの記録的低視聴率だったようだが、放映前からほんとうにビックリした。

あのヒロインはいけないでしょう。

そりゃあ、十人並に可愛いし、例えば彼女が主人公を追いかける設定なら、ギリギリいけそうだが…… 

あの女優で、あの女性像ではモテないでしょう。

多数の男女が入り乱れる恋愛群像劇で、ヒロインがモテないんじゃあ、妬み嫉みの強力なパワーが出ないのだ。

ヒロインを間違えた、特筆すべき恋愛ドラマと言えよう。

 

いま注目されている『パリピ孔明』でも、ヒロインが器量不足で、孔明を翻心させるほどのカリスマ的な美声にふさわしくない。

けど、作中主人公が憧れる世界的シンガー、マリア・ディーゼルを演じるアヴちゃん(女王蜂)のヴォーカルは将にカリスマ性がありましたね。

 

 

音楽ドラマで、「ヒット曲」である設定で作中演奏歌を作曲して、そのまま流行らせる実力をもっているとは、アヴちゃんとは何者ですか?

昔、ドラマ『チャンス』で、三上博史演じるロックスター・本城裕二のヒット曲を作らされて、そのまま現実界でもヒットさせた久保田利伸以来の快挙じゃないかな。

「HANG OUT」と「夢 with YOU」よね、懐しい♪

「ドラマのために、ヒット曲を作曲してください」って言われているようなもんだからね。

ヒット曲だという設定の挿入歌を、そのままヒットさせるなんて、並大抵の実力では成し得ないことよ。

あの頃の久保田利伸は、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのは間違いがない。ほんとに輝いていたものだ。

 

何か、最近の恋愛❤️ドラマには、根源的に齟齬がある。恋愛やら愛欲やらに高感度をもっているスタッフがいないのかも知れない。(恋愛不感症ですね)

この二作ともに、ヒロインに関しては酷いキャスティングだよね。あきらかに違うでしょ。

たぶん、日本では恋愛ドラマは最早需要がないんだよ。

中国の「寝そべり族」に、国を挙げて「恋愛作法」を教えようとしているのと、ほぼ同列なのではないかな。

おもしろい生態であるね。

 

車🚗も要らない、恋人も要らない、自分の好きなこと優先で、孤独も厭わない。

そこに間然するところはないね、見事なもんです。

わたしも、いま若者だったら、そうするのかなあと自分に問いかけている。

目の前にそれしかなかったら、それを捕食するしかないもんなあ。

 

80年代の青春と、どちらがどっちとも言えないようだ。

80年代は、身体性と体験があった。

2020年代は、そのどちらもバーチャルなものだ。

まー、あるにはあるんだが、脳内に汎用的なソフトが存在するのだろうか?

 

eスポーツの達人が、F1レーサーに成ったりしているようだ。

今は消えてしまったが、戦闘ゲームの達人で格闘家になった人もいて、その理合いに感心した覚えがある。ただリアルの世界では、不意打ちがあるから、それでテレビ実験されて失敗したみたいだね。

ゲームは向かっている時点で、戦闘態勢を取っており油断はないわけだから、任意の不意打ちを察気する現実の危険さには対応できなかったのかも知れん。

それでも、本当に武術の本を著したのだから、大したものです。数々の名言を読み取りましたよ。

まー、すべてを脳🧠の反応速度に帰結させることが出来るものなのか、しとどに興味深い。

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● 20231011

“ 自分を「ちゃん付け」する幼稚さ ”

「欽ちゃん」や「九ちゃん(坂本九)」なんかは、ファンが呼ぶ時の愛称だから、いいのだが…… 

問題なのは、芸能人の正式名が「〇〇ちゃん」という風に、「ちゃん付け」されている場合だ。

いったい、〇〇ちゃんは今何人いるだろう?

・フワちゃん

・スギちゃん

・クロちゃん

・しずちゃん

・玉ちゃん(玉袋筋太郎)等々

 

自分で、自分のことを「フワちゃん」とか言っているのは、本当にこっちが恥ずかしくなるんだよね。

幼児とおなじですね。

なんでこんな商習慣が定着したのか?

「さかなクン」とか「なかやまきんに君」あたりが初まりなんだろうか?

そういえば、上皇后陛下美智子さまが「さかなクンさん?」なんて、呼び方に戸惑ってらしたのが可笑しかった。

なんなんだろうね、この自分に愛称をつけて、可愛く呼んでほしいという欲求はどこから来るのかしら。

 

その点、「あの」ちゃんは偉い と思う。

彼女の正式芸能名は「あの」であるのだ。

ただ周りが「あのちゃん」と呼んでいるだけなのだ。

彼女は、ご自分を指すときも「あのは…… 」と、ちゃん付けしないで、キチンとしている。

 

気のせいか、自分を「ちゃん付け」している芸能人は、何かバカっぽいキャラクターなんだよね。

スギちゃんは、愛すべきお人柄が伝わってくるが、他は「ちゃん付け」して呼ぶほど可愛らしくないんだよね。

日本人の戦略的な幼形成熟(ネオテニー)は、いまに始まったことではないものの‥‥ 

難しい漢字を避けたり、親しみやすく仮名にしたりとか、やることが随分と子ども向けのやり方なんだよね。

英語圏では、“ Call me 〇〇.” とか、(自分を〇〇と呼んで」と此方から呼び方を指定することも多いが…… 

自分を「ちゃん付け」して呼んでと、愛称を強要するのは何か筋違いなんじゃないかな。

仮想現実を、目の前の現実界に持ち込もうとしている試みとも受け取れるが。

いつまでこんなこと続けるつもりなのかしら。

頼むよ、日本人🇯🇵。

 

 

 

● 20231010(2023年10月10日の意味)

“「何曜日に生まれたの」ロス ”

飯豊まりえ、は中々いい役者だと思うのよね。

最初モデルというか、レポーターかグラドルの感じだったんだが…… 

振り幅のはげしい演技が光ります。

ピリピリする緊張感と、間延びしたような可笑しみとが同居している。

目が離れているからか、笑顔のインパクトが凄い。

今回は「こもりびと(「引きこもり」の別称)」としての、コミュ障のハラハラさせる怯え感と、親しいひとに見せる柔らかい顔が截然と分たれていて面白かった。

ドラマ『何曜日に生まれたの』より

彼(公文)はすぐ立ち去ったり、動揺を見せたりしない。

逃げ込める場所、物語の世界があるから。

> ここからは、リアルになる。

 

 

若手の女優はいいのが揃ってきているね。

蓮佛美沙子や、多部ちゃん(多部未華子)も独特の美しさだよね。

蓮佛は、バカっぽいが義理堅いイイ女がうまくて(ドラマ『今夜すきやきだよ』のアイコは楽しかった♪ 映画『君に届け』の女子学生も弾けた雰囲気が唯一無二)、

多部ちゃんは、色々主演しているが、案外と代表作は、NHK『これは経費で落ちません!』じゃあるまいか。制服とかフォーマルが似合う女人なんですね、これが。

このNHKドラマは、続編を作る予定だったのが、同僚の役者が変更するというので、多部ちゃんが断ったため作られなかったという曰く付きのドラマなんですね。

いかにも優秀な経理課社員を演ずる多部ちゃんの勇姿をもういっぺん観たいものですが、NHKは諦めるなよ♪

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●20231011

“ 酒田ラーメン🍜が日本一(ご当地ラーメン総選挙より)”

今回「酒田ラーメン」を出したグループは、老舗「満月」を中心とする「酒田のラーメンを考える会」とかの作品なんだと推測する。

酒田には、「新月」「照月」「花鳥風月」とか「○月」と名乗るラーメン屋が多い。さっき言った「満月」から枝分かれした、美味いラーメン屋の集まりである。

酒田のラーメンは、戦後に栄えた「横浜の支那そば」が原点であるらしい。魚介スープの醤油味で、私の小さい頃は「ラーメン屋」ではなく「支那そば屋」と呼びならわしていた。

うちの近くの「支那そば屋」は、中国🇨🇳の満州人の店主で、チャーシューが出汁を搾り尽された感じの脂み感のないパサついた感じの「馬肉」で、その乾いた食感も大好きだった。労働者向けのしょっぱいスープとチャーシューの相性も良かったように思う。「馬肉」はクセがなくて旨いのね。

酒田のラーメン文化は、誇り高いよね。

湊町酒田特有の荒っぽさと、酒田三十六人衆の「売ってやるよ」という居丈高な商売感覚が、「酒田は殿様商売だから」だと他所の商人から陰口たたかれる素因となっている。(東京で営業をしていた時に隣り合わせた、全国を巡る名古屋のベテラン商人が実感を込めて言っていた)

この「酒田三十六人衆」というのが、平泉の奥州藤原氏に仕えた武士たちが、酒田の地に移住して商人となったのだから、「サムライ商売」の気風は元々あったのですね。(三十六人衆の主筋は、平泉の秀衡公の妹御である、「徳の前」という尼御前だったので、無茶苦茶プライドが高い土地柄になっちまったんだよね)

サッカー⚽️の本田圭佑が「このラーメンになら二千円払う」と言ったとしても、たかがラーメンである。

わたしは、並んでまで食べたいとは思わない。

それなのに、誇りが「殿様商売」に向かっていって、随分と威張っているラーメン屋店主もいるんだよね。

「○月」という店(あえて店名は伏せる)は、食券買って食べるんだが…… 

いつも混んでて満席なんだよね、一回だけ行ったことがあるんだけど(20年前くらいかな)、客が食べているのを人相のわるい店主が座って睨んでいるんだよね。

失礼な人だなと、わたしはわざとスープを残して食事を終えた。

いくら、他店では真似のできない工夫と独創をこめているとはいえ、あの態度は根本的にいけない。それが分からないほど、常識がない処があるのが、むかし荒っぽい漁師町だった酒田の民度なんですね。

この無愛想さは、酒田の伝統なんです。

金持ちそうな人には丁寧に応対するが、そうでない人にはケンモホロロなところは、酒田唯一のデパート🏬「清水屋」でもそうだったと思う。

中町の商店街は、そうした清水屋に倣い、随分と無愛想だったと思う。「港座」という映画館での学生に対する態度は、そりゃ酷いものでしたよ。

そんな殿様商売してるから、酒田に初めてコンビニ🏪の「ファミリーマート」が出店したとき(35年前かな)は、酒田市民はある種の強烈なカルチャーショックに見舞われました。

ファミマでは、「いらっしゃいませ、こんにちは♪」と明るく大きな声で客を迎えるわけです。そんな文化は、それまで酒田には微塵もなかったのです。

下手に出て、丁重にお客様をお迎えする姿勢は、酒田商人にはないものでした。(酒田中心街周辺の在郷の人びとへは軽侮の眼差しを向けたものです)

それ以降、陸の孤島とよばれた酒田も、徐々に変わってきたようです。

 

そして、今回やっと本来の酒田ラーメンの実力を天下に示すことと相成りました。芽出たいことです。態度のわるい年寄りの店主はいるが、味は良いです。

わたしのひいきは、もう店仕舞いしてしまいましたが…… 

八文字屋書店のとなりにあった「松よし」というお店です。(もう一つは、遊佐町の大物忌神社へ向かう途中にある、あっさり中華そば『千鳥』も幼な子の頃から食べている、五十年通う名店)

「満月」(極薄の雲呑ワンタンが有名)の系譜につらなるのですが、東京の池袋で修業なさった店主が酒田で開いた「清宝苑」の姉妹店でした。「松よし」は女性の店主でした。

大阪帰りの、餃子🥟にうるさい私の舌を満足させる餃子も出してくれました。現在の「清宝苑」の中華そばとは、味が違いますが、相似た処もあります。「松よし」のスープは、一滴も残したことがありません。

まったくもって、至福の一杯でありました。

現在の「酒田のラーメンを考える会」の加盟店舗は、流石にうまいけどもスープの後味が、わたしに言わせると今一つなのです。ちょっと雑味が舌に残る感じで、スッと身体に浸み入る「松よし」のスープの足下にも及ばないのでした。

世知辛い酒田の印象のなかで、この「松よし」と市立図書館だけが、良き思い出の場所です。

平成の市町村合併で、在郷の飽海郡八幡町だったのに、名誉酒田市民に成り果せた私でしたが、あんまり嬉しくはなかったものです。でもまー、同じ傘の下に暮せば、敵愾心は薄まってくるようです。

コロナ禍で、酒田市からお金を支給されたこともあり、現在はこんな私でも、酒田のために一助になるように努めるつもりです。

       _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


《玉断》 ドリームキラー(夢の破壊者)は言う〜 「夢をもて ♪」

2023-01-08 04:44:02 | 雑感

🔴「夢をもて」なんて言い始めたのはいつから?

進学校において、成績のよい生徒は教育学部にはいかないとは、私の生の実感である。

「先生」と呼ばれる方々は、ほどほどで諦めた経験が多いと思う。

日本の教育現場は、最高の頭脳と徳性を持つ者からは避けられる処に、国策の根本的な誤りがある。教育者は、本来最高の者が担うべきなのである。

その学校教育の現場で、しきりに「夢を持て」と言われ出したのは、いつ頃のことなのであろうか?

 

こういう意見があります。

「夢を持て」と強要する、大人たちがダメすぎる

 

子どもの将来のために「よかれ」と思って、「夢を持て」と励まし続けた結果、子どもから言わせると「ドリーム・ハラスメント」になっていたと。

単細胞で善人づらした、ほどほどで諦めてきた凡庸な大人たちは、

杓子定規な善意から、子ども達の「ドリームサポーター」であろうとして、

かえって「ドリーム・キラー(夢の破壊者)」となっていることに気が付かない。

老子的な現実認識に欠けているからである。

 

 

北野武『新しい道徳』のなかに、こんな言及がある。

今の社会は、夢を持てとか、自分らしさを生かせとか、やたらとそういうことを子どもたちに強調する。
道徳の授業もそうらしい。

夢に向かって努力することが生きる喜びになる、なんて書いてある。
貧乏だった時代には、そんなこといわなかった。
「清貧」が、あの時代の道徳だったはずだ。
最近の道徳の教科書に、そんな言葉は見つからない。
清く貧しく美しくなんてのは、もう流行らないらしい。

節約とか節制なんて言葉もあまり見かけなくなった。
時代が変われば、道徳は変わるのだ。

 

夢をかなえた、ごく一握りの人にスポットライトをあてて、夢を見ろと煽る。宝くじの宣伝と同じ程度の話なのに、学校の教師までが、子どもに夢を持てなんていっている。

夢を追いかけるといえば聞こえはいいけれど、それはつまり輝ける明日のために今日を犠牲にするということだ。

夢なんてかなえなくても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。俺は心の底からそう思っている。

 

どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
贅沢と幸福は別物だ。
慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
人生はそういう風にできている。

 

人がほんとうに生きられるのは、今という時間しかない。
その今を、10年後だか20年後だかの明日のために使ってどうしようというんだろう。
昔はそういう人間を、地に足が着いていないといった。
夢なんかより、今を大事に生きることを教える方が先だったのだ。
まだ遊びたい盛りの子どもを塾に通わせて、受験勉強ばかりさせるから、大学に合格したとたんに何をすればいいのかわからなくなる。

 

…… 夢破れた凡庸な教師に、学校🏫で教えられた「夢を持て」を、そのまま何の疑いもなく子どもに教えている未熟な大人たち。

[※  昔はよく「でもしか先生」と言われたものだ。「先生にでも成るか」「先生にしか成れない」凡庸な成績の学生さんの行く末を揶揄した言葉である。]

「地に足を着けて生きる」と「夢をもつ」を両建てで進めるのが、成熟した大人のあり方であろう。

「夢を持て」といわれて、現実を見つめずに現実逃避し始めたのは、「団塊ジュニア世代」以降ではないかな。

つまり、きわめて底の浅い人生観といえる。

大人が子どもに厳しいことを言うのは、子どもの人生に責任があるからに他ならない。

夢ばかり語っているのは、精神年齢が子どもなのである。

 

 

🔴ポジティブ一辺倒な危うさ(薄っぺらな人生観)

戦後、自分たちの権利を主張するためにリベラルに便乗した「団塊の世代」は、欲望のおもむくままに「自分探しの旅」と称して、親や大人社会に逆らうようになった。

戦前の日本を全面的に拒絶した彼らは、権威という権威を壊しまくって飽きることがなかった。

その子らが子供を持つ頃には、調子に乗って「夢をもて」だの「有意義な人生をおくれ」だの、「自分らしく個性を磨け」だの、ポジティブ一辺倒なことを口走り始めた。

そんなことを言い始める以前の日本人は、つつましくささやかな幸せを尊ぶ「清貧」が皆の共有する道徳だったのである。(たけし談)

 

史上、ネガティブな思想の代表が、釈尊の「諸行無常」(すべては過ぎ去る)であろうか。

人生に、生きること自体に意味はない、自分が思っているほど自分という存在は確かなものではない。

ほんと、一見、救いようのない達観ですが……

深く思いを致せば(静観すれば)……

本当にそうだとすると、「前向きに生きる」とか「自分の個性を発揮する」とか「有意義な人生をおくる」とかと、別に肩肘はって自分の課題とする必要はないということです。

「自分探し」して、「生きる意味をみつける」なんて、生きてゆく上で特に不可欠なものではない。

それは、日本の高度成長期に全世界的に流行した、リベラルの一過性の思想に過ぎないことが腑に落ちてくる。

 

皮肉にも、親に反抗して好き放題に日本文化を踏みにじった「団塊の世代」の子供たちが成人して就職するころには、日本は「就職氷河期」を迎えていた。

過大な夢を抱かされて、その夢に敗れた子供たちは、ニートに堕ちていった。

 

75歳ー50歳ー25、「団塊の世代」の孫世代は、祖父母からも両親からも(日本古来のものではない)厄介な思想を吹き込まれて、いまがある。

二代に渡る反面教師と、同じ屋根の下で暮らすのも結構なストレスであろう。

往って還る、登って降りる、その帰り道や下り道にも見るべきものはある。

アンチエイジングではなく、エイジング(老い)で徐々に弱ってゆくことの中にも救いがある。

 

遺伝子🧬レベルの生存戦略では、人間はネガティブな情報(危険性)を優先させる。

ネガティブな釈尊と表裏一体、太陽族の王子だった陽気な(ポジティブな)釈尊もいることを忘れてはなるまい。

ポジティブ一辺倒なんて、疲れるし長続きしない。

無理が通れば、道理がひっこむのである。

自然体の内に、安らぎがある。(身の丈に合った分相応の境涯)

 

 

__ 夢を持っている人も、修行に打ち込んでいる人も、将来のために今の時間を使っていることでは同等である。

🔴「修行」を美化しないこと

使い古されて、スピ系の垢がついている言葉「修行」には、

何かしら努力し続けて、報われる図式みたいなウソを感じます。

タモさんの「ジャズな人」じゃないけど……

修行者なんて、「明日の(悟りの)ために生きている人」ですよ。「今を生きている」わけではありません。

ある目的のために、全力で努力することは、目的(例えば「悟り」)に対する凝視があるわけで、それは強い執着ということです。

いわば、明日への執着のために今日という日を犠牲にしている人です。

道元のいうように、修行に果てしがないのならば、準備し続けて終わる人生もあるでしょう。

 

 

__ 最後に、人類全体が己自身にかけた呪縛というか、ポジティブに言えば「夢」。異性と一緒になって幸せになる夢を持てと無意識にけしかけられているが、そのステレオタイプに潜む、本質的な二律背反の罠。リベラルの目指した「自由恋愛」は、社会的な結婚制度の崩壊をもたらした。

男の思い描いた「理想の女」、女の思い描いた「自分だけの男」、互いの夢は決して交わることはないのに、薔薇色のカップルになろうとする悲哀。

「夢をもて」とばかりに、高望みして現実を踏まえない無邪気さは、後年深刻な心のキズを刻むこととなるだろう。

以下の拙稿は、ブログ『伊勢-白山 道』のコメント欄では、不掲載だったものだ。なにゆえに拒まれたのか、かえって興味が湧いた。

 

🔴人類の男女ツガイ・モデルは崩壊したのか、自由になったら結婚しない皮肉

NHKEテレの特集で100分deフェミニズム』を興味深く拝見した。

お笑いの賢女バービーのMCで、出演者全員女性で、わたしの贔屓の上野千鶴子女史も出ておられた。

 

その筋では、名の通った論客を集めたものだった。

お一人ずつ、フェミニズムに多大な影響をもたらした著作を推薦しながら、話が進められた。

千鶴子さんのは、セジウィック『男同士の絆』であったが、男性社会における女性排除によるホモ・ソーシャルな構図女性蔑視と同性愛嫌悪を共有する男同士の仲間意識)が、イラストで図解されると、ほんとうに分かりやすく理解された。

家父長制そのものが、女性差別だったことに思いあたると慄然とせざるを得ないものだ。

日本の旧家や、庶民でも『寺内貫太郎一家』のような昔ながらの頑固親父は「家父長制」を礎にしている。

ヨーロッパからロシア・アジアまで、貴族から一般家庭までみんなそうである。お父さんは例外なく家庭の支配者だったのである。

女優の安藤玉恵ちゃんのロックな朗読も素的でした

 

【NHK朝ドラ『あまちゃん』にもご出演、あまりの色っぽさに仰天した、知性あふるる女優・安藤玉恵】

 

 

中美津・水田宗子・上野千鶴子の本をかじり、男女の溝について理解が進んでくると、同時にそのどうしようもなさにお手上げするしかないようだ。

ミロクの世の到来(2039年)、半肉半霊とは、最早男女のツガイでは人類は成り立たなくなっていることを示唆してはいまいか。

女に対する、大母性に対する、あらゆる幻像が完膚なきまでに破壊される体感がある。

天照太御神が輝かなくなったと言ってよい。

釈尊のサンガ(僧のコミュニティ)に女性を引き入れた阿難尊者は、果して正しかったのだろうかと、いまでも時々アタマを過(よぎ)る。

 

ービートたけしの云われた、戦前の日本人が尊んだ「清貧」の美徳。

高度成長期では、大量生産・大量消費を謳っていたから、まさしく「清貧」の逆のベクトルを進んだ。それがバブル経済が崩壊して、30年にも亘ってゼロ成長時代を続けた日本国は、また揺り戻して「清貧」の現実性に立ち返るのではあるまいか。

文字通りの「清貧」とは行くまいから、今流行りのコトバで「カチヘン(価値の変化)」ということになろうか。

NO MUSIC, NO LIFE の産みの親、箭内道彦が云っておられた。

特技を生かすじゃなくて、短所で生きるみたいな事がカチヘン(=価値を変える)だと思っている。

 

…… これは、アンチ・エイジングではなく、エイジング(自然に老いる)を受け入れることにも繋がる。「価値とは欠けている何かである」と言ったのは誰だったか?(サルトル?)

堂々と朽ち果てて、没落のうちに生を全うするといった風情になろうかのう。

欠けてゆくことを豊かさに転換する、生存のスキルをこそ「老人力」というのであろう。まだまだ、愉しみは続くのである、

青春が終わったら〜 朱夏〜 そして白秋〜 最期に玄冬

それぞれに、時分の花があるというもの、螺旋状にステージは上昇してゆくみたいですね。終わったら始まる、始まったら終わるもの、何の気なしに移り変わってゆく、そーゆーものであるということで、いいんじゃない。

        _________玉の海草


《ちょい言》 美しき日本の所作〜 居合の妙技 「逆手斬り」

2022-09-07 18:25:13 | 雑感

__ いま地上波で、🎬『るろうに剣心』シリーズを順繰りに放映しているが、佐藤健くんの居合や納刀は、よく訓練されていて美しい。彼は戦闘シーンでも、ちゃんと刃筋を立てて斬っているのですよ。

日本刀というものは、刃筋が通っていないと斬れないのです。

『るろうに剣心』の飛天御剣(ミツルギ)流には、刃を下に向けた居合が多い気がする。幕末に、新撰組が「薩摩の初太刀は外せ!」と云って怖れたのは、野太刀(薬丸)自顕流の斬り上げのことだそうです。

居合で、刃を下にして抜いて斬りあげると、内股の動脈や金的はじめ正中線上に致命傷となる刀疵をつけやすい。例の「きぇ〜い」という「猿叫」とともに下段から上段に斬りあげるのだから堪らない。

 

ー 逆手居合抜きといえば、黒澤明『椿三十郎』のラストの居合が有名である。詳細が探られて判明しているので、wiki を参照してみる。

弧刀影裡流居合術(ことえりりゅういあいじゅつ)は、九州出身の野瀬庄五郎が西南戦争に従軍した経験から編み出した居合術。

> 黒澤明の映画『椿三十郎』のラストで主演の三船敏郎が繰り出した技は、この流派の形(抜き手、切りかかる手に切りつけるもの)を参照して殺陣師の久世浩(久世龍)が編み出したものだとされる。

『「映画を愛した二人」黒沢明 三船敏郎』によると「逆抜き不意打ち斬り」という名で、心臓を切る技とされる。 映画では相手の室戸半兵衛役の仲代達矢が抜刀するより早く帯刀の刀を 左手で 逆手に抜き(元になった弧刀影裡流の技では順手に抜く)、刀の峰に右手を添えて刀を押し出して仲代達矢の右腕の下付近を切ったように見える。三船敏郎は早く抜くために普通の刀より5寸(15cm)ほど短い刀を使用したという。

 

 

さて、三船敏郎の迫真の演技を観ていただいてから、今度はリアルな古武術の妙技を観ていただこうか。

浅山一伝流のチャンネルから、実にカッコイイ抜刀術をご覧ください。

 

 

みるほどに美しい居合の型ですな。【弓手(ゆんで=左手)抜きの演武は、動画の 6:50秒辺りからです】

新陰流って、ほんとうに姿が佳いといいますか、無駄なく機能的に美しい動作が眼裏にのこるといった感じです。特に二人で演武する型は、対手を動かせて勝つという「後の先」の新陰流の面目躍如たるものがあります。

現代の達人・黒田鉄山師は、四つの流派を伝承なさっていますが、その中の「駒川改心流」が柳生新陰流から派生した流派です。新陰流って、洗練された高度な理合を保つ高等剣術なんですね。黒田師の演武は、まるで芸術ですよ。

「判官(ほうがん)」とは、役付きの官僚を指すそうです。まー殿中を想定した武術ということになりますか。

下から斬りあげてから、流れるように連動させる上段打ちも見事ですな。無外流の小手斬りのように、浅い傷を負わせて戦意を削げればそれで事足れりとする実戦剣術なんですな。

この動画に出ておられる、浅山一伝会の 関展秀(のぶひで)先生は、浅山一伝流兵法第22世宗家でいらっしゃいます。

 

浅山一伝流の居合については…… テレビによく出ておられた、居合の達人・町井勲氏からは現在、ずいぶんと厳しい批判(投げ抜きなど実戦では使えない等)をうけておられるようだ。素人には、その辺はよく分からない。

ただ、関宗家の佇まいや身のこなしが、実に美しく術理にかなっている様を鑑賞いただきたい。「新陰流判官派・弓手抜き」は、是非佐藤健くんから演じてもらいたいものだ。

 

 

__ 最後に、映画の殺陣シーンから「男の振るう薙刀」をご覧いただきましょう。

映画『ラスト・サムライ』で、そのあまりの剣捌きにトム・クルーズがビビってしまったという真田広之の、精魂こめた薙刀術です。

片手で薙刀を払っても微塵も震えることのない膂力がまず見事です、よく鍛えられた剣技です。

 

最近では、『モータル・コンバット』の忍者や、『将軍』でも主演は張っているが、いまやハリウッドが頼りにするほどの名バイプレイヤーとして重宝されている真田広之である。

1987年の、この深作欣二監督作品では、まだ口元に軽躁な狂気を漂わせているが、JACでのニックネーム「ミスター・パーフェクト」の名に恥じない、見事な立ち回りに感服つかまつる。

真田広之の、こうした「陽」の剣捌きは珍しいんだよね、日本舞踊も名取だけある美しい足捌きで、戦国乱世の武将のような凄味がありますね。

時代劇の歴史に名を刻んだ、素晴しいチャンバラではなかったでしょうか。

外国人からみても、日本の剣道は戦う姿がうつくしいとはよく聞く話です。

         _________玉の海草