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『 自然は全機する 〜玉の海風〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「生きてるだけが仕合せだ」🍎

私の投稿拾遺〜 団塊批判、 悟りまとめ、 30年周期

2025-03-21 18:16:17 | 小覚

__ 私の投稿から、形のまとまったものをこのブログに記録しておきたい。

まずは、私流世代論「団塊の世代批判」である。

 

🔴日本を内から壊した張本人

戦後日本は、不幸にも彼らに導かれた、

「団塊の世代」(19471949、昭和2224年の3年間に出生した)と呼ばれる、総勢800万人の戦後日本人である。

 

「団塊の世代」が犯した数々の悪業のなかで、

特に、次の二つは歴史的にみて取り返しがつかない。

家庭から、神棚と仏壇を無くした。

子供(団塊ジュニア)が、大量のニート(寄生生活者)になるのを黙認した。

 

都会で、団地や文化住宅に住む「核家族」が普及してゆくなかで、もっとも大事なモノを捨てたのである。

「神信心」と「勤労精神」

日本人の根幹にして根本にあるものである。

 

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」

…… 「団塊の世代」を象徴する言葉であろう。

政治好き(権力好き)の彼らの口癖は「我々は…… 」である。本能の命ずるままに「欲しいモノは勝ち取れ」がモットーだからね。

そんな戦後日本、

昭和から平成を迎えた日本は、もはや瀕死の重傷を負っていた。高度成長のゆがみ、バブル崩壊、人心の荒廃である。

 

そこで、本来の日本を蘇らせるために、

伊勢白山道式の神祭り・先祖供養が日本に降ろされたのかと私は観ている。まさに「日本を取り戻す」ために急務だったのだろう。

 

 

 

🔴神棚なき核家族

戦中、皇軍兵士とか名乗って誇りをもっていたように、

国家神道に支配されていた日本が、

戦後、その反動から神社神道から離れたのは理解できるにしても、その実態は具体的にはどのようだったのか、ネットであたってみた。

[参考文献;江崎道朗FB、「神棚なき核家族」より]▼

『GHQがもたらした「神棚なき核家族」』

 

 

194512月、GHQ『神道指令(神道と国家を分離する為)』を出して、

公的な場に神棚をまつることを禁止した。

[※ この影響は現在まで続いている、学校や警察署では未だに神棚を購入して祀ることができない]

GHQは、町内会による「神宮大麻の頒布」を禁止した

・この『神道指令』により、

すべての教科書📕から神道や神社関連の記述が削除された。

・学校行事として、神社を訪問することが禁止された。

『教育基本法』(昭和22年制定)により、

「宗教的情操」教育が禁止された。

神社や家庭の神棚について、タブー視して避ける教育がまかり通ってきた。

 

・神棚なき核家族をもたらした公団アパート

戦後の東京一極集中で、圧倒的に不足していた賃貸住宅環境を改善するために、

『公営住宅法』(昭和26年、GHQによる)により、

2DKを基本間取りとした「公営アパート」が全国に建設された。

 

このアパート設計は、社会主義者の建築家によって指導されたものである。

つまり「封建的住宅」➡︎「欧米風の2DK

家長制を象徴する、立派な座敷・床の間・神棚・仏壇を排除して、

居住空間を重視する欧米風を取り入れた。

「若い夫婦を大家族から解放する」というコンセプトで、裏の目的は、3世代同居をやめさせて

【核家族】にさせることにあった。(2DKでは3世代一緒に住めない)

さらに、2DKに最新の台所設備を備えさせ、

当時の若者たちの憧れの欧米式ライフ・スタイルを提案した。(後に3DKに移行する)

 

なるほど、『サザエさん』にも『ちびまる子ちゃん』にも神棚は出てこない。

 

ー以上、

敗戦国として、これだけアメリカ🇺🇸からの外圧があったのである。

 

家庭から神棚・仏壇を無くしたのは、「団塊の世代」であると私がコメントしたら、

団塊だけではなく、他の世代も神棚まつっていないのではないかと疑問が寄せられた。

 

団塊世代1947(昭和22)生まれが、中卒・高卒で上京して就職するのが昭和3740年頃である。

昭和40年代には、公団住宅にお世話になる年令に達する。高度経済成長期は、昭和3040年代だから、団塊の世代は後期に属する。

となると、最初に公団住宅に入ったのは団塊世代ではないので、私の仮説は間違っている。

正確には「団塊世代周辺の世代が、家庭から神棚・仏壇を無くした」のである。

どうも済みませんでした。私の思い込みで失礼なことを申し上げました。

ここに、お詫びいたします。

 

団塊世代(194749)は、270万人✖️3年=約800万人で確かに断トツに出生数が多いのだが……

政府の人口動態統計をみると、

団塊を含む19401952年」の13年間は、すべての年で200万人の出生数を越えているのだ。

 

これがどれだけ凄い数かというと、

世間で、団塊(第一次ベビーブーマー)と合わせて、第二次ベビーブーマーと呼ばれる大所帯を形成する

団塊ジュニア(197174)でさえ、

各年やっと200万人に達した程度なのである。団塊の周辺の大勢力には及びもつかない。それでも団塊ジュニアの影響も深刻なのである。

「団塊ジュニア周辺勢力」は、2300万人

19657612年間は、毎年180200万人出生しているから、丙午除いて。合計出生数2270万人

 

「団塊の世代周辺勢力」は、2500万人

団塊の世代の前後の13年間は、合計出生数2343万人(終戦直前の3年間はデータなし)なので、ざっくりと、少なくとも25002600万人は降らないはずである。

[※  各年毎の人口動態データは、政府統計の総合窓口『eーStat』をご参照ください。]▼

https://www.e-stat.go.jp/dbview?sid=0003411595

 

この「団塊」周辺の2500万人のうちの上京組が、神棚・仏壇を持たないグループに加担したということになろう。

 

最後に、

現代日本に根付いた「臭いもの」を、元から断つためには、深く「団塊の世代」周辺の 2500万人 の所業を知っておく必要があると私は思います。

失われた現代日本において、伊勢白山道を通じて、徐々に神棚を祭る家庭が増えているのは、けだし奇蹟の御業です。

 

 

🔴縁結びの力が生まれない

やっぱり、特に都市部において、神祭り・先祖供養を行わないばかりか、地区の祭り行事にも参加せずに、ヨーロッパのような個人主義で暮らしてきた結果、

各々の家の持つ「産土(うぶすな)」の力が弱まっているところに加えて、神縁もないものだから、結婚という結びつきが起こりにくいとは言えよう。

 

2チャンのひろゆきさんが喝破しておられた。

・「女性って収入が上がると婚姻率下がるんですよ」

・「日本の女性は下方婚しないんですよ」

 

具体例をあげると、

『クレヨンしんちゃん』の野原家である。

パパのひろしの600万円位の収入で、妻みさえ、子ども二人、犬を養っている。

あの家庭が成り立つのは、パパの徳のおかげなのだ。

収入のすべてを、家🏠のローン返済と家族の生活費にあて、みずからは月3万円のお小遣いで我慢している。パパのひろしは、妻を専業主婦にさせている。

 

男には、嫁に迎えて専業主婦をさせるという、明らかな下方婚でも躊躇なく選べる徳がある。

一方、女性は収入が上がれば上がるほど、自分よりも地位が上だったり収入の多い男としか、付き合わないし結婚しない。

フリーターの彼を引き上げて、面倒見て結婚するということはまずないということが統計に表れているそうだ。自分より下のレベルの男は見下して眼中にないのだ。

これは、日本人女性だけに顕著な性質だと言う。

 

つまり、男女平等が進めば進むほど、女性は男を見下すことになるのだろう。

 

_________

 

 

__ 次は、悟り(小覚)についてのまとめです。

 

 🔴スクリーンの比喩

映画のスクリーンは、比喩としては重宝なものらしく、ラマナ・マハリシもニサルガダッタ・マハラジも使っています。

20世紀になって、初めて生まれた比喩ですね。

(映画というシステムが現れたこと自体意味のあることだったのだろうか? 映画が、人間の意識に与えた刺激は大きかった)

 

ニサルガダッタ・マハラジが、映画のスクリーンについて、彼一流の言い回しをしているので、紹介します。

 

[出典は、『アイ・アム・ザット 私は在る』より]

 

スクリーンと世界(映されるもの)

あなたのものとは

・映画のスクリーン、

・光、そして

・見る力だ。

だが、映像はあなたではない。

画像を変えるにはただフィルムを変えるだけだ。

あなたは映画館のスクリーンを攻撃したりはしない。

マインドは起こっていることに関心をもつが、

気づきはマインド自体に関心をもつのだ。

子供はおもちゃを追い求めるが、

母親はおもちゃではなく子供を見ている。

(「マインド」と「気づき」との比喩)

ただ、あなたのマインドを逸らしなさい。

それだけだ。

欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。

マインドは放っておきなさい。

それについていってはならない。

マインドと世界はひとつだ。

 

見ること

観察するという事実自体が、

観察者と観察されるものを変えるのだ。

見る者と見られるものは、見ることがあるときにだけ現れる、

それらは見ることの属性なのだ。

 

意識とは

あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。

あなたが知覚している世界は意識でできている。

あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。

意識そのものがもっとも偉大な画家なのだ。

世界全体が絵画だ。

 

ヒンドゥーの世界観

ただ生命だけがある。

生命を生きる人は誰もいないのだ。

失うことが、あなたの得ることだ。

何であれ失われるものは自己のものではないのだ。

ヒンドゥー教🛕では

自由意志という概念自体が不在だ。

だから、そのための言葉もないのだ。

意志とは拘束、固定、束縛だ。

 

…… 自由意志とゆーものは、西洋の言い草であって、ヒンドゥーにはないとな。

(ヒンドゥーは、宗教というよりも生き方であるため、ヒンドゥー教と呼ぶよりもヒンドゥー法」と呼ぶ人達もいると言う。ヒンドゥー教徒は11億人いる)

科学の礎となった占星術は、西洋にも東洋にもあったが、一般に科学といえば西洋の伝統(ニュートン力学等)を継いでいる。

しかし、アインシュタインと云えば、現場の実験を行わずに自らの脳内で思考実験をおこなうことで、科学を飛躍的に進歩させた天才であるが……

こと思考実験ということだけならば、ヒンドゥーの聖者も理論物理学者に引けを取らない。

西洋科学の粋たる量子力学には、アインシュタインが違和感を覚えるような破綻がみられるが、ヒンドゥーには破綻は見られない。かたや法則、かたや生き方だから同列には並べられないが、おそらく最初の基本前提が根本的に違うのだろう。

 

ヒンドゥーの聖者から映画のスクリーンの比喩を聞き、またリーマンさんから量子力学の比喩を聞ける現代、わたしたちは大変ラッキーな時代に生まれ落ちていると思う。

 

 

 🔴私って何か?

人は自分を想起できないってグルジェフの言は、

面白いですね。

> 「人生全体、人間存在全体、人間の盲目性全体はこれに基づいているのだ。

人が自分は自分を想起することができないということを本当に知れば、

彼はそれだけで彼の存在 (ビーイング) の理解に近づいているのだ」

 (ウスペンスキー『奇蹟を求めて』より) 

 

だから、

マハリシの「私は誰か?」

(タミル語では、「この自分とは何か?」「私とは?」になる)という問いかけは、

「答えを求めるための問いかけではない」、あるいは「答えは必要ない・答えは無い」という見方もありますね。

「自分とは何か?」と自分に問いかけると、決まった反応が起こります。この問いに集注すると、ハッとして思考が止まるそうです。

やっぱり、とんと分からない不思議だからなのでしょう。

 

この辺は、道元の作務とおなじです。

集注すると、無思考になる類いの事ってあるんですね。マハリシは、それが「私とは?」という思考実験だったのでしょう。

するとどーなるのか、

道元は言っていますね、自分から入っていこうとしてもサトリには入れない、サトリのほうから迎えに来るのだと。

無思考で動くとは、無になることであり、「私」が無くなることでもある。

本来、「私」というものは無いということ。

「行為はあるが、行為者はいない」(釈尊)

 

自己想起あるいは感謝想起とは、「私」と「私のもの」は無いということを確認する行為なのかも知れない。

そういう意味では、

伊勢白山道の聖句というのは、

本当におもしろいというか深淵を覗く味わいにコクがあるというか、よく思いついたものだと芯底驚いてしまう。

人類史、ここ何千年で一番の発明ちゃうかな。

この聖句だけで、ひとつの宇宙法でありましょう。

_________

 

 

 

__ 最近の、トランプ大統領の大統領令には度肝を抜かれますね。

なんたるちや🎶・サンタルチア〜 日本はどうやら放置されるみたいです。

伊勢白山道の予言にも、日本は一年間アメリカ🇺🇸から見捨てられるという一条がありました。

とんでもない時節に差し掛かっています。

 

 

🔴30年循環サイクル

平成の御代は、上皇陛下の御意で、ちょうど30年間だったことが、

令和と平成の年数の一致に、転写めいたものが見られる理由なのではあるまいか。

一世代(ジェネレーション)は30年だから。一つの変革が終息して次の変革に移る目安となる。

 

30年前の1995年(平成7年)、

・地下鉄🚇サリン事件(世にも恐ろしい最新化学兵器による大規模テロ、次の計画は東京の上空からサリンを撒いて大量虐殺しようとしていた)、

・阪神淡路大震災(高速の高架が倒れ、街が壊滅させられたほどの大地震のショック)、

・野茂選手の新人賞(大リーグで活躍する魁)、

Windows95の発売(本格的なIT 革命の開始)、

・バブル崩壊🫧の影響が顕著に発現し始める(【失われた30年】の始まり)等が、

主な事件である。

平成7 ➡︎ 令和7

ざっと見ただけでも、30年前は突然降って湧いたような大変動の年だったことが分かる。

 

まだまだ、ことしは序の口なのだそうだ。

この際、意識の変容を愉しむより手はなさそーだ。

でも30年前は、まだ携帯電話「iモード」(2G)も出ていない頃なのに(1999年に発売)、スマホ📱 YouTube 鑑賞できるまで進歩したのよね。

大変だわ、ついていけないかも。ただし、100年前に回帰するという芽もあるのよね、それならついていかんでもええなあ♪

      _________玉の海風


言うべきは言う〜 伊勢白山道でのやりとりを書留る

2025-03-21 15:57:55 | 日本語

__ 一つ前の記事で、伊勢白山道の使う日本語の乱れについて、弾劾しましたが、

私の「リーマン語」非難についての投稿が掲載され、

またリーマンさんの書籍📖を扱う(株)観世音の渡部周編集長からも、メルマガ(有料)の形でご対応を頂いたので、

私の追求の証しとして、ここに記録しておきたい。

(一応、同世代に生きる者として、日本語を乱す輩に注意⚠️訓告して、是正をもとめた証拠を挙げておきたかった。)

 

 

まずは、私が投稿した記事のリンク🔗から、

 

神罰について - 伊勢ー白山 道

(カレンダーの意味は「2025年2月の自然観察日」を参照)*「気象庁地震情報一覧」(https://www.data.jma.go.jp/multi/quake/index.html?lang=jp)防災科研強震モニタGAE版...

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…… この記事に投稿した拙稿が次の通りです。

 

[実際に掲載された拙稿]

> 2025-02-21 16:11:32 (記事:2025-02-21)

 🔴神罰だと思う

もし、無事のままで済んでいる人でも、

【御本人が気付いていない神罰】を受けておられました。

・ それは、独身に成るということです。

・ 伴侶が居ても、離婚するか、他界されて、独身になる。

 

…… よく古い読者で、

「うちの家系の霊線は、お役目を終わったから、

わたしは独身を貫き、子孫を作らずに、ミロクの世の中性化に向かっている」と、

自分勝手に判断して、独身を正当している人が少なくないが、ほんとうにそうなのだろうか?

 

やはり神縁がないと結婚も出産もできないのではないでしょうか。

ですから、ただ単に神縁がないか(神に随う生活をしていない)、

あるいは神罰を受けているということなのではないでしょうか。

 

私自身もそうなのかなと反省した。

心当たりこそ無いが、あり得ることであり、慎んで省みることである。

さて、私は自分のブログで、リーマンさんの使う日本語が乱れているからといって、公にクレームを発信している。(同世代として責任を感じるから)

これについて、

リーマンさんはともかくとして、リーマンさんを天子(テンゴ)と仰ぐ眷属神は、私の行為を不敬と捉えて漏れなく神罰を下すのであろうか?

眷属神は、人間の命を何とも思わない一途さだと伺っている。

だけれども、日本人として言葉が乱れるのは放っておけない。団塊ジュニアが編み出した「飲食店応対マニュアル」のように、日本語を毀損するような真似はしてほしくない。

神罰があたっても、するべきことなのか。

踏み絵を迫られている心地がする。

_________《引用ここまで》

 

 

__ 次に、メルマガについての感想投稿で、リーマンさんの文章に触れています。

 

[実際に掲載された拙稿]

>2025-02-22 21:21:30  (記事:2025-02-22)

🔴メルマガ感想

コアな読者と、仲間内の符牒(インサイダー情報)でやりとりしたいお気持ちはよくわかります。

が、伝わることが最優先でありましょう。

 

今回の訂正文を載せたことは、編集長の真摯さが感じられ、徳のあるお方との印象を強くいたしました。

この調子で、リーマンさんの御本の上梓に臨んでいただきたく存じます。

特に、校正にはご注力くださいますように切にお願い申しあげます。

 

おそらく、出版人としての文責と、リーマンさんの言霊重視の文章との間に齟齬をきたすのは必定だと思います。

リーマンさんの伝えた内容は、学校の「道徳」授業の教科書📕に載せてしかるべきものかと存じますが……

いまの文章では、決してそうならないでしょう。

 

日月神示や出口なおの御筆先ならば、予言書や神に降ろされた啓示の書として、出鱈目な文章でも何ら問題にはなりませんが、

リーマンさんの言文一致体のブログ記事が、文科省の教科書検定を通るのは難しいです。副読本としても、基準をみたすかどうか怪しいものです。

 

そこはそれ、販売元の()観世音の腕の見せどころでしょう。文学としても通用し、言霊も同時に作用するような稀有な書物を協働して顕現させてください。

リーマンさんのもたらした啓示は、百年や二百年で使い物にならなくなるような一過性の流行り物とは全く次元が違います。

 

編集長におかせられましては、きっと百年の計をたてて命懸けで臨まれますことを切に希望します。

日々ネットで消耗されるコメントなぞ、何ひとつ後世には遺りません。ただ、リーマンさんの御本は、未来の日本人を励ますために遺ってほしいと思っておりますゆえ。

_________《引用ここまで》

 

 

__ この次は、20250301 (土曜日)に、メルマガ(有料)にて、渡部編集長から、「リーマンさんの日本語がオカシイ」とクレームをつける読者について言及があった。

土曜日のメルマガは、編集長の書いた記事を載せることになっている。

有料メールマガジン(月額1250円)だが、伊勢白山道の表の記事では書けない危険な事柄を、コアな読者にお伝えしている。リンク🔗はこちら▼

 

伊勢白山道の編集者のひとりごと

ブログでは圧倒的日本一、毎日更新の「伊勢白山道ブログ」ブログ主が、「伊勢白山道ブログ」内で実は「言えなかった」「書けなかった」諸々裏事情、ブログ記事内容のほんと...

foomii(フーミー)

 

 

…… このメルマガ記事に応える形で、表の伊勢白山道コメント欄に投稿した拙稿を次に挙げます。

 

[実際には、不掲載となった拙稿]

20250301

⚫️メルマガ感想

編集長の「出版人として負うべき文責」について

プロの見解が聞けて嬉しかった。

私は、リーマンさんの文章はオカシイと言っている者の一人だが、15年間は言い続けている。

 

編集長のお応えをまとめると、

・伊勢白山道の文章の校正は、🖍️「校正技能検定」保持者がおこなっている

・リーマンさんが三歳までは古代インド語しか話さず、記事を書くあるいは質問に返答している最中は、半分入神状態なので、「正確な文法で書けない」のは、情状酌量の余地がある

 

というお応えでしたが……

たとえば、極貧のうちに神懸りして御筆先を書かされた無学な出口なお刀自や、日月神示を強制的に書かされた岡本天明の文章なら、

「正確な文法で書けない」という非難は、いくら私でもいたしません。

読者は、そーゆートランス状態での日本語の乱れ、誤字脱字は許容範囲であり、そーゆーもの(預言書)だとして本を購入します。

 

だから、そのトランス時の乱れを言うのだったら、

出版される書籍に、お断りを入れるべきです。

ex.  著者の入神時の自動書記ですので、日本語としておかしい表現もありますが、どうぞご了承ください」

 

出版社が、校正という文責を伴うことは当然ですが、

最近は校正担当者のレベル低下も頻繁に見られるようになったのは、日本人として本当に嘆かわしいことです。「編集者あとがき」などに見られる、貧しい日本語には驚かされます。

大手のナチュラルスピリット社ですら、「遍在」と書くべきを「偏在」として、そのまま校正を通している現状です。(スピ系出版社としては、致命的なミス)

 

私は思うのだが……

「推敲」という作業がおろそかにされているのです。メルマガでも、プロの執筆者なのに、誤字脱字の類いが間々見られるのは何故か?(特に、人名間違いは致命的)

リーマンさんでも、神から降ろされた内容を瞬時に文章に変換したとしても、その出来た文章を日常意識で「推敲」する時間はあるはずです。(日本語がおかしくて伝わらなかったとしたら、何の意味もないからです)

 

結論として、

私が望むのは、普通の日本文です。

名文や美文を望んでいるわけではありません。(リーマンさんがそーゆー趣味ならOKですが)

リーマンさんの原文を言霊調整するのではなく、校正された正しい日本文に言霊をつけて下さい。

日本語としておかしな処がなければ、リーマンさんの説く内容は、教科書📕に採用されてもおかしくないような根源的な本質をついています。

風俗的にみても、「感謝」や「努力」を日本人に思い出させた功績は巨きいでしょう。

だからこそ、なおさら残念なんです。一読おかしな風情の日本語では、単なるネットカ・ルトの霊能者で終わります。

私も、知識人に紹介する度に馬鹿にされます、「まともな文章もかけない霊能者に凝っているのか♪(冷笑)」と。

_________

 

…… もうひとつ、ダメ押しで投稿したものも挙げます。

 

[実際には、不掲載となった拙稿]

⚫️編集長へ

「リーマンさんの日本語がオカシイ」と投稿する人を工作員かと疑っていましたが……

私がもし、工作員ならばずっとこのままにして、リーマンさんの好きに書かせる。

それらのおかしな日本語が、編集者の甘い校正をすり抜けて、上梓される。

そっちの方が、リーマンさん勢力の排除には好都合であることは明らかであろうよ。

 

どうも、編集長たるもの、そんな甘い読みではこれからの運営が心配ですよ。

それでなくとも、リーマンさんにおんぶに抱っこの経営なんでしょ。読者の富裕層をあてにしないで、メルマガが軌道にのったら、月額を下げる工夫もしてください。

リーマンさんにぶら下がっているから安泰などと夢にも思わないでください、鉄槌は意外と読者の生き霊から下されるでありましょう。

_________

 

 

__ いままで、50回どころか100回近く批判し続けた「リーマン語」についての批判投稿が、ようやく陽の目を見たと言ってもいいのではあるまいか。

いままでも、「リーマンさんの日本語がオカシイ」という私の批判は、折々に短く投稿に混ざっていて、実際に掲載されたものも数回はあると記憶している。

ただ、私のブログ記事みたいに本格的に、文法から詳細に指摘した拙稿は、なかなか掲載されなかった。(この点において、リーマンさんの自信の無さには幻滅したものだった)

今回は、正面切ってリーマンさんの「リーマン語」を非難している内容を、キチンとブログ『伊勢-白山 道』のコメント欄に掲載してくれたのが嬉しかった。

まー、私の顔を立ててくださったのかも知れん。

日本語に厳しい私の鑑定眼は、たとえ尊敬するリーマンさんに対しても、微塵も容赦することなく発動したというファクトを記録してくれたのかも知れない。

私の信念と、私自身の整合性はとれていることを現したかった。

まー、リーマンさんに私程度の「作文センス」もなかったことは、返す返すも残念極まりないことである。

あの、素晴らしいブログ内容に較べて、その文章が拙すぎるのは、私のオカルティストとしての経験からすると、まったくもって解せないことなのだ。

ただ、わたしはリーマンさんの同世代(ひとつ年上)なので、「そんな文章じゃダメだよ」と言い続けなければならない。

私たちみたいな年寄りが、日本語を壊してどうするんですか?

伝統を知っている私たちが壊していたら、いったい誰が正しい日本語を守るのですか?

正しい日本語なくして、正しい日本国はあり得ないのです。

わたしは、リーマンさんのような日本語破壊者を許さないが、その日本語も日本国🇯🇵が存続して初めて、その伝統云々を論じられるのである。

 

いまから15年後、そんな日本語の乱れなど頓着していられない激甚たる変化が音連れようとしているのかも知れない。

だけど、ネット発信が可能である限り、

正しい日本語、美しい日本語を心懸けることは忘れないつもりである。

ブログ『伊勢-白山 道』で、工作員扱いされても、これだけは譲るわけには生かないのだ。

伊勢白山道のコメント欄で、公的な形で掲載されて、多数の読者の目に触れられたのは大変良かった。

まっとうな日本人が多いと思われる「伊勢白山道読者」へは、ちゃんとした形で呼びかけることが出来た。

あとは、それを受け容れられるか、ちゃんとした日本語のレベルがあるのかは、読者次第である。

 

高学歴の読者は、ほとんどいないと私は見ている。

Fランクの大学卒が多いのかも知れない。というのも、私以外にリーマンさんの変な日本語使いを糾弾した者はいないようだから。(不掲載にされているのかも知れないけど)

ともあれ、なんとも国語力の著しい低下は、このブログ『伊勢-白山 道』でも多々見られるのが遺憾である。

四の五の言っても、国語力は一朝一夕では回復しないものだと言う。(オタキング岡田斗司夫が解説なさっていた、受験勉強で国語の成績を伸ばすのは最も難しい事らしい)

ちゃんとした文章を書けない者(=読解力の無い者)に、いくら言っても、急に改めることは不可能なのだ。

同時代に、アホな日本語しか使えない日本人と巡り合わせたのも、私の宿命なんだろうな。

まず、自分だけでも、正しい日本語を使うことを、肝に銘じることにする。

それが、私の日本人としての意地(使命かも知れん)である。

          _________玉の海風

 

 

 


いま, 日本語を壊している現行犯〜 伊勢白山道の 「リーマン語」

2025-02-19 18:09:08 | 気に懸かる心配事

__ このブログでも頻出する、

伊勢白山道リーマンさんは私の大恩人である。10代より30年間も精神世界に彷徨して、試行錯誤を繰り返してきた私に、オカルティストとしての生くべき道筋を照らしてくださった御方である。

満腔の感謝を捧げる、いまもご存命の男性である。

彼のブログ『伊勢-白山 道』によれば、

彼の年齢は、発言から推定すると、昭和38年生まれのアラ還暦の新人類世代である。(私も同世代で、たぶん先輩である)

 

現在、ブログ『伊勢-白山 道』は、毎日5〜10万人くらいは訪れており、gooブログランキングや人気ブログランキング、FC2スピリチュアルランキングはずっと継続して一位を維持しつづけている。

まー、少なからぬ影響を日本に与えているのである。

 

だからこそ、

彼の記事によって、間違った日本語が流布している現状を大いに危惧している。

リーマンさんご自身には、私の投稿を通して50回じゃきかないな、100回以上にわたって……

「この日本語はおかしいですよ」と、識者のエビデンス(データ)を添えてクレームを入れている。

即座に直したものもあれば、そーでないものもある。

 

思い出深いのは

リーマンさんが「生きれる」と書いた時だ。

勿論、正しい言葉は「生きられる」である。

新人類の初老近い男(2008年当時)が、こともあろうに、

人生の「生きる」という厳粛な言葉について、

「生きれる」などと、最近の若僧のつかっている言葉を書いたのだ。

 

わたしは冷静に反駁しました。

言霊を大切にする神道家として

「生きれる=いきれる=息切れる」とも耳に響く言葉(音霊)を不用意に使うのかと。

その時は、即座に書き改めて「生きられる」と表記して、それ以降「生きられる」と書くようになりました。

 

そーした経緯もあり、リーマンさんに語学力が欠けていることがはっきりと判りました。

信じられますか? 聖者のレベルにあると目されている人物がまともな文章を書けないのですよ。

近代にあらわれた聖者たち、

グルジェフにしても、学者でもあるルドルフ・シュタイナーや一流作家でもあるアレイスター・クロウリーは勿論のこと、

聖ラマナ・マハリシでも、煙草屋のオヤジだった無学のニサルガダッタ・マハラジにしても、

いやしくも真理の言葉を伝える者は皆、

文章に、おかしな自己主張するようなクセは見られません。

 

ところが、伊勢白山道リーマンさんは違うのです。

変なクセがあって、読みにくい悪文を書きます。

釈尊や聖ラマナを対等に評論し、自分の前世はゾロアスター、老子や阿難尊者だと告白しているリーマンさんが、

なんでこんなお粗末な文章を書くのか、

またなんでこんな文章しか書けないのか、ずっと不思議に思っていました。

たとえば、菩薩には「後得智」(悟った後に身につける智)

とよばれるものがあります。

菩薩位にあるものは、なんでも知っている菩薩として生まれつくのではなく、菩薩としての能力を備えて自分が生まれついた後に、

コノ世のしきたりや知識を一般人と同じように努力して身につけるというものです。

 

リーマンさんにあてはめれば、最初から何でも知っている聖なる者として生まれるのではなく、

生まれてから一般人と同じように学校に通い勉強しながら、

コノ世の知恵(後得智)を身につけるということになります。

つまり、リーマンさんがこれだけおかしな日本語を書くということは、

学生時代に「国語」を勉強しなかったということです。

 

たしかに、彼は霊視で一瞥(べつ)するだけで本の内容を観ることができるから、読書は滅多にしないと言っていました。

この、「読書しない」ということは、国語の学習において致命的な過ちなのです。

 

「読書百遍、意自ずから通ず」という諺も

ありますし、日本語のリズムに身体ごと親しむ意味はあるのかも知れません。

読書しないことが、リーマンさんのおかしな日本語の根本原因であるようです。

 

 

ここからは、実例を添えて、具体的に指摘して行きましょう。

リーマンさんの文章は、いろいろな面で拙い文章ではありますが、

特に二つの点が誤っているのです。

❶ 助詞の使い方がおかしい。

❷ 主語・述語・目的語といった文型上の問題であるが、

目的語を文頭におく傾向がつよく、文型の語順がデタラメである。

 

 

❶助詞の悪例から、

 

リーマンさん> そして、気に鳴りますことは、最近に富士山の上空で、赤龍が撮影されています。

 

リーマンさん> 最近に多いのは、結婚年数が浅い段階でローンを組むと、

もし離婚になった場合が揉めます。

 

リーマンさん> 東京大学卒の才女らしい意見思います

[※ 後述するが、リーマンさんのは「だ抜き言葉」とも違うのだ。

「…… だと思います」➡︎「…… に思います」「…… を思います」

おそらく、前例がないと思う]

 

リーマンさん> このような報道が出ることが、「予告」だと謙虚に受け止めるべきに感じます

 

リーマンさん> 改めて大阪は、恵比寿(エビス)という福の女神に愛されている土地に感じます

 

リーマンさん> 御米が不足している状況ならば、古米を新米だと偽装して販売している可能性も、注意が必要に思います

 

リーマンさん> つまり、富士山の周辺が揺れだせば、関東での地震に注意を思いますが、

 

リーマンさん> これを停電状態でも出来ますように、管理運用の確認と、避難訓練が大切に思います

 

リーマンさん> 日本は、嫌なことには目を閉じる傾向を思います

 

リーマンさん> この半額の誘導期間以外でも、新幹線に乗らなければ生けない人は多数もおられます。

 

リーマンさん> 今日は心配なニュースを複数も見ました。

 

リーマンさん> よく洗浄したお米を、出来るだけ長時間も水に浸けてから、新しいお水で炊く。

 

【『真夏の果実』(1990)、この歌詞が、リーマンさんの元ネタなんじゃないかと思う。つまり、「四六時中も」(正しくは「も」は不要)。きっと映画『稲村ジェーン』を観て、口遊んでいたんじゃないかな】

 

 

拙稿>

大祓詞が大事、

言霊が大事、

話し言葉も書き言葉も大事。

 

日本を護ることは、日本語を守ること。

で、「だ抜き言葉」はどうなの?

・「大切であると思います」 ➡︎⭕️

・「大切だと思います」 ➡︎⭕️

・「大切と思います」 ➡︎❌

 

  「大切と思います」を「だ抜き言葉」と言います。

「ら抜き言葉」と同様に、文法規範から逸脱した言い方です。

話し言葉では許容されても、書き言葉では避けたほうが良いでしょう。

 

(Yahoo!知恵袋)> 「に」が表すのは、時計やカレンダーで特定できる時間であり、今との関連で決まる時間は表せないからです。

例えば、 ⭕️420日に行きます」とは言えますが、

❌「明日に行きます」

❌「昨日に行きました」とは言えません。

「最近」も「今」と関連して決まる時間なので使えないのです。 その他に、今以外の『ある時』で決まる時間一定の幅のある時間にも使えます。

⭕️「昭和の日の翌日に行く」

⭕️「来年の春に行く」

❌「最近に」

❌「最近には」

⭕️「最近になって」

 

①「抜き」言葉(「ている」の「」を抜いた言葉)

ex. 「 書いてます」 ➡︎⭕️書いてます

②「入れ」言葉(5段活用動詞の使役形に「」を入れた言葉)

ex.  「書かせていただきます」 ➡︎⭕️書かせていただきます。

③「足す」言葉(5段活用の可能動詞に「」を足した言葉

ex.  「書ける」 ➡︎⭕️書ける

④「入れ」言葉(無用な「」を入れる言い回し)

ex.  民主党の代表を辞めることを決意《》致しました。➡︎⭕️決意致しました

※ 引用文献 ▼

「だ抜きことば」? | ことば(放送用語) - 最近気になる放送用語 | NHK放送文化研究

 

 

 

 

 

❷の、文型の語順がデタラメ

 

リーマンさん> 特に、災害が発生した際に、時間経過に応じてどのような行動をとるべきかを事前に考えて決めておく、防災行動計画を「タイムライン」は本来は指すとされていたことが意外でした。

…… 「…… に考えて決めておく、「タイムライン」とは本来はそういう防災行動計画を指していたことが意外でした」でしょ。

 

リーマンさん> 企業側には、動画CMのほうがメリットが多い時代に、今年からは切り替る時代にも感じます。

…… 「今年からはメリットが多い時代に切り替わる」でしょ。

 

リーマンさん> 「何でも自由自在に彼を出来る」

…… 「彼を何でも自由自在に出来る」でしょ。

 

リーマンさん> 御米を炊けば、強い加熱が当然にされます。

…… 「御米を炊けば、当然強く加熱されます」でしょ。

 

リーマンさん> ただ、そういう人には、不干渉で離れることに、守護霊が強い人は自然となります。

…… 「そういう守護霊が強い人は自然と、不干渉でいることによって離れることになります」でしょ。

 

リーマンさん>事前に知ることで避けることが、縁ある人は可能とのことです。

…… 「縁ある人は、事前に知ることで避けることが可能だとのことです」でしょ。

 

 

 

 

__ リーマンさんが使っているだけでも迷惑な「リーマン語」なのだが、ブログ『伊勢-白山 道』は開設以来18年も経っているものだから、追い追い(物を知らない)読者もリーマンさんの口調(つまり文体)を真似はじめる。

 

「おだやかなお正月を迎えられて、先祖に感謝です。」

 

「この間は返答してくださって、ありがとう御座位ます。」

 

「八幡宮のお札は最近にいただきました。」

 

久しぶりに◯のある肺が違和感です。」

 

まー、こーゆー変な日本語のオンパレードとなるわけです。

わたしは、リーマンさんと同時代を生きている先輩として、

リーマンさんによる日本語の乱れを指摘して、強く改善を求める責任があるように感じました。

年下の者は面と向かって言えないからです。

ましてや、霊能相談で観てもらってアドバイスをもらっている御恩がありますし、一般人は力のあるものに靡くものです。(私は個人的な「霊能身の上相談」にはのってもらっていない)

 

いちおう、ご自分で言っている限りでは大学(医学系か?)を出ているらしい。大卒ならレポートやら卒論やらで、おそろしい分量の文章を書かなければならなかったはずだ。

馬鹿でも書いているうちに、改善され上手くなってゆくものである。それが、いまだにこの低レベルの作文を書いているようじゃあ、ほんとうは日本人じゃないんじゃないかという疑惑さえも芽生えてくる。

年少期を外国で過ごしてから、日本に移住した在日ならば充分にあり得る。

そーではないことを切に願っているが、そー思わせるような日本語の言語感覚であるのは確かである。

大変失礼なことを申しました。日本という地に住まい、日本の風土に帰順して、立派な日本人となっておられる在日外国人の方々は沢山おられます。在日という事実が責められるべきことではないのです。

もし、ちゃんとした日本語が使えないのなら、日々修得に励んでもらいたいだけです。日本語脳🧠とは日本語を正しく使うことで養成されるからです

リーマンさんの場合は、御自ら「言霊」に厳しい御仁なので、ことさら腑に落ちないのです。

言霊の幸う国で、この体たらくはないんじゃないか。

リーマンさんには猛省をうながしているが、

あれでなかなかアカデミックな事柄には頑固に抵抗するクセがある。

神使としての誇り(驕り?)か、神の特権なのか?

 

そもそも読書しないから、アカデミックな見解を知らないのだ。(仏教を語るときにも、「大蔵経によれば」とか、道元を「曹洞宗の開祖」といったりして、仏教史をまるで知らないのだ)

でもそれ、世間的には通用しませんよ。

世間の定説といわれるものは残らず知っておく必要があるのだ。(反対するには、詳しく知っておくことが不可欠である、リーマンさんは記事にする前にもっと下準備が必要である、勉強不足だ)

 

わたしは、「霊視はエビデンスにならない」とつねづね心に言い聞かせている。

狂信者は、社会のアウトサイダーなのだ。

良き社会人でもあらねばならない。

伊勢白山道は、そのへんのバランスが取れていないように思った。

だって、自殺志願者に、「自殺すると、生前の10倍の苦しみが待っている」と言っても、もしその霊視を信じられなければ無意味なのだ。

 

まことに残念なことだが、

霊能者の「霊視」と、議論における「価値観のおしつけ」とは、コノ世の社会では同じ意味である。

霊視を信じない人に向かって、自分の霊視したことが真実だと幾ら訴えたところで、馬の耳に念仏である。

 

リーマンさんが、ご自身の神能を疑わないのは頷けるが、リーマンさんを信じない庶民に押しつけることは出来ないのだ。

釈尊や孔子が、奇異(ミラクル)をつかわずに、あるいは論ぜずに、生き方を説いたことは傾聴に値する。

かれらは、自分しか観えないものについては、その霊能を根拠にして、ものごとの摂理を語ったりしなかった。

いまのリーマンさんは、これとは違う。

リーマンさんのエビデンスを示す者が誰かいるわけでもない。

いくら未曾有の神能をおもちでも、疑う者にはそれは権威にはならない。つまり、従えないのだ。

まー、もっとおおらかに、全世界を包容する勢いで説いてもらいたい。

ことば使いにこだわったり、頑なにあらためない姿勢から感じることは、リーマンさんってそれほど賢くないんじゃないかという正直な疑問である。

(だって、リーマンさんの写真集を拝見する限り、この人は無我で撮っているのが伝わってくるのに、書く文章の方はなんでこんなにも我が強く入っているの?と真から不思議に思うもの)

全部全方位みえるのなら、なんでそんなに余裕がないのかな?(量子力学が発動するためには、リーマンさん個人への帰依が絶対必要なものだからか?)

すこしでも自分を否定する者は、遠ざけなければならないものなのか?(量子力学のベクトルを、一つの方向に集注させるためかな?)

なんで、なんでも出来そうなものなのに、

日本語の文章が下手で、和歌も詠めないのかな?

そもそもその学力のなさはどこから来るのだろうか?

(ブログ開設初期には、物凄い博学の手練れが押し寄せていたものだが、最近は高学歴の輩は来ていないようだ。文章の格がレベルダウンしている。おそらく、真のインテリはリーマンさんの文章は読まないのではないかと思う。文章でもって、知性の質は推し量れる。論理性に乏しいシャーマンみたいな文章では、社会的な信用は得られないよ。)

いつか記事でキチンと説明してもらいたいものだな。

リーマンさんがずっと先を行っているのなら、いまの世に合わせて知性の質を下げられるはずである。

それなのに、いまの世界の日本語すら修得できないのは、何故なのだ?

これは、笑い事では済まされない。

 

__ 最後に、リーマンさんや私の世代(新人類)のほぼ10歳下の「団塊ジュニア世代」の犯した日本語破壊行為を振り返りましょうか。

 

❌「注文の方、よろしかったでしょうか?」
(過去形で言っているのが✖️)
 ➡︎「ご注文は、これでよろしいでしょうか?」


❌「どちらにいたしますか?」
(お客様に「いたす」という謙譲語を使っているのが✖️)
 ➡︎「どちらになさいますか?」


❌「お待ちいただく形になります」

(形のない「現在の状況」を形と言い表しているのが✖️)
 ➡︎ ex. 「ただ今満席でございます。申し訳ございませんが、30分ほどお待ちいただく事になりますが、よろしいでしょうか?」

 

…… こーした慇懃無礼で、距離をとった表現(距離が近づくと怖いそうだ)が我が物顔で闊歩していた時代は、

飲食店チェーンに勤める「団塊ジュニア」が30代くらいで、現場のリーダーをしていた頃にあたるんだよね。で、一歩踏み込んで考えると、そーした馬鹿げたお客様対応をするためのマニュアルが作られたはずだよね。

そーした基本マニュアルを認定するのは、当時40代の課長世代だった新人類世代ではなかったのだろうか?

団塊ジュニアと組んで、GOサインを出したのが新人類世代でないことを祈る。

 

リーマンさんの、言葉に対する無頓着さを見ていると…… 

団塊ジュニアを助長したのも、同世代の無責任な者どもではなかったかと、疑ってしまう。

「注文の方」と「方」と使って曖昧表現にして断定をこわがった「団塊ジュニア」はしかし、対面のお客さん接待は実際にしているわけだ。

が、その子供世代になると、もはや電話で会話するのですら怖くて、メールの「。(句点)」も怖いと来ている。

退職代行に依頼して、面と向かって「辞職」することも避けるようになる。

こわいのは、ほんとうに他人の人間なんだよね。

だけど、怖いから自分の安全のために近づいてゆくもんだと思うんだけど。

殴り合いのケンカもやったことのない、無機質なつきあいしかできない輩は、戦場を生き延びることはできない。

人間は、いつ牙むくか分からないものだよ。

「自分の身は自分で守れ」が身についているのは、『宇宙戦艦ヤマト』世代の新人類あたりまでかも知れないね。ヤマトは、地球のみんなの為(他者のため)に戦うのよ。

でもその下の団塊ジュニアの『機動戦士ガンダム』は、自分を守るためにさえ戦わない。戦いたくない世代なので、あんな持って回った接待コトバを考えついたんだと思う。

すべては恐れから、来ているね。同情の余地はあるかも知れん。

 

その点、リーマンさんの言葉破壊には、人間的な情状酌量の余地はないようだね。

読書しない霊能者が、書物の文章の歴史に敬意をはらわずに、

自分勝手に、じぶんに都合よく改変を加えたというところだろうか。

「最近に」の「に」なんかは、言霊の観点から加えられているのか、一度問い正したくもなるね。

でも、リーマンさんの文章を音読してみたら、「足らわず(不足、欠損)」なのが即座にわかる。

音読に堪え得ない文章は、未だ達していないのだ。

どうせなら、英語で書けばいいじゃんね。誰か日本語に翻訳して記事にしたらいいんじゃない。

散文は詩情に欠ける分、構造的に分かりやすく組み立てられていなければいけません。リーマンさんは、韻文も散文も両方苦手なんですね。

 

__ 最後に、何冊も出版しているリーマンさんには、当然出版社の担当編集者がついているはずである。

製本📚するまえに、校正をおこなうはずだから、校正者にも責任がある。

公的に出版されている書籍📖は、著者・筆者が文責を負うのは当然だが、

編集者や校正者にも、それを見逃した責任があるはずだ。

現在リーマンさんの書籍を出版している(株)観世音は、ほとんどリーマンさんにおんぶに抱っこだから、何も言えないんじゃないのか。

メルマガの収益でも大お世話になっているし、おそらく頭が上がらないのだと察する。

でも、後世に瑕瑾をのこすから、ちゃんとした日本語の文章に仕上げるべきだと思うな。

いくら内容が前代未聞で深淵を覗いた素晴しいものでも、いまのままでは教科書には断じて載せられない。

学校🏫の入試問題にも、採用されはしない。

長年の読者としては、その点が非常に悔しいし、まことに遺憾である。

さらっと平易で、たんたんと真に迫る文章を書けんものかな。

それが出来たら、リーマンさんの文章を小さいうちから素読させる学校ができても、私はおかしくないと信じている。

        _________玉の海風

 


“ さよならサンキュー ” (アンミカ)〜 感謝とは 「 お別れの言葉 」

2024-12-31 23:46:46 | 小覚

__ むかし好きだった女の子から、人生初のXmasカード🎄をもらって舞い上がってしまって…… hahaha

なぜなら、何十年ぶりにおたよりを出したからなのです。

 

年取ってからは、知人に連絡は取らない方がよいとは聞いているのだが、どーしても過去に大お世話になった恩人には一言感謝の気持ちを伝えたかったので、

最後のおたよりを出したのです。

20人くらいいたかな。おたよりを出す住所ですら分からない恩人も10人くらいいました。勿論、亡くなられた恩人にはもう出せないのが哀しいです。

わたしの人生を変えた、邂逅ともよべる、特別な出逢いであっただけに、ネットでは大っぴらに発言できない裏情報(=真実)につながる機縁となったらよいなという気持ちもありました。

 

こんな誰も見向きもしないような、ちっぽけなブログでも検閲の👁️‍🗨️は光っています。

直接書くわけにはいきませんから、情報の出所を暗に示すしかできません。

そのへんの機微を、汲みとっていただきたいと思います。そこへ至るルートはリンク🔗されてありますよ。

 【 MAZE “IWanna Thank You ” 、R.I.P. フランキー・ビヴァリー(真ん中の白いオジサン、2024年77歳で逝去。Wanna=want to は「感謝したい」よりも「いままで、きみへの感謝が欠けていた(want の原義=欠乏、不足)」を意味するのだろう。】

 

__ さて、それでは「感謝と別れが同期する」という消息を述べてゆきましょう。

 

🔴 2024-09-14

     『感謝ではじめ……』

小学生になる息子が、去年のクラスが最高すぎて、ことし新たに一緒になったクラスに全然なじめないという母親のお悩みについて……

精神科医・名越康文が云うには、

すべてのものは過ぎゆく。過ぎゆくから感謝できる。

 

「感謝」することは「さよなら」といつも同時

 

「この稀な出会い、稀な時間をありがとう」と、「感謝する」ってことは同時に「さよなら」って言っているんですよ。

 

聖なる瞬間、それはその人が素直になれる瞬間ですよね。

[※ YouTubeの『名越康文TV』より]

 

…… と応えていました。

つまり感謝でしめくくれば、その思い出に執着することはなくなると。

いつまでもその思い出が心に巣食うことはなくなるのです。

新しさ(未知)をおそれず、前向きになることが出来ると言うのです。

 

2:40 「ストレス」という言葉を命名したハンス・セリエ博士🎓は、「西洋人には希薄だけど、東洋人独特の “ 感謝の気持ち ” をもつことが心を安寧にし、ストレスをとるのに一番大切」と、「御恩」「おかげさま」文化を推奨して自らも実践していた】

 

「さよならサンキュー」とは、大阪のアンミカさんの言葉であるが(K国系はあまり好きではないのだが)、見事に本質を撞いた一言であったのだ。

 

近代哲学の祖といわれるイマヌエル・カントにも「少年カントの悟り」とも云うべき「さよならサンキュー」的な逸話がある。

 

哲人カントは、幼い頃より身体が虚弱な子でした

背中に瘤があり骨が変形した「くる病」気味でおまけに喘息持ち、脈拍数はつねに120〜130もあり「苦しい、息ができない」と、その塗炭の苦しみを周りに撒き散らし、ご両親の心を傷めつけることを繰り返しました

或る時、彼を診断した医師が、非情に告げます

あなたの苦しみを除く手は(今の処)ないこと、

苦しみを露わして助けを求めても誰人も助けてあげられないこと、

そして「苦しい、辛い」と訴えたからといって、苦しみは少しも軽減されぬこと

むしろそう言えば言うほど、両親は心配し、自分も辛くなるだけ…… 

それよりも、心が健康であることを喜びなさいと

諄々と真摯に語りかける医師の眼に、その『真実』を直観した彼は……

いつも「なんで自分だけがこんな身体に生まれたんだ」と親のせいにして顧みなかった親不孝な自分を見つめたのです

それ以後― 決して苦しむ態を人目に、特に家族に見せないよーになりました

その医師から余命2年と宣告されたカントは、「さよならサンキュー」と子どもながらに過去の不満だらけの自分と訣別して、どうせ考えるならば善い方へ善い方へと、何事も神の与えた試練だと心を明るい方に向け始めると、一年後にあのひどかった喘息は見事に治っていたそうです

虚弱児に生まれたカントだったが、子どもながらに自分で定めた「自律(自分律)」によって、みずからを養生して、80歳の天寿を授かった

 

──感謝ではじめ、感謝でしめくくる。

 

 

🔴 2024-04-27

    『大谷選手のもたらすもの』

今朝も、オータニさんの7号ホーマーで爽やかな朝☀️を迎えました。ありがとう、おたにさん♪

 

別に大谷がホームラン打ったって、わたしの手柄ではないし浮かれてんなよ、と自戒するのが昨日までの私でした。

オリンピックの金メダルだって、自分が取ったわけでもないのに、日本の誇りだとか何とか、所詮はヒト事でしょと冷めた目をしていたものです。

 

でも、これって真相はストレスと関係するんですな。

名越康文さん(アドラー心理学)が言っていました。

人生において純粋な喜びなんてない。(近傍にはね)

 

…… 近傍ってのは、自分の身の回りにはないということ。少し遠くにはあるんですな。

たとえば、阪神が優勝したとか、いう時。

遠いところにある、ある種の幻想の中でならば、のんきに全力で楽しむことができる。

つまり、人間の場合、そうした幻想の中にしか本当の喜びはないといってもいいそうです。

なぜなら、動物はちがいますが、人間は良いことも悪いことも、どちらもストレスになるからです。

 

1970年代にアメリカ🇺🇸で行われたストレス調査で、「人間がストレスを感じる20項目」が公表されたのですが……

親しい人の死別や会社が潰れるという項目のほかに、結婚や子どもが生まれるといった慶事もまた上位に入っていたそうです。

マリッジブルーなんか該当するのかどうか、いずれにしても喜び事の折りには、くれぐれも注意しなければならないそうです。大きすぎる喜びはピンチなのです。

 

こうしてみると、誰かの推しだとか、エンターテイメントやスポーツ等の祭典は、人間にとって自分の身近な事ではない為に、【ノーストレスで純粋な喜び事】なんですね。

ヒト事ゆえに、全力で喜べる貴重な機会なんですね。

人間は、遠い幻想でしか思いっきり喜べないのですね。ひとって儚いものです。

【始まって、3分30秒で「1970年代にアメリカ🇺🇸で行われたストレス調査」、7分00秒で「人生において純粋な喜びなんてない」についての話】

 

だから、大谷ハラスメントなどではなく、ちゃんとした需要が視聴率となって表れているのでしょう。

オータニさんのホームランは、景気がいいもの♪

もう限界で、日々のストレスに耐えられない人びとを大いに喜ばせて鼓舞しているのでしょうな。

さすが、オータニさんは神さま(氏神の転生者だとか)ですな。拝礼。

 

 

…… 二つ目のYouTubeで、

「体癖」という整体の専門用語が出てきますが、

名越康文は、心理学者でありながら「体癖」の正統伝承者でもあるのです。

長年に渡り、同じところで整体師をつとめ、地元の人々を何世代も総合的に看てきた野口晴哉(はるちか)という一箇の天才が、東洋医学のひとつの偉大な体系を打ち立てた。

それが「体癖」という、腰椎の骨と臓器が対応する影響という生理的な条件から、その人の本質的な人物類型をみちびきだした唯一無二の「身心論」なのです。

「体癖」というから、身体の事を中心に分類されているのかと思いきや……  性格や思考や行動パターンまで、腰椎と特定の臓器🫀の影響を精確に被って、まるで「性格分類」のようにピンポイントでその「体癖」の特徴があらわれるのですから唖然とします。

 

 

簡単に例をあげれば、

偉大な文学作品や映画、舞台におけるキャラクターの「体癖」はハッキリと判るそうです。

例えば、スタンダール『赤と黒』の登場人物レナール夫人は、明らかに10種体癖の特徴をもっているそうです。野口晴哉は、インド🇮🇳のシタールの名手ラヴィ・シャンカール(下の写真)が演奏するのを見て、自分とそっくりで体癖も同じであるのに驚いたといいます。(ともに9種体癖)

名越康文さんもまた、この9種体癖で、おそろしく集注力に富み、物事に細かく緻密で、考えるより直観が勝り、早食いで計算が不得手、百年も恨みを忘れず、グレー色を好み、昔の日本人に多かった下半身がしっかりして脚力がつよい達人型、小柄だが野生のカンに優れたいわゆる天才型の人物類型だそうである。

腰椎と関連する臓器🫀の働きを整体的に看ることによって、ここまで内面が解るなんて信じられません。勿論、その身体の生きる方向に沿って、起こりやすい身体の異常や病気も診断できる。人生に臨む生き方までも、体癖によって判明する。その体癖に共通する口癖があるものだと云う。

野口晴哉は、ほんとうに「何でもできる人」で、ご自分は習ってもいないのに武道家に指導したり、各界のいろんな分野に弟子のいた大人物であった。勿論、驚くべき治癒実績も並行して遺しているのである。

つまり作家は、非情なる観察眼によりその人物の本質を見抜き、映画監督やディレクターはそのキャラの「体癖」にあわせて俳優をえらぶことが出来るということです。

別の角度からいえば、

いい役者とは、その脚本にあらわれた「体癖」を、みごとに体現化する能力に長けているひとのことを云うのです。

体癖は、おおきく12種に分かれています。

❶❷[上下型]一種/二種《腰椎1番》

❸❹[左右型]三種/四種《腰椎2番》

❺❻[前後型]五種/六種《腰椎5番》

❼❽[捻れ型]七種/八種《腰椎3番》

❾➓[開閉型]九種/十種《腰椎4番》

(11)(12)[過敏反応]十一種/[反応遅鈍]十二種

 

これは、日本に「整体」という言葉を初めて導入した、市井の天才・野口晴哉が、何十年もかけて、ひとつずつ解明して加えていった結果、12種になったわけです。

たとえば、一種ニ種とは、腰椎一番の正反応・負反応といった対になる身体反応を描写したものです。

 

名越康文さんは、この野口整体の創始者・野口晴哉の息子さん、野口裕之氏から直接指導を受けている、稀有な心理学者(なおかつ精神科医)でもあるのです。

名越さんのYouTubeチャンネルで、

セガの裏社会アクションアドベンチャーゲーム『龍がごとく』のキャラを詳しく体癖分析しているものが幾つかありますのでご参照ください。▼

 

名越康文TV シークレットトークyoutube分室

精神科医・名越康文の「ここだけ」の話! 「名越康文TVシークレットトーク」https://yakan-hiko.com/meeting/nakoshitv/心理学、仏教、哲学、文化……枠組みを超えて人の生...

YouTube

 

「精神科医・名越康文のゲーム実況」のコーナーにありますよ♪

 

西洋哲学の巨峰イマヌエル・カントは、

心理学は科学になれないと言ったそうです。

(カントは科学信奉者ですが、当時の抜群の霊能者スウェーデンボルグのことは意外にも認めているような、柔かい頭脳🧠の持ち主でした。ヨーロッパの大賢カントのこの一言は、現代の心理学者たちも肝に銘じている程、いまだに大きな影響力をもっています)

カントはニュートン的科学を優れた科学のモデルだと考えており,心や魂について扱う学問は科学たりえないと考えていたのです。数学が適用できること,実験ができること,これが科学の要件でした。

 

…… しかし、この野口整体の「体癖」を組み入れた心理学(名越さんはアドラー心理学が専門)ならば、厳しいカントのおメガネにも適うのではありますまいか。

人間とは、意外と身体の捻れとか癖、内臓の強弱などに支配されているものだとは確かに言えるのです。

そのへんの人物描写が、ハッキリ際立っている作品は、名作として永く読み継がれるものだと思います。

 

  【 MAZE  “ Silky Soul ”  、「好き、好き♫、ソウル・シンガー」ってね】

 

身体と心は、人間の生存において両輪なんですよ。

こころを整えるために、身体を操るのがむしろ「正攻法」だと思います。

無形の心は扱いづらいからです。

刻印された思い出は、実に厄介なものです。

 

 

この曲、日本語タイトルは「夢魔へ」となっているんです。

ところが原題は、

Let's Just Say Goodbye - David Sanborn (Voyeur, 1981)

「ただ、さようならを言いましょう」って、「さよならだけが人生さ」とよく似ています。

「さよならサンキュー」もそーだが、「Just Say Goodbye」も、さようならを言っている対象は、思い出(幻影、夢魔?)なんだろうと思います。

別れ(サヨナラ)は人(他者)に向かって告げるものではなく、自分の思い出に言うのかも知れない。

思い出の造形(造影)は、自分そのものだから、つまるところ自分に言っているのだ。

なんとまあ、自分にさよならを告げるのが人生だったのか。

まー、自我に気づいて、真我に目覚めるのと同じ消息なのかもなとは思う。

さようなら(左様なら)は、ひとを奮い立たせるものなのだよ。

音楽も、別れ(分かれ)の曲に佳曲が多い。

MISS, LOST, LAST, GOODBYE 等のワードが含まれる曲は、豊かな風情を湛えている。この悲曲に名曲が多いのは、洋の東西を問わないようだ。

懐かしいのだ。懐しいはずだ、最初の別れは、神との分かれだったのだから。

西洋なら「エデンの園追放」、日本なら「分け御霊」である。

林檎🍎を齧る、智慧の実をからだに入れる。

別れた自分に、別れを告げる。

「サヨナラだけが、人生さ」って、なんとも深淵を覗いているようだ。

神縁に臨むのもおなじだ。サヨナラできるのは無執着(アサンガ)をあらわす。

さて、ほんとうに出来るかな?

この曲つくったD.サンバーンも亡くなってしまった。「シカゴ」の感じ、サンボーンには四角張ったアゴ(=労働者)と広い額(=哲学者)を同時に感じるんだよね。

1981年、80年代の初頭に答えを授かっていた感覚だね。

阪神高速の橋梁のしたに、つつましくも温かかったボロアパートの一室で、サンボーンやデオダードや大野雄二を聴いていた瞬間を想い出すと、

その豊潤たる深淵(目眩く明るい太陽光🔆に晒されながらも、真冬の雪原🧊のような無音のホワイトアウトが吹き荒ぶ、ブラジル🇧🇷固有の哀しみ、奴隷貿易で連れてこられたアフリカ系のグルーヴ)に過呼吸になったものです。

 

00:00 | Route 246 04:54 | Southern Dream 11:40 | Metallic Moon 13:50 | Lollipop Train 19:53 | Manhattan Life 23:48 | As You Like It 30:42 | Michy's Walk 35:23 | Rainbow Dinner

 

そーゆーことだったんだと、今にして思います。これは良いことです。

やっと、梅田の旭屋本店が亡くなったことを見つめることが出来ます。

ぼくにとっては、あのビル丸ごと本屋さんは、夢の宮殿みたいなものであったから。

いい本屋だったねえ、さようなら旭屋本店、すべては私の内に。

さよならサンキュー、思い出す自分にさよならする儀式ですね、さようならは気持ちのいいものだったんだね。風前の灯は、熱く燃え上がる。

      _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 


フィギュア・スケートの未来〜 浅田真央 ・冬巻⛸️・

2024-12-08 16:44:02 | 神のごとき

__ ひとりの女性を、20年間推すって、もはや自分の分身みたいな目でみてしまいますね。

真央ちゃん推しの記事も最終回を迎えます。

 

 

⚫️ “ また、この場所で ” (王ゝのミ毎)

2018-04-28(伊勢白山道記事:2018-04-27

 

もはや若くもない私だが、「週刊プレイボーイ」はなんやかや云いながらも、欠かさずチェックしている

何よりあの表紙が佳い、なにか時代をそのまま写し撮ったよーな生き生きとした切り取り方がよい

GW超特大号を手にとった、大好きな表紙を味わいながら表紙の見返しをみて、わが眼を疑った……

なんと、浅田真央ちゃんのグラビアが……

いやいや、この52日発売予定のフォトエッセイ『また、この場所で』からの大きな一枚の写真でした

週プレといえば、姉の舞ちゃんのグラビアには度肝を抜かれたことがあっただけに、独りでなんや焦りまくって仕舞いました

 

これ、「撮影/川島小鳥」って、あの『未来ちゃん』を撮ったカメラマンだよね

        【写真集『未来ちゃん』より】

世界一の可愛さの童女を活写された方が、今度は菩薩級の真央ちゃんを被写体にしてかあ〜

 

まーね、何年かぶりに真央ちゃんの写真一枚のために、週プレを買って仕舞いましたよ

 

まー、われらが真央ちゃんにおかれましては、さんまちゃんのご指摘にありましたよーに、「いい子」ちゃんに留まっておられてはあきまへんな

ひとの模範になる必要などないのです、ひとから決めつけられるイメージに何の価値がありましょー

ご自分の表と裏、光と影を存分にお楽しみくだされよ、

 

 

 

⚫️ “ 余波余震 ” (王ヽのミ毎)

2019-02-01(記事:2019-01-31

 

面白おかしく、沈んだ心持ちを若干浮揚させて、真央ちゃんの公開されたばかりの動画でも拝見しましょー

【『メリー・ポピンズ リターンズ』オリジナル・パフォーマンス、浅田真央 魔法のエキシビション ” __ あいかわらず、真央ちゃんの天上的な滑りは「エアリー」(織田信成の評)な美しさ

 

 

 

⚫️“ 「妙好品」ってのもある ” (王ゝのミ毎)

2018-11-03(記事:2018-11-02

 

棟方志功をいちはやく見出した、「民藝」芸術運動の主宰・柳宗悦には、実に面白い浄土真宗論がある

そのなかに妙好人を論じたものがあり、思想家としての柳宗悦の面目躍如たる処がある

きょうの記事にある「妙好人」とは、数ある仏教宗派のうち、なぜか浄土真宗に多く輩出される不思議愛されキャラなんです

「妙好」は白蓮華を意味して、浄い蓮の如き信者、一般に田舎にいて別に学問もないながら、あつく安心を頂いている人々を讃えて「妙好人」と呼びます

 

幕末の「信女おその」のエピソード> 

ある婦人が、信心が得られずして苦しんでおりました。何とか信心を頂きたいともがいておりました。

これを見たおそのは、その女の人に、

「私がきっと安心できる秘伝を授けるで、二・三日やる気はないか」と申しますと、その婦人は大変喜んで、

「安心さえ出来ることなら、いかなることでも致します」と。

するとおそのは、

【お差支えなし、御注文なし】という言葉を二・三日いいづめにしなされ」と申しました。

婦人は喜んで帰り、右な言葉を繰り返しました。二・三日の後にまたやって来て申すには、

「仰せに従うて三日間朝から晩までいいづめに致しましたが、何とも御座りませぬ。胸の中は相変わらずおかしなものでござりますが、こんな心でもようござりますか」

おその「お差支えなし、御注文なし」と。

「それでも何とも御ざりませぬ。へんてつもない心中で御座ります」というと、おそのは、また、

「御差支えなし、御注文なし」と申しました。

婦人はその時、凡夫そのままでお救いにあずかることに始めて気附き、喜び勇んだと申します。

おそのは、こんな簡単な言葉や、方法で苦しんでいる人々を導きました。

[※『柳宗悦 妙好人論集』岩波文庫- より]

 

民間の名もなき職人たちの作る工芸品のなかに、巧まざる美を見出してきた柳宗悦は、それらのなかに「妙好品」とも云える境涯に至った作品があることに驚きます

 

今朝は、6:30 よりNHK総合で、インタビュー『浅田真央 〜私の 幸せの場所〜』が放映される

勝った、負けたではなく、氷の上で生き様を見せる

‥‥ これは、真央ちゃんのご母堂・匡子さんの凛としたお言葉である

生き様は無様 (ぶざま) なものでも一向にかまわない、偉くないままでもOKよと、この懐の深さ、妙好人ですなあ、どっちに転んでも、既に掬われているってね

 

正確に引用すると> 「フィギュアスケートは勝った、負けたではないと思うんです。生き様をどう氷の上でみせるか。それがフィギュアではないですか」

( 浅田匡子、真央ちゃんの母上のお言葉)

 

 

 

⚫️ “ まったく思いも寄らない体験 ” (王ゝのミ毎)

2018-11-10(記事:2018-11-09

 

きょうは、最後の園遊会にお出ましになられた両陛下を拝見して、

NHK『真央が行く』で、パラ (障がい) ・アスリートを訪れた真央ちゃんを思い出していた

今上陛下のあの、相手に全人的に寄り添われるご姿勢とまったく同じ風韻を、真央ちゃんの面談から感じたからだ

アスリート同士の共感ってのも下敷きになっているかとは思うが、

包み込むよーに自然で、自分が自分がとゆー突出した目立ち方がまるでなくて、老練な翁のよーな、相手に緊張させない間積りで、ゆったりとした刻が流れていた

真央ちゃんは、意識を渡らせる範囲が途轍もなく広くて、普通一般の人々のレベルとは隔絶している

陛下に相似た雰囲気をまとわれるほどに、超一流のアスリートは天下人に近づくのかも知れん

陛下も真央ちゃんも、異業種・異文化・異世界へためらうことなくすっと入っていかれる

挑戦とは、新しい体験が出来ることを歓喜している言葉なのかもしれない

 

 

⚫️ 2020-08-08(記事:2020-08-07

 

「 無思考」と言われて思い出すのは、ソチ五輪フィギュアスケートでの、真央ちゃんのフリー演技である

久しぶりに、真央ちゃんが引退発表されたときの『報道ステーション』の特集の録画を観た

そのなかで、ソチフリーでの真央ちゃんを実況した各国のアナウンサーたちが、偉大なアスリート・浅田真央に対して懐いている敬慕の念が尋常ならざることをあらためて知り、こんなにも世界中の人々から親しみを込めて敬愛された選手もいないもんだなあと感慨を深くした

 

たんたんと無思考で臨まれたソチ・フリーは、今回もまた観ていて不覚の涙あふるるを止めることが出来なかった

なぜか貴い印象をいだくのは、真央ちゃんのお母さんを思う真情が自我を消して、母性回帰真我へ一体化する運動(流れ)となっていたからではあるまいか

ゾーンは無思考の賜物のよーに思う、この場合思考は遅すぎて対応できないからだ

 

 

⚫️2020-09-26 03:20:18 (記事:2020-09-25

真央ちゃんも、晴れて30才に成られた由、おめでとう御座います

30才になられただけで、ニュースになる、さすが真央ちゃん

 

 

⚫️   (玉の每水)

2021-05-24(記事:2021-05-22

 

真央ちゃんの『サンクス・ツアー』も、この一年中止を余儀なくされたり、紆余曲折があったんですね

生まれ育った故郷で、最後の千穐楽を迎えることが出来て、何より良かったと無事にやり遂げられたことを心より嬉しく存じます

 

信夫コーチの選手時代は、「コンパルソリー」の高手で素晴らしく正確な「フィギュア (図形) 」を氷上に描かれる御人であったが……

    【真央ちゃんが、テレビで実演したコンパルソリー】

やはり、真央ちゃんはその美技をひそかに伝承しておられるのですな (よっ、正統伝承者 )

 

精確無比なステップが根底にある、真央ちゃんのしなやかで滑らかなステップ・シークエンスは、優しく流れるんだよね、目に優しい流水 (移ろい) なんですね

真央ちゃんの踊るバッハは、初めて観る

蝶々夫人もパートナーとのアイス・ダンスの方が、一層しみじみと別れ (分かれ) が感じられますね

よくぞ、おひとりで立案・実行なされました、ご苦労様で御座いました

興行主としても、意外にたくましい母の力 (生活力) をお感じいたします

まー、真央ちゃんについてゆくお仲間は大変だったでしょー

真央ちゃんの「アタリマエ」は世界トップレベルだから

それにしても、フィギュア・スカートは人間の動きを超えて、天上的な動きの出来る稀有な表現様式だとあらためて感心しました

 

 

 

⚫️ “ それでも‥‥ ワリエワが観たい ” (8´11´22)

2022-02-16(記事:2022-02-15

 

なぜなら、彼女はしっぺ下がりの泣きベソ顔したタタール人 (韃靼人) ですが……

その技は、入神の域に達しているからです。

 

カミラ・ワリエワの、まるで天から糸で吊されたマリオネットのよーなスクッと立った体軸と脱力、回転と滑走のスピード感、すべてをリッポン・ジャンプ (両手挙げジャンプ) でこなし、全身をつかって流れるよーな滑らかな身体のつかい方は、まさに達人のそれです。

手脚の長い容姿にも恵まれて、彼女の佇まいから醸し出される静けさが尋常一様のものではありません。

 

他の4回転ジャンパーとは明らかに何かが違うのです。

アイスダンスの世界チャンピオンだったアレクサンドル・ジューリン (ロシアのコーチ) は、フィギュアスケート史上、ワリエワほど優れた才能を持ったスケーターはいなかったとまで云っています。

技のすべてが理想的な出来栄えで……

その超高難度のジャンプは技術が高い上に「高さ」もあり、何より驚くべきことは高い芸術性を兼ね備えている処、スピンの美しさはプロのバレリーナ級で、身体の柔らかさも相まって、完璧なラインを描き出すことが出来ると。

 

欠点の見当たらない完全無欠のフィギュアスケーターであると、讃辞を惜しみません。

【プルシェンコの異名は「皇帝」だが、ワリエワは「絶望」である。なんと恐ろしい渾名であろう、一緒に滑る選手たちに「絶望感」を抱かせる程に、圧倒的な才能と実力をもっているからである。】

 

ロシアには、民族的にロシア人に次いでタタール人が多いらしいのですが、ワリエワはカザン汗国の末裔で、チンギスハーンの元朝つまりモンゴル系も入っています。

著名人では、バレエダンサーの神ルドルフ・ヌレエフや、プーさんの愛人の噂のあったカバエバ (体操選手) 、サッカーのイズマイロフ、フィギュアでは秋田犬好きのザギトワもタタール人である。

ザギトワによると、目の前にある課題が困難であればあるほどいいのがタタール人気質で、ご両親もそーであるとか。

司馬遼太郎の歴史長編に『韃靼 (だったん) 疾風録』があるが、あの「韃靼人」がタタール人の中国名である。

 

今回の「ROC」の個人戦メンバー三人は、すべて4回転ジャンパーだが……

ロシアの女子フィギュアは層が分厚い。

「ロシアの最高傑作」と称されるワリエワが、たとえいなくとも、全然心配なく金メダルを狙えるほど盤石である。

ワリエワより歳がわずかばかり上の「天才トロイカ(三人娘)」と呼ばれた、トゥルソワシェルバコワコストルナヤ  (今回出場なし、4回転は出来ないがトリプルアクセルが得意) によって、

女子の「4回転時代」が到来した。

【トゥルソワに指導する鬼コーチ、人呼んで「鉄の女」、エテリ・トゥトベリーゼ女史。マジで喰われそうなほど怖いです】

 

女子のショートプログラムって、いまだに4回転ジャンプが禁止されているんですってね。

上記の「三人娘」の活躍により、ザギトワやメドベージェワ (セーラームーン好き) ですら脱落し、トゥクタミシェワ (25歳、妖艶女王 ) は今回補欠に甘んじなければならなかった。

ワリエワ (15) より下でも、14歳のアカチエワ (4回転・3回転アクセル会得) が抬頭してきていて、ロシアの首位は当分動かないみたいだ。

リプニツカヤとかソツコワとかのトップスケーターでも、20歳あたりで引退しているから、ロシア女子フィギュアの寿命は45年しか保たないよーだ。

 

きのうのSPでは、ワリエワもよかったが、わが邦の坂本花織さんも随分と魅せておられました。

このお二方には、端的に「芸術性」があるのですよ。

これは、やっぱり真央ちゃんの偉大な足跡のお蔭であろー。

かのタラソワ・コーチは、真央ちゃんに出逢って以来、自らの方針を改めて「少しだけ日本人になれ」と指導しているそーです。

ユヅ君にしても、真央ちゃんにしても、世界のフィギュアスケーターから尊敬されている処は、その「負けん気 (逆境に立ち向う) 」であるよーです。

意外なんだが、強い意志でもって睨みつけている鋭い視線のフォトに世界的な人気がある。

>  負け犬は誰も相手にしない!

「負けたけどよくやった」なんてのは日本だけのメンタリティだ!  (落合信彦)

 

__ ワリエワは、あんな可愛らしい顔してても、国際競争の呵責ない厳しさを、よく分かっておられるのだ。

 

そんな中にあっても、史上最高のワリエワの演技は「無心」のよーな感じがする。

彼女の演技の、いづれの一コマを取り出してみても、どれも美しいと思う

「古賢能書の筆のつかひ様は、いづくにも精霊有りて弱き所無し」

訳;昔からよい書というものは、どこもかしこも生きていて、弱いところがない

[※ 尊円親王が著した『入木抄』(1352) より]

 

…… この伝でいけば、さしずめこーなる。

ワリエワのスケーティングは、どこもかしこも全身をつかった美しい所作に魂のこもった「生きた」ダンスで、指の先にいたるまで弱々しい処がない。

 

…… 現在のカミラ・ワリエワは、ちょっとふっくらして重くなったため、4回転ジャンプを跳べなくなってしまったようだ、いつぞやNHKの特集で見かけて、えらくショックを受けた。

ワリエワのお母さんがまた、毒親といわれるほどにキツ過ぎるお人柄らしいのも心配である。

韃靼人は、やっぱりサイヤ人みたいに戦闘民族だから、しょーがないと言えば、それまでなのだが。

 

やはり、母子二代にわたる執念は、コノ世ならぬマスターピース(神の傑作)を生み出すようだ。

「孟母三遷」の孟子の母に始まり、美空ひばりの母に、宮沢りえの「りえママ」、卓球🏓女子の母親たちもそうですね。

子どもというのは、最愛の母親の笑顔をみるために、命懸けで頑張るものなんです。

『ウィンター・ローズ』の稚い子どもの、大人たちを遥かに上回る決断には感動したものです。

 

真央ちゃんも、お母さんを喜ばせるために、懸命に滑っていたんだものね。

男女の別なく、ヒトは母性というものを強く希求するという摂理があります。

それを、競技なりパフォーマンスなりに表現するのが、アスリートの本質なのかも知れませんね。

 

真央ちゃんが、わたしたちに如実にみせてくれる神話には、御母堂の匡子さんの情愛が、太陽のように満面に真央ちゃんを照らしているのです。

「あの子は性格が男なんですよぉ」と、いつも笑っておられたと云ふ。(嬉しかったのだろう)

父息子は、父の壁を超えて成長しなければなりませんが、

母娘は、おなじ方向を向いて、これ以上ない強い絆で結ばれている、稀有な生命ユニットです。

「おかみ」とは、女将と書きますが、「将」を育てるのは同性の将なのです。

 

真央ちゃんは、世界最高峰の女将から育てられてきました。きっと、育てられたように、後輩を育てるのです。

おそらく、『サンクス・ツアー』などに同行した素人さんがたは大変だったでしょう。

でも、そんな真央ちゃんが育てる女性フィギュアスケーターも見てみたい気もする。

 

代々積み重ねられる秘伝は、凄まじい神妙さであろうと思うんだよね。

高等剣術である柳生新陰流の理合は、端倪すべからざる妙技を生み出すし、現在ロシア🇷🇺に蓄積されたスケーティング技術は他国の追随をゆるさないものであろう。

伝承するのは恒に「ひと」だから、その人を育てなくてはならない。

 

真央ちゃんはその辺、如何様に考えておられるのだろう?

マオリンクを介在して、真央ちゃんのやりたいことが達成できたらいいなと思う。

案外、フィギュアスケートから一切手を引くという幕引きかも知れないが、それもいいだろう。

真央ちゃんは、あのフィギュア大国ロシアが理想とする「スケーティング」を魅せつづけてきた個人史がある。

やり切ったといっても、ゆるされる歩みを実現させた。

だから、日本人にとって「神話」と成り果せた(なりおおせた)のである。

 

それは、いいようもなく素晴しいこと。

意外だが、岡本太郎の「対極主義」を実践された、

【大いなる変態】が、真央ちゃんなのです♪

(勿論、私のなかでは最大のほめ言葉です)

 

なんとなれば、

>  ノーミスと、トリプルアクセル

人々を魅了した浅田のスケーターとしての姿勢は、この2つの言葉抜きには語れないだろう。

 

…… 完璧に演技するのが信念の真央ちゃんが、取り組んでいたのが、男子でも難しい「トリプルアクセルジャンプ」なのである。

これほど無謀な挑戦者は、めったにおるまい。

最も難しい技をえらぶ、そしてそれを完璧にモノにする。それはほとんど神の領域です。

その挑戦自体が、すでに入神の力業なのです。

 

わたしは、真央ちゃんに「神」を観ました。

それだから、伊勢白山道のコメント欄に真央ちゃんについての投稿をするのは、いたって正しいことだったのです。

この16年間、投稿しつづけられる「推し」が、誰か他に求められようか。誰もいやしない。

そんな稀有なる「推し」に出逢ったわたしは倖せ者だし、そんな偉大なる「推し」を見つけられたわたしは、存外に凄いんじゃないかと思っている。

     _________玉の海草