__ 私の投稿から、形のまとまったものをこのブログに記録しておきたい。
まずは、私流世代論「団塊の世代批判」である。
🔴日本を内から壊した張本人
戦後日本は、不幸にも彼らに導かれた、
「団塊の世代」(1947〜1949、昭和22〜24年の3年間に出生した)と呼ばれる、総勢800万人の戦後日本人である。
「団塊の世代」が犯した数々の悪業のなかで、
特に、次の二つは歴史的にみて取り返しがつかない。
●家庭から、神棚と仏壇を無くした。
●子供(団塊ジュニア)が、大量のニート(寄生生活者)になるのを黙認した。
都会で、団地や文化住宅に住む「核家族」が普及してゆくなかで、もっとも大事なモノを捨てたのである。
「神信心」と「勤労精神」
日本人の根幹にして根本にあるものである。
> 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
…… 「団塊の世代」を象徴する言葉であろう。
政治好き(権力好き)の彼らの口癖は「我々は…… 」である。本能の命ずるままに「欲しいモノは勝ち取れ」がモットーだからね。
そんな戦後日本、
昭和から平成を迎えた日本は、もはや瀕死の重傷を負っていた。高度成長のゆがみ、バブル崩壊、人心の荒廃である。
そこで、本来の日本を蘇らせるために、
伊勢白山道式の神祭り・先祖供養が日本に降ろされたのかと私は観ている。まさに「日本を取り戻す」ために急務だったのだろう。
🔴神棚なき核家族
戦中、皇軍兵士とか名乗って誇りをもっていたように、
国家神道に支配されていた日本が、
戦後、その反動から神社神道から離れたのは理解できるにしても、その実態は具体的にはどのようだったのか、ネットであたってみた。
[参考文献;江崎道朗氏のFB、「神棚なき核家族」より]▼
・1945年12月、GHQは『神道指令(神道と国家を分離する為)』を出して、
公的な場に神棚をまつることを禁止した。
[※ この影響は現在まで続いている、学校や警察署では未だに神棚を購入して祀ることができない]
・GHQは、町内会による「神宮大麻の頒布」を禁止した。
・この『神道指令』により、
すべての教科書📕から神道や神社関連の記述が削除された。
・学校行事として、神社を訪問することが禁止された。
・『教育基本法』(昭和22年制定)により、
「宗教的情操」教育が禁止された。
神社や家庭の神棚について、タブー視して避ける教育がまかり通ってきた。
・神棚なき核家族をもたらした公団アパート
戦後の東京一極集中で、圧倒的に不足していた賃貸住宅環境を改善するために、
『公営住宅法』(昭和26年、GHQによる)により、
2DKを基本間取りとした「公営アパート」が全国に建設された。
このアパート設計は、社会主義者の建築家によって指導されたものである。
つまり「封建的住宅」➡︎「欧米風の2DK」
家長制を象徴する、立派な座敷・床の間・神棚・仏壇を排除して、
居住空間を重視する欧米風を取り入れた。
「若い夫婦を大家族から解放する」というコンセプトで、裏の目的は、3世代同居をやめさせて
【核家族】にさせることにあった。(2DKでは3世代一緒に住めない)
さらに、2DKに最新の台所設備を備えさせ、
当時の若者たちの憧れの欧米式ライフ・スタイルを提案した。(後に3DKに移行する)
なるほど、『サザエさん』にも『ちびまる子ちゃん』にも神棚は出てこない。
ー以上、
敗戦国として、これだけアメリカ🇺🇸からの外圧があったのである。
家庭から神棚・仏壇を無くしたのは、「団塊の世代」であると私がコメントしたら、
団塊だけではなく、他の世代も神棚まつっていないのではないかと疑問が寄せられた。
団塊世代1947(昭和22)生まれが、中卒・高卒で上京して就職するのが昭和37〜40年頃である。
昭和40年代には、公団住宅にお世話になる年令に達する。高度経済成長期は、昭和30〜40年代だから、団塊の世代は後期に属する。
となると、最初に公団住宅に入ったのは団塊世代ではないので、私の仮説は間違っている。
正確には「団塊世代周辺の世代が、家庭から神棚・仏壇を無くした」のである。
どうも済みませんでした。私の思い込みで失礼なことを申し上げました。
ここに、お詫びいたします。
団塊世代(1947〜49)は、約270万人✖️3年=約800万人で確かに断トツに出生数が多いのだが……
政府の人口動態統計をみると、
団塊を含む「1940〜1952年」の13年間は、すべての年で200万人の出生数を越えているのだ。
これがどれだけ凄い数かというと、
世間で、団塊(第一次ベビーブーマー)と合わせて、第二次ベビーブーマーと呼ばれる大所帯を形成する
団塊ジュニア(1971〜74)でさえ、
各年やっと200万人に達した程度なのである。団塊の周辺の大勢力には及びもつかない。それでも団塊ジュニアの影響も深刻なのである。
「団塊ジュニア周辺勢力」は、2300万人
(1965〜76の12年間は、毎年180〜200万人出生しているから、丙午除いて。合計出生数2270万人)
「団塊の世代周辺勢力」は、2500万人
団塊の世代の前後の13年間は、合計出生数2343万人(終戦直前の3年間はデータなし)なので、ざっくりと、少なくとも2500〜2600万人は降らないはずである。
[※ 各年毎の人口動態データは、政府統計の総合窓口『eーStat』をご参照ください。]▼
https://www.e-stat.go.jp/dbview?sid=0003411595
この「団塊」周辺の2500万人のうちの上京組が、神棚・仏壇を持たないグループに加担したということになろう。
最後に、
現代日本に根付いた「臭いもの」を、元から断つためには、深く「団塊の世代」周辺の 2500万人 の所業を知っておく必要があると私は思います。
失われた現代日本において、伊勢白山道を通じて、徐々に神棚を祭る家庭が増えているのは、けだし奇蹟の御業です。
🔴縁結びの力が生まれない
やっぱり、特に都市部において、神祭り・先祖供養を行わないばかりか、地区の祭り行事にも参加せずに、ヨーロッパのような個人主義で暮らしてきた結果、
各々の家の持つ「産土(うぶすな)」の力が弱まっているところに加えて、神縁もないものだから、結婚という結びつきが起こりにくいとは言えよう。
2チャンのひろゆきさんが喝破しておられた。
・「女性って収入が上がると婚姻率下がるんですよ」
・「日本の女性は下方婚しないんですよ」
具体例をあげると、
『クレヨンしんちゃん』の野原家である。
パパのひろしの600万円位の収入で、妻みさえ、子ども二人、犬を養っている。
あの家庭が成り立つのは、パパの徳のおかげなのだ。
収入のすべてを、家🏠のローン返済と家族の生活費にあて、みずからは月3万円のお小遣いで我慢している。パパのひろしは、妻を専業主婦にさせている。
男には、嫁に迎えて専業主婦をさせるという、明らかな下方婚でも躊躇なく選べる徳がある。
一方、女性は収入が上がれば上がるほど、自分よりも地位が上だったり収入の多い男としか、付き合わないし結婚しない。
フリーターの彼を引き上げて、面倒見て結婚するということはまずないということが統計に表れているそうだ。自分より下のレベルの男は見下して眼中にないのだ。
これは、日本人女性だけに顕著な性質だと言う。
つまり、男女平等が進めば進むほど、女性は男を見下すことになるのだろう。
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__ 次は、悟り(小覚)についてのまとめです。
🔴スクリーンの比喩
映画のスクリーンは、比喩としては重宝なものらしく、ラマナ・マハリシもニサルガダッタ・マハラジも使っています。
20世紀になって、初めて生まれた比喩ですね。
(映画というシステムが現れたこと自体意味のあることだったのだろうか? 映画が、人間の意識に与えた刺激は大きかった)
ニサルガダッタ・マハラジが、映画のスクリーンについて、彼一流の言い回しをしているので、紹介します。
[出典は、『アイ・アム・ザット 私は在る』より]
●スクリーンと世界(映されるもの)
> あなたのものとは
・映画のスクリーン、
・光、そして
・見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
> 画像を変えるにはただフィルムを変えるだけだ。
あなたは映画館のスクリーンを攻撃したりはしない。
> マインドは起こっていることに関心をもつが、
気づきはマインド自体に関心をもつのだ。
子供はおもちゃを追い求めるが、
母親はおもちゃではなく子供を見ている。
(「マインド」と「気づき」との比喩)
> ただ、あなたのマインドを逸らしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
> マインドは放っておきなさい。
それについていってはならない。
> マインドと世界はひとつだ。
●見ること
> 観察するという事実自体が、
観察者と観察されるものを変えるのだ。
> 見る者と見られるものは、見ることがあるときにだけ現れる、
それらは見ることの属性なのだ。
●意識とは
> あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。
あなたが知覚している世界は意識でできている。
あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。
> 意識そのものがもっとも偉大な画家なのだ。
世界全体が絵画だ。
●ヒンドゥーの世界観
> ただ生命だけがある。
生命を生きる人は誰もいないのだ。
> 失うことが、あなたの得ることだ。
> 何であれ失われるものは自己のものではないのだ。
> ヒンドゥー教🛕では
自由意志という概念自体が不在だ。
だから、そのための言葉もないのだ。
意志とは拘束、固定、束縛だ。
…… 自由意志とゆーものは、西洋の言い草であって、ヒンドゥーにはないとな。
(ヒンドゥーは、宗教というよりも生き方であるため、ヒンドゥー教と呼ぶよりも「ヒンドゥー法」と呼ぶ人達もいると言う。ヒンドゥー教徒は11億人いる)
科学の礎となった占星術は、西洋にも東洋にもあったが、一般に科学といえば西洋の伝統(ニュートン力学等)を継いでいる。
しかし、アインシュタインと云えば、現場の実験を行わずに自らの脳内で思考実験をおこなうことで、科学を飛躍的に進歩させた天才であるが……
こと思考実験ということだけならば、ヒンドゥーの聖者も理論物理学者に引けを取らない。
西洋科学の粋たる量子力学には、アインシュタインが違和感を覚えるような破綻がみられるが、ヒンドゥーには破綻は見られない。かたや法則、かたや生き方だから同列には並べられないが、おそらく最初の基本前提が根本的に違うのだろう。
ヒンドゥーの聖者から映画のスクリーンの比喩を聞き、またリーマンさんから量子力学の比喩を聞ける現代、わたしたちは大変ラッキーな時代に生まれ落ちていると思う。
🔴私って何か?
人は自分を想起できないってグルジェフの言は、
面白いですね。
> 「人生全体、人間存在全体、人間の盲目性全体はこれに基づいているのだ。
人が自分は自分を想起することができないということを本当に知れば、
彼はそれだけで彼の存在 (ビーイング) の理解に近づいているのだ」
(ウスペンスキー『奇蹟を求めて』より)
だから、
マハリシの「私は誰か?」
(タミル語では、「この自分とは何か?」「私とは?」になる)という問いかけは、
「答えを求めるための問いかけではない」、あるいは「答えは必要ない・答えは無い」という見方もありますね。
「自分とは何か?」と自分に問いかけると、決まった反応が起こります。この問いに集注すると、ハッとして思考が止まるそうです。
やっぱり、とんと分からない不思議だからなのでしょう。
この辺は、道元の作務とおなじです。
集注すると、無思考になる類いの事ってあるんですね。マハリシは、それが「私とは?」という思考実験だったのでしょう。
するとどーなるのか、
道元は言っていますね、自分から入っていこうとしてもサトリには入れない、サトリのほうから迎えに来るのだと。
無思考で動くとは、無になることであり、「私」が無くなることでもある。
本来、「私」というものは無いということ。
「行為はあるが、行為者はいない」(釈尊)
自己想起あるいは感謝想起とは、「私」と「私のもの」は無いということを確認する行為なのかも知れない。
そういう意味では、
伊勢白山道の聖句というのは、
本当におもしろいというか深淵を覗く味わいにコクがあるというか、よく思いついたものだと芯底驚いてしまう。
人類史、ここ何千年で一番の発明ちゃうかな。
この聖句だけで、ひとつの宇宙法でありましょう。
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__ 最近の、トランプ大統領の大統領令には度肝を抜かれますね。
なんたるちや🎶・サンタルチア〜 日本はどうやら放置されるみたいです。
伊勢白山道の予言にも、日本は一年間アメリカ🇺🇸から見捨てられるという一条がありました。
とんでもない時節に差し掛かっています。
🔴30年循環サイクル
平成の御代は、上皇陛下の御意で、ちょうど30年間だったことが、
令和と平成の年数の一致に、転写めいたものが見られる理由なのではあるまいか。
一世代(ジェネレーション)は30年だから。一つの変革が終息して次の変革に移る目安となる。
30年前の1995年(平成7年)、
・地下鉄🚇サリン事件(世にも恐ろしい最新化学兵器による大規模テロ、次の計画は東京の上空からサリンを撒いて大量虐殺しようとしていた)、
・阪神淡路大震災(高速の高架が倒れ、街が壊滅させられたほどの大地震のショック)、
・野茂選手の新人賞(大リーグで活躍する魁)、
・Windows95の発売(本格的なIT 革命の開始)、
・バブル崩壊🫧の影響が顕著に発現し始める(【失われた30年】の始まり)等が、
主な事件である。
平成7年 ➡︎ 令和7年
ざっと見ただけでも、30年前は突然降って湧いたような大変動の年だったことが分かる。
まだまだ、ことしは序の口なのだそうだ。
この際、意識の変容を愉しむより手はなさそーだ。
でも30年前は、まだ携帯電話「iモード」(2G)も出ていない頃なのに(1999年に発売)、スマホ📱で YouTube 鑑賞できるまで進歩したのよね。
大変だわ、ついていけないかも。ただし、100年前に回帰するという芽もあるのよね、それならついていかんでもええなあ♪
_________玉の海風